prev. | No.76(02.7.7) | next

美って何なんだ〜?


珠緒: ごぶさた〜…って、あれ?今日は店番誰もいないんですか〜?
肥留間: (本の山の中から)ああ、珠緒さん、おひさしぶり。
珠緒: ええっ?肥留間さんですかっ?!めずらすぃ…。
肥留間: そうかなぁ…。君たちがこの店でしゃべくってる時に、僕はここの本の山の中で探し物をしてたりしたこともあったんだけど。
珠緒: またまた…。でもあり得なくもない…のがコワかったりして。
肥留間: このところはあまり話に来てなかったみたいだけど?
珠緒: なんかみんな忙しかったみたいで…それと、ちょうど政治の話がメインになってたけど、最近は暴露合戦ばっかりでつまらないですからね〜。
肥留間: ふふ、まあ個別の政治状況の話をしてもキリがないしね。そこでせっかく「臨場哲学」などとうたっているんだから、もうちょっと原理的というかラジカルな話題を提供してはどうかと思うが。
珠緒: はあ…たとえば…。
肥留間: まあ『オムレット』では基本的に心とは何かというテーマで科学や哲学を渉猟しながら、けっきょく何やってたかというと「真理」というものを考えてみたわけだ。それが後半から社会の問題になり、その後は伊丹堂が「倫理」や「正義」についての語りを引き受けていったわけだが、ここで何がテーマになってたかといえば「善」だろう(評論紙「La Vue」掲載の「倫理って何なんだ〜」(7号)および「正義って何なんだ〜」(8号)参照)。「真・善」ときたら次は「美」だというのが哲学的思考の常道だ(笑)。
珠緒: 美とは何か?ですか。…たしかにカントの3批判(純粋理性批判・実践理性批判・判断力批判)もそのまんま「真・善・美」に対応しているわけですよね…。
肥留間: つまりそれはそれぞれ『オムレット1・2・3』に対応するわけだけどね(笑)。
珠緒: そんなのホントに出るんですか(笑)。それはともかくとして、個人的には「美とは何か」ってのは、興味あります。これまでの「真」とか「善(倫理・正義)」の話からして、だいたい察しはつきますが…。
肥留間: ふうん、ではそれをまとめて言ってみたまえよ。
珠緒: はあ、ようするに竹田青嗣流に解釈されたプラトンイデア論ですか、それにもとづいて伊丹堂さんの倫理論・正義論が語られてましたけど…、ようするに人が物事を把握する際の基底的なヨリドコロということでしょうか。美そのものが存在するのではないけど、美という捉え方のヨリドコロがあってはじめて、人は何かを美しいと捉えたり、人と確認しあったりできる…、そういう共通基盤というか。
肥留間: ふふ、美しさは美しさとしか言い様のない、価値概念ってとこかな。まあ伊丹堂も「それ以上問うことのできない根底」だとかは言ってたね。ただ「真・善・美」と並べてみればそこに違いもあるわけで、そういうレベルでは「美とは何か」ということを規定することも可能ではある…ね。
珠緒: 真理や倫理との違いですか…?、簡単に考えれば「感性的」っていうか、感覚的ってことでしょうか。
肥留間: それは単純だね。たとえば美的な行為というのもあるが、必ずしも「感覚」すなわち、五感によって捉えられるものであるわけではない。目に映る姿を美しいと捉えてるわけではない、なんてことがある。あるいは逆に「真」といったものだって、感覚的な事実性に裏付けられていなくては、真と捉えられない。つまり「感覚」というところが必ずしも分岐点というか、メルクマールではなのさ。
珠緒: たしかに…そう考えてみれば「美」ってのは、ようするに「意味」ですよね。ただそうすると「美」の意味は「美」だということになって、やっぱりそれ以上説明できないような気もします。
肥留間: いや、だからそこで、美の特質は?ということを思い巡らせたとき、なぜとっさに「感覚」ということが出てきたのか?ということを逆に考えてみればいいわけさ。
珠緒: 逆に…ああ、つまりそれは美が個別的というか?、ひとそれぞれな感じ方だというところがあるからでしょうか。
肥留間: そういうこと。このまえ「仮面ライダー龍騎」というテレビドラマを見ていたら、ジャーナリストと称する男が「真理は一つだが、正義は一つじゃない」なんてことを言ってたよ。僕らとしては真理とて一つではないのだが…まあそれはおいといて、正義が一つではないなら、さらに美は多様だ、ということになるだろう。
珠緒: ライダー…。でもそうすると、美というのは個人的な価値観の問題ということになるのかしら?
