臨場哲学特別篇 オムレットに関する質問・その1

TREE
  [00004] オムレットくんに質問(内側から分かるとは?)
       │
       └──[00008] オムレットの答えへのコメント

[00005] 珠緒さんに質問(自分という連続性)
       │
       └──[00009] 珠緒さんの答えへのコメント

[00006] 肥留間氏に質問(なぜ他人に分かるのか?)
       │
       └──[00010] 肥留間氏の答えへのコメント

[00007] 伊丹堂に質問(犯罪と責任)
       │
       └──[00011] 伊丹堂の答えへのコメント


[00004] オムレットくんに質問(単行本「オムレット」に関して)99.6.4
鈴木 健
  オムレットは、「内側からわかる」ということが
わかっているのでしょうか?
それらをただたんに「記憶」しているだけなのではないですか。
また「正しい」とはオムレットにとって何なのですか?
 

オムレット
オムレット
  は…?
ボクが、記憶してるだけ…。
え〜っ!! そっ、そうなんですかぁー?
ど、どっどーしましょう?!
どーしたら、「わかる」ようになるんですか?、いや、そもそもボクって「わかって」ないんでスカぁー?
 

アヤコ
伊丹アヤコ
  そっかぁ…。考えたことなかったけど、コイツがなんか「内側でわかってる」って証拠は何もないのよね…。あんまり上手に泣いたり笑ったりするもんだから、てっきりなんか「わかってる」んだと思ってたけどォ。超未来のコンピュータなんだから、「わかったふり」くらい出来るのかもしれないよね。ソニーのロボットだって「犬のフリ」くらいできるんだから。
 

オムレット
オムレット
  なっ、何言ってるんですか、アヤコさん…。「上手に」だなんて。
いや、でもひょっとすると…。
 

伊丹堂
伊丹堂主人
  実はワシもはじめから信じとらんかったのじゃ(笑)。
ただこの問題は、つきつめれば、ワシら人間にも言えることで、ほんとうの意味で他人が「内側からわかってる」かどーかは、わからんってことになる…。
これは鋭い質問じゃな。あと「オムレットにとって正しいとは何か」ってのもあるが。
 

オムレット
オムレット
  「正しい」ですか…。そりゃなんとなく、ナットクできるよーなことを、正しいと思ってるわけでしょうけど…、あっ、ひょっとして「何が正しいか」が、ボクの中にセットされていて、ボクはそれを「記憶」してるだけなんでしょーか?
どーなんです?!
 

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[00005] 珠緒さんに質問(単行本「オムレット」に関して)99.6.7
鈴木 健
  「その人なりのカタマリ」がどのようにして「自分という連続性」を確保しているのでしょうか。
「内側からわかること」の同一性はどのようにして獲得されるのでしょうか。
 

珠 緒
坂口珠緒
  鈴木さん、はじめまして。私は質問に答えるなんていう身分じゃないんで、それこそ私なりに、考えてみたいと思います。

まずここでいう「カタマリ」っていうのは、「レシピ」のカタマリ、ってことになると思うけど、やっぱ「レシピ」っていう言葉を使うのはまずかったかなぁ、と後で思ったわけよね。ようするになにか「そのもの」が「存在」するよーな、イメージを持たせちゃうじゃない。つまり「明在的な」っていうか?
レシピうんぬんのとこで言いたかったのは、ある(ヒラメキ的に)発した言葉や行為がまずあって、そっから逆に遡行的にその「もと」になる「レシピ」が想定できるってこと、というか「事後的に?」記述できる、っていう程度のことなのよね。
まずレシピが実在的に先立ってるわけではないっていうか?
「そーは書いてねーじゃねーか!」って突っ込まれそうだけどォ…。
だから「カタマリが自分という連続性を確保する」のではなくて、自分というものが連続してしまっているという「事実」から見て、逆にそこに「その人なりのカタマリ」というレシピが想定される、ってことになると思うのよね。
このへんは「オムレット」が出たすぐ後に出た「<意識>とはなんだろうか?」っていう本で下條信輔さんが「来歴」って言葉を使ってて、私流に使うと、「あるヒラメキの背後にはそれを成り立たせる来歴が必ずある」って言い方になるけど、この言葉の方がちょっとブンガクっぽいけど、説得性があるかなーっとか思ってます。
つまり自分はなんらかの主体として「連続」しているのではなくて、その都度の現在の「来歴性」の内でいやおうなく連続してしまっているっていうか?

