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Vol.0 

かつてフリーペーパー誌ととして発行した「月刊HIRUMAS」の再録です。

■いわゆるひとつのシンクロニシティ(92.11-93.1) 付:易の研究
フリーペーパー版「HIRUMAS VOL.11 & 12」より

■夢の研究(93.2.22)
フリーペーパー版「HIRUMAS VOL.13」より

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感想・ご意見をお知らせください。 info@hirumas.com (C)HIRUMAS 1996

 

Vol.1

いわゆるひとつのシンクロニシティ

1 入門

 まずはシンクロニシティを語る場合、お約束というほど常に語られる「ユングの患者の事例」というのがあるのだが、それはいかなるものなのか。
「彼(ユング)の治療していたある若い婦人は、決定的な時機に、自分が黄金の神聖甲虫を与えられる夢を見た。彼女がその話をユングにしているときに、神聖甲虫によく似ている黄金虫が、窓ガラスにコンコンとぶつかってきたのである。この偶然の一致がこの女性の心をとらえ、夢の分析がすすんだことをユングは報告しているが、このような例が、心理療法場面ではよく生じる」(河合隼雄「宗教と科学の接点」岩波書店)
 さて、シンクロニシティという言葉は共時性と訳されているのだが、これは偶然に一致する二つの出来事の間の関係を表現しているわけである。つまり二つの出来事のうち、Aが原因でBが結果であるとすれば、その二つの出来事は因果関係(原因と結果)にあると言えるわけだが、これら偶然の一致の出来事の関係は「原因と結果」の関係にはない。偶然の一致などという事を認めない人に言わせれば、因果関係にないどころか、全くなんの関係もない、というところだろう。
 では、因果関係にはないが、なんらかの「意味」がある関係だ、という時のその「意味」とはなんなのだろうか。
 この女性は治療に行き詰まっていたのだが、ユングによるとそれは彼女があまりに合理主義的でありすぎたためにそうなっていて、状況を打開するためには、そのような合理主義的な意識の状態から変化して、本来の(ありのままの)彼女に戻る必要があったという。そんなときに、この「偶然の一致」事件がおこる。それは彼女の「心をとらえ」、この合理主義者を「変身」させてしまった。しかしなぜ彼女がそこまで「変化」するほど強く「心をとらえ」られたのか、ということはよく分からないのである。それは傍からはよく分からないことではあるが、「行き詰まった」状況、「決定的な時機」、と言われているように、当事者にとってはまさに冗談ではすまされないような切実な瞬間としてそれがあったのだろう。とすると「意味のある偶然の一致」の「意味」とは、「その一致を体験する当人にとって「主観的な体験として」現われるような「意味」だ、と言ってもよさそうである。
 という事は次の例でさらにはっきりする。これは偶然の一致の話ではないのだが、「雨降らし男の話」というのがある。ユングか中国研究家から聞いた話だということだが、中国のある地方で旱魃がおこり、「雨降らし男」が呼ばれる。雨降らし男は小屋にこもっていただけだったが、やがて雨が降った、ところがこの雨乞い師は、雨が降ったのは「自分の責任ではない」と言うのだった。つまり「ここでは天から与えられた秩序によって人々が生きていない。したがって『道(タオ)』の状態にはない。自分はここにやってきたので、自分も自然の秩序に反する状態になった。そこで三日間こもって、自分が『道』の状態になるのを待った。すると自然に雨が降ってきた」(河合隼雄「心理療法序説」岩波書店)という。つまり自分が(主体的に働きかけて)雨を降らせたのではなく、自分の状態がタオになったときに、偶然の一致として自然現象もまたタオの状態となり、雨が降ったというわけである。しかし、この地方の人々にとっては雨降らし男を呼んだというのは、明らかに「作為」であるから、彼等にとってはこの事態は「雨降らし男を呼んだから雨が降った」という因果関係によって解釈できる。しかし彼等にとっては雨が降ったという事に意味があるのであって、それが偶然の一致によって生じたかどうかという事は関係のないことである。それが共時的現象として生じているのは当の雨降らし男にとってだけである。そういう意味でここでも共時性とは主体的な現象としてのみ「意味ある」ことなのである。
 ただし先の例とはかなり違っていて、黄金虫の女の場合は共時的な現象が生じる事によって、「主観的な体験として」意味を実感したのであったが、この雨降らし男の場合は逆にタオの修業という主体的な体験の後に共時的な現象が生じたというように、順番が逆であり、雨降らし男はその意味を理解しつつも冷静に感情を押えてそれに向き合っているようである(それが生じたからといって、それに驚く事もないし、意味があると言い張るという事もない。それどころか逆に「雨がふったのは私の責任ではない」などと言って逃げ出す始末である)。この違いとはなんなのか、というと、一つにはこの男は既になんどもそのような現象を体験してきており(それゆえに雨降らし男と呼ばれていたのだった)、その意味というものがよくわかっていて、そしてそれにどういう態度をもって接してゆけばいいのかをわきまえてもいる、というつまりは共時性についての修業が出来ている、というわけなのであろう。
 そしてこのような雨降らし男の姿に共時性に対する「付き合い方」の理想型を見るような思いがするのだが、以下にそれを詳しく見てみよう。
 まずそもそも彼はここに「呼ばれて」来たのであり、最初から事態を受け入れるという態度でいるのである。しかし彼はそういう事態をぼんやりと受け入れているだけではない。「ここ」に来た事によってタオからはずれてしまった自分をまたタオの状態に戻すべく、彼はこもる。これは事態からの逃避ではなく、(その事態がまさに「内面」で起こっている出来事であるがゆえに)その事態への積極的な参入・関与なのである。しかしそれは共時的現象として雨を降らるために努力するという事ではない。それは自分の回復(自分が本来あるべき姿にかえる事)という極めて個人的な問題なのだ。ところでここで個人的な問題とはいっても、その個人とは近代的個人のように、孤立した個人とその外側に無関係に存在している物理的な世界という関係における個人ではない。ここにいる「この私」を通してしか、世界と関わる事ができない以上、世界に関わるとは「この私」に関わるという事でしかありえない、という存在論における個人。つまり個人=世界とでもいった在り方。このような個人という場においてまわりの状況を全面的に受け入れつつ、その中で自己の回復という事、本来の自己に戻る事に積極的に関与していく。その時、自己と世界との間で「意味のある」偶然の一致が生じて来るという事であるように思われる。
 逆に、黄金虫の女の場合は先に偶然の一致が生じ、それをいわば突破口として「主観的体験」としての意味が生じたのだから、いまわざわざ自己回復のための積極的関与なんて事を言わずとも、「偶然の一致のおこるのを待っていればいいのではないか」という意見もあるだろう。しかし、この女性の場合は実はそれに先だつ心理療法の過程で、自己回復への関与という事が準備されつつあった(からこそ、そのような「体験」が生じた)という事もいえる。いずれにしても彼女が自分の主観的な内容に深く関与してるという事が前提となっいる事は間違いない。
 これに対して、主観的な内容への関与がないままに、偶然の一致が起こったとして、それが何か意味を持ちうるのだろうか。というのもいまや単なる偶然の一致というものは以下にみるように頻繁におこっており、また情報として知らされてもいる。すなわち既にめずらしい事ではない。そんな中で単に偶然の一致が「ひとごと」として出会われるならば、どうだろうか。それは予期され、茶番となっているのだ。しかし、早急に結論を出す前に、さまざまな「偶然の一致」というものを吟味してみたい。