肥留間: 個人的ってことの意味が問題だな。そもそも美というのは、自分なり他人や集団なりのなんらかの「尺度」に照らして後に「美しい」と感じるなどというものではなくて、まさにそれを受け取ったその瞬間に「美」がリアルなものとして到来する、そういうもんだろう。
珠緒: まさに「ヒラメク」わけですよね(笑)。
肥留間: それは感じたその瞬間のリアルさがすべてなのであって、別に「真理」のように検証しなくてはならないってものでもない。森村泰昌さんが美術鑑賞のツボで言ってるように「面白ければ間違っていてもいい」ということだろう。そういう意味でいえば美は「個人的」なものなのだが…。単純な意味で「個人の中で完結するもの」って意味でならそうではない。
珠緒: 個人の価値観っていっても、時代の文化とか歴史とか、その人の環境の中でつくられてくるわけで、単なる個人的なものではもちろんありえないですよね。美はハビトゥスとして到来するっていうことでしょう。
肥留間: そう…ただそれだけだと、個人が美を受け取ってそれで終わりという意味ではそこで完結してしまう。肝心なことは、美がリアルとして到来するものであると同時に、それは我々にとっては「判断」だということなのさ。
珠緒: というと…?
肥留間: 単に美しいと感じるということと、それを美しいと語ること・表明することとの「間」という微妙な問題だな(笑)。
珠緒: それはまた微妙な…。
肥留間: そう、現実的にその「間」を分けられるかどうか、ということを問題にしてるわけではないのさ。ただ僕らが美を感じる、美がリアルとして到来する、そのときに僕らの奥底ではそれを「美しい」と語る、語りが駆動する、それを言いたいわけだ。
珠緒: その語りが「判断」だということになるわけですね…。
肥留間: 判断と言っても、安吾にとっての「意識」が「長い時の流れの中でそんなことを考えてみたこともあった」ってものだというのと同じで、単にちらっと「綺麗だと思った」というレベルから、それを文章にしてみたり、あるいはそこからインスピレーションを得て新たな作品づくりに至る、なんてことのすべてを含んで「判断」といってるわけだ。つまりこれは僕の言う意味での<コトの創造>だよ。
珠緒: リアルの到来とウラハラなものとしてのコトの創造ですか…どこかで聞いたような気もしますが。
肥留間: LaVueの倫理対話で伊丹堂が言っている。倫理的行為においては「良心」とでもいうべきリアリティが人格の中心に到来し、それゆえ我々のコトの創造としての倫理的行為が可能になる…とかなんとか。ここはLaVue読書会でも「分かりにくい」という声があったそうだが(発行人・黒猫房主さんによる)…、つまりリアルが到来することによって行為が起きるのであれば、それは受動的なもの、なにか自動的なものであって、能動的な倫理的行為ではないのでは?ということになるからだろう。しかし倫理に関する伊丹堂の中心点は「そうしなくてもいい、にもかかわらず、そうする」という実存の問題なわけで、「分からない」という人はそこを取り逃がしているのだ。
珠緒: …つまり「リアル」というのは「そうしなくてもいいもの」として到来している、ってことですか。
肥留間: 当たり前じゃ、と伊丹堂なら言うところだ(笑)。人間が機械ではないことの意味がそこにある。「そうせざるを得なかった」なんていうのは、言ってみれば「後からの語り」なんであって、どんなにリアルに圧倒されたとしても、そこには「そうしなくてもいい」余地が必ずある。そこで美に話をもどせば、美というものは倫理問題以上に「受動的なもの」として考えられやすい。そこでこの「判断」という側面を強調しておきたいわけだ。
珠緒: なるほどね…それで美を感じることは同時にそれを語る「コトの創造」でもあると…。あ、そうすると、コトの創造ってのは、他者を配慮した文脈の中での語りとか行為だから…。
肥留間: そういう意味で個人では完結しない、と言ったわけだな。
珠緒: その話でしたね(笑)。個人では完結しない、というか、厳密には「完結してもいい、にもかかわらず」人は語り出す…。
肥留間: そ、美人コンテストの発生問題ってのがそこにある。
珠緒: は?
肥留間: あれは「美人」を決定するのが目的なのではなくて、ようするにそれぞれが自分の価値観を表明して、それを「どちらがヨリ普遍的なのか?」を競い合ったり摺り合わせたりする行為なわけだね(笑)。
珠緒: オヤジくさ…。でも芸術家が作品の創造に本気でとりくんでるなんてのは、そうしなくてもいいにもかかわらずって意味で「倫理的」ですよね。結局それは「普遍的なもの」を求めているってことなんでしょうか。
肥留間: 美が「判断」である以上、それは「普遍性」を求めざるを得ないのだ。
珠緒: その場合の「普遍性」ってのは、絶対的な美とは違うと思いますが、どういったらいいんでしょう?