そこで第2問の「内側からわかること」の同一性ってものが問題になるわけよね。
そういう来歴の中で人がものごとを「内側からわかって」るとして、ある時点でのその人の「わかっている」、と別の時点でのその人の「わかっている」、その主体というか基体というかの間の「同一性」問題と言ってもいいかしら?
これについては肥留間氏や伊丹堂さんは、明らかに「個体としての生命」が連続するっていう立場だと思うけど、私はちょっとそこまで言えないというか、一歩手前で踏みとどまってるって感じです。
う〜、ぜんぜん答えになってない〜。
ではでは。
 

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[00006] 肥留間氏に質問(単行本「オムレット」に関して)99.6.10
鈴木 健
  「生命は何か?」ということがわからないのに、わたしたちが「生きているからわかる」ということは、なぜわかるのですか?
同じように「内側からわかる」ものを、どうして他人がわかるのですか?
 

肥留間
肥留間智郎
  いやー、なつかしいなぁ。この古本屋に来るのは、もう半年ぶりかなぁ。それにしても相変わらずオモシロイ議論で盛り上がってる変な古本屋ですねぇ、ここは。
鈴木さんには、はじめまして、ですね。いつもスルドイ質問をいただいているようで、感服しております。質問がスルドイ、ということは、実はその質問の中にすでに答えが含まれていて、我らはいわばそれを語らせられているようなものなわけですが、いちおう「答え」てみましょう。

これはひとまず、単純に「直感によって」というのが答えですね。
ようするに独断と偏見であって、なんの根拠もないのです。これを「証明」するような様々な理屈を考えることは可能でしょうが、結局はデカルトの神の存在証明じゃないけど、なんらかの「方便」になるしかないと思いますね。
ただ注釈をつけておくと、たしかに「オムレット」では「生きているからわかるのだ」と言っているところがあるのですが、これも全体を通じてみてもらうと分かるように、やはり一つの「方便」であって、「生きている」(原因)から「わかる」(結果)というコト(因果関係)を主張しているわけではないってことです。
逆に「わかる」ということが「(個体として)生きているということなのだ」と言っているところもあって、むしろ「わかる」ことと「生きている」ことの同義性を主張しているということになるでしょうか。
その上で、その根拠は?と言えば、直感によって、ということになるでしょうか。

後半の質問は[00004]のオムレットへの質問での、いわゆる「他我問題」につながるものだと思いますが、これもある種、直感によって、ということなんでしょうが、もうちょっとプラグマティックというか、日常的というか、実際的な場面での我々の「了解」によって、というところでしょうか。
つまりボクらはさしあたってたいていのバアイは(笑)、他人が「内側からわかっている」ということを前提にして、その他人に対して行動したり考え、感じたりするわけで、「内側からは分かっていなくて、分かっているフリをキカイ的にしているだけ」というふうには、とらえない。コンピュータ相手のチェスでさえ、相手がフリをしているのではなくて、人間同様に「内側から分かって」行動している、というふうに「了解」した上で、自分の行動を引き起こしている…。
それによって(つまり外面からの観察によって)その他者が「内側から分かって」いるかどうかは、証明できないわけですが(実際、チェスをするコンピュータは「内側から分かって」はいないでしょう)、しかし、たとえばこのように「内側からわかる」ということを読んで、鈴木さんを含む読者の方々が、「ああこういうことか」と、それこそ「内側から分かった」ならば、事実としてこのコトは「共有」されていることになるわけですよね。その限りでは、他我の認識という問題は、真理として証明されるかどうかの問題というよりは、共有を呼びかけられている問題なのだ、ということになるでしょう。東浩紀じゃないが「郵便的」な問題というか?
 

