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■今週の主な内容
森内閣不信任案否決伊丹堂でLaVueを読む続・伊丹堂でLaVueを読む

■森内閣不信任案否決(01.3.6)

獏迦瀬: 森内閣の不信任案が否決されましたね〜。不信任案の否決は「否定の否定」で論理的には信任なハズだけど、与党のみなさん、「信任したワケではない」なんて滅茶苦茶なこと言ってます。
伊丹堂: あっそ。
獏迦瀬: …例によって乗りませんねぇ。
伊丹堂: 「滅茶苦茶」の語源は、「芽茶」という極上のお茶も、デタラメな煎れ方をしたら、まずいお茶、「苦茶」になってしまうというとこから来とるそーじゃな。
獏迦瀬: はぁ?…その話ならボクも「ズームイン朝!」の語源特集で見ましたが、…分かりました、話題を変えろと…。
伊丹堂: 相変わらずニブいの。その話は前から「いまさら」だと言っておるじゃろう。ついでに言っておくが、不信任の反対だから信任のハズなんてのは、単なる理屈のための理屈にすぎんな。この世には否定の否定が肯定ではない、なんてことはざらにある。
獏迦瀬: はぁ…それはそうでしょうが、国会という場で言語をないがしろにすることは、ユルされないということは、常日頃、伊丹堂さんの言ってるコトじゃないすか。
伊丹堂: 言語というか、議論じゃな、ワシがダイジと言っとるのは。そこで説得が行われてナットクが形成される…ということが大事なんであって、そのヨリドコロとしてのコトバをないがしろにしてはいかん、と言っておる。コトバをないがしろにして無理を通すというのは、すでに「神の国」問題で頂点を極めたわけで、そんな人たちが国会でコトバをないがしろにする行為をしても、今さら驚くには当たらん。そういう意味でも、これは「いまさら」の問題なわけじゃが、ワシがダメだと言うのは、単なるムードの中で、勝算もないままに不信任案を提出して、それに反対するなら、信任だろうと食ってかかるような野党的態度のことじゃ。
獏迦瀬: たしかに…、今回の不信任案は、原潜事故やら株価低迷というムードに乗って提出されたって感じで、「義」というものを感じませんね…。
伊丹堂: せいぜい森が辞めれば株価が上がるってもんじゃろ。ようするに「義」を打ち立てるには、すべて時機を逸しておるのじゃ。それもこれも去年の総選挙で、国民自身が「結論を先延ばしにした」ってことに尽きる。選挙をやり直して、連中を入れ替えなきゃどーしようもないってのは、前にも言ったことじゃ。
獏迦瀬: 分かりました、言うべきコトは尽きてるわけですね。話題を変えましょう…。この前、斎藤環さんの対談について話したばっかですが、なんと斎藤さんの主著『文脈病』が新装版で出てましたよ〜。
伊丹堂: わはは、それはめでたい。しかし『文脈病』を読んでる男が、「否定の否定は肯定のハズ」なんて言ってちゃいかんな。言外のコンテクストというところで、人は生きているワケじゃからな。
獏迦瀬: しつこいすね…。でもせっかくだから『文脈病』、またキチンと読み直してみたいす。あとこの前「成長論」のところで『甘えの構造』が話題にでましたが、『続・甘えの構造』ってのも出てます。
伊丹堂: それはワシも知っとる。たまたま話題にしたらとたんに出たってことより、『続』が今まで出てなかったってことに驚いたぞ(笑)。てっきりとうの昔に出てるもんだと思っとった。なんたってウチには『甘えの構造』ならぬ『甘え雑稿』やら『甘えの周辺』やら、甘えとなんたらかんたら…って本が、かなり置いてあるからの。
獏迦瀬: ひえ…。それはともかく、なんか今、新刊書店はそれ以外にも読みたい本が目白押しです。忙しい上に金がないのに困ったことデス。
伊丹堂: まあマイペースでやるこっちゃな。だいたい人文本が出るたびに、おっアレが出たこれも出たなんて言っててはキリがないじゃろ。たまたま黒猫房さんが出してる批評紙『LaVue』が届いとるが、編集後記に「そんなに知識人を信用していいのか」と書いとる。これにはまったく同感で爆笑したぞ。
獏迦瀬: あ…『LaVue』の新しい号、出来たんですか、僕にも見せてくださいよ。ってことは、次回のお題はこれってことっすね(笑)。

■伊丹堂でLaVueを読む(01.3.7)

獏迦瀬: 『LaVue』5号読みましたよ〜。あいかわらず多彩な内容というか、よくもまぁ毎号こんなに集めてきますね。
伊丹堂: まったく。たいしたエネルギーじゃ。黒猫氏のツメの垢を煎じて飲ませたい男が、個人的には一人いるがの。
獏迦瀬: …だ、誰ですか(汗)。まぁそれはともかく『LaVue』ですが、ここ読んでる人で内容知らない人も多いでしょうから、ちとコンテンツをリストアップしてみますか。
伊丹堂: なんか字数をかせいでる気がするが、まぁやってくれや。
獏迦瀬: 字数って、インタネのタダ原稿でなんの意味があるんですか…っていうか、自分のダボラの方がよっぽどムダなんじゃ…。
伊丹堂: なにか?
