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獏迦瀬: |
前回はちょっと暴走してしまいましたね…。
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伊丹堂: |
チューコーの話か。まぁアレくらいいいんじゃないかの。向こうは痛くも痒くもないじゃろ。
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獏迦瀬: |
それにしても今回の中公は面白いっすね…と話をそらしますが(笑)。
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伊丹堂: |
そういえばたまたま柳美里さんの話が久々に出たとこじゃったが、ちょうどこの中公6月号では、作家の赤坂真理さんが柳美里批判?を書いてて、痛快じゃったの。
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獏迦瀬: |
あの話は、いぜん朝日新聞の書評欄で、チラっと書いてたのですが、それを今回は真っ正面からズバっとやってくれたという感じですね。まあ柳美里さんがど〜したという話は置いといて、日本(人)が文化的に成熟していないから、自分たちの日常を見据えるというか享受できず、ああいった身障・心傷ばなしにばかり飛びついてしまうという捉え方はナルホドって感じですね。
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伊丹堂: |
まあ正論じゃがね。しかし、アメリカだってスティーブン・キングが国民的作家になってるようじゃ似たようなもんだと思うがの。
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獏迦瀬: |
それは…。まあいずれ赤坂さんの小説も読んでみたいもんです。それと中公6月号ですが、養老孟司さんが「倫理」について語ってますね(「鎌倉傘張り日記」)、これも偶然の一致ですが(笑)。 |
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伊丹堂: |
倫理とは個人のものである、と。つまりワシらの言い方で言えば、倫理とは徹底して実存の問題であると、まさにそれが出発点じゃな。
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獏迦瀬: |
養老さんはその言葉を、ある講演会で大江健三郎さんから聞いて我が意を得たりと思ったということを言ってますが、その講演会についてはこれまた偶然にも以前、「ひるますヘッドライン」22号で取りあげてたのです。
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伊丹堂: |
そうじゃったの。しかしさらにワシらの話とリンクするのは、養老さんが「倫理」の問題をキチンと責任の問題とつなげて考えているところじゃね。
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獏迦瀬: |
ここでは教科書検定にからんでの話で、そのような検定によって教える教師の「倫理」がうやむやにされてしまうということですね。養老さんは「教育は教える側の個人的責任である」と言うわけです。ウラハラに言えば「教師は個人的責任をかけて教えよ」ってことでしょう。ようするに、教えるコトもまた、創造的=倫理的行為だということですかね。
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伊丹堂: |
もちろんその局面はダイジじゃ。芸術的表現、科学的発見、そして政治的アイデアの実現、いずれも創造的=倫理的なものなわけじゃが、教育というコトもまた、教育される人の中に「内側から分かる」というコトを作り出す、という意味においてはまさに「創造的」なんじゃな。
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獏迦瀬: |
創造的であるがゆえに、ある意味で結果が読めない。だからこそそこに責任というものがあるってことでしょうか…。
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伊丹堂: |
成長の不可能性(「臨場哲学通信」54号)に向けた情熱的関与っていうか(笑)。ようするに実存的な局面だと言っとるわけじゃが、それだけを言うだけではコトの半面でしかない。
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獏迦瀬: |
と、おっしゃると…。 |
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伊丹堂: |
つまりそのような倫理的行為が配慮する「他者」の問題が語られていない。教育において配慮されているのは、教育される個々の相手個人でももちろんあるが、それを超えた「公的」な精神に向けた配慮というものがある。単に「個人の責任」と言い放つだけでは、その局面が取り逃がされてしまうのじゃな。