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[00007] 伊丹堂に質問(単行本「オムレット」に関して)99.6.15
鈴木 健
  「個体としての生命」にしか「責任」がありえないとしたら、「犯罪者」というのはどのような定義になるのでしょうか。
 

伊丹堂
伊丹堂主人
  あ〜、こりゃワシが「オムレット」の蛇足というコラムで言ったことじゃね。しかしワシは「しか」ない、とは言っとらんと思うがの。バアイによるが…と言ってるはずじゃ。「個体としての生命」という言い方は、この蛇足のあとの4章で出てきていて、ほんとはこの3章のコラムで出てくるのは、フライングなんじゃが、作者が混乱しとるんじゃろー。あと[00005]の質問で珠緒さんがワシを肥留間氏といっしょくたにして、「個体としての生命」論を信奉する形而上学者あつかいをしておるが、これも勘違いで、やはりこの蛇足での発言がもとになっとるのじゃろー。

それをふまえて言うと、ワシが言いたいのは、「個体としての生命」というものが実在するかどーかは別として、記憶があるなしにかかわらず、自分がやってきたコトを、自分がやってきたコトとして引き受ける(それを「責任」というかどうかは知らんが)ための「仕掛け」が必要なんではないか、それを心からナットクできるような装置が必要なんではないか、とりあえずその候補として「個体としての生命」というコトが使えるのではないか、ということなんじゃな。

これはもちろん多重人格の増加ということをふまえてのことじゃが、そういう病気にならないまでも「解離型社会」(精神科医の斎藤環の用語)化が進行している現在では、まとまった自分というものにリアリティがないという方が普通になってきておるわけじゃ。そういう時代の流れそのものはしょうがないというか、それはそれで、個人が自分の関心に没入する素地を作っているという意味での積極的な面もあるわけじゃが、しかし、この流れが基本的に「無責任な社会」をつくり出すことはまちがいないじゃろう。そこになんらかの歯止めをかける装置が必要になるわけじゃが、事実として「意志」ゃ「記憶」「人格」ではその任を果たせないじゃろう。そこで「個体としての生命」と言ってみたわけじゃ。

じゃが、ここで言ってるのは、ようするに法律論ではなくて、覚悟の問題というか、実存の問題じゃね。逆にこんな考え方をイキナリ「法制化」しようなどとしたら、それ自体が「ナットクしかねる」ことになってしまうじゃろう。じゃが、せめて「教育」の場面では、「個体としての生命」というものがあるかどうかは別として、そういうふうに「引き受けること」が生きることなんだってことは、ちゃんと教えてやってほしいもんじゃね。

実はこれを書いたときに念頭にあったのは、京極夏彦の小説なんじゃが、ある作品の中で、「催眠術にかかって犯罪を行ってしまった人」の責任についての議論が出てくる。ワシとは論理がちがうが、ここでも結論はその人が自分なりの決断と意志によって「引き受ける」というものじゃった(これってネタバレ?)。これも「法律論」の外部に出てしまっているわけじゃが、そこには清々しいものがあったわい。

結局、法律は社会における「言語」であって、社会そのものではない。「言語は思惟の辺縁である」(栗本)と同じ意味で、「辺縁」なんじゃな。しかし中心にあるのは「社会そのもの」ではなくて、やはり個々の人々の生きる行為(肥留間氏的に言えば「コトの創造」)じゃろう。そういう意味では「社会」もまた辺縁(ヨリドコロ)なんじゃ。わかるじゃろう?、ワシの言う「責任」とは、人それぞれの「生きる意味」と同じ事なのじゃ。そしてそれは決して「法律」には書かれ得ないことでもあるわけじゃな。
 

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[00008] RE:[00004] オムレットの答えへのコメント 99.7.6
鈴木 健
  あなたは、なんで驚いてるのですか?ということは、あなたには「内側からわかっ て」いるということですね。
 