獏迦瀬: ではいきます。まず、この前のベスト10臓器移植議論でも話題に出た立岩真也さんの『私的所有論』について、加藤正太郎という方が書いてます。それと哲学関係で「魂脳論序説」を中塚則男氏、あとは芸術―文化関係で「詩をめぐることばの現在」を高橋秀明氏、「紫の上のいのり」をゆふまどひあかね氏、「複製芸術論のアクチュアリティー」を平野真氏、「日本一あぶない音楽―河内音頭断片」を鵜飼雅則氏、といった面々です。
伊丹堂: それぞれ一癖もふたくせもある連中で、いろいろと絡みたくなるところが多い。
獏迦瀬: ひるますさんは「河内音頭」に燃えてましたね。
伊丹堂: あれは勝新ファンだからな。
獏迦瀬: ああ、勝新の話…。平岡正明さんの勝新本(『市っつあん斬りまくれ』)が出てたとは知りませんでした。
伊丹堂: そうじゃな、ワシも平岡さんと言えば、新書本で出た清水次郎長論が読んだ最後じゃな。あれは泣けるぞ(笑)。
獏迦瀬: なんか話がそれてますが、この「河内音頭」についての文章は「断片」と断ってるだけあって、これからだけでは河内音頭の「あぶなさ」と言うのはよく分かりませんけどね。
伊丹堂: まぁ聴くしかないんじゃろ。音頭取りが「〜丸」と名乗っているのに注目して、「〜丸」というのは、童名(わらわな)だと言うのが面白い。
獏迦瀬: 「童子」そのものが日本においては、神の世界につながっていて、その呪術的能力を「童名」が象徴してるって話ですよね。たしかひるますの「鬼論」でもそんな話が出てました。
伊丹堂: モノ(もののけ)、鬼、こども、…が「人外」の特異な存在として捉えられてるって話じゃな。河内音頭の「あぶなさ」っていうことからすれば、単に神仏の世界につらなる呪術的能力というよりも、一歩進んで、むしろ音頭取りは「鬼」なんだ、と言ってもいいのかもしれんな。
獏迦瀬: ぜんぜん関係ないすけど、ボクは「牛若丸」と聞く度に「牛鬼」を思い出します。
伊丹堂: あ、そう…。
獏迦瀬: すんません(汗)、先に行きましょう。平野さんの「複製芸術論」ですが…。
伊丹堂: ベンヤミンか、なつかしいの。
獏迦瀬: ブームらしいっすよ。でも基本的には目新しい気はしませんね。かつては大きな物語とか超越的な意味といったものによって民衆を支配するのが芸術だったが、現代においては、そういう芸術が壊れたんだか終焉して、個々の断片的な視点から個々人が自己表現し「遊び」として享楽するものになった(あるいはなる)って話ですね。
伊丹堂: なんか「差異の戯れ」みたいな話を蒸し返してるような気がするの。あるいは宮台氏の「意味から強度へ、物語から体験へ」ってのとか。
獏迦瀬: でもこういう話って、ボクらの世代の子はけっこう共感してるみたいっすよ。
伊丹堂: ほんまかいな。遊びの享楽って、ゲーセン行って遊んでるってことじゃないじゃろうな。なんかその手の「語り」ってのは、すでに現実に先を越されてるというか、非常にグロテスクな形で現実に模倣されてるという気がするぞ。一時期の宮台氏はそこら辺をうまく捉えて微妙なところで「時代に乗った」んじゃろうが。
獏迦瀬: うわ…また。でも超越的な観点が不可能になったというところは確かだと思いますが。ひるますさんもロールズ論なんかでそういう話をしてたじゃないですか。
