prev. | No.64 01.7.7 | next

「人格障害者たちの語らい」号


■CONTENTS
今年も半分過ぎたのね〜(中沢新一『フィロソフィア・ヤポニカ』を読む)

■今年も半分過ぎたのね〜(01.7.2)

獏迦瀬: なんスカこのタイトル。暑さでバテバテなんでしょうか。
伊丹堂: かなり仕事やら宿題が山積みになって困っとるらしいの。
獏迦瀬: ひるます氏ですか。あの人はギリギリにならないと始めませんからね。自業自得です。伊丹堂さんの方は夏バテも関係ないみたいっすね。
伊丹堂: まだバテるには早いじゃろ。しかしそもそも、ワシは老人じゃから暑さなんかヘーキじゃがな。なんといっても体温が低い(笑)。
獏迦瀬: 冷血動物ですね。そういえば珠緒さんが伊丹堂さんは田辺元に似てるって言ってました。
伊丹堂: なんじゃそれ。
獏迦瀬: いやホラ、例の中沢本(『フィロソフィア・ヤポニカ』)ですよ。あの中で西田幾多郎が、田辺を評して冷血人間みたいに言ってる、というところがあるのです。
伊丹堂: ああ、あそこは中沢本でゆいいつ面白いとこじゃったね。
獏迦瀬: やめて下さいよ、その強調タグ…。それはともかく、あそこで中沢氏が言ってるのは、哲学というより、人間の心理的なパターンっていうんですか?その理解の仕方として面白いと思いましたね。あんまり真に受けると人間には2種類いる…つてことになっちゃうと思うんですが。
伊丹堂: ま、ああいう話はひるますのいわゆる「フェイクな理屈」として聞いとけばいいわけじゃがな。
獏迦瀬: ではフェイクな理屈と断った上で紹介しておくと、中沢氏が言うのは、西田は家族を失った悲哀というんでしょうか、それに象徴されるような「情感」といったものが人格の中心にあるけれど、田辺にはそういうものがない。田辺は生涯独身だったことに象徴されるように、家族の情というものに共感を示すというところがなくて、そこが西田からみると「情のない人」に見える、ということですね。
伊丹堂: しかし、にもかかわらず中沢氏は、西田の哲学は「欲望の哲学」であり、田辺の哲学はむしろ「愛の哲学」だという、いっけん逆の結論を導き出すわけじゃな。
獏迦瀬: そこが卓見というか、まさに「発見」というとこだと思いますね。つまり家族間に作用する情動のごときものは、実は「愛」ではなく、欲望から、つまりは「欠如」から発するものだということですね。これは家族を形成するのは「愛」ではなくて「文化」だという伊丹堂さんの考えともある意味で一致すると思いますが。
伊丹堂: ていうか、精神分析的に、ラカン的に言えば、それは当たり前のことじゃろ。「欲望の哲学」という言い方が象徴的じゃと思うけど、根源的な欠如の感覚から発する神経症的な精神のあり方、つまり「欲望」として世界に関わるあり方ってのは、ようするにラカン的に言えば「普通の人」ってことじゃろ。つまり西田自身、きわめて「普通の人」じゃったし、その哲学は「普通の人の精神のあり様」を徹底して描き出すもの、でしかなかったってことじゃな。
獏迦瀬: 西田は「普通の人」ですか…。では田辺はなんなんでしょう。
伊丹堂: 人格障害者じゃな。
獏迦瀬: うげっ…なんスカそれっ!
