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「私がべしみになった理由」号


■政治に参加しないことの根拠(01.4.12)

獏迦瀬: そろそろ田辺哲学についてまとめねばならないんですが、いろいろと面白い本が出てて、気が散ってナカナカすすみまません。
伊丹堂: アヤコが言ってたが、珠緒さんが今度は京都に行っとるそ〜じゃ、春休みで。どうせなら、珠緒さんが帰ってからでもええど、その話は。
獏迦瀬: うわ…、そりゃまたものすごい言い訳考えましたね、ひるます氏…。珠緒さん、向こうで変な事件にでも巻き込まれなきゃいいですが…。
伊丹堂: なにか?
獏迦瀬: いえ、こっちの話です。旅行と言えば、なんと池田晶子さんの『2001年哲学の旅』っていう、旅ムック本が出てます。ニーチェの暮らした村とかヴィトゲンシュタインのどーたらとか、載ってますが、ようするにヨーロッパ、グルメ旅行マニュアルですよ。
伊丹堂: ブルジョアじゃなぁ…。
獏迦瀬: 我々もせこく「2001年京都哲学の旅」といきますか。
伊丹堂: それでもまだ豪勢じゃな…。「自転車で行く哲学堂(中野区)ガイド」くらいが貧乏哲学人にはちょうどよかろう。
獏迦瀬: あ、それはいいですね。ちょっと遅い花見って感じで。我々も先週は思いも掛けず「政治って何なんだ〜」なんて対談?に引っぱり出されたわけですから、ちっとは謝恩してほしいもんです。
伊丹堂: タダ働きはワシらのサガじゃから、しょうがあるまい。タダ働きと言えば(笑)、例の黒猫氏から、メルマガ「カルチャーレビュー」の最新号(16号)が届いておったが。
獏迦瀬: そうです、その話をしに来たんでした。…いつもながら前フリが長いっすね。いちおう説明しておきますが、「カルチャーレビュー」は先日紹介したペーパーメディアの『LaVue』と同じく黒猫氏の刊行になる評論誌ですが、それとはまた別モノで、メールマガジンで配信されてるものです。まぁひるます氏もその「別冊」に臓器移植関係で投稿してます…ってのは蛇足でしたね。
伊丹堂: っていうか、この対話自体「蛇足」じゃがな(笑)。
獏迦瀬: 冗談はともかくとして…、この中での栗田隆子さんのシモーヌ・ヴェイユについての文章が非常に興味深かったっすね(「シモーヌ・ヴェイユ『根を持つこと』を読み直す」)。
伊丹堂: うむ、ワシも冗談ではなくて、そのヴェイユ女史の『根を持つこと』を読みたいと思ったわい。実は食わず嫌いってやつでまったく読んだことがなかったからの。
獏迦瀬: なんというか、偶然にもこの前の 「政治って何なんだ〜」の対話と呼応しているようなところがたくさんありましたね。とくにヴェイユさんのいう「人間の義務は権利に先立つ」というところは、伊丹堂さんが、政治への関心・関わりが国民の権利ではなく義務だとおっしゃるのと同じなんでしょうか。
伊丹堂: いくつかハッキリさせとかなくてはならんことがある。まず、ワシが「義務」というのには、「民主主義政体においては」という前提がある。ヴェイユさんのように「人間の義務は…」とあたかも超歴史的・普遍的な定義のように語ることは出来ないってこっちゃ。
獏迦瀬: ヴェイユさんにおいては、この「義務」というのは、「魂の生命的要求」としての「責任」とも言い換えられていて、たしかに「超歴史的」な感じはします…。
伊丹堂: 「有用な存在であり、不可欠な存在であろうとする感情」ってヤツじゃな。しかしこれは言い方を変えれば、ようするに「実存」ってことじゃろ。つまり生きる意味なりリアルを求めんとする「個」としての生き方じゃが、そういう実存は「個体」としてまったく世界と切り離されてあるのではなくて、あくまで社会的な関わり(世の中)や「文化」というヨリドコロを通じてしか実現しえない、ということはここで何度も言ってきとることじゃ。
獏迦瀬: 「魂の生命的要求」としての実存は、社会へと関わる義務であり、ウラハラに「責任」を伴う、ということですが、ようするに実存ってのは、ここで何度も話題にしてる意味での「倫理的なもの」だってコトになるワケですよね…。とすると、ある意味でそれは「不可能」なものであり、「そうしなくていい」ものでもある、ということになりませんか。