オムレット
オムレット
  で、すよね…? ねっ。ふぅー、ホッとしましたよぉ。
 

伊丹堂
伊丹堂主人
  そりゃ、どーかの…。驚くようにセットされておったかもしれん。
なんつっても、人工知能学者なら、その手の質問には敏感になってて、そういう問いを予想して、あらかじめ驚くようにプログラムを作った…っていう可能性もあるからの(笑)。  

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[00009] RE:[00005] 珠緒さんの答えへのコメント 99.7.15
鈴木 健
  たしかに答えになってませんね(笑)。わたしが興味があるのは、たとえば心理学的 視点から見て、人格的統一というのはどのようにして得られているものなのか、とい うことです。またそのような「病気」がある場合、どのようにして治療されるので しょう?
 

珠 緒
坂口珠緒
  すいません…(とほほ)。つまり「臨床的」な問題ってことですよね。
これはますます私には答えにくい感じになっちゃいますけど(ひるます注:珠緒さんはまだ専門をどーしようかと悩んでるところだったのです)、ざっと入門書なんかを見る限りでは、ある程度、人格が多重化する傾向がある人、つまり「解離」っぽい?人に対しては、とことん、「これはあなたのやったことですよ」ということをインプットして、本人に自覚させていくしかないってことみたいね。多重人格と幼児期の虐待によるトラウマとの関係ってのは、よく言われるけど、原因がトラウマだとしても、それを「自覚」すれは治るっていう精神分析っぽい方法が効果があるかどーかは、わからないってことよね。薬の関係はよくわからないけど、結局は「人格的統一」なるものを、保持していくような「身体的訓練」をしていくしかないって感じじゃないの? 中年期の痴呆症で、モノの名前をすぐ忘れちゃうって人がいて、家中の家具や小物に名前を書いたラベルを裏返しに貼って、その名前を言い当ててラベルを裏返しちゃー、答え合わせをして、記憶力を持続する訓練をしてるっていうんだけど、なんかそれに似た感じなんじゃないかなぁ。  

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[00010] RE:[00006]肥留間氏の答えへのコメント 99.7.15
鈴木 健
  ははは。イロニーと呼んでも良いですが。「直感」、これって「直観」ってことです かね。「生きている」ということは、「わかる」ということなのでしょうかね?それ は自分にとっては正しいのかもしれませんが、他人はどうでしょう?もしなにものか が生きていることを直観的に知っていても、実際には生きていないこともあるのでは ないですか?漫画のキャラクターのように。もし自分にしか「生きている」ことを証 明できないとすると、私が生きているのは誰も「わかって」くれないのでしょうか? ああ!
 

肥留間
肥留間智郎
  いや、漫画のキャラクターは、ようするに作者の「解離された」人格と考えれば、作者という「生きた主体」を背後にもっているわけです(あるいは逆に、それを「読む」人の「生」でもいいですが)。…って、自分の存在を否定してしまったじゃないですか。(と、言って肥留間氏は退場)


 

ひるます
ひるます
  わはは、「直感」…これは私の誤植です(っていうか、こっちでもいい)。
まるで詰め将棋のように私を追いつめていく鈴木さん。いつもこっちだけが勉強させてもらってる感じで、ほんといいのかなぁと思っちゃいます。ってわけで、そういう存在が、まさか人工知能?のごときモノだとは、私には信じられません。つまり「生きてる」と確信してます。
 

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[00011] RE:[00007]伊丹堂の答えへのコメント 99.7.15
鈴木 健
  このことは、ひるますさんが柳美里さんの件について語ってくれことと同じです。私も「犯罪者」と書いたのが悪かったのですが、「法律」のことを言いたいわけではなく、「正義(倫理)」のことを聞きたかったのです。

余談ですが最近「アフリカの夜」というドラマを見て、この問題を強く感じました。主人公は時効が迫っている殺人犯に「自首」を促すのですが、これは「罰を受けよ」という意味合いでなく、「罪を認めよ」という意味で「自分の責任を引き受けよ」と言っているわけです。詳しくは省略しますが、このドラマはまたほぼ全員が家族ではないのですが、「ファミリー(ホーム)ドラマ」でもありました。
 