伊丹堂: わはは、不可能とは何か?、不可能性ということを、ちょうどこのところず〜と語ってきたわけじゃが。
獏迦瀬: あ…不可能であるにもかかわらず、それはなされる、という…。
伊丹堂: 超越的な観点を取ることが原理的に不可能だということは、そのまま、個々人が「可能な限り普遍的な」観点をとろうと努力(志向)することを否定するものではない、わけじゃな。このところは、臓器移植の議論(3)で書いてる他者の不可知に関する議論(倫理と矜持)と同じことじゃ。
獏迦瀬: たしかに…、ボクらが芸術に酔ったり感動したりするのは、そこになんらかの「超越的な」時間とか意味とかを感じるときなワケで、はじめからそういうものを断念して、遊びを享楽しようなどと言われてはシラけるというものです。でもここで問題にしているのは、その超越的なものの質が大きく変貌してるってことで、そういう議論としてはナットクできるものと思いますが。
伊丹堂: それはワシも分かる。ようするに神なき時代の芸術ってこっちゃな。しかし、ワシがこの手の学者的芸術談義でいつも不満に思うのは、こ〜いった議論が常にどっかで作家個人の創造性というものを無視してしまおうとしてるってことじゃ。作者の個人的な実存なりヒラメキなりが関与せずに、芸術のあるジャンル自体が駆動しているかのごとき発想じゃな。
獏迦瀬: まぁそういう時代の文化なり土壌なりにからめ取られてるということは否定できないでしょうけど…ようするに、伊丹堂的には、それはヨリドコロだと言いたいわけですね。
伊丹堂: おっ分かったようなことを言うようになってきたの。ワシが一番感心した芸術の定義は小脳論のジャコウネズミ氏による「芸術は発見だ」というものじゃ。
獏迦瀬: 発見したコトを伝えるのが芸術ってことですね。いかに技術が優れていても、そこに「発見」がなければ芸術ではない、ボクらはその発見にこそ感動するってことですね。「発見」と言えば、『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』の中で、上野さんはガクモンにおいても「発見」がなければダメって話をしてましたね。
伊丹堂: モワズバの話じゃったな(笑)。そもそも芸術にせよ、学問にせよ、オムレット的に言えば「コトの創造」といういう次元では同じことなわけじゃからな。
獏迦瀬: お得意の我田引水っすね(笑)。そういえば上野千鶴子さんの新刊は『構築主義とは何か』(上野千鶴子・編著)というヤツですが、やはり超越的な観点というのを断念しはするけど、差異の戯れ的な?語りになるのではなくて、局所的なコンテクストからの「構築」を目指すというような事が書かれてました。
伊丹堂: ふうん…、モワズバについての上野さんの思考を踏まえてみれば、それは社会学の一潮流にとどまるだけではないモノを感じるの。これからのガクモンは、それ自体が「コトの創造」であることを自覚して、というか、そのガクモン自体に繰り込んでいかなくては成立しない…ってことかもしれんな。
獏迦瀬: 局所的なコンテクストからの語りってのは、伊丹堂さんも『倫理21』についての中で「共有された生命のコト的発現」ということに絡んで語ってましたね……げっ!ぜんぜん話がそれてますよ!