2 超常現象

 例えば「偶然の一致」は、「信じがたい偶然の一致」というように、一種の超常現象・怪奇現象であるかの様に紹介されている。
★ジェームス・ディーンが事故を起こした車は何度も事故を起こしてその持ち主を殺してきたとか、★ある事故で死んだ人の数はその事故現場が元墓場で、そこにあった墓の数と一緒だったとか、★リンカーン大統領の暗殺後何年かでケネディが暗殺されたが、その後任の大統領が同じ名前だった他いくつかの共通点があった、あるいは★ノルマンディ上陸作戦の直前に雑誌に掲載されたクロスワードパズルの答えがその上陸作戦の暗号と一致していた、★ある教会で聖歌の練習に全員が遅刻した日、その教会で火事が起ったが全員遅刻したために助かった、★タイタニック号沈没の事件をそっくりそのまま小説にした本が、その事件以前に出版されていた。しかもその小説で沈没するのはタイタン号であった、等々という例がある。
 これらの例で「一致」している出来事の間の関係を検証してみよう。教会の火災の例では、火災というまれな出来事と、全員がいっせいに遅刻するというめったな事ではありえないような偶然とが一致するという非常に分かりやすい例だ。
 これくらいハデな一致であれば、誰でも文句なく「意味のある一致だ」というと頷きそうである。この「一致関係」に意味がありそうに思えるのは、一見して舞台が教会という事もあって「神による救済」という意味が生じているかのように見えるという事があるだろう。しかし神が全員を遅刻させる事によって全員を救ったのだという「奇跡」として解釈するのであれば、それは神の働きかけによって全員が遅刻したという「因果関係」として解釈することになる。またもうちょっと「神学的に」神が奇跡を見せる事によってその存在を世界に示して見せたという解釈もあるだろう。しかしいずれにしてもそのような解釈であれば、原因としての神というものがあるのだから、つまり因果関係で説明がつくのだから、共時性という必要はない、という事になる。もう一歩踏み込んで助かった人々の「信仰の態度」が神になんらかの働きかけをなし、その結果として救済が行なわれた、としてみようか。これは一見、信者から神、神から信者という因果的な連鎖として説明がなされているかの様にみえる。だが信仰という物は信じ「れば」救われる、というたぐいのものではない。つまり功利的なものではない(そういう宗教もあるが)。基本的にはそのような形での救済の行なわれるシステムは不可知である。そこで更にすすめて考えてみると、ここでは実は信者の「信仰の生活」と神の救済との間に因果関係はない、と言えるのである。というふうに考えるとこの「一致」は「信仰の生活」と神との間に生じた共時的現象であると言える。しかし共時的現象であるならば、ひとごととしては(客観的には)その意味はなんら実証出来るものではいのだから、本当にそれが分かるのは「信仰の生活」をした個人でしかない事になる。個人という事を考えてみると、実はこの現象の「不思議さ」というのは、何と全員がそろいもそろって遅刻したという「量」の不思議さだけなのだという事がわかる。というのは、もし個人というレベルで生じる「意味」というものを考えるならば、例えば自分ひとりがその火災の当日、それまで遅刻した事などなかったにもかかわらず、たまたま偶然に寝坊したとする、それだけで(命が助かるほどの重大な体験に対して、それだけで、というのも失礼ではあるが)、十分に「意味のある偶然の一致」と言えるからだ。全員がそろって遅刻するという事は(神様にとっては別として)、個人としての意味体験にとって必要ではないのだ。もちろん一人の人が助かったとしても、それだけではなんのセンセーショナルにもなりえないわけで、いわゆる超常現象としての偶然の一致として取り上げられる事もないだろうが、その個人にとっては、それこそ一生涯忘れる事の出来ない意味のある体験であった事だろう。さてそこでそのような個人的な体験というものがここでも生じているはずなのだが、あまりに分かりやすいまでにハデな「一致」のために、隠されてしまっている。
 さてタイタニックの場合は、何が一致しているのかというと、先に書かれた小説と後に起った事故とが一致しているのであって、いわゆる共時性の定義としての「同時発生」というところから逸れているのではないかと思われるだろうが、小説と事故との間に関係を説明する原理がなければなんなのだ、というわけで単純に解釈してみると、その小説の著者になんらかの予知能力があったという事が考えられる。これは超常現象などに興味のない人でも、論理としては同意できる事だろう(事実としては同意出来なくても)。予知という事であれば、単にその男が未来の出来ごとを盗み見たということなのであって、小説と事故との間に直接関係がある必要はない。しかし考えうる可能性はそればかりではない。予知という事を超能力として考えれば、それはその小説家自身に備わった能力なのである。つまりそこあるのは「一致」ではなく、「当たった」という事なのだから、ここで取り上げる必要もない事になる。ところが例えばその予知がいわゆる「予言」というものだとすると、また話は違ってくる。つまり何者か(神)が、彼にそのようなものを書かせたという解釈になるわけである。そしてこの小説家にそれ以外の「予知」エピソードが伝わっていないなら、こちらの方がより事実に近い。だがその何者かとは何なのか。神だとすれば、それは事の「原因」であり、共時性という事をいう必要はない。神(あるいはそれに類する超越的な何者か)という原因を考えずに解釈してみると(つまり共時性として解釈してみると)、作家の頭の中と、現実の世界で同じような偶然の一致がおこっており、それは「同時」ではなかったが、パラレルなのだ、という解釈である。つまり頭の中で起こった事も、実際に起こったことも、「船の名前、コース、出航時期、処女航海である事等、その他さまざまな要素が偶然に揃った時に偶然の一致として沈没が起きた」という事である。小説の中で沈没が起きたというのはヘンな気もするが、沈没の小説を書こうとした作家の頭の中で、どうしても沈没する船を取り巻く要素はこうでなくちゃいけない、という形で要請されたのだと考えられる。そのような形である一定の条件がひとつのパターンを形成する時、沈没が起きるというわけである。さらに「そのような要素が揃えばまた沈没は起きるかもしれない」というものである。このような考え方はなかなか理解しがたいものだが、「魔術」というものの考え方はかなりこれに近い。ここでそれらの要素は直接に沈没の因果関係における原因となるものはひとつもない。それゆえそこで沈没したのは「偶然」なのだが、魔術においても、魔術において使用される「呪文・呪物」といった物は「因果的な原因」となるような、つまり物理的な作用を引き起こすような力はない(超能力のような念力というものもふくめて)。にもかかわらずそのような呪物が使用されるのは以前にそのような偶然が生じたという事の繰り返し、として行なわれているのである。
 大統領の暗殺に関わる偶然の一致もこのようなパターンの繰り返しとして解釈ができる。というか、この例では「予知」であるとか、神だとか霊だとかそういったものの超自然的な力によるものとしては、どうもうまく解釈ができないように思われる。であるけれども、このようなパターンの繰り返しというような考え方はようするに「非個人的な」ものであり、たとえそれが事実だとしても、どうもなんの役に立ちそうもない。
 後は急ごう。ノルマンディのクロスワードを作った人は偶然ではなくなんらかのテレパシーのようなものがあったという解釈もありうるわけである。しかしタイタニックの作家同様、とくにそのような能力を想定しなくても、純粋にその人の頭の中で、共時的連関を形成する場合はあるわけだ。戦争という外部の危機的状況からなんらかの内的な「集中」が起こり、このような偶然の一致を起こしたのだろうか。しかしこれも結局はその結果に驚いたという事で終わっていて、特別な意味というものはないように思える。最後にジェームス・ディーンと事故現場の墓の数の例は、因縁霊とか、たたりと言ってしまっほうが、しっくりと説明になってのではないか。と言うほどに、この例には意味というものが感じられないわけだ。
 というわけで超常現象としての「偶然の一致」はたしかに規模は大きいけれども、その意味という事を考えれば、後でふれるような日常的な「たわいもない」偶然の一致という事とたいして変わらないのではないかという事ができる。つまり合理的な説明というものはできないのだが、なにか意味があるかもしれない、とは思わせる、しかしながらそれは個人にとっての深い意味というようなものとしては、語られてはいないからだ。しいて言うならば、超常現象としての偶然の一致というものは、「宇宙は壮大なダジャレである」という事を示している、というぐらいの事なのだろう。
 