伊丹堂: ふふ、まさにそうじゃが、そういったものはある意味で「限界的な倫理」じゃな。実際の個人の意識において、倫理的であろうと別に意識するわけではないけど、「我々にとって」の視点から見てみれば、それは「倫理的」な構造をしている、ていうかな…。
獏迦瀬: 「我々にとって」ですか…。たしかに、こういうふうに何げに日常を生きるってことのウラには、「そうしなくていい」、例えば自殺するとか、完璧に自閉しちゃうとか、山にこもっちゃうとか、という「余地」みたいなものがあって、そこから見れば、この日常も何らかの意味では「倫理的」と言えるんでしょうね。
伊丹堂: いずれにしても、肝心なことは、人が「この世」ひいては「世の中」において、なんらかの位置を占めること、そして「世の中」に対してなんらかの働きかけをせねばならぬこと、それが魂の要求と呼べるほどに根源的なものであり、また義務と言えるほどに共有できる認識だ、ということじゃろう。しかし「政治への参加」なり「政治という次元」が、ここで言う「世の中に対する働き」のウチに、一般的に含めることが出来るかというと、そうではない。それはこの前の政治とは何かの対話でも言ったことじゃ。
獏迦瀬: はあ、システムとしての「世の中」に対して超越的に介入するのが「政治」ってコトでしたね。それは特殊な権力によって可能になるんであって、それが国民のものになったのが、現代の民主主義ということでした。ということは、つまり伊丹堂としては、まず「世の中」への関わりは、超歴史的にというか普遍的に、人間の義務であり責任と言えるが、「政治」への関わりは、あくまで民主制という歴史的な局面でのみ義務と言える、という二段論法をとるってワケですね。…なんか些末な問題って気もしますが(笑)。
伊丹堂: ふふ、些末というより、「世の中」と「政治」ってのは、そんなふうに明確に「線引き」して区分けできるのか?って問題はある。それにヨーロッパにおいて「民主制」がもつ現実感というものは、日本におけるものとはまったく違うじゃろ。ヨーロッパにおいては「世の中」への関わりがそのまま「政治」への関わりであるような現実感覚が、文化として根づいていると言えるわけじゃからね(実際ど〜かは知らんよ)。じゃが、今はとりあえず「政治」というものの持つ次元の特殊な性格をハッキリさせとこうと思って言ってみたわけじゃ。
獏迦瀬: なるほど、失礼しました。そこで、この文章を書いてる栗田さんが、次に、それとは一見、相反するごときスピヴァクの「サバルタン」についての考えを持ってきてて、これがまた非常に興味深いっすね。栗田さんはこの二つを併せて考察することを「思いつき」と言ってますが。
伊丹堂: これはもの凄いというか、極めてまっとうな「ヒラメキ」じゃな(笑)。
獏迦瀬: スピヴァクさんってのは読んだことないですが、ポスト・コロニアルの思想家ってことですね、よく分かりませんが。それはともかく、ようするにサバルタンってのは、社会的なマイノリティーととりあえず言っていいんでしょうね。それを社会なり政治に参加させようと働きかけることが、実ハ「サバルタン空間」を放棄することになる、というのですね。ここで彼女が何を問題にしているのかというと、ようするにサバルタンには「政治に参加しない権利」みたいなものがあり、それを肯定しているのではないか、と思うのですが。
伊丹堂: そうじゃろ。『サバルタンは語ることが出来るか』というスピヴァクの本のタイトルに象徴されるように、サバルタンが自分自身を語ることの不可能性ということが言われとるが、しかしカンジンなのはサバルタンは「語れるかど〜か」といった能力の問題ではなくて、語っていいのか、語るべきなのか、語らなくていいのか、語ってはいけないのか、という権利、義務、倫理のレベルの問題じゃろう。
獏迦瀬: ようするに、サバルタンは自分を語らなくていい、という権利を認めつつ、それでもサバルタンに対して「政治(市民空間)への参入」を働きかけようというのがスピヴァクの立場のようですね。