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獏迦瀬: |
それはいわゆる「ひとりよがり問題」っすか? たしかにそれぞれの教師が勝手な思い込みで「教育」を始めたら大変でしょうね。ただ養老さんは解剖学者として「事実」に立ち向かうというところが基本にあって、そこにおいては「ひとりよがり」などあり得ないという論理になってるようですね。 |
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伊丹堂: |
ふふ、まさにクリエイティブにして倫理的な科学者なわけじゃな。養老さんはそれでいいが、すべての教師が「科学者」のように事実に立ち向かうことなどできないわな。教師は「そこそこに倫理的な」科学者であるという程度でも、まあ優秀な方じゃろう(「科学は倫理的」ということについては「ヘッドライン」20号参照)。しかも教師ってのは、養老さんが言う意味での「解剖学的事実」みたいなものだけ相手にしてるわけではないじゃろ。
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獏迦瀬: |
そこでやはり公準というか、教科書検定みたいなものは必要ということですか…。
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伊丹堂: |
っていうか、個々の教師が「倫理的存在であるべき」ということと、教える内容についての標準があるってことは、まったく別問題だってことよ。少なくとも義務教育レベルの教科書に、ある程度の統一的な標準があるのは当然じゃろう。それは不公平の排除って側面からも言えることじゃがな。
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獏迦瀬: |
なるほどね、内容的な標準という問題についてはそうでしょうね。「個々の教師が倫理的存在であるべき」というのは、「公権力」の問題に近い気もしますが…教師もまた「公権力」に関わるからこそ倫理的でなくてはならない、ということなんでしょうか。
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伊丹堂: |
「教育」そのものは次世代の社会をどうしていくか、という意味では「介入」しているわけじゃから、公権力は公権力じゃ。だが、教育ってのは、超越的に社会に介入して変革していくというよりは、むしろ日常的―反復的にそれを維持していくためのもんじゃろ。社会(世の中)に対してあくまで「後追い的」なものでしかないわけじゃ。
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獏迦瀬: |
そりゃそうですよね…。むしろ社会の動きに先立って、教育が人間を変えていく…ということになったら、ファシズムとか軍国主義国家をイメージしちゃいます。 |
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伊丹堂: |
じゃろ。教師に倫理的であれと言っても、そういう公権力(超越的介入)の意味において「社会に目を向けよ」というわけではない(笑)。つまり「職人」の倫理の意味において「倫理的であれ」というに近いわな。しかしそもそも「公権力に関わる者は倫理的でなくてはならない」と言ったって、そんなお題目が天から降ってきたわけでもない。ただ我々が公共的な合意として権力に関わる者を「倫理的な存在であるべき」としているってことなんじゃ。それが民主主義の「精神」の発現というものよ。
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獏迦瀬: |
はあ…つまり教師が「倫理的であるべき」ということもまた「公共的に合意」していくべきと…。
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伊丹堂: |
ちゅーこっちゃ。まだそれは身にしみていないようじゃからの。これは「政治的に」つまり「超越的に介入」して解決するようなことではない。あくまで地道な文化の質的変換としてしかなされえないことじゃがな。やがては「教師が倫理的であるべき」なんてことが「当たり前」で、言うのもアホらしいというくらいになれば、それが達成されたということになるわな(「文化の質的変換」についてはいろいろなとこに書いてますが→たとえばここなど)。
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獏迦瀬: |
そういえば以前、臓器移植の議論で、医師について「日々正義を実行する者であるべき」という話がでました(「自己決定権を考える2」の項)が、これも医師が「倫理的存在であるべき」と公共的に合意していこうというう文化運動であるわけですね…。
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伊丹堂: |
まあな。ところでこういった「公」とか「精神」に関わりゆく実存という問題は、以前宿題にしておった「田辺哲学」の問題でもあるはずじゃが、あのレポートの話はどうなったんじゃ?