伊丹堂
伊丹堂主人
  なるほど…。法律か倫理かって問題をいえば、そもそもの発端の「蛇足」で、獏迦瀬くんが刑法的な実際問題を聞いてきたのに、ワシがそれを「実存的な問題」にすり替えたってのが、悪かったわけじゃがね(『オムレット』92頁)。

いずれにしても、この問題は別メールでも話題になっとるよーじゃし、ワシとしてはざっくばらんに言っとくが、この問題はよーするに「正義、善」なるものは何によって保証されているのか?ってことじゃろうか。つまり生命そのものに「善」も「悪」もないし(つまり個体としての生命に、善そのものや悪そのものが「内在」するわけではない)、物質的世界そのものにも善悪はない。極端にいえば、「法」(という言語体系)の中にすら「善」も「悪」もない。ではどこに「善悪」が生じるのかといえば、これは(肥留間氏風にいう)コトの創造が、必ず「他者性」の配慮によってしかなされ得ない、というところに生ずるのじゃろう。まったく一人だけの行為や考えですら、それは他者を想定したなんらかの「文脈」の中でのコトの創造なのであって、そこで想定される「ありうべき」他者との関係の中で、それは「よい―悪い」という価値判断を伴うものになっているわけじゃ。したがって人間においては、「あらゆる行為(思考も含む)は倫理的である」ってことになるわけじゃな。もちろん、ここでいう「倫理的」というのは、当の本人にとってではなく、それを分析的に見る視点にとってってことじゃが。

つまり人間にとって何がリアルかが決定されておらぬように、何が善悪か?、どこまでが「自分」が引き受けるべき範囲なのか?、も確定されてはいない。「当の本人にとって」の倫理は常に「ひとりよがり」になる運命にあるわけじゃ(ひとりよがり問題は『オムレット』117頁)。もちろんそれでは社会が成り立たない、「人道が立ちいかぬ」わけじゃから、世の中には、法律や暗黙のルールというヨリドコロがあるわけじゃ(というか、「目的」によってルールが作られる、というよりは、実際は、それに先駆けてルールの方が立ち現れるわけじゃが、ま、ここは「お話」としては、ってことじゃ)。

前から言っとるように法は「辺縁」じゃから、そこに人が倫理的に生きるということの「意味」が書き記されているわけではない。しかし少なくとも民主主義政体を採った社会においては、次のような「精神」は表明されていると考えるべきじゃろう(実態はおいといて)。つまり、いかなるかかわりといえども社会的ひろがりを持ってしまうという空間的な関係と、その行為が将来に及ぼす影響という時間的な関係を、ともに最大限考慮することによって、出来る限り個人の自由と、社会的公平性を実現していこう、という「精神」じゃ。「法とは体系的に整理された問題解決規準である」(武城想路、法学者)というように、法は「規準」(ヨリドコロ)にすぎぬものであると同時に、よりその精神に適合すべく努力したことの「結果」として、ようやくそのように体系的に整理されてあるものでもある。その背後には「精神」があるのじゃ。「精神」とは、共有された生命のコト的な発現(――というより、そのような発現を可能にしているような「文脈」あるいは「モード」――99.10.15付記)、といってもいいじゃろう。