伊丹堂: スピヴァクがど〜の、サバルタンがど〜のと言うと高級そうに聞こえるが、ようするに加藤典洋さんが『日本の無思想』で語ってる「べしみ」の問題とまったく同じじゃな。いや、カトノリが高級ではないという意味では全くないが(笑)。
獏迦瀬: そうです、ボクもそれを思い出してました。べしみというのは「中央の神」に対して「無言で抵抗する」神の姿ってことでした。ようするに鬼とかエミシ・俘囚の問題ともからんでくるんでしょうが、別の文化に征服されてマイノリティーになったバアイ、その別の文化(征服したことによって「中央の文化」となる)に抵抗するときに、「コトバ」を使ってしまうことは、それ自体が中央の文化に対する屈服になってしまう、ということですよね。地方のコトバでいくら抵抗しても「分からん」で終わっちゃうわけですから。そこで「無言」というカタチでしか抵抗というコミュニケーションを成立させえない…。それを「政治」とか「公共」への関わりを拒否する権利として加藤サンは捉えてるわけです。
伊丹堂: しかしそれを「権利」と呼ぶのはおかしいと、ひるますが言っておったな。ようするに「権利」というのは、法的な、つまり共有された社会的合意という文脈で意味を持つわけじゃからして、それを「権利」と言ったとたんに、べしみは自らを中央の神のコトバで語ってしまったことになる(笑)。
獏迦瀬: ヴェイユさんの言う「義務は権利に先立つ」というのも、ようするに「権利」というものが、「世の中」や「市民空間」が作られた「後から」意味を持つということから来てるってことかもしれないっすね。しかしそうすると、べしみなりサバルタンが「世の中」なり「政治」に参加しない権利があるってのは、どう表現したらいいんでしょう。
伊丹堂: まぁ、「まっとうさ」ってことじゃろうな。英訳してrights、つまり「権利」じゃが(笑)。けっきょく「政治的・法的権利」と、ワシらが共通感覚としてもっている「まっとうさ」の違いじゃな。
獏迦瀬: そうすると、その「まっとうさ」と言うのは、さっき問題にした「実存」としての「世の中」に関わる義務、とどう関係することになるんでしょうか…。一方に参加しないことの「まっとうさ」があり、一方に参加することの義務があるというのは、矛盾してるワケですが。
伊丹堂: えっ、それは簡単じゃろ。マイノリティーはいわば「中央の社会」なり「中央の文化」に対して拒否することについて「まっとうさ」があるのであって、一般的に実存のレベルで「この世にコミットしないこと」の「まっとうさ」があるわけではないってことよ。マイノリティーがなにゆえマイノリティーかといえば、中央から見ればマイノリティーととれる「世の中」や「文化」に生まれ、それに関わり、その中で自己を創り出し、それをヨリドコロにして自己を表現するという状況に「宿命的」におかれているからじゃろ。つまりすでにしてマイノリティーというカタチで「この世」に関わっており、すなわち「実存」の要件を果たしてるワケよ。
獏迦瀬: なるほど、言われてみれば当たり前でしたね…。でもそうすると、そのような(拒否するコトの)「まっとうさ」を持つ者を、あえて「市民空間」(つまり中央の社会)に参入させようというスピヴァクさんの政治的運動の「根拠」ってものが問題になると思うのですが…。
伊丹堂: というか、それが問題の焦点なわけじゃな。経済のレベルで言えば、グローバル化は是か非かって話…と言ってしまえば身も蓋もないが…。しかしここでもカンジンなのは、超歴史的というか非歴史的に、ある種の支配と屈服、そして参加ということを問題にしているのではなくて、やはり「民主主義」という現代の歴史段階においてこれを問題にしている、ということじゃな。
獏迦瀬: ひょっとして「民主主義は『良い』制度だから」支配―参加があってもいい、なんてことになるんじゃないでしょ〜ね…。
