contents
Vol.6 (1996.8)

■新たなコミュニケーション文明へのブックガイド (1996.8)
■吉本隆明「宗教の最終のすがた」について (1996.8)

←前号  次号→

 

バックナンバー総目次トップページ(最新情報)
感想・ご意見をお知らせください。 info@hirumas.com (C)HIRUMAS 1996

 

Vol.6

新たなコミュニケーション文明へのブックガイド

エッセイ「ワン・トゥー・ワン」で個人と個人との新たなコミュニケーションのあり方が新しい文明をつくるというようなことを書いたが、とうぜんこのことは個人的な場面やインターネットというハードだけの問題ではなくて、政治・経済のシステムともかかわってくる。そういう方面について考えるときに参考になる本をここでは紹介したい。


幻想としての文明

  • 著者 栗本慎一郎
  • 発行 講談社
近代から現代にかけての日本と西欧の文明の型は実は同質のものである。それは情報の集団的な処理を特質とする。マスコミなり政府なりが処理・加工した情報を各人はうけとる。近代社会は「個々人の自立」をうたうが、実際にはその個々人が明確には自立していないことがその前提になっている──と見切った栗本が、その思考のパターン化と受動性からの脱却を呼びかけ、次代のヴィジョンを示している。「そこでは人の意識が明確に力を発揮し、それらの結果が表面でぶつかり合っても、最終的にはつねに調和のある社会が形成されている」。それはそれぞれの個人が自分自身のフィールドで闘い、つくりあげていくものなのだ。


新しい「中世」

  • 著者 田中明彦
  • 発行 日本経済新聞社
上であげた栗本の文明論では国家・マスコミによる集団的情報処理システムが崩れて、個人と個人のコミュニケーション文明へと一気に転換していくわけではなくて、過渡的には(国家からは自立したシンジケートとしての)企業や機関(まさにNGO)が重要な情報を独占する状態になるだろうということを言っている。このように「近代主権国家」が影響力や意味を喪失して後退していく世界を「新しい中世」というコンセプトで呼ぼうというのがこの本の田中氏の主張だ。この議論では、世界システムというレベルでの話になっているので、では個人はどうなってゆくのかとか、シンジケート的な情報遮断は当然「新しい階級社会」を形成していくことになるわけだが、それはそれでいいのか?といったことへの答えはあまり語られていないようだ。しかし「中世」や「近代国家」というものを逆に「新しい中世」から見ることによって歴史が見えてくるという効果があり、刺激的な読み物になっている。
この号の目次へもどるバックナンバー総目次トップページ(最新情報)
感想・ご意見をお知らせください。 info@hirumas.com (C)HIRUMAS 1996

Vol.6

吉本隆明「宗教の最終のすがた」について

まず麻原(松本)を「早く死刑にしてしまえ」というマスコミ・一般の論調に対して「宗教が分かっていない」という批判をする。しかしいったいぜんたい分かってやる必要があるのか。この点に説得性がないとこれ以下の議論は全部、ただの吉本氏自身の「宗教」についての教義、あるいはせいぜい対談者である芹沢氏との間での「おしゃべり」というレベルのものになってしまうのではないか。というかそうなってしまっているのだ。だいたい麻原(松本)というのは、オウム真理教という「一宗派」の教祖である。宗派を立てるということはその宗派以外の人には分からない「仲間内の言語」で理解し合いますよっという宣言でもある。そういったものが、何か事件を起こす度に、その外部にいる我々が、その宗派に対して、その教義つまり「仲間内の言語」を、内面的に・共感的に「分かってやる」必要があるだろうか? もちろんそんな必要はなく、そもそもあらゆる宗教人が他の宗教に対して「分かってやって」いたら、世に宗教戦争というものはなくなるはずではないか。そういう意味で宗教が分かっていないのは、吉本氏の方だと思われる。