肥留間: 「普遍性」というのは、ようするにそのコトガラが、なんらかの「他者において」も、同様な判断が成り立つ、あるいは同様なリアルが到来する可能性を備えるに至るまで洗練されている、ということを指すわけだ。コトの創造が「他者性を配慮する」というのは、そういう可能性をめがけるということなのであって、それ以外のことではないのだ。
珠緒: あ、他者への配慮ってのはそういうことなんですか。倫理とか美の問題で、それを「他者の承認」を得たいという欲望によって説明する議論がありますけど、それとはちょっと違うわけですよね…。
肥留間: あれはベタな議論だね。他者の承認というのは宮台真司とか柳美里とかが言い出したんじゃないかと思うが、そういう承認によって自分の確信や尊厳が保たれる、そういうことを目的にして人は生きるってわけだ。ま、たしかにそういう風に生きる人もいるだろうし、そう言われればそうかもって意味では思い当たるところもある(笑)。しかし、それだけでは単なる心理的事実の記述?にすぎないだろう。
珠緒: まあたとえば人を救うために命を犠牲にした人がいて、それを後から他の人が「自分が認められたいからやったんだ」なんて言ったとしたら、大きなお世話って感じではありますね。
肥留間: ようするに心理的事実の勘ぐりはどうでもいいわけで、伊丹堂が「倫理」を語るときに「そうしなくてもいいにもかかわらず、そうする」というカタチのみを問題にして、動機に関する議論を排除したことの意味はそこにある。実際にその人の行為が「本当の意味で倫理的な動機から出ているか」なんてことは検証不可能だからね。結局、倫理は本人がしなくてもいいのにするという「決断」によってなす、本人にとってのフィクショナルな「意味」でしかないのだ。逆にいえば、自分が認められたいから「いいこと」をした人がいたとして、倫理的にはそれでいいのか?ってことだな。
珠緒: たしかに…。そういえば伊丹堂さんのいう倫理はむしろ身近な人や世の中の人といった「他者」を「否定」するような否定の運動であるというとことでしたね。
肥留間: 結果として「否定」してしまう、というところがミソだ。ようするにコトの創造ということが、まずあるのであって、そのコトの創造がウラハラに他者=文脈を立ち上げる、とでもいう構成になっているわけだ。逆にいえば「他者の承認」という議論では、はじめから他者と自分というものが実体として前提されてしまうところがダメなのさ。すでに確固として存在している他者と自分との関係性の遊技というか物語になってしまうわけだな。そうではなく、キミが『オムレット』第3章でいってるように「自分は後からついてくる」わけだろ。
珠緒: ヒラメキを語った結果としてカタチづくられてくる、わけですね。
肥留間: だから、それは他者も自分もいい意味で「裏切る」可能性を常にもっているわけだ。
珠緒: 美についていえば「裏切り」のない作品なんてつまらない、ともいえますね。でもそういう作品しか「普遍的な美」を持つことはできないというのも皮肉な感じですね。
肥留間: いや、それもある意味で当たり前で…(笑)。ただ基本的に普遍性の獲得というのはあくまで結果論で、他人に承認されたくてつくろうが他人を裏切ろうとしてつくろうが、そんなことには関係なく、獲得できるものは獲得できるし、できないものはできないっていう、厳しい現実でしかないことは言っておく必要がある。ようするに優れた美術作品というものは、作者にとってすら「贈り物」として到来するのであって、まさに「創造」とはそういうことなわけだ。
珠緒: 贈り物…ね、森村さんもそんなことを言ってたわね…。「では人はなぜ美を求めるのか(そうしなくていいにもかかわらず)?」を聞こうと思ってましたが、そこに答えがあるわけですね。
肥留間: 動機はどうでもいい、というか関係ないと言ったところだから、おおかたの心理的事実としてはそんなものだろう、と言っておこう。美の創造がコトの創造として普遍性をめがける、ということは、その都度「他者においても」同様なコトの創造が成り立つことが想定されつつコトが創造されるということだ、ってのは前に言ったが、ほとんどの作家というものは、誰か他人にそれを見せて承認されて初めてそれが他人においても妥当するのだと知るのではなくて、制作のまさにその最中にそれが妥当する・普遍的なものであるというコトが彼に到来するわけだろう。「ああっこれだッ」って感じで。これがラカンのいう「黄金数の出現」ってことだろ。
珠緒: あははっ、出た。ラカンを日本一分かりやすく説明してるのはひるますだという噂ですよ(『オムレット』第4章参照)。冗談はおいといて、それが贈り物ってことなわけですね。それにくらべればたしかに、実際に人から評価されるってことは、それほどのヨロコビじゃないのかもしれません。
肥留間: まあ実際の評価や承認を気にしないってのも困ったものなのだが、ひとりよがりって意味でね。しかし、アラユル美の追求は普遍性(黄金数)とひとりよがりとのせめぎあいで、どんなに高い評価の芸術も、実はそのスレスレのあわひを漂うはかないものでしかないのかもしれない。
珠緒: にもかかわらず、美を求めるのが芸術家ですか。世間的には困った人ってイメージになっちゃうと思いますけど。
肥留間: そういう芸術家や予備軍も世の中には必要なのだが…。ただそういう美の追求というのは、美をある種、超越的な、この世のものならぬ?、日常を越えて辿り着く何か、みたいなものとイメージしているわけだけど、今の時代は、美ってものをもっと日常的な、ごく普通に生活に密着したものとして考える必要がある。
珠緒: 美の日常化っていうか?