伊丹堂: では『LaVue』の残りについては次回に回すことにしよう(笑)。

■続・伊丹堂でLaVueを読む(01.3.9)

獏迦瀬: 前回すっかり言い忘れてましたが、『LaVue』はウェブでは読めない紙媒体(ペーパーメディア)で、関西や東京などの大書店?で配布(投げ銭)してます。配布場所などは黒猫さんのHPや掲示板に出てますので、ぜひご覧ください。
伊丹堂: ワシのをコピーして読んどるくせにエラそうじゃの(笑)。ワシは木戸銭1000円也というのを払って宅配してもらっとるのじゃ。
獏迦瀬: …ってことで、『LaVue』5号の続きですが、やはり中塚則男さんの「魂脳論序説」を取り上げないといかんでしょう。
伊丹堂: もったいつけて最後に取っといてるのかと思ったぞ。「魂脳論」とは画期的なタイトルじゃが、いわゆる「心脳問題」のモジリじゃな。
獏迦瀬: 魂脳という字はどこか懊悩という字に似ています…。
伊丹堂: なんじゃそれ。懐メロか。
獏迦瀬: は?いえ、独り言です…。それで中塚氏の「魂脳論」ですが、ボルヘスから池田晶子、養老孟司に夏目漱石、さらには大澤さんに、かの赤間啓之さん、といったところの引用を華麗にもちりばめつつ、「魂」とは何か、というテーマを浮き彫りにしていく…という、なんとも魅惑的なエッセイです。
伊丹堂: お〜、うまいうまい、コピーライターになれるぞ。
獏迦瀬: 真面目に行きましょう…。非常に面白いと思ったのは、魂とは何か、ということは、フツウは宗教的か形而上学的にならざるを得ないと思うんですが、中塚さんはそうではなくて、「魂」という言葉の使用法っていうんでしょうか、僕らが魂という言葉をどう使うかという視点から明確にすることで、魂の定義を浮き彫りにしていってるってことです。
伊丹堂: 鮮やかなお手並じゃね。魂の実在性?みたいなものを云々するのではなく、ようするに「魂に関する我々の共通感覚」みたいなものとして取り出している。中塚さんが「魂の存在様式」と呼んでいるのは、実在する魂に関する宗教的―形而上学的な説明ではなくて、むしろその共通感覚の中を貫いている「内的な論理」みたいなもののことを言っとるわけじゃろう。
獏迦瀬: 少なくとも三つの在り方、定義として取り出してますよね。まずは「ある人を他の人ではなくその人たらしめている当のもの」ということで、自分とか私というものの「基体」とでもいうようなものを問題にしてます。
伊丹堂: ふむ、あれこれの意識や自己意識というものではなく、そのような意識がなぜに「この私」という場所において開かれているのか?という問題じゃな。永井均さんなどの<私>の単一性などという問題にも絡むところじゃ。
獏迦瀬: あ、『オムレット』の蛇足3(p.92)で話したことですね。中塚さんは後半で大澤真幸さんの「責任論」を引きつつ、人格の同一性における「無」つまり「何もなさ」の次元こそが、魂の存在様式だと言ってますが、それはこの<自分>の基体とでもいう在り方についてのことなんでしょうね。あそこで話題にしたヴィトゲンシュタイン点みたいなものでしょうか。
伊丹堂: いや、もっと具体的なもんじゃろ。『オムレット』で言えば、むしろ第1章の結末で出てくる「心の背景」じゃろう。
獏迦瀬: 「背景は心のありか」…ってやつでしたね。
伊丹堂: 心の背景とは、実際的にはその個体の中枢神経系に相当するわけじゃが、背景そのものにはなんの「内容」もないわけじゃからして、それはまさに「無」なわけじゃ。人はその背景の上でいかようにでもありうるが(可能性としては)、しかし当の自分の背景でないところ、つまり他人の心の背景の上で「自分の世界を開く」ことはできない。まさに「そこ」に自分の心が立ち上がっているということは、根源的に偶然、というしかない。そこに理由や答はないわけで、「なぜに私が私であるか」問題は、なぜに人は個体であって、例えば「共体」というものではないのか?、なぜ生命が中枢神経系を発達させて、個体という在り方をするようになったか、という問題になるわけじゃ。