伊丹堂: がはは、あくまで「理屈から言ってみた」だけじゃ(笑)。つまり「欠如がない」わけじゃろ。したがって欲望=葛藤が生じない。これぞ人格障害について唯一理論的になされた斎藤環的定義よ(「少年A供述書を読む」参照)。
獏迦瀬: たしかに中沢氏も、田辺のあり方というのはライプニッツの言うモナド(単子)、つまり「窓のない」完結した存在、のごときものだと言ってます。まさに「欠如」がないわけですが…。しかし「人格障害」と言うとあまりに極端な表現です。
伊丹堂: もちろん人格障害って言ってもイコール犯罪者とか殺人鬼って意味ではないよ(笑)。たとえば悲惨な状況にいる人に対して、かならずしも「同情」しないわけではないが、そういう人に応接したバアイに、その悲惨さに自分の心の中の欠如が刺激され共感が沸き起こり、思わず泣いてしまうとか、その相手を抱きしめてしまうとか、そういった意味での共感的な感情が起きない、という程度のことじゃな。それを欠如のある「普通の人」から見ると、きわめて非情・冷酷な人に見えてしまう、ということじゃろ。
獏迦瀬: 西田からはそう見えたわけですね…。しかしそう言っちゃうと、その程度の「感情がない人」というのは、ごくごく普通にいると思いますけどね。
伊丹堂: ふふ、この話はあくまで「フェイクな理屈」だということを忘れてはいかんな。あくまで極端な「理念型」においての話じゃ。そもそも中沢氏がどう思おうと勝手じゃが、本当に「欠如のない人間」なんてものがこの世に存在するのかね?
獏迦瀬: そうですね…。欠如のあるなしというよりは、むしろ幸運にも家族の感情的なものに左右されずに生きていられた人ってのが実態かもしれないっすね。子どものころに家族の「愛情」みたいなものに恵まれた人って、そういう人がむしろ多いですよね。
伊丹堂: 第一、斎藤さんの人格障害の定義にしてからが、「あくまで想像上の存在」としてということじゃ。欠如が本当になかったら(そんなことは調べようもないんじゃが)おそらくそれは「人間」ではないんじゃろう。しかし何故にか「欠如」というものに左右されない実存というものがあって、それを人格障害と呼ぶという定義でしかないわけじゃな。これは精神障害者が必ずしも犯罪者になるわけではないのと同じで(笑)、人格障害者が必ずしも極悪非道の人ではないということでもあるわな。
獏迦瀬: ナルホドね…。「欠如」に左右されなくなるのは、結果にすぎないってことでもありますよね。愛情に恵まれた場合というより、逆に極端な虐待にさらされた場合に人格障害になるというケースがよく報じられてるわけで…。ただ愛情に恵まれて「欠如」からの自由というか、余裕のある立場を獲得した人にしてはじめてエゴイスティックでない「愛」というのが可能だというのは、理屈的にはよく分かる気がしますね。
伊丹堂: しかしそれが「愛」の哲学ってもんかいな? それこそ「幸運にも」田辺が欠如から自由だったということでしかないじゃろ。
獏迦瀬: そうなんですよね…。ところが「愛の哲学」ということからして中沢氏は、家族が崩壊した後の世界における「愛の共同体」なるものを構想したりしてるのですが…なんともオウムちっくではありますね…。
伊丹堂: 別に自由な個体同士の「友愛」みたいな程度の話で済むところじゃがな(笑)。しかし、そこで「愛の共同体」なんて言っちゃうところが、まさに中沢氏が「普通の人」=神経症者であることの証拠じゃな。
獏迦瀬: あわわ(汗)…でもたしかにそうかも…。
伊丹堂: 普通の人としてはよくぞそこまで「発見」したな(笑)という功績は認めてもいいいが、またぞろそれを「神経症化」してしまうのが、中沢という人だと言ってもいい。これはどうしたってしょうがないわけで、普通の人は人格障害者に応対したバアイに、必ず相手の中に「自分と共感しうるナニカ」といったものを「想像」してしまうわけじゃな。ありていに言えば勝手な解釈がおこるわけじゃが、これは普通の人=神経症者には、あまりに当たり前の感覚じゃからして、どうしてもそれをアタマで理解することは難しいわけよ。これは例の少年供述書のところで、立花隆を例にしてさんざん語っておいたことじゃね。
獏迦瀬: なんか最近そこへの言及が多いっスね…。それにしても中沢氏を「普通の人」と言い放つ伊丹堂さん自身はやはり「人格障害者」であって、それゆえに田辺と似てるってことになるんじゃないでしょうか…。
伊丹堂: がはは、それはそうじゃ。しかしそれを言うならその「少年供述書について」のところで、すでにひるます自身「私自身が人格障害者として語る」ということを書いてるわけで、いまさら驚くことではない。
獏迦瀬: ここは「人格障害者の語らい」だったのですね…なんかコワイところに来てしまった気がします(笑)。伊丹堂さんも時々「愛がど〜した」という似つかわしくないことをおっしゃってますが、なんかすべてがウソくさく感じますね(笑)。
伊丹堂: まっキミのような「普通の人」にはとうてい分かりえぬコトよ。中沢氏は田辺のような閉じた個体(つまり人格障害者)が持つ「愛」は、普通の人にはとうてい理解できない「宇宙的な愛」なのだということを書いてるが、これはある意味で正しい(笑)。
獏迦瀬: なんかご都合主義的に使ってるような気もしますが…。その宇宙的な愛というのは、いったいどんなもんなんですか?