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獏迦瀬: |
う…ついにその話題にふれてしまいましたか(笑)。いろいろとイベントが重なって遅れに遅れてますが、いちおう読み続けてはいます。ただこの話題はボクがまとめようとしてたら、途中から、ひるます氏が「オレが書く」と言い出しまして(笑)、ひょっとしたら、ひるますさんのオリジナル論考として提出することになるかもしれません。 |
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伊丹堂: |
ふうん。ワシの意見も聞いといた方がいいと思うがの(笑)。
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獏迦瀬: |
『LaVue』6号出ましたね。ひるます氏は冒頭の渡辺豊和さんの談話に大喜びでしたよ。
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伊丹堂: |
ああ、渡辺さんと言ったら『縄文夢通信』じゃな。
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獏迦瀬: |
そうです。だいぶ前の本なんで、ひるますさんの書評ではとりあげてないんですが、ひるます氏が縄文がど〜したこ〜したという話をするときに、常に大元にあるのが、渡辺さんの本だということですね。
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伊丹堂: |
まぁ渡辺さんを知ったのは、栗本の『縄文式頭脳革命』の中での言及からじゃな。どっちもあるイミでは「トンデモ本」と言われてもしょうがない面があると思うが(笑)、根本にある「文化」という捉え方は、非常に重要じゃな(例えばヘッドライン13号の高橋克彦氏の項など参照)。
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獏迦瀬: |
そうでした。渡辺さんは『安倍晴明 占いの秘密』なんて本も出してるんですよね。ボクも本屋でみて気になってたんですが。 |
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伊丹堂: |
占いね…。関係ないが、ウチの「新哲学占い」に申し込んで、メールアドレスを書いてない人がいるが、連絡しようがないんで、ちゃんと書いて下されよ。
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獏迦瀬: |
冷やかしじゃないんですか(笑)。それはともかく、今回の記事では、京都の鳳凰堂をテーマにして、京都の中に異質な文化(ここではペルシャ文化)をぶち込むことで、文化を活性化しようというようなことをおっしゃってます。
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伊丹堂: |
建築ってのはいかにも「視覚的」な文化(文明)の代表のように感じられるわけじゃが、渡辺さんの捉え方は非常に動体認知的じゃな。
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獏迦瀬: |
ああ、「ジャングルジム的な構造をどんどん偏らせていく」ところに造形美が生まれるという…。 |
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伊丹堂: |
それが今回のテーマにもなってる「鳳凰堂のパーツを切り取って拡大したような建築を京都のアチラコチラに作って京都を鳳凰堂で覆う」というような発想にもつながっておるな。
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獏迦瀬: |
なるほど…視覚的認知(モノ)ではなく聴覚的=動体認知(コト)を基盤にした文化ってものが背景にあるわけですか。さすがは「縄文」の人ですね(笑)。それ以外の記事では、どうですか。村田豪さんの柄谷の『倫理21』についての書評が掲載されてますが。 |
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伊丹堂: |
あれね。まあ『倫理21』については、ワシらの対話も読んでくれいという以外ないね。
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獏迦瀬: |
はぁ…それはそうですが。 |
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伊丹堂: |
まぁひとつ言っとけば、柄谷がど〜のという前に、この論者が「倫理」ということをどう考えてるのかが全然見えてこないってことが問題じゃな。それは論者が「態度の変更」(つまり自ら倫理的であること)を問題にしつつ、フロイトの攻撃性の問題を指摘したことでなんか納得してしまうというところに表れとるの。
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獏迦瀬: |
それはその議論でも伊丹堂さんが指摘してましたね、まさに唯物論者柄谷がフューチャーされてる部分と…。 |
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伊丹堂: |
まさにそこにハマったって感じじゃな。関係ないが、宮崎勤多重人格説を思い出すわな。
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獏迦瀬: |
なんですかそれ。
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伊丹堂: |
ようするに宮崎の犯罪は「理解しがたい」が、「多重人格」という病気の「結果」としてなら、納得できる…というような考え方じゃ。