もちろん、「精神」そのもの(実体)が存在するかどうか、とかいう問題ではない。しかし、「当人にとっての倫理」が成り立つのは、このような意味での「精神」との接点において、ってことになるじゃろう。つまり(そうしなくてもいいにもかかわらず)人は、そのような「視点」から、自分を捉え、世界へかかわろうとする。その方向性をいま、「精神」と呼んでいるわけじゃ。この「精神」は方向であり、可能性であるから、なんら明示的に確定したものではない。それは、その都度、その個人が決断し、その決断を自分の責任として引き受ける、というものでしかないのじゃ。いかに決然として倫理的たらんとしてさえ、「ひとりよがり問題」をさけて通ることはできない。普遍的なものを模索せんとするものでありながら、逆説的にも、まったく孤独なる行為。いわば「精神」を目がけるコトの創造、そのものじゃろう(というか、肥留間氏のいう「コトの創造」を倫理的な観点からみれば、そういうことになるじゃろう…注1参照)。それにしても、なにゆえ人は「精神」的なものを引き受けんと「覚悟」するのか?(それによって自分が苦境に立たされる場合もあるにもかかわらず…)といえば、そこにこそ「愛」の問題があるのではないじゃろうか。それはまた他の機会に考えることにして、お茶を濁しとくがな(それにしても、世界中の争いごとのほとんどは、人々がむしろ「倫理的」であろうとしたことの結果だということは、皮肉なことじゃ。むろんそれを「失敗」だということはカンタンなことじゃが)。

ちなみに、この精神を、社会的に代行するものが「公権力」に他ならぬ。権力というと悪いイメージしかないが、それは権力が私的暴力という起源(封建的支配)を持っているから、であり、また現在に至っても、それを私物化するもの絶えず、また私物化せんとする意志が、ある種の地縁的な「世間」によって是認されてしまっている、というところから来てるわけじゃろう。しかし起源や実態がどーあれ、ワシらは「権力」を自分自身の「倫理的な行為」の代執行であると考えねばならぬし、実態がそうでないなら、そうなるように変えていく、それこそ「倫理的な義務」がある。もし「権力」をあくまで敵対する(己の外部にある)モノと見なすなら、それは「精神」というありようを断念するということにもなるじゃろう。この点を見逃したあらゆる「権力理論」は不毛じゃ、と一応言っとくぞ。

ってわけで、脱線しまくっとるが、カンジンなことは、そのように「当人が倫理的であること」「覚悟によって生きること」を万人が実現するということは不可能だ、ということじゃろう。それは人に「哲学すること」を教えることが不可能だ、ということと同じじゃろう。しかしそれにもかかわらず、社会は崩壊しない。それはむしろ、人が体系化された社会的行為を「非倫理的」に「反復」しているからじゃろう。この「反復」のヨリドコロを一般に「世間」と言っているわけじゃ。さしあたってたいていは、それで問題ないとしても、人がコトを創造し、かかわりあい、関係がフクザツ化していくことを、止めることはできない以上、「反復」だけで世の中はなりたってはいかない。少なくとも人は、自分の「世間」や「立場」を超えて、「精神」の高みへ向かって開かれている必要があるってことじゃろう。「そこそこに倫理的である」ってのは、このことじゃ。そのためには、前にも言ったように「教育」としては、「万人に倫理的に生きることを求める」ってことをすべきだってことじゃね。「教育」というより、広い意味での「伝承」といった方がいいかもしれんけど。いずれにしても、単に具体的なルールを教えるってことではなくて、自分の立場を超えた場所からモノを見るっていう考え方そのものを伝えなくては意味がない。結局のところ、前に言った「個体としての生命」にせよ、この「精神」という言い方にせよ、この「伝承の語り」という位置にあるんじゃな。

ただし公的な権力にかかわるものは、「倫理的」たらんと志向してあることが、求められて当然じゃろう。公的な権力が我々の倫理の代行だとしても、それは自動的になされるキカイのごときものではないからじゃ。社会的に決定されていることはすべてヨリドコロにすぎないってことじゃな。したがって彼らは(その立場と引き替えに)それを為すことを求められて当然で、為しえたのに「為さなかった」ことにも責任を負うという根拠がここにある。これは今のところ、社会にかかわる人々の、公権力への監視によって実現させていくしかない。そのためには、やはり社会を構成する人々が「そこそこに」倫理的でなくてはならないわけで、これもまた「教育」によるしかないじゃろう。