なぜ「分かってやる」必要があるのだろう?と読んでいくと、ようするに吉本氏が「親鸞」を思想家として高く評価していて、「親鸞」の「悪人正機説」からして慈悲の心で悪人も救済するという前提があるから、「麻原を包み込むように」理解してやらねばならない、のだろう。俺はごめんだね、あんなオッさんを「つつみこむ」のは。だいたい救済してくれるのは「阿弥陀様」という人外なのだから、阿弥陀様を信じていない限りそんな議論は成り立たないはずなのだが、いったい吉本氏は阿弥陀様の信者なのかというと、どうもそんなことはない。

阿弥陀様の信者でなければ、オウムの信者なのだろうと勘ぐられても仕方のないところはある。そうでなければ「分かってやる」必要がそもそもない。必要はないけど分かってやるというのは、人間として正しい態度だが、まわりの関係ない人に対して「おまえらは宗教が分かっていない」などと言うのは大人の行為ではない、ということだ。吉本氏は麻原(松本)の信者ではないとしても、その教義になにか積極的に評価すべきものを見ていたのだろうか。そうでもないらしい(中沢新一氏はあきらかに「評価」していたという点で違う)。驚くべきことに、吉本氏が麻原(松本)を評価するのは、サリン事件という悪の巨大さから類推して、その思想にも巨大なものがあるだろうと「期待」しているのだ。それは、はっきり言っている。だから吉本氏は裁判で麻原(松本)が宗教的発言をすることを楽しみにしているというのだ。よくとってもこれは「野次馬」でしかない。もちろん悪くとれば社会に対する「悪意」だ。

この悪の巨大さということを、吉本氏は親鸞の「造悪論」と結びつけていて、ようするに親鸞が「善人でも救われるのだから、悪人はもっと救われる」と言った言葉尻をとらえて「じゃ悪をやったほうが救われるのだから悪をやろう」という連中が現れたということと麻原(松本)の「悪」はパラレルだと考えているのだ。その前提がサリン事件はなんの目的もなく無関係の人を殺したから、普通の意味でのテロではなく、宗教的な「悪」の問題を突きつけてるんだと言うのだが、そうなのか? 松本サリンにしても地下鉄サリンにしてもそれぞれに裁判官を殺すとか強制捜査を撹乱するなどの「実利的」な目的はあったのではないか。さらに麻原(松本)は親鸞の教えの範疇で「悪」をやったわけではない。殺すこと(ポア)は救済になるという思想はあったかもしれないが、それは悪人は救われると言う議論とは全然関係ないでしょ。なんかこのへんになると事実関係が異常に混乱しているようだ。自分の中の「理想の麻原」についての美しい物語を書きたいだけではないのか。

この本で唯一納得できるのは、オウム信者達が(私達と同じように)「自分って何だ」とか「生きてる意味って何だ」とかというようなものを求めていった、その意味とか自分といったものを「精神の<深さ>」という言葉でとらえていることだろうが、それにしたって芹沢氏がいうような「戦慄する思想の言葉」などというものではない。ようするに「宗教なき時代を生きるために」で森岡氏が使っている「宗教性」ということだと思う。いかに内的な(生命的な)意味を充実させていくか、ということだが、そこまでその重要性が分かっているなら、それを基準にして、本来「個人的」なものでしかない(それは個人が自分の頭で考え、自分で体験してしか掴むことはできないのだから)精神性の深さというものを、宗教的な「ステージ」という概念ですり替えることによって「非個人的」なものに還元してしまうオウム(というか宗教一般がそうだが)を批判しようとしないのか。

結局「宗教」というものにものすごい期待があるのだろう。「思想の自立」とは相いれないものだと思うが。しかしご自分は宗教を信じるというところへはいけない。「ちょっとちがう」などと茶を濁しつつ、「宗教は謎だ」などとのたもうている。ついさっきはひとに「宗教が分かっていない」といってた方がである。結局最後まで麻原(松本)がなにか「深い」言葉を語ってくれることを期待しつつ「でもいいとこなしで今世紀は終わるのかな」などと無責任に締めくくる。思想家なら自分で語れ

この号の目次へもどるバックナンバー総目次トップページ(最新情報)
感想・ご意見をお知らせください。 info@hirumas.com (C)HIRUMAS 1996