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獏迦瀬: |
ああ、ひるます氏がだいぶ以前に書評と論評を書いてました…。
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伊丹堂: |
つまり多重人格なり攻撃性なりという、一応の「科学的」な概念を持ってきて、人間の行為の「理由」とか「原因」としてナットクしようというパターンじゃ。 |
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獏迦瀬: |
書評者の村田さんは「ペシミスティック」な見方と言ってますが、と言うよりも「マテリアリスティック」な見方だということになりますか…。
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伊丹堂: |
そう、決定的にそこから発想が抜け出せないんじゃな。だから「自由」なり「責任」なりということを言っても、単なる「みなし」の問題としてしか捉えてなくて、実存の問題としては捉えられない。だから「攻撃性」なんて「理由」が出てくると、ほいほいそれに飛びついてしまう…。
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獏迦瀬: |
う〜む…っていうか、これ読んでない人には何のことかさっぱり分からん話になってます…。たとえば「みなし」の問題ってのは、いちおう前の対話で触れていますが…。 |
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伊丹堂: |
ま、ようするにワシが言いたいのは、ワシらが「倫理的」に態度の変更を要請される、というようなことを感じるのは、別に柄谷の本を読んだ時などではなくて、例えば全然知らないヤツが酔っぱらって線路に落ちた時に、全然関係ないのに助けようと飛び込んで、果たせずに死んだヤツがいた、なんてことを聞いた時じゃろ〜ってことよ。
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獏迦瀬: |
たしかに…。そこには後から「みなし」てど〜こうではなくて、リアルな心的体験がある、というような話でしたね。 |
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伊丹堂: |
リアルな心的体験があるなら、「後から」でもいいんじゃ。たまたま同じ号に野原燐さんの「わたしたちは忘却を達成した」という日本の戦争責任に関する重厚な論考が掲載されとるが、その中に「反省とは何か?」という項目があるじゃろ(この論文は現在、野原さんのウェブ「松下昇への接近」で読めます)。
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獏迦瀬: |
ああ…ここですね。「反省とは何か? ある外側の価値基準や物語に合わせて自分を裁くことではないはずだ。自分のしたことを「した」ということの困難に、まず気づくこと。苦しくてたまらなくなる心を回復すること。<亡霊>そのものが、リアルに立ち現れる不可能な体験。」…というところです。 |
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伊丹堂: |
それこそ本人が内側から感ずるリアリティの問題じゃろ。彼は「実存」ってことがよく分かっとる。
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獏迦瀬: |
はぁ…なんかエラそ〜ですね(笑)。この箇所は、ひるます氏が「サカキバラ供述書について」の中で、「良心」について語ったとこを思い出させます。つまり「人格の中心にわき起こってきて、自分の在り方を決定づけてしまう何か」ということです。 |
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伊丹堂: |
すなわち倫理とか反省とか責任ということは、単に理屈でそう考えたということではなくて、自分の内側からやってくるリアルによって初めて可能になるってことじゃ。いやおうもなく到来するもの、それがリアルってことじゃな。 |
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獏迦瀬: |
いやおうなく…ですか。そういえば村田氏もこの書評の中で柄谷さんの考えを引きつつ「そうするしかない」ということをおっしゃってますが…。我々はいいことをしようが悪いことをしようが、実は「何らかの自然的・社会的諸原因に規定されていて、いわば「そうするしかない」のです」というわけですね。でもこれは…。
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伊丹堂: |
そりゃ全然違う意味じゃな。いつも言っとるように、「倫理」とは「そうしなくてもいいにもかかわらず」そうする、というカタチを取るわけで、ここで「いやおうなく」リアルが到来すると言っても、そこにはワシらが「そうしなくてもいい」という余地が必ずあるわけじゃ。
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獏迦瀬: |
たしかに実際問題として僕らが何かする場合に「自然的・社会的諸原因に規定されてそうするしかない」なんてことはないワケで…。
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伊丹堂: |
あたりまえじゃ、キミにも意志ってものはあるじゃろ。柄谷の言ってるのは、内側から感ずるリアルのことではなくて、ようするに「外側から観察してみれば、人間の行為は自然的・社会的な因果関係によって記述できる」ということにすぎないじゃろ。 |