獏迦瀬: はあ、それで伊丹堂さんや肥留間氏は「個体としての生命」という言い方をよくするんですか。そういえば偶然にも大澤さんの「責任論」について語ったときに、大澤さんの根源的偶有性と、個体としての生命という考えは互換的だ、と言ってたんでした。
伊丹堂: しかしワシとしては、あくまで「倫理(責任)」のヨリドコロとしての「仕掛け」として個体としての生命ということを言っているわけで、やはり魂の実在という問題として語ってるわけではない、ということは言っとくぞ。そうでないと「魂とは中枢神経系である」ということになってしまうからの(笑)。
獏迦瀬: ああ、なるほど、それで中塚さんも「魂=脳」という公式は「半分は」正しいという言い方をしてるんですかね…。そこで魂の第2の定義ですが、これはいわゆる「死者の魂」ですね。「あちら側」の世界と交換されることで単なる死体が「価値」を持つことになる、その価値のことを魂と言うのだ、というようなことが言われてます。死と象徴交換ってやつですか…。
伊丹堂: 文言は仰々しいが、言われていることはよく分かる。ここで問題になっているのは、ようするに「身近な人の死」であり、「身近な人の魂」ってことじゃな。
獏迦瀬: そういえば、臓器移植議論でも、死を自分の死、身近な人の死、一般的な死に分けて考えるという、森岡さんの人称の問題や神名さんからの提言がありました。でも、そうすると、身近な人ってのは、別に「死」んであの世にいかなくても、価値ある存在に変わりはないですよね。
伊丹堂: いや、だから「死体」というモノが「魂」という価値に変換される、ということを言ってるわけじゃろ。むしろ「身体」を媒介せずに、魂として自体的に、その人が存在することがリアルに感じられるようになる、と言った方が正確じゃないかの。
獏迦瀬: で、こういう他人、というか身近の人の魂、というあり方は、前の「なぜに私が私であるか」の基体としての魂と、ど〜いう関係があるってことになるんでしょうか。なんとなくは分かりますが…。
伊丹堂: ではなぜにそれをワシに言わせようと言うのか(笑)。
獏迦瀬: はぁ…、ようするに「そこ」で、その人の世界が開けている、ということでしょうか…。でもそう言っちゃうと、魂が「実在」していると言うコトになっちゃいますかね。
伊丹堂: いや、まさにそういうこっちゃな。事実問題として「そこ」で死んだ人の魂の世界が開けているかどうか、という問題ではない。ワシらが「そこ」に死んだ人の魂がまさに「内側から」開けているということを「実感する」(いやおうなくしてしまう)という問題なんじゃ。ワシらはそれをリアルなものとして「郵便的」に受けとるわけじゃね。リアルとは何かということをキチンと考えてみればいいのじゃ。
獏迦瀬: そうすね。括弧付きで「リアルなもの」として魂を捉えるってことですか…。たしかひるますさんの臓器移植論考でも、脳死の人にとって「世界が内側から開けている」可能性を否定できない、ということが言われてましたが、レベルは違いますが、リアルさという点では共通しますね。ともかくそうすると、死者の魂についても、その死んだ人がなぜその死んだ人であって他の人でないかの「基体」としての魂、「内側から開けている場」としての魂、という意味で、「魂」概念は連続的に捉えることが出来ますね。
伊丹堂: よ〜するに「こおに」さんの<鬼>概念みたいなもんじゃね。
獏迦瀬: はぁ??…あれはたしか「鬼」という概念を実体ではなく、人の「関わり方」に関する関係概念として捉えようというものでしたね。
伊丹堂: したがって他者を<鬼>として排除する関わり方において、異形のモノとしての鬼が現れるし、自分自身を<鬼>として関わる(行為する)とき、自分の内なる鬼に突き動かされるという「修羅」の生き様が現れる。それをまさに連続的に捉えることができる概念なわけじゃ。…なっ似てるじゃろ?