3 日常現象

 ところで先の「超常現象」の事例は亀和田武氏の司会したあるTV番組(TBS系「金曜テレビの星」)で紹介されたものを記憶をたよりに書いたものなので、記憶違いがあるかもしれないのだが、結論としては変わりようもないので、特に調べない事にする。ところでこの番組では「事例」の合間に何人か有名人が登場して自分の「偶然の一致」体験を語るというコーナーがあったのだが、横尾忠則氏はその中で、シンクロニシティは(正しくもシンクロニシティという表現で)日々、ごく普通の事として起っていて、驚くほどの事ではない、論理に従って生きようとしてもおかしな事になってしまうので、偶然に従って生きている、というような内容の事を語っていた。横尾氏のようなな「ただならぬ」人において初めて偶然の一致が日常的に起るのだろうか。同じ芸術家で赤瀬川源平氏も、日常的に起る偶然については大家で、本を読んでいたら「虫」という漢字のところにちょうど(本物の)虫がとまったとか、お店の棚がなんとなく「倒れそうだな」と思って見たとたんに本当に崩れたとかいう話があったと思う。また椎名誠の場合は執筆中にふと時計をみるとデジタル表示で1:11で、次にふと見ると2:22、次は3:33だったという事をどこかで書いていたが(赤瀬川源平・秋山さと子「異次元が漏れる」朝日レクチャーブックや、椎名誠・沢野ひとし他「発作的座談会」本の雑誌社)、こういう類いの事なら誰でも経験しているだろう。
 例えば★TVを見ながら会話している時に、ある言葉をTVの人とほぼ同時に言ってしまうとか、★ある場所(例えば会社)で話題に出て来た事が、全然関係無い場所(例えば家庭)でまた話題に出るとか、★チケットのナンバーやアパートやホテルの部屋番号が何度も同じだったりするような一致、★なんの気なしに買ったり手に取ったりした本に非常に自分や自分の気にかかっていた事が書かれていたというような一致など、という程度の事であれば、多くの人が体験しているのではないだろうか。それを「特別な現象」と捉えるか、ただの偶発事として捉えるかはさておいて。ともかく、個人的な場面で生じる偶然の一致は、このように「ささいな偶然の一致」を考えてみれば、ほとんど際限なく頻繁に起っているようである。そしてこのような「偶然の一致」は、他人に単なる偶然と言われてしまえば、まさに単なる偶然で、しかも体験する当人自身にとっさえ、たいして意味があるようには感じられてはいない、という点に特徴がある。それゆえに私はこのテの偶然の一致を日常的な現象と呼ぶ。
 しかし「日常的なたあいもない偶然の一致などわざわざ現象などというほどのものではない。そのようなものに囚われるのは気の迷いだ」というように感じる人も当然いるだろう。そのように事実自体に疑問を持つ人というのは、要するに全く日常的に偶然の一致というものを経験していない、という事なのだろうか。今仮に日常的な偶然の一致にも意味はないとしよう。もちろん今挙げた例には実際意味がないようだが、そのような前提の上で、つまり意味があるかないかは「カッコに入れて」、それではあなたは「奇妙な偶然の一致」を体験した事があるかどうかを問うてみよう。するとやはりないと言う人とあると言う人とに分かれる事だろう。このことは何を示しているのか、と考えると結局「偶然の一致は見えないものである」という事を示しているように思われる。
 日常的な偶然の一致は、ささいなものだったが、ささいという事は実は他人に「こうしてこうなった」と伝えやすい、つまり記述しやすい事例だったのだと言える。しかしその例の中でも「偶然手にした本に自分の気にかかっていた事が書かれていた」という例などは、実際にはその気にかかっいた内容にまで踏み込んで記述してもらわないと、他人には理解しがたい。というよりも、先の事例ではとりあえず、このテの事だという概略的な理解ができるように、あえて個人的な要素というものを外しておいたという次第なのであった。しかし「ささいな偶然の一致」の例の多くは実はこのような本の例のように個人的な意識内容(個人史的なディティールといってもいいが)に関わるものが少なくない。このように偶然の一致といっても、人の意識の内容に深く関わってくる偶然の一致というものがあり、それは深くなればなるほど、記述しがたい。というのも深まれば深まるほど、大袈裟に言えばこれまでの全生涯とでもいったものとの絡みとしてしかその意味を表現できないという事になる事もあるだろう。そして「入門」において見たように、そのように自分の内容に深く関わる一致こそが、「意味のある」一致と(その個人において)言い切れるものであった。そしてそれに気付くためには、当然の事として自分の意識内容を把握しているという事が、前提となる。あるいは実際には漠然としていた「気にかかっていた事」が、ある一致の瞬間に「ああ、そういうことだったのか」と気付かれるという場合のほうが多いのだが(私の場合は)、いずれにしても意識内容への注視というものがなければ、この偶然の一致は明らかに見過ごされていただろう。
 例えば時計のデジタル表示の一致なども、会議の時間であるとか、その日の仕事にあまりに密に関係付けられてしまい、1:11であればあと十九分で会議だなとか思うに留まり、その一致を体験したとしてもそれを体験として記憶するということもないかもしれない。
 つまり偶然の一致とは「事実」であるとしてもある特殊な意識によって発見されるものなのであり、通常の客観的事実の様な形で「ある」というものではない。それは主観の関与によって初めて「存在する」なにか、なのだ。そしておそらく日常生活において偶然の一致が生じない人というのは、そういう意味で何かが「見えない」人なのだが、その「見えないもの」は、その場合は「存在もしていない」のである。
 しかし彼らに見えないものは、実は存在もしていない何かである以上、「見えない」からと言ってなんだというのか。
 たしかに日々おこる偶然の一致というのは、たとえ「見えた」ところで、あまりにもたわいない一致であるように思える。しかし偶然の一致というものがどのようなものであれ、ここで見たように「意識内容」との関りにおいて「存在」するものであってみれば、たあいもない偶然の一致と、深く自己に関わる(意味のある)偶然の一致との間には「原理的な切断線」(こっからここまでは意味がないが、こっから先は意味がある、というような線)は存在しない。
 ところでというものは記憶しておこうと思えば思うほど、実際に記憶しておく事が可能になる。通常は夢を見たことさえ覚えていないような状況で、夢を書き付けておくという事を始めると、いきなり「夢を見るようになった」と感じるわけである。どうやら「たあいもない偶然の一致」も、そのような夢とまったく同じ構造を持っているらしい。それに注意しはじめると、いきなり「偶然の一致が起き始めた」と感じるらしい。
 