伊丹堂: がはは、そんなに簡単にイイということになっては、スピヴァクさんの思考も浮かばれまいよ。結局は、よい―悪いということの彼岸なんじゃな(笑)これは。ただ個々の状況において、その境遇を黙ってみとられんようなマイノリティを前にして、市民社会への参入を説得せざるを得ないという、倫理的な決断がある、ということが言えるだけじゃろうな。しかもその倫理的行動は、社会・世の中の全体的システムへの介入である以外ないから、政治的行動でもある。そしてワシが言っとるのは、そういう政治的―倫理的行為を可能にする条件が「民主制」だということなのじゃ。
獏迦瀬: う〜〜ん、なかなかにフクザツな言い方ですねぇ…。民主主義が「倫理的行為の可能性の条件」というのは…。
伊丹堂: つまり民主主義とは、ある特定の共同体内部の調整を目的とするのではなくて、常にその「外部」、いまだ知られざる他者を「永続的に配慮」しつつ、その社会自体を変化させて行く(ロールズの項参照)ということじゃな。つまり民主主義それ自体が、「より多様性を認める社会」へと変わっていく、というか、行かなくてはならんってことを前提にした一つの文化運動でもあるってことじゃな。しかしそれは、そういうコトがいわば特に奇異な行動ではないと承認されているという下地を作っているという程度のことであって、民主制下に生きる人々すべてに「倫理的な行為」を強いるものではない、ということじゃな。
獏迦瀬: 民主主義が「可能性の条件」というのは、「根拠だ」と言うのとは微妙に違うんでしょうね…。
伊丹堂: 個々の政治的―倫理的判断において、民主主義「だから」それをしていい、という意味での「根拠」ではないっていうホドの意味でなら、そうじゃ。倫理的行為の宿命として、そこに既に承認された根拠などというものはない、というコトでもあるわな。そこらへんにスピヴァクさんが、そのような行為の「意味を宙吊り」にするということの意味あいもありそうな気もするがの。
獏迦瀬: う〜ん、たしかに宙吊りにされてる感じです…。ある意味では、政治的にマイノリティに対して「アフォーマティブ・アクション」をしようと考えてる人はすべて、この「宙吊り」の感覚を常に意識していかなくてはならないってコトかもしれませんね…。
伊丹堂: まぁ教科書的に言えばそうじゃ(笑)。しかしホントに肝心なコトは、ワシらがあたかも最初からマイノリティならざる「社会内存在」みたいに立ち振る舞うのではなくして、ワシらも含めてアラユル人々が、マイノリティである可能性を抱いているという認識ではないかの。それがロールズ/土屋恵一郎さんの言う意味で「無縁化」された視点からモノゴトを考えるってことであり、「見知らぬ他者」を配慮し続けるってことでもあるワケじゃろう。
獏迦瀬: たしかに加藤典洋さんの「べしみ―イノセント」に関する議論では、そういうスベテの人に「内在する」マイノリティが問題になってた気がします。世界に対する根源的な違和感、というか、拒絶の感情ですね。それにもかかわらず「世界」にかかわる「義務」を持つ、さっき話に出た「限界的な倫理」を持つ存在になる、というのが、また矛盾で、ひるます氏の書評では、「愛」によって転換されるのだとかど〜たらこ〜たらって話になってたのでした。
伊丹堂: しかしまぁ、そこにこそマイノリティが「市民空間」へと自ら参入する、つまり「サバルタンが自ら語り出す」という可能性があるわけじゃが…それはまあ言わずもがなってとこじゃな。
獏迦瀬: それは…人のことをアレコレ忖度するなという、例の「矜持」ってヤツですかね。…それにしても、なんかまたしても話が脱線、というか、いろんなトコにとっちらかっちゃった感じですね〜。これも栗田さんの問題提起が、それこそ深く広範囲に関連する問題の根っこみたいなトコをついてるからかもしれません。この人のこれからの文章にも期待が高まりますね。
伊丹堂: そうじゃな。ではそろそろキミも本腰を入れてレポートに取りかかるように。
獏迦瀬: ひえ…。

●ひるますの単行本『オムレット〜心のカガクを探検する』
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 発行者:ひるます  (C) HIRUMAS 2001
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