伊丹堂: じゃからまさにそれこそ「語りえぬもの」じゃな。語ってしまえば中沢的神経症化になってしまうごときもの、それが「愛」ってものよ。しかしこの語りえぬ「愛」こそが田辺哲学の中心にあると言うならば、まさに田辺哲学は「愛の哲学」といってもいい。しかしそもそも「哲学」ってのは、フィロソフィー、つまり「知への愛」ってことじゃろ。本当の哲学は愛の哲学であり、そうでなければそれは哲学などではないということでもあるわな。
獏迦瀬: なんスカ、いきなり核心めかしてますが、どういうことでしょう。
伊丹堂: いいかね、欠如がないってことはどういうことか?と言えば、それは、欠如によって引き起こされる情動がないってことじゃろ。てことはどういうことか?と言えば、そこにはモチーフがないってことになるわけじゃよ。
獏迦瀬: モチーフがない…たしかに理念型としてのというか想像上の存在としての人格障害者には、なにかを為そうとするときに、それによって欠如を埋めようという意味でのモチーフはないでしょうね…。
伊丹堂: にもかかわらず、たとえば田辺にせよ、それ以外でもいいが本当の哲学者と呼べる人であれば、その人においては、哲学的な知の探求というものが為されるわけじゃな。
獏迦瀬: …あっ!「にもかかわらず、為される」それは伊丹堂的「倫理」の定義ですね。
伊丹堂: ふふ…まさにその通り。倫理的行為がなされるのはそこに「愛」があるからとも言えるが、しかしその「愛」とは、なんらかの「理由」から発するごときモチーフなき愛なのであって、そこで「愛がある」と語ってもなんら意味内容はないわけよ。ワシらが「倫理」を語る際に、徹底してモチーフ問題を排除して、単に「倫理とは、〜しなくてもいいにもかかわらず、為される」という定式として語ることの意味がそこにある。
獏迦瀬: なるほど、それが愛とは語りえぬものという意味ですか…。ようするに「倫理」のウラハラというか背後に常にあるもの、とも言えますよね。
伊丹堂: けっして主題化されぬものとしてある、というかね。
獏迦瀬: …そうすると、「愛の哲学」というのは、愛が主題化できないというなら、結局「倫理」学ということになるんじゃないでしょうか…?
伊丹堂: そう、ワシが田辺哲学を語るなら、まさに「倫理についての哲学」として語るわな。つまりアラユル知の営みの根元には「倫理」があるということを徹底して自覚するコト、田辺哲学に「現代的な意義」があるとしたら、それじゃろう。
獏迦瀬: それはまるで伊丹堂さんの言うアラユル「コトの創造」は倫理的であるってヤツですね…我田引水っぽいですが、田辺自身がそんなこと語ってるのですか?