4 無意識

 さて「日常的な偶然の一致」は、自己の意識内容への注視とは言っても、単に表面的(表層意識的)に起こってくる出来事を受けとっているような段階というものを想定していた。つまりなんら深い精神的な内容と関係したものではなかったのである。それはそうで、「意味のある」というのは、そんな生易しいものではない。
 しかし表面的であるから大して意味がないというのであれば、無意識的な内容への注視によって「意味のある」体験が得られるのではないか、という事はだれでも論理的には思い付くことだろう。たとえば「入門」で見た「黄金虫の女性」の例は、無意識的な内容(夢)と、外界との一致であり、もしその女性が「夢を覚えておく」という事をしていなかったら、その一致はなかったわけである。
 無意識という事でついつい「夢」の例など出してしまったが、それも善し悪しかもしれない。というのも無意識と言ってしまうとあくまでも外の「現実」とは関係ない「心の中」のように考えられやすく、「夢」という例はまさにそのような無意識といったものを連想させやすいからだ。しかし無意識とはそのような「自閉的なもの」ではない。もちろんそのような無意識もあるであろうが。しかし例えば私が誰か他人に関わっている時には「私の意識」が関わっているだけではなくて、私の無意識も同時に関わっているわけである。でなければ(無意識が自閉的で、外側に何の関りも持たないのであれば)私がその人の事を夢に見るはずもない。というように無意識がさまざまな外界に関りを持っているとするならば、無意識もまた意識のようにこの世界をひとつの「構造」として捉えている事になる。そのように見れば、無意識とはこの世界の(意識に見えるのとは全く別の形の)「現実」のことなのだと言える。
 無意識をこのようの意味で「別の現実」として捉えると、なぜそのような「無意識」を見る事が意味のある体験となるのかが、ある程度は分かってくる。前回の入門からずっとお世話になりっぱなしだが、河合隼雄によれば無意識による認知(リアライゼーション)とは「実現」なのである。その意味では「各個人が一瞬一瞬、現実を創造している」(『心理療法序説』)人が意識的な現実において何も実現していないと言うのではない。しかし真に「個人的な」満足感というものの感じられる場所がそのような「無意識の現実」なのだとすれば、例えば自分が現実において成し遂げようとした事(仕事)を成し遂げながら何か満足感をえられないなら、それは自分の無意識的な実現とはどこかでズレていたのだ。無意識というものがまったく個人的なものだというところがミソだろう(ユングはさらに深層に普遍的な元型を想定するが、それすらも、後で見るように「個人的に」しか体験できない)。
 しかしながら、無意識というのは「思い出したくない」から無意識なのであり、あるいは「触れたくない」から無意識なのでもあるのである。したがってそれを見ない事こそ平静な生活であり、むしろ意識はそれを見ないようにしているのではないか、とも言える。もっとはっきり言えば見る事は苦痛なのであり、そんなものを見たばっかりに身も心もズタズタというような状況だってあるわけである。にもかかわらず見たい。というのは「意識における生活」というものだけでは、もはや「生きた」気がしない、と多くの人々が思い始めているからに違いない。
 例えばある人のエッセイで「なんとなくいつも行ってしまう場所」というのがあって、そこへ行くと「なんとなくいろいろなイメージが沸いて」自分が更新されるような感じになる、というのがあったのだが、ここでは「なんとなく行ってしまう」というのがミソで、もし元気になる「ために」そこへ行くというような目的を持っていったらどうなのか、というとそれではどうもその人が書いているような状況にはなりそうもない。よく観光の名所などで、こここそ見どころで、ここで「感動しなくてはならない」などと意識するととまったく感動も何もない、という事があるが、そういう状況が目に浮かぶ。もしもそこへ行けば元気になるという目的みたいなものが成り立つのであれば、こんどはその「場所」がなんらかの「力」を持っていて、そのように人を元気にする「原因」になっているという事にもなる。場所がなんらかのパワーを持つという事はある程度は言えるのだろう(いわゆる「パワースポット」という考え方)が、それは原因と結果として働くようなものではない。そのようなものであれば誰が行ってそこで元気になってまうはずである。というように原因と結果というような考え方では、おそらく誰もが何らかの形では経験しているこのような「なんとなくリフレッシュした」というような体験さえうまく説明できないのである。
 ようするにここでも一つの説明としては「その場所」が「無意識」を活性化しているとも言えるが、逆にそもそも「無意識」が「その場所」を創造しているのだ、とも言えるのだ。 そこで問題は、無意識的な「現実」において、何が「実現」されているか、という事であるようにも思う。例えば、
★ある女性の例。亡くなった父の法事から家に帰ると、玄関に大きなヘビがいた。父は巳年生まれだった。
 この例はおそらく「偶然の一致」の例として考えることに抵抗があると言う人が多いだろう。巳年とヘビという取り合わせが何かふざけたような(マンガ的な)印象を与えるだろうし、仮になにか意味があると考えようとすると、父の「霊」がヘビに変身したのだというような因果的な解釈をしたくなってしまう。私もはじめは自分が丑年生まれなので、それじゃオレが死んだらウシにでもなって家族に会いにいくのかよ、などと思ったわけだが、もちろんそういう問題ではない。ここで言えるのはまず、この女性が無意識に「父をその生まれ年の干支であるヘビでイメージしていたんだな」という事である。私は自分の親の干支も知らないが、干支をよく知っている人達は「あれはウシ年だからのんびりしている」とか「あれは猪だから直進して人と衝突ばかりする」などというふうによく言う。それは要するに干支のイメージによってその人を「認知」しているのだ。もちろん父親をヘビだと思い込んでいたというような梅図かずお的な話ではない。ヘビを見てすぐに父の巳年を思い出したという事から、父の無意識的なイメージとヘビのイメージとがすぐに「連想」されるような形で結びつけられている、と言っているわけである。この場合、干支は「象徴」という在り方をしているのである。
 という事を踏まえて、ではこの体験とはなんなのか。まずこの女性は「法事」という行事を経過して来ている。法事と言うのは「死者との関係」をそれぞれの個人において再確認する作業だと言ってもいいわけで、特に「霊」を信じるとか信じないという事とは関係がない。その行事をはたから見ればバカバカしいと思おうが、そこで「自分と死者の関係」をリアルに感じる事が出来るかどうかが問題なのだ。
 そのようなプロセスを無意識において見るならば、彼女が無意識的に実現しているのは「(亡くなった)父がここに帰って来ている」という事なのだ。なぜなら象徴の上では父はヘビだからである。そしてこの場合は「一致」が、いわば無意識の実現を支持しているわけだから、そこで胸落ちるというかホっとするような「意味的な」体験としてありうるのである。
 というようなわけで、これは無意識における「認知」と外側の現実とのなんらかの「一致」が意味的な体験となってるような例であるが、いついかなる場合でもそのような「一致」が意味あるものとなるのであろうか。
 振り返ってみれば、あの「雨降らし男」は、共時性的な現象を「起こした」わけだが、彼にとって雨が降る事(一致が起きる事)はまったく重要ではなかった。彼にとっては、まさに自分の無意識があるべき姿に(自然の秩序にかなった形に)なる事こそが「意味」だったわけである。つまりここでは「現実」との「一致」というよりも、彼自身における無意識の現実そのものに「意味」があるように思われるわけである。
 しかし考えてみると、そもそも無意識的な認知=現実化というものは、意識的には気付かれないにしても、「つねに、すでに」行なわれている、という類いのものであった。とすると、「無意識的な現実」に意味があると言ってしまうと、それでは意識としては何もしなくていいではないか、というような考えがすぐに思い付かれる。
 ここでは「自然との一体化」という事が問題を分かりにくくしているように感じる。つまり「自然と一体化するのであれば、当然それは無意識が無為自然にふるまうこと決まっている」というような先入見があるのだ。つまり「自然と一体化するとは、意識を捨てるという、ゼロに向かう行為だ(何か「有」を作り出すような行為ではない)」というような図式的な理解がある。しかしこの男がやってるのは、そのような「意識を捨てる」というような事では全くない。「無意識における実現」が単に意識を捨てるという事であれば、例えばなにか熱狂的に好き勝手な事に走るとか、あるいは「サイコ・スリラー」のように潜在意識に「悪」の存在があってそれが犯罪を「実現」するというのでもいいわけである。しかし雨降らし男がやってるのは、そういう事ではない。
 という事からも分かるのは、まず無意識の認識=実現にはさまざまな「可能性」が存在する、という事である。ところで「無意識」ということとの関係でいうと、ユングは、「無意識」による認識活動を「元型」というもので説明している。
 ここで元型とはそもそも何だ、という事を考えてみると、結局は人間が無意識において物事を把握する(という事は無意識による現実化という事だ)際のある種の「基本的なパターン」だと言える(河合『宗教と科学の接点』)。この認識パターンは、意識においていわゆる客観的な世界を認識するような認識とは全く異なるが、しかしこの「元型」とは、「何十億年昔から今日まで生物と人間が経験してきたあらゆる経験について<そのすべてのジャンルそれぞれに共通する基本的パターン>が堆積」したものであり、そのような経験に基づくものであるがゆえに、外界の客観的世界と同等の、「あるいはそれ以上の権利をもって、客観性と真実性を主張できる」(山口實『生命のメタフィジックス』ティビーエス・ブリタニカ)という。してみると、先に無意識が「別の現実性を持つ」といったことは、このような「元型」という原理が根底にあるからこそ、言えることだったということになるだろうか。
 つまり我々が個人的意識においてモノを考える時、共通の言語によって考えるように、個人的な無意識においても、ある潜在的な共通なパターンによって「実現」すると言えよう。このパターンの内、より普遍的で例えばある民族に共通だとか、人類に普遍的に見られるようなパターンの事を「元型」と呼ぶと言っていいだろう。
 さてそこで、「元型」すなわち、無意識が現実を認知=実現するパターンは、可能性としてはさまざまなものでありうるが、実際の無意識においては、何らかの特定のパターンが実現されていると言える(活性化されている、ともいう)。それはある人にとっては心の中の「悪」へ向かう傾向だったり(サイコ・ホラーの場合)、そこまでではなくても自分では見たくもないようなものだったりするわけだが、この雨降らし男の場合は「無意識が自然の秩序に反するような状態」を実現していたわけである。しかしさまざまな傾向の中のおそらく深い層に「自然(の秩序)と一体化するような」傾向というものが(可能性として)あり、彼はそのような無意識の可能性を現実化した、と言えるわけである。
 とすると、ここで雨降らし男のやっている事は、「どの無意識の可能性」を実現するかを意識的に「選択」して、しかも意識が無意識に対してそれを「実現」させる、という事なのだろうか。たしかに「無意識」は自然に(おのずから)そのようになった、のではないのだから、ここでは「意識」がなんらかの意味で主体的に「関与」をして、その実現を進めているのである。 しかし、ここで「主体」となるのは、意識なのだろうか、無意識なのだろうか。といっても、それはどちらが主とは言えない。すでにこれまでのところで、こういうどちらが原因でどちらが結果という事を言えないような関係をずいぶんと見てきて、こういう考え方にも馴染んできたところだった。つまりここではこれまで見たような意味での「共時性」的な関係が意識と無意識との間に成立しているのだ。つまり無意識的な現実化は、まさに無意識的な過程において(無意識が主体となって)実現されているが、それは意識がそのような(傾向の)無意識を実現しようと関与した事によってそうなっているのであって、それは意識にとっての「現実」でもある。つまり無意識的な現実と意識における現実が「一致」しているのである。単純化して言ってしまうと、雨降らし男は、先のエッセイの著者が「なんとなく」行く事によって力づけられた場所に、「意識的に」行きはするけれども、「なんとなく」行ったのと同じような結果にする事が出来るように、「意識と無意識」を訓練した人だ、と言えるだろう。とすればここには「ある種の訓練(修業)の結果」という限定が付きはするのだが、単に偶然の一致を「待つ」のではない、「主体的な」意味的な体験の可能性というものが示されているわけである。
 しかし、今いきなり雨降らし男のように「自然そのもの」と一体化しようなどという動機は我々にはもちろんないが、ここまでの話は全く興味本位に進められてきたというわけではない。少なくとも向き合おうとするならば、次のような問題は見付けられるはずだ。すなわち無意識の実現という事が実感出来ない(個人的な満足感を実感できない)、無意識的な衝動は分かっているが、それを実生活において実現できない(抑圧してしまう)、あるいは逆に常に破綻してしまう、等々。すなわち先のような意味での「一致」が成立していないのである。
 しかしこのような問題に向き合おうとした場合に「方法の不在」という事が問題になる。我々は雨降らし男のように「修業」を経てきてはいないからだ。そこで、ある程度「修業」的な要素を持ちながら、「無意識」にアプローチできるような「ソフト」はないかと言えば、それはひょっしたらあるのかもしれない。というわけで次にそのひとつの方法として「易の実験」を行なってみようと思う。
 

