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平野啓一郎「日蝕」
99.1.29
くやしー。別に芥川賞がくやしいのではない。先にやられたのがくやしいのだ。何を先にやられたかといえば、「薔薇の名前」(エーコ)のパクリを先にやられたのだ。パクリではないと、おっしゃるだろうが、それならそれでかまわない。パクリを責めようというのではないからだ(だってオレだってパクリたかったんだもーん)。 このページに掲載された情報・画像の著作権は、ひるますに帰属します。無断転載・転用・改変は禁止いたします。このページへは直接リンクしないでください。上位のホームページ(トップページ)へお願いします。
「リング・らせん・ループ」イッキ読み
98.3.24
「リング」は怪談として、とても楽しめた。 風呂に入って考えたのだが、この「ループ」世界では、「まったく同じ世界」が再現されている以上、こうやってシャワーを浴びるときにはじけ飛ぶ水滴のひとつひとつの情報が、例のコンピュータの中ではすべて「情報として」存在しているにちがいない。しかも洗い流された汚れや洗剤などが地下道をとおって地中に浸みていくところまで再現されているはずだ。そこから発生した病原菌が何人かの命を奪うなんてことが、とうぜん歴史の中には起こったはずたから。しかもそのひとつぶ、ひとつぶを見てそんなことを考えているオレの意識、のようなものを、このループというコンピューターは同時に何億人ぶんもの「意識」として処理していなくてはならない。とうぜん、そのひとつひとつが歴史や進化になんらかの影響をあたえてくるはずだからだ。というか歴史を作り出す大きなきっかけとなるものでも、その元はといえば、そのようなささいな「意識」のうごきにたどりつくわけだから、コンピューター上で、現実のような「歴史」を再現したいのであれば、そのような、ささいな意識を「すべて」あらかじめコンピューター上に用意しておく必要があるだろう。そうでなければあらかじめ決まり切った「いくつかの枝分かれした歴史」(光栄のゲームみたいなもの)をシミュレートしているだけのことであって、たった一個のRNAから「すべて」が生成した歴史というものにはならないだろう。 そもそも鈴木光司さんにしてからが、この「ループ」を書くに当たり、なんどもなんどもこの原稿を書き直したり、構想を頭の中で練り直したりしているはず。そのような「表現行為」がこのよではごまんと、いや五万どころではなく、無限と思われるほどにしかも「同時に」くりひろげられている。そのような意識を「すべて」再現しうるコンピューターってなんなんだ。 このコンピューター、たった一個のRNAから、この現実とほとんど同じ社会・文化・歴史を持つ世界をつくりだしているからオドロキだが(たとえば日本語という言語、名前の付け方まで「同じ」なんてどーしてそうなるのか)、こんなコンピューターがあったら、当然、人類がどーして誕生したのかとか、邪馬台国はどこにあったとか、キリストはホントにいたのか、などなどきわめて重要なことがわかるはずで、こんな下らないストーリーを読まされるなら、そっちのほうがオレは知りたい。 それに、このループ世界、完全な閉鎖系と考えられているみたいなのだが、どうなのだ。恐竜は巨大隕石の落下によって気候が急激に変化したために絶滅したという説があるが、ループ世界では、いったい誰がどーやってなんの根拠があって、恐竜を絶滅させたのだろうか。気になる。そう考えてみると、地球が完全な閉鎖系として時を刻んできたなんてことはありえないわけで、恐竜における隕石ほどではないとしても、日々刻々変化する宇宙からの影響を、太古の時代の状況をふまえて再現するなんて、できっこない。ウィルス宇宙飛来説というのもある。もちろん、宇宙の彼方から地球の生命系と同種の暗号をもつウイルスが飛来するというのではなく、地球上で発生し、浮遊したウィルスが、太陽黒点の活動による「太陽風」によって地球上に散布されるということなのだろう?が、太陽黒点の活動が不規則であるために、どこにどのように散布されるかということは、完全に現実をシミュレートしえないだろう。それだけでも進化途上のどの時点でどのウイルスが散布されるかということは、それこそ「一回こっきり」の出来事であって、「同じ」歴史が再現するなどということはありえない。そんなことを言うまでもなく、歴史上、重要な活動をするはずだった人が、隕石の落下によって死んだ、などということが、この歴史においてはありえたかもしれない。それをどーやってシミュレートするというのだ! まあ、どーでもいいけど、こういう「アイデア」って、星新一とか、藤子不二夫的なシチュエーションとか文体ならマッチするんだろうが、鈴木光司氏がどんなに巻末に参考文献リストをあげて取り繕おうとしても、リアルに感じられる体のものではない。 さらにもう一言いっておくと、ラストについて、まず「らせん」のラストをリフレインするところでは、完璧にせりふを書き換えている。これは単なる「反則」。またこの後につづく森の中でのラストシーンについて、広告では「いまだかつてなかった感動」などというふうに書いてるが、ようするに「漂流教室」の焼き直しではないか。この2点をとっても許し難い作品だと思うのだが、どーなのだ。 ここで「でぃーぷ・ひるます」の本来なら、「私家版ループ」を書くところだが、そうするまでの「愛着」もかんじられない。やっぱ「リング」でやめときゃよかったのに・・、というところだろうか。 このページに掲載された情報・画像の著作権は、ひるますに帰属します。無断転載・転用・改変は禁止いたします。このページへは直接リンクしないでください。上位のホームページ(トップページ)へお願いします。
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