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Vol.4 (1996.5)

■ビジョン・アートとテクニカルアート (1996.5)
■ワン・トゥー・ワン---個人の表現の発信 (1996.5)

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Vol.4

ビジョン・アートとテクニカルアート

どんな芸術にしても人を楽しませるというエンターテイメント的な側面はある。それは発注という受動的な面でも、自分から発信するという能動的な面でも同時にありうる。そういう側面がそもそもあるがゆえに、売れているもの・みんなが知っているものが価値であるというマーケティングが大きな顔をして歩くことになる。しかし「そこそこのもの」がそこそこに身の回りに漂っているという状況はいったい何なのか? 私にとっては意味がない、ということだ。

かたくな、にすぎるかも知れないが、少なくともアートは「私」にとって意味があるからこそアートなのであり、尊敬(リスペクト)に値する。職業としてのアーティストに敬意を持っているわけではないのだ。

たいせつなことは、それぞれの「私」が生きていくのに必要なビジョンだ。 芸術についての知識でも、商品としての芸術作品でもなく、「私」が生きていくための血となり、心となるビジョンが必要なのだ。

そんなビジョンをもつアートを、単に流通するそこそこのアートつまり「テクニカル・アート」に対して、「ビジョン・アート」と呼ぼう。大きな顔をして歩いているものに対しては逆差別をしてやることも大切だ。

音楽の中に煌めくいくつかのビジョン・アート。「ひるます」の読者に近いところでは、下村誠の「虹の箱舟」、ヒートウェイブのアルバム『ヒートウェイブ1995』、HASIKENの「グランドライフ」などを揚げておこう。

そういうビジョンを持った絵画作品をMOGUAでは紹介していきたい。

真のクリエイティヴィティは、現代のマスコミ的なプロフェッショナリズムのもつ「強迫感」(売れるためのパイの奪い合い)とはまったく無関係な「ビジョンをつくり出す力」にある。それはピュアななにものかなのだということを、信じたい。

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Vol.4

ワン・トゥー・ワン---個人の表現の発信

「個人の表現」を発信するということ。

 雑誌「G-U」を開始するにあたって選んだこの言葉の中には、ふたつの方向性が同時に含まれていると思う。それは「自分自身への関係」と「他者への関係」というふたつの方向だ。

 自分自身への関係としての「個人の表現」というのは、表現するという具体的・現実的な行為によって、自分自身の生命の意味(ビジョン)を実現し、ひいてはそれを通して普遍的な「生命の意味」を考えるということでもある。だからこういう方向性を「生命の意味への問いかけ」といってもいいだろう。ある意味での「宗教性」(「宗教」ではなく、生の意味を求める態度一般をさす、森岡正博氏の用語。森岡氏の「宗教なき時代を生きるために」参照)である。

 他者への関係としての「個人の表現」というのは、そういった表現は「個から個へ」というカタチでしか伝わらないものだということがまずある。たとえば私の場合、ライブ会場などである歌に感動しているとき、実はその歌われていること(内容)自体よりも、その歌によって喚起された自分自身の生の意味を味わっているということが多い。そんなとき同じ会場に集まっている聴衆というのは私にとって「関係のない」ものなのだ。表現を発すること、受けとることは個人の内部で「意味」を持つのであって、ある特定の集団に共有されることで意味を持つのではない。ましてや支持した人の数によって優劣が決まるものではない。

 「個人の表現」という言葉を使うと、とかく「個人が好き勝手なことを相手のことも考えずにまき散らしている」というイメージを与えかねないが、個の表現は「個から個への共振」とでもいうようなカタチで、コミュニケーションを志向しているのである。そこには相手の他者もまた表現する個であることを認め合うという前提も必要だろう。ついでに言えば共振の中ではじめて「自分」が分かるのが人間というものなのでもある。

ワン・トゥー・ワンの関係が生み出す新しいコミュニケーション文明

 このような「個から個への共振」ということは、「生の意味への問い」というような表現のありかたをモデルにして考えてきたことではあるけれど、しかしどんな些細な表現や情報の提供であっても、そこに「自分自身について考える」という意識が人間ならば当然伴っているわけで、そういう意味では「あらゆる表現は自己表現」なのである。

 というようなことは、哲学であるとか文学という分野では当然のこととして考えられては来たのだが、日常的な場面では絵に描いた餅であった。しかしそれを変えつつあるのがパーソナルコンピュータの普及でありインフラとしてのインターネット(ホームページ)だ。

 それはまず何より「表現の形式」を選ばない。文章でもよいし、絵でもよいし、音楽でもよい。というかそういった表現ジャンルである必要がないのだ。基本的に自分が日々やっていること、たとえば犬を飼っているとか野菜をつくっているということを「自分の表現」として発信することができるのだ。