5 易の実験

 さて「易」である。易者の「易」、占いの「易」だが、なぜここで唐突にも「易」なのかという疑問もあるだろうし、ある程度「共時性」に興味のある人にとっては「またか」という事にもなるだろうが、ここで「易」を引っ張り出してくるのは、前段で触れたように「無意識」に「修業的に」アプローチするためのソフトとして使うのであって、占いの神秘や共時性という原理の実在を説くためではない。では「易」はなにゆえそのようなソフトたりうるのか。
 しかしその前にまず、「修業的に無意識にアプローチする」とはどういう事なのか。そこで「雨降らし男」のやり方を分析してみると、(1)自分の無意識的な状態を知る(ここでは「自然の秩序に反する状態になった)、(2)その状態の可否を意識において判断する、(3)別の無意識の可能性(ここでは自然の秩序と一体化した状態)を主体的に実現する。という事になる。
 そこで「修業」としては、この三段階をモデルとしてそういう事が出来るように繰り返していけば、いいわけである。(3)の別の無意識の可能性を実現するなどというのは、ちょっと出来るはずもないような印象を受けるが、(2)の判断で必ずしも、自分の今の無意識が否定されるものでないなら、その状態を保持するという形で無意識的な現実を感じる事はできるかもしれない。
 と言う事で、そこでまずは(1)の今の無意識を知るにはどうしたらいいか、という事になるのだが、そのために「易」を使うなどと言えば「とうとうあっちに行ってしまったな」と思われるかもしれない。というわけで少々ヤヤこしいが脱線する事にする。
 ここで考えているのは実は、先の『無意識』の項で見た「元型」というものを一つの手掛かりにできないか、という事である。つまりそれが人間に共通した普遍的なものであるならば、当然自分の無意識においてもそのような働きがあると考えられるからである。ところで先に書いておいたように、無意識とは単に内面的(自閉的)なものではない。それは現実をある意味では「観察」し、認知し(現実化して)ているのである。そのパターン(のうち、共通する普遍的なもの)を「元型」と考えるなら、「元型」とは、無意識が物事を認識する際にその認識の「行ない」を「規制」するなにものかだ、と言う事になる。すなわち「魂の構造規制素」(ユング)である。そして元型は「可能性」として様々なものがあり、そのうちのどの元型が活性化されている(つまりどのようなパターンによって無意識が実現している)かは、意識には分からない。そこでどのような元型があるのかが分かれば、今現在の無意識の状態を「知る」ために役立つという事が考えられるわけである。
 ところで井筒敏彦『意識と本質』(岩波文庫)によれば、「易」において判定の基準となる「卦」(いわゆる八卦)が、まさにそれ(元型)なのである。それでは「卦」とは具体的にいかなるものなのか。「易」における「卦」は、太古の聖人が世界の「本質」を表層意識的にではなく(すなわち「客観的、科学的態度」によるのではなく)、深層意識的に捉えたものである、とされている。つまり無意識が元型的にものごとを把握し、それでもって現実を創造しているいるのであれば、無意識にとっての現実、すなわち「世界」の本質は「元型」そのものだ、という事になる。しかしそのような意味での「本質」すなわち元型は「それ自体ではなんら具体的形を持た」ないものであった。それはパターンとしては共通する普遍的なものと言えるが、それが各個人においてはどのような形で実現されるかは分からないからだ(したがって、それがたとえ普遍的無意識と呼ばれる領域のものだとしても、それは全く「個人的な」かたちによってしか知り得ない)。そこで「易」では、様々なイメージによって呈示しているのである。つまりそれはこの世界の「本質」を、「比喩的に形象化する『象』を設定する」事によって呈示するのである。八卦である「乾、兌、離、震、巽、坎、艮、坤」は、それぞれ例えば自然現象で言えば「天、沢、火、雷、風、水、山、地」という「象(かたち)」を持つ。
 仮にここで起きている事態の無意識的な本質は「艮」だ、と言ったならば、それはそこで起きている事の無意識的な本質は「山」で象徴されるような何事かだ、という事である。例えば「安定している、とか、動きが止まっている」というような事であろう。では「本質は安定しているという事だ」と言ってしまえばよさそうなものだが、そうではない。先にも言ったが、例えば「安定」と言い切れるような「本質」なら「意識」の本質なのである。そうではなく、この本質は無意識的なパターンという意味での本質なのだから、個人的に具体的な個々の現実においてその象徴を照らし合わせる時、その解釈は無限にあると言っていい。
 ところで「易」においては、例えば「山」なら「山」という象徴によって示される「本質」は「どのような方向にいくか」という事は決まっている。そのような「象徴」の「実現」や「変化」の方向を体系づけ、いわば世界の(無意識的な)真相を、「象徴的に形象化して呈示する一つの巨大なイマージュ的記号体系」として示したのが、いわゆる「易経」である。
 したがってその時その時の自分の無意識がどのような「本質」的状態にあるのかが分かれば、「易経」によってその現象と変化をある程度類推する事が出来る、という事になる。「易」はそもそも「占い」であるので、その時の無意識の本質というものを割り出すのに、「心を観察する(瞑想する)」のではなく、「占いをする」わけである。
 しかし常識ある人であれば、無意識的な「本質」によって世界を捉え、それを「象徴体系」として呈示するという「易の思想」は理解しえても、それを占い的に使う事には疑問があるだろう。つまり「易経」を作成したような「聖人」であれば、相当な無意識的な修業を積んでも来たのであろうから、自分で自分の、また他人の無意識的な本質を見抜けるだろうが、その事と、筮竹を引くとかコインを投げるなどの占い的な方法によって得た「卦」が、その時の自分にとっての「無意識的な本質」を当てる事が出来るのだと言う事の間には飛躍があるように思われるわけである。
 しかし実際に自分が「易」を試みる立場に身をおくならば、我々がやろうとしているのは、占いではなくて、まさに瞑想そのものだ、ということが分かる。
 と言うのは、占い的に得た「卦」が、本当にその時その時の「無意識」を呈示するとす「れば」、そこで問題となってのは、はたしてそのような「無意識的な本質」の「真相」を覗き見てしまった「意識」はそれにどう対処するのか?という事なのである。つまりそこでは自分の無意識的な本質はこうこうだが、それをほおっておくのか、あるいはそれに意識として何らかの行動をとるのか、といった「決定」を迫られている、という事に他ならない。
 ところでそもそも我々は修業という事を考えていたのだったが、そこで意識が担う役割は、いわば「無意識の現実」を受けとめ、どのような方向へ行くべきかを判断するという事であった。そのためにまず「無意識の現実」を知る事が必要になっていたのである。しかし、もともと「無意識」とは意識には「分からない」からこそ「無意識」なのでもあるのであれば、たとえその現実が正しく示されていたとしても、その方向をもって「これこそ自分の無意識だ」と完全に言い切れる人はいないだろう。そのように言い切れるなら、それは「意識」なのである。と考えてみると、占い的に「卦」によって示された本質が本当に自分の無意識の「現実」なのかどうかは、実は「分からない」という事が「易の実験」にとっては必要条件だという事にもなる。
 このように「答えが分からない」けれども、出たことを答えとして「受け入れ」それに基づいて決断をしようというということは、実は逆に、どのような答えが出ようともそれを受け入れるという決意をもって占いに取り組むということなのであって、その結果、「無意識のレベルでは」自分の置かれている状況をありのままに受け入れることが可能になっており、そこにはこれまでにはなかった「自分をめぐる状況」への全面的な関与とでもいうべきものが生じ、それはすでに投げやりな「占い」というレベルをはるかに超えた「瞑想」による現実の把握、ということが始まっているのである。結局、「易」を試みる者は、「ひとつの偶然によって生じる出来事を『意味あるもの』として受けとめる事に己れを賭ける(河合『宗教と科学の接点』)のだ。
 しかしそう言ったところで、「なぜ一致するか」という答えにはもちろんなっていない。というわけで、どうしてもこのような「占い」的な「一致」を了承できない人は、次のように考えてはどうだろうか。つまり「易経」に描かれている「卦」が、元型的なイメージの百科全書のようなものだということは、まずは認めよう。したがって、それを「知って」いれば、実際に「瞑想的に」自分の無意識的な状況を知ることの「道しるべ」にはなるだろう。しかし、単に「易経」を第一ページ目から順番に読んでいっても、そんなものが頭に入るわけもない。そこで、とりあえず「実際に体験的にやってみる」ことによって、「易経」に描かれた「卦」のイメージを「体験する」ということを目的として試みられてはどうだろうか。このように「とりあえずやってみる」という新しい種類の「読書」だと思えばよいわけである。
 それでももちろん、このようなことは、「非合理的だ」と感じるかもしれないが、結局のところ意識によって合理的な判断が出来、それで行動のすべてがウマクいっているのであれば、無意識という事も「易」という事も関係のない事だったのである。実際なんでもかんでも「占い」的なものに頼る前に少しはと言うか大いに「考えて」おくべきだ、という事は私も言っておきたい。