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獏迦瀬: |
いわゆる「構造的認識」の次元ですか…。たしかにそれは「記述」であり「認識」でしかないわけですよね。
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伊丹堂: |
そういう記述にすぎないものを「現実」と受けとる、というよりそもそもその以前にそのような記述がいわば「超越的な観点から」可能だと思い込むのが、唯物論の誤謬ってものよ。 |
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獏迦瀬: |
「構造的認識」も一種の「虚構」でしかないってことですよね。
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伊丹堂: |
その「虚構」が単なるひとりよがりにならんように、合意形成するための「すりあわせ」の典型が「裁判」ってことじゃな。裁判が単なる「責任のなすりつけあい」ではないってことは前にも言ったことじゃ。 |
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獏迦瀬: |
でしたね。ようするに構造的な因果系列と自由意志による行為の系列というのはスパっと二元論的に分けられるわけじゃないと…。
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伊丹堂: |
構造的認識ってのは、ようするにヨリドコロの一つなんじゃね。なんらかの構造的認識は必要じゃろうが、そんなにメイカクな構造的認識なんてものがなくとも、ワシらには「いやおうなきリアル」というのが到来するときもあし、どんなにメイカクな構造的認識を突きつけられてもなんのリアルも到来しないって場合もある。
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獏迦瀬: |
それは何度も話題にしてる人格障害の問題ですか…っていうか、話が脱線しました(笑)。
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伊丹堂: |
話を戻すと、いずれにしもカンジンなのは、実存的―内的な体験として、いやおうなくリアルが到来するってことと、もう一つは「にもかかわらず」、ワシらは「それをしなくてもいい」という選択の余地を常に持っているということなんじゃな。そういう行為は後から振り返って、なぜにそうしなくてはならなかったかと言えば、まさに「そうするしかなかったから」というしかない。その意味でその行為は「循環的」(自己言及的)なのじゃが、しかしそれを主体的に引き受けてそれをなすというコトがなければ、そこに倫理的行為というものもなかったわけじゃな。つまり倫理的行為というものは「循環的=創造的」なものなのじゃ。
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獏迦瀬: |
う〜ん、それは新定義ですか?(笑)科学の発見や芸術の創造もまた「倫理的」であるというのが、ここでのひるます/伊丹堂さんの常々主張するところですが、その定義はそれにも当てはまるんでしょうか。
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伊丹堂: |
ようするにモワ/ズバじゃ(笑)。アインシュタインに相対性理論のアイデアが「到来」した。しかしそれはまだ「モワっ」としたものにすぎないわけじゃろ。それをメイカクなカタチに創り上げるには、アインシュタインが、自ら主体的にそれ(到来したリアルとしてのアイデア)を引き受け、それを表現にまで高めるという倫理的行為を選択せねばならなかったわけじゃ。そして彼は「ズバっ」とそれをやってくれたワケよ。
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獏迦瀬: |
なるほど彼には常に「そうしなくてもいい」という余地がありますね…。
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伊丹堂: |
まぁこれは極めて単純化したモデルの話じゃがね。実際にはなんらかのアイデアによって倫理的―創造的な行為をなした結果、また別のリアルが到来し、それを表現しようとしてまた別なリアルが到来する…なんてことをチマチマ繰り返しながら、発見的な創造がカタチづくられていくわけじゃろ。
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獏迦瀬: |
わはは、それは文章を書いたり作品をつくる人にはよく分かることでしょうね。アチラコチラでチマチマ直しながら…実は、この架空対話自体そうだって話もあります(笑)、あ、また話がそれましたが。
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伊丹堂: |
話がそれてるといったら、そもそも『LaVue』の話じゃったろう。 |
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獏迦瀬: |
そうですが…何か。 |
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伊丹堂: |
ふふ、『LaVue』6号の残りの二本、小杉なんぎさんの「『これが好きだ』ということが大好きだ」と、大北全俊さんの「わたしは、『「懸命に」ゲイに「ならなければならない」』」、これらがまさに「循環的―創造的」な倫理的というか、主体的な行為を描き出してる好例じゃないかね。 |
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獏迦瀬: |