獏迦瀬: な〜る…ほど。「魂」を実体と見るのではなく、「内側から開かれてる」という感覚を、自分自身の根底に見るか、死せる他者の根底に見るか、という「関わり方」と見よ、ってことですか…。
伊丹堂: ちゅーこっちゃ。
獏迦瀬: そういえば「こおに」さんは、新たに「内なる鬼」というのを書いてました(HP「おにさんこちら」参照)。
伊丹堂: 今度は自分自身への関わりとしての<鬼>という側面が探求されてるわけじゃね。これからの「こおに鬼学」の展開が楽しみじゃな。
獏迦瀬: ところで、そういうコトになってくると、中塚さんの魂についての第三の定義というのが、ちょっとまた分からなくなります…。つまり「一般的、全体的な不死性」、個体としては死んでいっても、一般的(というより普遍的な?)ものとして記憶されることによって、残っていくものとしての魂、というのがそれです。例えば敵を愛するという行為をしたとき、その人はその瞬間、キリストになるのであり、シェイクスピアを読んでいるときシェイクスピアになるのである、ということが言われてるんですが、それは先の「内側から開けている場としての魂」の定義とはまた違う気がします。
伊丹堂: 中塚さんが、それも魂だと言うなら別にそれでいいんじゃないかの。最初に言ったように、ワシらの日常的な共通感覚とそれほど乖離するわけでもない…、たしかにそういう側面が「魂」というコトの中にはある。
獏迦瀬: あら、ずいぶんあっさりですね。ボクは例の死の三側面、つまり一人称の死、二人称の死、三人称の死、というのとパラレルに考えて、この場合は関わりとしての魂の、三人称の関わりという側面と考えればいいのかな?とフト思ったんですが、どうもしっくりこない…。
伊丹堂: ふうん、たしかにあまり「発見的」な感じはしないの(笑)。
獏迦瀬: じゃあ伊丹堂さんはどう考えるんですか?
伊丹堂: まぁ言葉遊びの部類に属するが、ワシとしては「それは魂ではなく、霊だ」と言えばスッキリする。
獏迦瀬: れ…霊っ!ですか…。
伊丹堂: ぐふふ、そう来るだろうと思ったから、言いたくないんじゃが(笑)。…つまり霊というから奇異に聞こえるじゃろうが、ようするにスピリッツ、すなわち精霊であり「精神」ってこっちゃ。
獏迦瀬: なんだ、精神ですか。精神と言えば伊丹堂的定義は「共有された生命のコト的発現」でしたっけ…。
伊丹堂: それはデカイ精神、グレートなスピリッツのことじゃな(笑)。偉大な仕事をなした芸術家や指導者、倫理的行為に殉じた無名の人などの死せる個人を「主語」とした、限定された(局所的)コンテクストにおけるコト的発現、…これは、デカイ精神ではないが、やはり小さな「精神」の発現とは言えるじゃろ。
獏迦瀬: なるほど…。魂は「基体」であり、そこで発現する「述語的行為」みたいなものが「霊」だ、ということですか…。
伊丹堂: ふふ、単なるコトバの定義の問題じゃがな。この違いが分かっとくと、シュタイナーがスラスラ読めるぞ。
獏迦瀬: はぁ??…シュタイナーですか。そういえば「霊界参入」なんてハナシがありましたが…、あれってユータイ離脱して死後の世界に行くってハナシじゃなかったんですか?
伊丹堂: 当たり前じゃ。そんなこと言ってるヤツが偉大な思想家として後世に残るハズなかろう。霊界参入とは、なんらかの「精神」(精霊)を主語とするコト的発現のただ中に没入するコトよ。
獏迦瀬: にわかには信じられませんが(笑)…
伊丹堂: さらには自分自身が「精霊へと孵化すること」が出来れば言うことないわな。その人が死んだ後に、だれかがその人を「主語」とするコトをなそうとしたなら、結果的にその人は「精霊」になったということになるわけじゃろ。人はそのために生きとるんじゃ(笑)。
獏迦瀬: ひえ〜〜、なんともオカルトちっくな…。そういえば、ひるますさんがエライ人が死ぬたびに、その人は「天使になった」とか言ってますが、あれは伊丹堂さんのいう「精霊」と同じ意味なわけですね…。
伊丹堂: がはは、ワシはシュタイナーの「精神」に則って語ってみただけのことじゃよ。それでもこの程度のことは「オカルト」なんて呼べるものじゃないがな。
獏迦瀬: お言葉は承っておきます。なんか長時間に渡っちゃんで、『LaVue』の残りの文章については、また機会があったらということにしましょう。それにしても『LaVue』の話からそれちゃったんだかそれてないんだか、よく分からない結末になってしまいました(笑)。ともかく、『LaVue』本体の方をぜひご覧いただきたいと思います。
伊丹堂: ちゅーこっちゃな。

●ひるますの単行本『オムレット〜心のカガクを探検する』
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