 その上で「易の実験」をすることにするが、一番はじめにするのは「質問する事を決める」という事である。まさに「占い」的に易にうかがいを立てるわけである。易が示すのがその時その時の無意識的な本質だとして、なぜそこで「問いを立てる」という事が必要になるのだろうか。例えば「星占い」や「御神籤」のように、はじめから「総体運」とか、「学業」とか「恋愛」というように、項目が決まっていないのはなぜか。それは結局易では「関心のある事」以外は意味がない、という事である。他の占いにしてもさまざまな項目が並べてはあるが、占いを見ようという人はその内の自分の関心のある項目をまず見るわけである。その時は自分の関心が呼び起こされているわけだが、ようするにそれは「項目としてあるから」見ているという面もあるわけで、自分がほんとうに「気になっている事」はもっと他の事だったのかもしれない。通常の占いというものがそれでもいいのは、ようするにどのような関心があるかに関わらずその人の運命はこうだ、というような決定論の立場を採っているからであろう。「易」においてはそうでないのは、無意識論的に言えば、意識が「そのこと」に関心を持ったという事は、そこに「無意識的な現実」が形づくられている、という事を示しているからである。関心のないところに無意識がない、というわけではないが、関心のないところの無意識には意識はどうしても関与できないのである。そして意識が関与しうるなら、それはある程度変えられるという事である。
 その問いに対して「易」は先に見た「卦」によってその本質を象徴的に示す事になるが、実際にはそれを問いに照らし合わせるとピンとくるという事があり(はっきり言っておくと「異常に高い確率で」それはピンと来てしまう、それが「易」の魅力であるのだが)、その場合はその「現実」を受け入れた上でどうこうという次の思考に入っていけるわけだが、ピンとこない場合は、その「卦」自体も次にどうするかという思考もまじめに考える事ができない。つまり「入っていけない」のである。そこで「易は当たっているハズ」などとムキになると、そうでなければならない、という事で意識的に解釈してしまい、肝心の無意識的な実現という事からはかえって離れてしまうだろう。そういう場合は「卦が間違いだった」として処理してもいいだろう。しかしそれは近い将来に現実化するという可能性もないではない。つまりその時は意識がまだ関与しえない程の深いと言うか「ひそかな」現実としてあったものの本質を言い当てていたのだ、という事はあるわけである。しかしそこまで言わなくても、とりあえず「実験」の立場としては「易」が絶対に当たるというような立場はとってないので、「間違いもある」という事でよかろう。しかし「間違い」だからといって、「同じ問いを繰り返してはならない」。というのは、「易」には「問いの繰り返し(問い直し)を禁止する」いう鉄則があり、このような一種の儀礼に関わる場合、そのルールを順守するべきなのは言うまでもない。ただ心で「間違いだ」と思っているぶんには問題はないだろう、という事だ。肝心な事は「易には神秘的なまでに当てる力がある」という事ではなく、それを自分自身の問題の為に使えるかどうかなのだから。
 以上のような意味で「易の実験」は、意識と無意識を繋ぐための「修業的なソフト」なのである。それは主体の自分自身による「訓練」であると同時に、他者による(指導的な原理による)「教導」という面も持っている。「易経」という本は、先にも言ったように、その「無意識的な本質」がどのように現われるか、変化するかという事を体系的に述べているわけだが、それは具体的な占いとして記述されている。例えば「大いに享る」とか「咎なし」とか「貞しきに利あり」といった具合に。それはそれぞれ「そのままやってうまくいく」「努力次第でうまくいく」「行ないを正しくすればよい」と言う「助言」のようなものである。つまり「易経」とは、は「無意識の現実」を見てしまった時にどう意識として判断するかへの助言集となっている事になる。それは言い換えると、我々が無意識にアプローチする際の「導き手」という事である。しかしそれがどう具体的に「導き手」となるのか、という事をここで私自身のつまらない例を挙げるよりは、残りスペースも少ないので、より多くの方々にこの「実験」を体験して頂くため、以下簡単に「実験」の方法を説明しておこう。
 まず用意するものは、コイン3枚と「易経」の本。そして筆記用具である。コインは裏表を見やすいので百円玉がいいようである(百円の表は花の絵がついてる側。数字の 100の側は裏。というのが一般的だが、自分で決めてもよい)。「易経」の本は、岩波文庫(『易経』)と朝日文庫(『易』)で手に入る。すぐに使えて分かりやすいのは朝日版であろう。後で見るように、得た「卦」についての「易経」の説明を読むためには「索引」が必要なのだが、岩波版にはそれがないのである。内容的には岩波版は漢文・書き下し文・意訳だが、朝日は意訳の部分がかなり詳しい解説がついているので、私のような入門者(詳しく知りたい!という人)には、こちらがよいだろう。
 本を買うなり借りるなりして準備が整ったらさっそく開始する事にするが、一番はじめにするのは先にも言ったように「質問する事を決める」という事である。「易の実験」において自分で質問を決めるという事の意味はすでに述べたが、しかし逆に言うと「易」では、「星占い」などにおける「恋愛運」だのといった漠然とした事ではなく、もっと具体的な問題について聞く事ができる、という事にもなる。つまり「占い」としてはより具体的という事になる。ただし具体的な問題に応えるとは言っても、その答えは「象徴的」であるから、問いとの照合においてどこまで「具体的」に読めるかは一概には言えない。また例えば「試験に受かるかどうか」という聞き方をしても、具体的には答えてはくれない。それは「受かると出たので安心して勉強しなければ落ちる」というような形で、占いの結果が影響して占いの逆の事になってまうパラドクス的状況を作ってしまう質問だから、という事である。だから質問を変えて少なくともパラドクス的な状況を作らないように質問する事にする。例えば「この学部へ進むのはいいか」とか、「この職業は自分に適しているか」「今付き合っている人との関係はどうか」といったふうに。
 さて質問する事が決まったら、質問を(心の中ででもいいが)明言してコインをふる。3枚の裏表を読んで、表=2点、裏=3点として合計点数を出す。と言うとメンドくさそうだが、組み合わせは「表表表」「表表裏」「表裏裏」「裏裏裏」の4通りしかなく、合計点はそれぞれ6点、7点、8点、9点となる。これを6回繰り返すが、その結果(点数)は下から順に上に向かって記入していく。777889の順にでたなら、逆に
   9 8 8 7 7 7
と記入するわけだ。次にこの数字を陰陽の記号(爻)に変えていく。奇数なら陽(−)、偶数なら陰(--)とする。と今得た数字は上から−----−−−となり、これで「卦」を得た事になる。この「卦」が何かという事を「索引」で探すわけだが、岩波版は「索引」がないので、あらかじめつくっておくことにする。いま6つの数字(すなわち六爻)によって「卦」を得たが、これは三爻からなる「八卦」を上下に組み合わせたものである(つまり8×8=六十四卦のうちの一つ)。「索引」によってみると、この「卦」は上が艮、下が乾であるから、「大畜」である事が分かった。くわしい内容は本文に当たって貰うとして、先に見たように「易」は象徴的に本質を呈示しているわけだから、なるべく細かい易用語にこだわらず、直観的に捉える事にする
 「八卦」は「本質」で、無形なわけだが、それを象徴的に示したイメージが表に載せた天とか沢とかいう形になる。それはあくまでもイメージであるから、実際の自然物とは関係がない、という事に注意して「卦」を読んでみる。「大畜」では上が山を、下が天を表わしている。山は普通天の下にあるわけだが、それが逆になっている。つまり山が天を包み込んで畜(ため)ている、あるいは天という大きなものを押え止めている、というイメージ。このように上下の「卦」の示すイメージの関係を解説したのが、本文中の「象に曰く」といって始まる段落なので、ここを読んでイメージをつかむ。
 次に、先に数字を下から並べたが、その位置を下から、初、二、三、四、五、上という。すなわち、
  上  五  四  三  二  初
となる。そして先の合計点(6、7、8、9)のうち、6か9(つまり表表表および裏裏裏のゾロ目パターン)の出た位置を見る。この場合は上が9である。これを上九という。本文の後半部分(初九…、九二…、九三…、などという感じに始まっている段落)の内、上九の段落を読む。もちろん例えば初の位置(第一投)が9なら初九を、四が6なら六四を読む。ここが基本的には占い的な部分で、さらに突っ込んだ事を書いている。基本的には変化の方向であるとか、どうすればよいかという事を助言している。
 ただし、6や9の数字(爻)がない場合、本文の冒頭部分(卦辞)のみを参考にする。ダブッた場合については特に指定していない本もあるが、より上位つまり後で出た方の変爻を参照する。
 さらに6、9は変化する可能性がある。奇数は陽、偶数は陰、としたが、6、9はその性格が最大限発揮されているため、逆に転じるという。したがって6は7に、9は8に変化する。これによってもう一つの「卦」を得る。ここで言えば、上九が8に変じて、888777すなわち「泰」である。
 先に得た「卦」(ここでは「大畜」)を「本卦」、変化によって得た「卦」(ここでは「泰」)を「之卦」という。この変化によって得た「之卦」が、何なのかというと、変化した後を予測するものと言う事になる。マーフィー氏の説では「本卦」で指導された事に従う道を選らべば、未来は「之卦」の方向になるとしている。朝日版では変化した後の「卦」とは言っているが、どのように判断すべきかは特に触れていない。また岩波版の解説では「本卦」だけでは適正な判断が出来ない場合に参考にするというようにあり、これは占う人(易者)の判断によるとしている。実際「本卦」がいいのに「之卦」が悪いという場合もあるので、それに従えば「之卦」になると言うよりは、常になんらかの意味で「之卦」に転じる可能性がある、という程度に考えておいてよさそうである。
 いずれにせよ「易の実験」は、マニュアル的に処理する事ではなく、質問との関係でどう読むか、という事が問題なのだ。しかしそもそも我々は易者を目指しているわけではなく、自分の無意識へのアプローチとして行なっているのである。という事は先にも言ったように見たくないものも見てしまう、という事である。そしてそれに対して自分は主体的に引き受け、行動して行かなくてはならないのである。そんなことはイヤだ、という人はこの実験を見合わせて頂きたい。ただ、私の実感としては、「易」によって知らされる事などというものは、普通に(まともに)暮らしていれば、いずれは向き合わざるを得ない、という程度の事にすぎない。それではどうするか…。という事が問題なわけだが、それは未来に掛ける事として、とりあえずこの小特集は終了としたい。