まるで三題噺ですね(笑)。タイトルからして二本ともやたら「」がついてて、すでにして「循環的」というか自己言及的な構造を予想させますが…。小杉さんの「これが好き…」は、ビル・エヴァンスのジャズや高橋源一郎の小説を材料にして、それが「分かる」前から「好きだ」という感情を持ってしまい、それにどっぷり浸る時間や経験を通して、それが「分かる」「本当に好きになる」という瞬間に至る、という体験を描いたエッセイです。たしかにこれは、まず「それが好きだ」という直感(モワ)が到来し、それをヨリドコロにして対象に没入し、「分かる」という事態を創造した倫理的行為と言えますかね、こじつけっぽいですが。 |
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伊丹堂: |
いや、こじつけじゃないぞ(笑)。この人は漫画家でもあるらしいが、身体的というか、カラダでまるごとものを分かろうとするフットワークがすごくイイ感じじゃな。普通の人は直感のモワの時点で「分かった気」になってしまうもんじゃ。 |
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獏迦瀬: |
ひるます氏ですね。マイルスがど〜のなんていい気になって語って、よくツウの人たちに叱られています(笑)。もう一つの大北さんのは一種のカムアウト宣言でしょうか。これも「ゲイであること」が到来し、それを引き受けて主体的に決断して「ゲイになること」が語られてると読めるわけですね…。「ゲイである」というのはスタティックな状態なのではなくて、常にその時々の決断(「誰のせいにも出来ない」こと)であるというような意味が、この「懸命に(命ガケで)ゲイにならなければならない」という所に込められてると思うんですが。
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伊丹堂: |
まさに人のせいにしないという倫理的生き方が描かれてるわけじゃが、これは実はゲイかど〜かとは関係ない、というか、それを超えたある種の「道」を示していることになるんじゃないかの。 |
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獏迦瀬: |
と、いうと…? |
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伊丹堂: |
つまりここで彼は「結婚」とか「子孫を残す」というような自然の摂理なるもの、ワシ的に言えば「世間的秩序」じゃが、そういったものを否定するものとして「ゲイ」を捉えとるわけじゃろ。しかし、別にゲイ(同性愛者)でなくても、そういった自然の摂理に反する「倫理的」生き方をする人はいる。たとえば恋愛ってものがダイジであって、結婚は相手や自分を縛るものでしかない、というような考えの異性愛者な。逆にゲイであっても、結婚を認めよとか財産相続を認めよといった「社会運動」をすることで、ゲイであることを「世間的秩序」にしようという連中もいるわけじゃ。 |
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獏迦瀬: |
なるほど…まあボクもゲイということに殊更に偏見はない方だと思うんで、たしかに、ここから「ゲイ」という言葉をとっても成り立つとは思いますね。 |
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伊丹堂: |
じゃろ。「命懸けでゲイになる」ということは、ゲイ(同性愛者)かど〜かということよりも、ようするにそれそれのセクシュアリティにおいて、まったく孤立した?実存としての生き方の探求するってことでもあるわけじゃ。 |
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獏迦瀬: |
でも孤立した同性愛者ってのもヘンな言い方ですがね。相手がなきゃ成り立たないことでしょうから。
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伊丹堂: |
ふふ、まったく恋愛ってことが分かっとらんな(笑)。ま、ここでは相手を拘束しないとか、世間的な安定や子孫の維持などという「世間的摂理」からの「脱」という程度の意味じゃがな。そこでこそ互いに孤立しつつ、相手を尊重する恋愛のカタチってものがあるわけじゃろ。 |
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獏迦瀬: |
はぁ…もちろん言わんとするコトは分かってるつもりです。ボクだって「恋」したことはありますからね。あれこそ突如として到来するナニかなのです。
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伊丹堂: |
似合わんなぁ…。ま、いずれにしても、ワシとしては「ゲイ」というところに拘るよりも、相手がオトコか女かに関わらず「個」として相対できるような、創造的な恋愛ってコトがダイジだと思うわけよ。 |
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獏迦瀬: |
若いっすね…。
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伊丹堂: |
馬鹿者。歳は関係ないのじゃ。つまらん決まり文句じゃがな(笑)。しかし恋愛については太古の昔からそ〜いうことになっとるんじゃから、しょうがないわな。キミこそ若いんだから、しっかりせいよ。 |
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獏迦瀬: |
精進します…。
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