ところで件の「アフリカの夜」というドラマの犯罪者は、結局「罪を引き受け」たのじゃろうか? ワシは見とらんのじゃが、察するに、そもそも「罪を引き受けよう」としない心のあり様(罪の意識のなさ)の背後には、当人にとっての倫理という以前に、「人格障害」という問題があるように思うのじゃ。「人格障害」といってもイロイロじゃろうが、ここでは「病的なまでの共感能力の欠如」のことじゃ(「少年A供述書について」参照)。つまりこの場合の「引き受けない」というのは、「引き受けるか、引き受けないか」という葛藤があって、その上で「引き受けない」を選択しているわけではないじゃろう。葛藤が生じるのは、自分が意志する・しないにかかわらず、被害者か何かわからないが、ともかく何らかの他者への共感がオートマチックに生じて、その視点と自分の現実との間が引き裂かれるからじゃから、そもそも共感能力がなければ、葛藤も生じないわけじゃ。アダム・スミスが「道徳」の根源を「共感」に見たそうじゃが、まさに卓見、共感がなければ、そもそも他者への配慮としての倫理的行為というものもありえないのじゃ。ところで「あらゆる行為は倫理的である」という視点からみれば、人格障害者というものは(実在する人格障害者のことではなく、いわば理論的に、じゃが)、そもそもの日常的な行為(コトの創造)においても、実は「他者への配慮」が、うまく機能していないはずじゃ。つまり「意味としての生活」は完全に破綻しているハズ。しかし、ワシらが「外から」人格障害者をみても、そのように「破綻」しているようには、とりあえずは見えない(つきあえば、すぐに見えてきてしまう…)。そこが「分裂病」などの精神病とは決定的に違うところではある。

「人格障害は治療できない」と春日武彦氏は明確にどっかで言ってたと思うが、人格障害者であれなんであれ、そういうそもそもの「共感」を欠いた人間を「倫理的」にすることは、不可能じゃろう。ふつうに「共感」がある人間に、「君はイヤだろうが、この世には倫理というものがあるのだよ」ということを「わからせ」るのとは、まったく違うレベルの難関がそこにはあるわけじゃ。もちろん、どんな人格障害であれ、キセキによって「うまれかわる」可能性がないわけではない(キセキでも起きなきゃそれができない、というのではない、この肯定的なニュアンスを読みとられよ)。まっ、そういうコトがワシの「人類への愛」の表現ではあるわけじゃな。

注1)ここでいう「倫理」が基本的に、政治・社会運動などの領域に限定されるものではなく、行為一般、コトの創造一般に関わるものであることに注意。そもそもコトの創造というアイデアは、斎藤環氏の宮崎アニメをめぐる論考「「運動」の倫理」(『文脈病』所収)によっている。ここで、斎藤さんは次のように言っている。

 …断るまでもないが、ここでいう「倫理」とは、性や暴力の表現にまつわる小うるさい規制とはほとんど関係がない。あるいはすでに陳腐化した、テーマの倫理性(作家自身がまっさきに忌避する「エコロジー」「ヒューマニズム」を含む)も意味しない。一種の禁欲には違いないが、それが結果として、自由と解放の感覚をもたらすような語りの姿勢。表現を狭く枠付けるのではなく、むしろ技法上の飛躍を要請し、表現の幅を押し広げるような態度。制約であると同時に生成を方向づけるこの創造の核を、ここではさしあたり「倫理」と呼ぶことにする。

つまり逆説的だが「悪魔に魂を売り渡してでも」いい作品を作りたいという芸術家、そしてなとんしてでも真理を発見したいと実験に打ち込む科学者こそが「倫理的」なのであり、それを社会的に規制しようとするものが「非倫理的」なのだ。ただしその創造には必ず「他者性」が繰り込まれている(その意味で他者への配慮を通じて社会的な配慮へと広がっていく可能性に開かれている、のでなくては本当の意味で倫理的とはいえない)ということに注意。そして、むろん規制する側にしても単なる「世間的」な対応としてではなく、充分に事実を知り、公平性を考慮しようという態度をもつならば、それはこの論で言う「倫理的」な態度なのである。そして世の中(関係性の中)に、なんらかの責任をもつ者は、すべからくそうあるべきだ、というのがここでの主張なのだ。(99.11.24付記)

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