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Vol.1

夢の研究

1 夢の覚え方

 夢を記憶しておくのに努力が必要だ。
 ということは言うまでもなく、誰もが経験していることだろう。ではどうすれば「覚えて」いられるのか、ということになるわけだが、ここでふと思い出すのはいまはやり(1993年春のことである)の「CGステレオグラム」である。ザラザラした模様のスクリーントーン状の絵を見ながらピントをズラしていくと、そこに立体的な絵というか、モノが現われるといった、例のアレである。なぜアレを思い出すかというと、アレは立体に見るのにも努力が必要なのだが、一度立体視が出来たとしても、それをずっと維持していくにもまた努力が必要なのである。ふと気を緩めて視点をズラしたりすると、とたんに立体が消失してしまい、もとの立体を呼びもどそうとしても出来ない。この戻らないもどかしさが、夢を思い出せないもどかしさにそっくりなのである。
 というのは単に私の「実感」として言っているわけだが、この実感になにか意味があるとしたら、次のような事が言えるだろう。つまり夢はCGステレオグラムのように、2つ(以上の)の異なる情報を脳が「焦点化」とでもいった感じで統合することによって成立しているのではないか、ということである。そしてその焦点化にはある種の努力(CGステレオグラムを立体視するのに必要な程度の)が為されているに違いないのだが、眠っている時には言わばそれは「無意識的に」行なわれているということになろうか。そして目が覚めた時には、ある程度そのその焦点化が持続しているために思い出しやすいが、目覚めた状態ではその持続は努力なしには続かず、いったんその持続を問いてしまうと、夢の情報はちょうどCGステレオのザラザラの画面のように、意味のないチップへと雲散霧消してしまうのではないか、という「気がする」のである。 というのは繰り返すが単なる実感であって何の根拠もないのだけれども、こう思った時にふとまた思い出したのは南方熊楠である。河出文庫の南方熊楠コレクション『南方マンダラ』には「夢の研究」についての書簡が載っている。ちょっと引用しよう。
「しかるに小生は多年間夢のことを研究す。銭もなにもいらぬ研究ゆえ面白し。これにはいろいろ経験せしが、すべて夢さむるときに身をちょっとでも動かせばたちまち忘るるものなり。故に小生はもっともくせを付けて、夢さめてのちすぐにとび起きてこれを筆するよりは、依然として夢見しときの位置のままに臥しており閉目すれば、今見し夢の次第を記憶し出し得るという事を発見せり。たぶん夢見るときの脳分子は不定の位置を占めおれば、ちょっとでも動けばその順序常に復するというようなことと存じ候」
 だいぶ以前に(まだ夢の記録など付けていなかった頃に)初めてこの文章を読んだ時は、「脳分子云々」という説明がピンとこなくて、あまり深くは考えなかったのだが、自分で夢を記憶しておこうと思うと、やはり彼の言うように動かずにじっとして夢を反復してみるのが一番よいようなのだ。それで思い出してここを読み返してみると、脳分子の位置を動かさないという事は考えてみれば、脳がある情報群に対して「焦点化」している状態を維持すると言い換えてもよさそうである。私の実感とほぼ同じコトをすでに熊楠が感じていたという事はうれしい。私の実感もあながちデタラメではないわけである。
 