伊丹堂: まぁ田辺は「弁証法」を徹底するという言い方をするのじゃが、それは結局は終わり(絶対的な超越的観点の獲得っつ〜か?)がないものであり、そういう意味では「他者への永続的な配慮」としてワシらの言う倫理と同じコトなんじゃな。しかも彼は「実践的弁証法」という言い方であるが、その都度の決断としてしかコトが語りえぬということも捉えている。そこらへん主題的に語ったものとしては「倫理と論理」って論文がある。
獏迦瀬: う〜ん、そういえば中沢氏も田辺と西田の違いというところで、田辺が徹底して自分の哲学における「知の技法」という側面を自覚していたと言ってましたね。自らの知を自覚する在り方、それがイロニーというものだ、という話でしたが。
伊丹堂: ふふ、その程度でお茶を濁すからダメなのよ。オウムに利用された自分の宗教にどっぷり浸かった論文もひとつのイロニーなんだって言いたいんじゃろ、真に受けるヤツが悪いとどっかで言っておったな。
獏迦瀬: それは…(汗々)。でもたしかにイロニーという言い方では、倫理的なファクターがまったく語られてません。
伊丹堂: それ以上に問題がある。全体としてイロニーなんだ、と言ってしまえば、細目におけるコトの創造の(つまり叙述の)倫理性が失われてしまう、ということじゃ。
獏迦瀬: というと…。
伊丹堂: ようするに田辺が徹底して批判してやまなかった「発出論」そのものになってしまうワケよ。
獏迦瀬: 発出論的弁証法ですか。つまり、原初に根源的な存在みたいなものがあって、それがなぜか自己否定を起こして、さらにその否定を総合してまた否定して…というような「自己運動」を繰り返しながら、どんどん具体的・普遍的になっていって、最終的には「国家」とか「絶対精神」に至るっていうアレですか。
伊丹堂: そ。そのプロセスは論者によってさまざまじゃろうが、共通してるのは、一貫してその「運動」なるものが自動的に展開されて、それを論者はある種、絶対的な視点から鳥瞰しつつ、記述するというスタイルをとるってことじゃな。つまり神の視点からの物語として叙述が進むわけで、その都度その都度の叙述には、その人の人格的な関与も倫理も責任も自覚もなくなってしまうってことよ。
獏迦瀬: 中沢氏も田辺を引きつつ発出論は批判していましたが、…たしかに、いま考えてみると、中沢氏の記述自体、まさに「発出論」そのものですね。国家とか類とかいう話でも、あたかも「種」が否定されて自動的にそれが成り立つがごとき書き方で、なんか暢気な感じはしました。
伊丹堂: じゃろ。個体としての倫理性をそれこそ「媒介」することなしに、現代の国家や公共性を語るということは不可能じゃと思うが、中沢氏はそれこそ全編にわたって、そのような倫理性を忌避しつつ、田辺を語ろうとしているワケよ。
獏迦瀬: 個体と言えば、中沢氏が「個体の発生」について語ってるところはぶっ飛びました。個体が発生する過程における「原腸形成」ですか、それについての語りですけど、「まことに偉大なことである」なんてコトホギしちゃってますが、まるでどっかの宗教家そのものの語りですよね。
伊丹堂: お笑い個体発生論じゃな。
獏迦瀬: う〜ん、とすると結論的に言って、中沢氏の語る田辺論ってのは、肝心カナメの田辺哲学の可能性の中心みたいなものを取り逃がしてるのではないでしょうか?
伊丹堂: ま、田辺哲学というものに寄り添って語るならそういう言い方もできるが、しかしそもそも田辺哲学なんて、そんな驚くほど「現代的だ」なんてもんじゃなかろう。ワシに言わせりゃ「種の論理」なんて、ほとんどマイケル・ポランニー=栗慎の「層の理論」と同じ、というかそれに包摂されてしまうものよ。むしろそれを現代的に分かる言葉として語れてないってことでは、一歩も二歩も突っ込みが足らんと言ってもいい。
獏迦瀬: そう言っちゃミもフタもないでしょ。それ自体、ひとつの論文になるテーマなんじゃないでスカ。
伊丹堂: そんなめんどくさい話は、ひるますに任すよ(笑)。

●ひるますの単行本『オムレット〜心のカガクを探検する』
 http://www.bekkoame.ne.jp/~hirumas/COMIC/digicomi15.html

 発行者:ひるます  (C) HIRUMAS 2001
 ご意見・ご感想等:info@hirumas.com
 登録の変更・解除:http://www.bekkoame.ne.jp/~hirumas/
 配信:Pubzine http://www.pubzine.com/
    melma! http://www.melma.com/
バックナンバー一覧にもどるトップページ(最新情報)にもどる
感想・ご意見をお知らせください。 info@hirumas.com