肥留間: むしろ日常の美化だな。生活にこまごまとした「美しいモノ」をとりいれようということは、まあ経済的な豊かさもあってそこそこに普及していると思うんだが、僕の言うのは、人間としての態度とか人と人との関わり方の中に、もっと「美」ということを意識するようになればいい、ということだ。
珠緒: マナーとか…。
肥留間: それも含めてね。マナーというと禁煙とかの、ルールを守ってればいいという話になりそうだが、それだけではなくて、いろいろな場面で「良いか悪いか」ではなくて、「美しいかどうか」を意識して行動した方がいいってことがあるような気がするね。というのも、実は人が生活とか人格をつくり出していく上で、大きな位置を占めているのは「真」でも「善」でもなくて「美」だからだってことだよ。
珠緒: たしかに真実のためとか、正義のため、に人が生きていくわけではないですよね(笑)。
肥留間: それと倫理的行為をなしうるのは、それがハビトゥスになっているからだと伊丹堂が言っていたが、そのようなハビトゥスを形成しようとすることが、そもそも自分にとっての「美」意識にかなうからだろう。
珠緒: オトコの美学ってやつ〜?
肥留間: 矜持ってことだね、男か女かは関係ないので(笑)。フーコーが「主体の様式化」ということを言う時に「倫理的−美学的様式化」という言い方をしているのが、まさに的をいているのだ。
珠緒: 人格のまとまりをつくりだすのが「美」…。
肥留間: まとまりを意識化するヨリドコロが「美」だというのだ。しかしそのことがあまりにないがしろにされてないか?ということを問題にしている。つまり世の中で善とか正義ということの大切さというのは、タテマエとしては語られてきてるわけだけど、美についてはタテマエとしてもあまりに語られていない(笑)。
珠緒: 教育の問題ですよね。美ってことをもっと意識していれば、「人に迷惑をかけなきゃなにしてもいい」とか、ムネオが法的に問題はないから献金してもらって問題ないとか言うのって、単に「それって美しくないじゃん」で済みますからね。
肥留間: 美ということが公準として意識される、というかね。筒井康隆の『美芸公』ってのがそういう世界を描いたSFなんだけどね。まあただ美がダイジと声高に語るのって、実はちっとも美しくないのだ(笑)。
珠緒: あはは、たしかに。日本人の美が廃れてしまったとなげくインテリ白髪おばさんみたいですぅ。
肥留間: 右翼のおじさんもいる。いずれにしても「美」ということを語りながら、実は共同体の回復だとか国家の尊厳といかいう別のコトを目的にしているのがダメなんだね。美を語るなら、もっとそれを普遍性に向けて開いていってもらわないとね。
珠緒: それは正義を公共性に開いていかなくては、というのとある意味で同じですよね。ただそれは原理的にひとりよがりに終わる可能性もあるわけで、なかなかそうはいきませんよね…。
肥留間: それもまた倫理と同じで、これはひとり一人がフォームとして示していく以外ないのさ。美を生活の中で普遍的なものとして開いていくことがレシピとして伝えられてハビトゥスになるまで…。ようするに「文化」にしていくってことだけど。
珠緒: 美の文化ですか…なかなか難しそうですが。
肥留間: まあ人に親切にしたりすることが、良いことではなくて、美しいことだと感じられるような世の中っていうか?、なんかそういうキブンのいいっていうか、まっとうな世の中になればいいなってくらいのコトだよ(笑)。
●ひるますの単行本『オムレット〜心のカガクを探検する』
 http://www.bekkoame.ne.jp/~hirumas/COMIC/digicomi15.html

 発行者:ひるます  (C) HIRUMAS 2002
 ご意見・ご感想等:info@hirumas.com
 登録の変更・解除:http://www.bekkoame.ne.jp/~hirumas/
 配信:Pubzine http://www.pubzine.com/
    melma! http://www.melma.com/
バックナンバー一覧にもどるトップページ(最新情報)にもどる
感想・ご意見をお知らせください。 info@hirumas.com