2 夢の書き方

 さてある程度夢を覚えておけたとして、それをノートに記録しておこう、という場合に問題になるのは、「ついついウソを書いてしまう」という事である。オモシロオカシク書こうとしてしまう、というほどの事でなくても、ついウソを書いてしまう、という問題がこの夢の記録にはついてまわる。なぜか、というともちろん一つには完全な形で夢を覚えておくことは出来ない、ということがあるだろう。つまりもし前に言ったような「焦点化」ということがあるとして、目がさめた時に残っている記憶とは、焦点化をリアルに体験しているのではなく焦点化によって作られた「像」のいわば「残像」である。だから細かい点については後からは確かめようもなく、前後の関係から類推して、いわば「欠けた部分を補って」書いてしまうという事が生じる。この補足が実はとんでもないウソだったりするのである。なぜか、というと記録しているのは、いわば目の覚めた合理的で理性的な判断をする意識だから、である。
 このような意識は記述に際してどうしても「原因と結果」であるとかの論理的な組み立てを行ないがちである。しかし夢というものはそもそもそのような組み立てによって成り立つものではない。それをメタファーや置き換え、アナロジー思考とでも言うのは簡単だが、しかしそういう事が「頭」で分かっていたとしても、実際に記述する際には論理的な組み立てをついついしてしまう、という事があるわけである。というわけで、これはある程度繰り返して記録していくことによって訓練するしかないのだが、ポイントは論理的な思考の働きをセーブするということになろうか。
 という事をここで強調しておきたいのは、実は私にとって夢の記述が実用的な価値を仮に持つとしたら、まさにこの点にあると考えていたからだ。実用的な価値を持つのは、その時その時の記述された夢の内容ではないのである。例えばシュールレアリズムの作家たちであれば夢の内容そのものが、モチーフとして「使える」ということによって実用化されるという事もあるだろうが、私達はそういう者ではない(まぁ私の夢などはあまりにも他愛もないのでそもそもモチーフになりえないということもあるが)。また夢の内容を夢占いに使おうという人であれば、その内容は「実用的」だろうが、もちろんここで夢占いをしようというわけでもない。そういう私達にとって重要なのは、その記述を繰り返す事(ある種の訓練)によって、記述する意識、ひいては言語によって思考する意識そのものがある種の変容をはじめるという事である。
 どのように「変容」するのかと言うと、私の実感として言えば、このような文章を書く場合でも、ひとつのテーマについて直線的に論理的に考えていくのではなく(それが現実的な意識にとっての思考であり記述なのだが)、ある意味では論理をすっとばして「考える」という事ができるようになるのだ。論理をすっとばして「考える」というとヘンな感じもするが、極めて普通に「考える」という事はむしろそういうものなのではないだろうか。インディアンが白人に「頭で考えるなんて病気だ」といったというようなエピソードがあるけれども、そこまで主張しはしないが、確かにつれづれに考えるという場合、すべてに渡って「論理的に」考えているなんてことはありえない。それがいざ改まって「考えよう」とか、書いて文章にしようという段になると、出来事や感情を強引に「論理」によって結び付けてしまうのだ。それは「思考」ということについてそういうパターンしかイメージできないからかもしれない。つまりそうではない「思考」というものがまだ「実感」出来ないでいるわけだ。それが夢の記述を繰り返す事によって、実感できるというわけである。それはまるで夢の全体を損なわないように記述するという事と同様に、この現実に対してもそれを一面的に論理化してしまう事なく、出来るだけ全体的にとらえるように向き合ってゆけるような、あるいはその時その時の感情を偽る事なく表現できるような、「非論理的な論理」とでもいったものである。そして恐らく「夢を記述する」ということを行なうならば、これは誰の身にも起こることだろうと思われる(つまり神秘でもなんでもない)。夢の内容そのものが意味があるかどうか、ということは人それぞれ、時と場合によるので、「夢の内容に意味があるぞ」とは言えないのだが、このような種類の変化であれば誰の身にも生じるので、ここでオススメしておけるという次第である。

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Vol.1

魔術と共時性----少し古い話だが、デビッド・リンチの「ツインピークス」というのは、「共時性」というものをストーリーの中にうまく取り入れた初めてのドラマなのではないだろうか。単に「偶然の一致」という事であれば、いままでのドラマでも使われてはいた。しかし通常のドラマでは作者が話の展開をそう持っていきたいがために「偶然」を使用しているわけで、それが不自然にならないように、その「偶然」自体に登場人物達が故意に「気付かないふり」をしているというものであった。ところが、この「ツインピークス」ではその「偶然」に気付く。それどころか、クーパー捜査官はそれを捜査の手掛かりにまでしてしまうわけである。
 さて、そのある重要なシーンでクーパーは「これから行なうのは…マジックです!」と言うのだったが、あれがどーして「魔術」なのかは、あまり注目されてこなかったとおもう。クーパーは別に「魔術師」じゃないし。だが魔術というものを何か超能力的な「力」のようなもの(王子様をカエルに変えるとか)ではなく、タイタニックの例に見るような共時的な連関として解釈すれば、あのように「手掛かり」となる要素を一同に会した時に「偶然の一致」として何かが起きると考える事はなんらかの「理」はある。
 
元型----『生命のメタフィジックス』(ティビーエス・ブリタニカ)の著者、山口實氏は、「無意識」という言葉と、「深層意識」という言葉を使い分けるべきだ、と言っている。「無意識」とは主観の気付かない意識活動であり、「深層意識」とは、主観の深い部分のことであるとする。これに従えば、私がここで言っている「無意識」とは、ほぼ「深層意識」という意味である。「無意識」は単に「気付かれない」活動であるから、必ずしも「元型」の関わるような認識活動である必要はないが、「深層意識」の活動には、かならず「元型」的なものが関わっていればならない。
 
予言?----元型は、ある事物の固定的な側面を捉えているばかりではなく、「物事が起きたときの経過パターン」として蓄積されている。したがって「予言すら可能となる」という(山口實、前掲書)。
 
賭け----ここで言いたいのは、「分からないけれども、信じるしかあるまい」というような不条理を無理強いしようということではない。ここで言っているのは、次の行動をその易の結果によって決断するということを含めて、この現在の事態に「全人格的に」取り組もうとするような真剣さをもって、易を試みる場合、そこにはひとつの共時的現象として、「一致」が起こるかもしれない、ということだろう。したがって表面的な気分で関わる場合、それはまったく当たらないかもしれないが、しかしかといって、当たるような場合、それは「一致」を何かの力によって(たとえばその真剣さの産む「念」によって)「引き起こしている」わけではない、のである。こういう真剣さ、つまりは「全人格的な関与」とでもいったものは、次の脚注(14)に見るように、「精神の統一」といってもいいのだろうが、それは「当てる」ことを念じるような統一であってはならないのだということは、はっきりさせておきたい。
 
コイン占い----コインは本式ではないと思われるかもしれない。しかし「一般的な易占も筮竹を用いる。その結果を示す算木も使われる。しかし、これらの道具もそれ自体に意味があるのではなく、占いの基本は占者の精神の統一である。従って優れた占者の易はよく当たり、未熟者の易はあまり当たらないことが多い。これが「当たるも八卦、当たらぬも八卦」という語の真意なのである。」(高木任之「学校では教えてくれない雑学講座」「近代消防」93.12月号)というように、道具自体の「呪術的力」による「占い」ではないのだから、道具にこだわる必要はないだろう。
 
イメージ----卦に示されている、古代中国の人の持つイメージと我々の持つイメージはかなり違うので、出来るだけ多くの例に当たって連想力を高めて戴きたい。ただし基本となる「八卦」のイメージは、だいたいのところは次のようになる。
 
 八卦  自然   性状
 乾   天    健(すこやかに)
 兌   沢    説(よろこび)
 離   火(日) 麗(つく)
 震   雷    動(うごく)
 巽   風(木) 入(はいる)
 坎   水(雨) 陥(おちいる)
 艮   山    止(とまる)
 坤   地    順(柔順)
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