 というと、なにか「表現の安易さ」のみが強調されているかに思われるかもしれないが、それは結局は「きっかけ」の容易さであり、なんと言ってもほぼゼロに近かった発信する可能性がここでは新しく生じているということが重要なのだ。そのうえでこのようなカタチでの表現=コミュニケーションの質の問題が問われることになるだろう。

 ここで問われる質とは、なにか。もちろん役立つ情報の質だという意見もあるだろうし、実際そういうものがなければ誰も利用しないのだろうが、そうであればこれまでの「マスコミ」的な情報のあり方となんら変わるところはない。インターネットの特質は、その発信が「特定の集団」へ向けたものではないというところにある。発信はまったくオープンなものなのだが、そのようにオープンになってしまうということは、逆にそれだけそこに関わっている「個人」がむき出しになってしまうということでもある。結局ここでは「個人の表現」が問われているのだ。単純な情報の発信であっても、その個人がいかに「自分自身で考えているか」ということが読むものには分かるわけだし、アートのような作品であればなおさらだろう。ここでのコミュニケーションにおいては「個と個との共振」が普通のことになってくるだろう。

 このことは、単なる「インターネットブーム」という枠では収まらないものを持っている。前号でも少し書いたように、それは文明そのものの転換にまで繋がるものだという感じをもっている。

 栗本慎一郎の文明論では「西欧と日本の文明の型は実は同じで(!だからこそ日本は明治維新ですぐに西欧化できた)、その特徴は情報の集団的処理にある」という。つまり個人がダイレクトに情報を得て、(自分で考えて)処理するのではなく、マスコミなり中央政府なりがいったん処理し加工したものを個人が受け取るという構造だ(栗本慎一郎「幻想としての文明」講談社)。この集団的な情報処理システム(情報の統合市場)では、メディアによって変形された情報を受けとるだけの人はもちろん自分の頭で考える必要がないが、じつは発信する側も、あらかじめある「システム」の中で発信しているにすぎないのであって、やはり自分の頭では考えていないのである。「近代は思考停止を好む」と栗慎は言ったが、ここには「自分の頭で考える個人」はいないのだ。

 TBSが例のビデオ問題で必死に?覆い隠そうとしながら逆にあからさまにしてしまったのが、まさにこのこと(自分の頭で考えるがゆえに、自分で責任をとる「個人」の不在)だ。個人がいなくても自分たちは「公共」だから、というのが彼らの拠り所だが、そもそも「公共の電波」なるものは、中途半端なハード的な制約(せいぜい6チャンネル分しか電波を利用できない)と栗慎のいうような文明的な型という枠組みの制約の中で、国家による免許制度として作られ利用されてきた概念にすぎない。テレビに関して言えばまずケーブルテレビや衛星放送でハード的制約が崩れ、インターネットでそれは加速されている。そして情報が流れる経路(チャンネル)はどんどん拡大していくだろう。ハード的制約がなくなっていく中で(電波というハードの独占を根拠として)「公共的」であるということは意味がなくなってくる。今後はTBSよりもただの個人のホームページの方が多くの人に見られるということが充分起こりうるからだ。そしてそもそも情報の「公共性」ということをいうなら、すべての「表現する者」は「他者との共振」という意味でこそ公共的であるべきなのだ。それが個人と個人の関係を基軸とする新しい表現=コミュニケーションの原則になるだろう。それを「信頼のネットワーク」と言ってもいいだろう。

 もちろんチャンネルがいくら拡大しようと「情報の統合市場」への幻想はなかなかなくなりはしないだろう。それは直接にそれぞれの個人の質の問題だからだ。やはり同じニュースを見ていないと不安だという人は多いし、みんなと同じドラマを見ていたいという人もなくなりはしない。システムに埋没することへの誘惑は強いのだ。しかしこのような「問題」が明確に意識されるようになってきたこと、政府による規制が無意味に感じられるようになっていることは、より大きな目で見れば栗慎のいう文明の質的な転換さえも予感させるものだ。それはまずハード的な障害の解消をひとつのバネにしつつ、より「自由なコミュニケーション」を求める個人の活動として現れてくるだろう。動き出したものはもう引き返すことは出来ないのだ。

 この新しい文明は、ようするに個人が自分の頭で考え、自分で表現し、それが個と個との直接の関係によって複雑なネットワークを形成していくというようなものになるだろう。ここではいままでの「情報の統合市場」のようなもの(マスコミ)はなくなりはしないだろうが、今よりもずっと影響力も意味もない存在となっていくだろう。

 そして何より大切なのは、このことが単なる文明論やマスコミ論として私たちの「外側」にあるのではないということだ。その主役は「私」自身なのだから。

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