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獏迦瀬: |
山内志朗さんの『ぎりぎり合格への論文マニュアル』(平凡社新書)って本が出てますが…。 |
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珠緒: |
私もちょっと読んだけど、これケッサクよね。 |
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獏迦瀬: |
山内さんというと『天使の記号学』(岩波)の著者で、中世哲学から現代の問題を読み解くというような現代思想っぽい方かと思ってたら、今回のはタイトルからして意外ですが、なんとも文体が土屋賢二顔負けの痛快爆笑エッセイ(笑)。しかもナカミが「実用」に徹した論文作成マニュアルってんですから、スゴイものです。 |
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珠緒: |
そうね、私はすぐ論文書かなきゃないってわけでもないんで、逐一マニュアル的には読んでないんだけど、なんか卒論書かなきゃ〜ってプレッシャーがすっ〜と消えちゃったわ。 |
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獏迦瀬: |
ですよね。プレッシャーが消えた分、落ち着いて研究とか読書が出来る〜って感じです。ついつい調子にのってプレステしてしまいそうですが(笑)。ところでこの本の中でこのサイトでの話と密接に繋がるのが、なんといっても「問題意識はハビトゥスなのである」ってとこですよね。 |
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珠緒: |
そうそう、論文書くには「問題意識」ってものが必要だけど、どうしたら物事に対する問題意識というのを持つことが出来るか?、それはハビトゥスなのだって話ね。ハビトゥスってのは簡単にいえば習慣だけど、ようするに「癖」ってことよね。池田晶子さんが「哲学は癖なのだ」という意味で。 |
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獏迦瀬: |
あとここでは大江健三郎さんの『人生の習慣』からの引用(大江さん自身はハビットって言ってますが)や、フーコー、ロールズなんかを経てハビトゥスという言葉を使うようになりましたね。伊丹堂さんの「倫理対話」でも触れられてるように、「人はなぜに倫理的行為をなしうるか?」を説明する概念として使っているわけですね。 |
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珠緒: |
なんでも「習慣」っていっちゃったら一見説明にならないみたいだけど、そこがこのハビトゥスという概念の面白いトコね。ちょうどその池田さんの「癖」が問題になったときに、ひるます氏が「哲学は病気だって言っても意味ないけど、哲学は癖だって言うと、そこには意味内容がある」とか言って「癖」概念の可能性を買ってたことがあったけど、ハビトゥスの哲学ってのは、まさにそれを突きつめて展開して見せてくれたって感じね。 |
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獏迦瀬: |
そうっすね。詳しくは『天使の記号学』をご覧くださいってことなんですが。 |
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珠緒: |
と、『論文マニュアル』で山内さんも宣伝してるけど、『天使〜』はぜひ読んでほしいわね。ハビトゥス以外にも媒体性とか身体図式とかいろいろとモノを考える上で手がかりになる考え方がいっぱい入ってるし、なんと言っても『オムレット』と繋がるところが多いしね(笑)。 |
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獏迦瀬: |
それは…(汗)。ところでハビトゥスという概念の画期的なところは、やはり意思とか欲望といった「主体」を中心にした思考から自由になれるというところでしょうか。 |
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珠緒: |
倫理の問題でもそういうことよね。善を求める意識とか欲望という動機から倫理的な行為を説明しようとすると、なぜそうしなくてもいいにも関わらずそれをなすということが説明できない。説明できないというより、そういう倫理にとってのカンジンなポイントが取り逃がされちゃうってことよね。 |
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獏迦瀬: |
倫理から離れても一般的な人間の認知・行動科学のレベルで考えても、ある意志とか意図がまずあって、しかる後にそれによって行為が引き起こされるっていう主体―行為の図式という問題がありますよね。ここらへんは『オムレット』第3章でそれこそ珠緒さんが展開したトコですが。 |
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珠緒: |
ヒラメキ!ってやつね(笑)。そこらへん山内さんは「中動相的事態」といってるわよね。つまり主体が(意志によって)能動的になにかをするのでもなく、でも自分の意志ならざる何かによって受動的にさせられるわけでもないってことよね。たとえば喜び悲しみは喜ぼうと思ってよろこぶわけではなくて、自ずと沸き起こってくる。その自ずと沸き起こることが他ならない「自分の」喜びであることの徴表になっている…というような言い方をしてるわよね。 |
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獏迦瀬: |
伊丹堂さんが「倫理対話」で「リアルの到来」ってことを言ってましたが、同じことですかね。『オムレット』でも「リアルは欲望に先立つ」というところがありましたが(106頁)、欲望が先にあるというとまず欲望の主体と対象が確定してある、という感じになっちゃいますが、そうではないわけですよね。山内さんはそのあたり「人間の欲望は欲望への欲望という形式をとる」という言い方をしてます。 |
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珠緒: |
ようするに「欲望の主体―対象」という図式自体が「ハビトゥス」によってカタチづくられた「結果」として、いま・ここにあるのであって、「欲望から」それを説明することはできない…ってことになるわね。そこらへんの逆転の発想が「ハビトゥス論」の面白いところだと思うけどね。 |
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獏迦瀬: |
ところでハビトゥスをキーワードにしているというところではフランスの社会学者ブルデューがいますね。これもある意味では同じようなところを問題にしていると思うのですが…。
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珠緒: |
ここで前提にしている社会システム論(「世の中」という捉え方)とも共通すると思うけどね。個人という要素が社会を契約して作るのではないけど、社会というものが何か自律的なシステムとしてあるわけでもない。社会的関係の中でそういうものとして錬成された個人が、それぞれに内側からの配慮によって行為する、その連鎖として全体としての社会システムも作動している、というような「見方」よね。その個人の錬成のありようをブルデューは「ハビトゥス」と言ってるわけで、「構造化する構造としてのハビトゥス」というのはそういうことでしょ。っていうかブルデューってちゃんと読んだことないんだけど(笑)。 |
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獏迦瀬: |
わははっボクも最近読み出したとこです。『ピエール・ブルデュー/超領域の人間学』(藤原書店)というだいぶ前の本ですが、来日したときの講演や広松渉・今村仁司さんとのディスカッションなんかが含まれてて非常に読みやすくて面白いですね。
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珠緒: |
そう、どっちにしても、もうちょっと詳しく読まないとね〜。別に論文に書くわけじゃないけど(笑)。とくに文化との関連なんかも重要よね。つまり単に社会システムの説明じゃなくて、人がどのようなハビトゥスで生きるかということは、その人の実存の問題とも関わってくるわけだから(文化と実存の関係についてはこちらに)。このへんが大江健三郎さんの問題提起や山内さんの哲学的解明、伊丹堂さんの倫理論が重なってくるところなわけよね。 |
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獏迦瀬: |
ではこの話題はまたいずれ改めてってことですね。
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