「新・哲學うらなひ」とは?

マンガ『オムレット』キャラクターによる架空対話で構成しています。
キャラクターについての説明は、こちらのページあります。

獏迦瀬太郎
獏迦瀬太郎
伊丹堂主人
伊丹堂主人


円了 獏迦瀬:新哲学占いですか…。なんかまた胡散臭そうですが。

伊丹堂:「新」というからには、「新」ではない「哲学うらない」ってもんがある。妖怪博士・井上円了が考案した占いじゃ(「哲学うらなひ」『井上円了・妖怪学全集 第4巻』柏書房刊 収録・右図)。これは「易」による占いを妄念として排して、西洋哲学における論理学を基本にした占いを作ったってもんなんじゃ。

獏迦瀬:なんかそれはそれで胡散臭いですね。

伊丹堂:まぁな。そもそも井上円了は「易」を哲学としては、ほぼ最高位においていて、それを「占い」に使うのが愚の骨頂だという言い方をしているわけじゃ。つまり「占い」の本質は「イチかバチか」にあると言ってて、そういうものと哲学としての「易」を結びつけるのがダメだと言ってるのじゃ。

獏迦瀬:それじゃ、易のかわりに西洋哲学だか論理学だかを持ってきても、占いである以上、「イチかバチか」にかわりはないんじゃないですか。

伊丹堂:ちゅーこっちゃ。ただし、そこで論理学を持ってくることによって、円了は人々を啓蒙できる、と考えるわけじゃ。

獏迦瀬:そのへんは、まさに明治の大槻教授ってとこですか(「ヘッドライン4号」参照)。

伊丹堂:ま、あまりにナイーブな迷信・妄信にとらわれた思考はいまだに廃れてはおらんわけだから、一度はとことん明せきな思考というものを突き詰めてみる必要が誰にでもあるわけで、彼の言ってることは至極まっとうなんじゃがな。とくにそのヘッドラインでも言ってるように、井上円了の場合、「その先」に何を見ていたか、という点で、非常に現代にも通ずる重要な指摘があって、やはり最高の哲学者だったと評価されるべきじゃろうな。…おっと、話が脱線してしまったな。

獏迦瀬:それはともかく、「イチかバチか」得られた論理でもって論理的な思考に目覚めるなんてありえるんですか。

伊丹堂:ありえんな(笑)。

獏迦瀬:はぁ…。

伊丹堂:ってゆうか、ありえんわけでもないんじゃが、実際もんだいとして、井上円了の「哲学うらない」なんて、誰もやってないんじゃから、やはり失敗作だったってことなんじゃろう。逆に言えば、それが理屈はともかくとして「よく当たる」もんだったら、よく当たるってことに引かれて論理的な思考に目覚めるってことはあり得たハズなんじゃ。井上円了はこの本で「牛に引かれて善光寺参り」をもじって、「筮に引かれて哲学参り」なーんておちゃらけてるんじゃが(笑)、当たらなきゃしょうがないわな。最高の哲学者・円了にして、もっとも肝心な点を見落としていたと言うしかないわな(というより、哲学者だからこそ見落としたってことか…)。

獏迦瀬:あのぉ、それじゃ、よーするに「哲学うらない」って当たらないってことをえんえん聞かされてきたってことなんですか…。

伊丹堂:じゃから、ワシがやるのは「新」だっつーとるじゃろ。

獏迦瀬:あ、それじゃ、さらに改良しているわけですか。

伊丹堂:いや、結局、易にもどす(笑)。

獏迦瀬:はぁあ?!…それじゃ、単に易をやるってことじゃーないですか。

伊丹堂:うんにゃ。ようするに井上円了の「精神」でもって、易をやることが、「新・哲学うらない」なんじゃ。つまり、易の卦を単に吉だ凶だと「妄信」するのではなくて、それを「現実を把握するための深層の論理」として頂戴し、それをヨリドコロにして現実を見、今後の判断材料にするってことじゃな。

獏迦瀬:はぁ…、でもそれってやっぱ普通の易のような気がしますが…。

伊丹堂:まあ良心的な易者はそうじゃろうがな。しかしイイ易者がそーしているってことと、そういうコトがコンセプトとして立てられているかどーか、というのは、大きな違いじゃ。とくに違うのは、この占いが、なんかの決断に実際に使えるってことよりも、そういう決断を準備するための「教育」としての役割が主になるってことじゃろう。これはまさに井上円了によって切り開かれた境地じゃな。

獏迦瀬:易でカシコクなれるんでしょうか。

伊丹堂:もちろん円了の言うごとく、ごくごく普通の論理的な明せきさ・説得性は身につけとかなくてはならんが、それだけでモノを見る目、判断力が確かになるというものではない。逆にリクツに拘ることによって、モノが見えなくなる場合もある。

獏迦瀬:経験がダイジってことですか。

伊丹堂:それも問題じゃ。何度も同じ経験をしてちっとも進歩がないということもある。また経験は自分の思考の枠組みを固める方向にも作用するから、他の見方がしにくくなる。肝心なのはモノゴトの本質をとらえる直観ってことじゃ(「ヘッドライン34号」、上野千鶴子さんの項参照)。

獏迦瀬:モワ…って奴ですね。ひるますさんがコト的イメージとか言ってました。

伊丹堂:つまりそれが易の卦で示される「深層の論理」なわけじゃ。卦はそういった直観的イメージの範例みたいなもんだから、それに多く接することで、「直感力」を身につけることができるじゃろう。ただ直観に振り回されて取り違えてしまうということもやはりあるわけじゃから、それを現実の中で捉えていく思考力というのが当然必要になるわけじゃ。じゃから「新哲学うらない」では、占いの結果を単に仰ぎ奉るのではなくて、直観的イメージを現実といかに結びつけて考えるか、その「考え方」そのものを、論理的かつ倫理学的に示し、伝えていくことになるわけじゃ。それによって占ってもらった人は、単に占いを結果として示されるのではなくて、自分で考えていくことが出来るように成長するってわけじゃな。

獏迦瀬:なんか絵に描いた餅みたいな話ですケド…。

伊丹堂:まさにそうじゃ(笑)。実際当たるかどーかは分からないわけじゃからね。まーともかくやってみようじゃないの、ってことじゃ。
というわけで、最後に「新・哲学うらない」のルールってものを掲げとくぞ。これは井上円了が書いてるものそのまんまじゃが、ほとんど易にも当てはまる。ひいてはこの「新・哲学うらない」にも当てはまるわけじゃ。では、とくと肝に銘じてワシに占い依頼メールを送っとくれや。

■「新・哲学うらない」のルール

一、ギリギリまで自分で考え、その上で占いを試みられよ。
一、したがって、占いへの問いかけとして「自分は考えたすえ、〜するようにしたいと考えたが、これは是か否か?」というのが最良の形といえる。もちろん自分としての答えを保留しての問いも可。
一、けっして遊び半分で試みることなかれ。とくに占いそのものをためすような目的で試みては成らない。
一、占いの結果は一時的なものであって、常に状況は変わっていくということを忘れなきよう。
一、一度占ったことを(それが気に入らないからと言って)再び占いなおしてはならない。これは易における最大の禁忌。ただし、前項にあるように状況は常に変化しており、明らかに変化した状況においてはこの限りではない。

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「新・哲学うらなひ」は、「易」をもとにした占いです。易について詳しく知りたい方は、ひるますのサイトの「易の情報ページ」またはひるますのマンガ「肥留間氏の魔法の本・易入門篇」をご覧下さい。