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Vol.7 (1996ダイジェスト)

■橋本治「宗教なんかこわくない」 (1996.6)
■長山靖生「偽史冒険世界 (1996.8)
■養老孟司「考えるヒト」 (1996.8)
■永井均「<子ども>のための哲学」 (1996.10)
■橋本治「貧乏は正しい!」 (1996.11)
■渡辺恒夫「輪廻転生を考える」 (1996.11)
■「排除の論理」のドタバ (1996.8)
■わたしの「いじめ論」 (1996.11)
■家族の本質 (1996.11)
■厚生省汚職の裏 (1996.11)
■映画「アウトブレイク」の危機管理 (1996.10)

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Vol.7

橋本治「宗教なんかこわくない」

たまたま「新潮45」という雑誌を見てたら橋本治の『宗教なんかこわくない』になんとか賞をあげたということで、選考委員の養老猛司さんが選評を書いている。これが面白くて、「生産の空洞化がいたずらな個人の神秘化をまねく」ということが、「宗教」というよりも「現代の社会」への批判として言われているというのだ。私としては「表現をしないと人はダメになる」ということをずっと考えていて、それが橋本治が言っていることと自分の中では同じ事と思っている。いぜん「クスリをやってた」という人と話していてその人がクスリによる神秘体験のさなかに「表現をしなければダメになる」と直観したという話を聞いてなるほどと思ったのだった。クスリによる体験の中で「すべてが分かった」ということはオウムだけではなくよくあることなのだろうが、その神秘的な境地の中で安住してしまえばそれで終わりで、死にも等しいものなのだろう。その人はそのことが本能的のように「分かった」のだろう。「表現する」というのは、まず自分の頭で考えてかたちをつくりあげ、それを現実の中にさらすという二つの意味あいをもっている。この選評で「自分の頭でほとんど考えない」ものが大多数とすると、宗教はあいかわらず今のまま存在しつづけることになると(養老氏は)言うが、それは基本的にそうなのかもしれない。しかし状況がそう見えるということと、悲観的になることとは違う。むしろそれはかわりつつあり、「自分の頭で考える人々のネットワーク」はつくられつつあるのではないか、という楽観主義が僕の気持ちとしては強いのだ。

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Vol.7

長山靖生「偽史冒険世界」

縄文がブームだが、先日(8月14日)の読売新聞夕刊に「南太平洋で縄文土器発見」というニュースが一面に載ってた。私はちょうど長山靖生氏の「偽史冒険世界」という本の「南の島」についての虚構についての部分を読んでいたということもあって驚いてしまった。
この本は基本的に「南の島」が日本人の故郷であるとか、南の島の人が同族であるというような幻想は、戦前の日本の南方進出の理由のためにつくったイデオロギーであるということを言いたいようなのだが、どうも単純すぎるなぁと思っていたところにこのニュースだったわけだ。「南の島」の縄文土器をどうしてくれるのか。というのは冗談としても、この本は日本人=ユダヤ人説や武内文書などの「ごく普通の感覚から見てバカげている」本をあげつらって、悪意に満ち、そういう「批判」によって何ら意味あることを語れていないという、ほとんど読んでて不愉快になる類の本である。

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Vol.7

養老孟司「考えるヒト」

養老孟司の「考えるヒト」を読み始めたが、のっけから面白い。何かを考えるとき、絶対に正しい答えは得ることはできないが、それに近づけていくということを続けていくことが大事だということで、そのためには自分の頭で考え続けて行かなくてはならないということを言っていて共感した。この人が「唯脳論」というキッチフレーズで出たときは、ようするに全部を「脳」という概念で説明しようというような「答え」を言い切ってしまった人かと思っていたので、あまり読まずにいたのだが、栗本慎一郎が光文社でつづけている「自由大学」のシリーズでの「講義」ではそういうことに収まりきる人ではないということを感じ、この「考えるヒト」ですっかりその先入観が払拭された。
ようするに「どんな科学的知であっても、その時点での仮説と考えるべき」(栗本)で、しかもこの言葉をニヒリスティックにではなくて、ポジティブにとらえ、考え続けるエネルギーにしたい。

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Vol.7

永井均「<子ども>のための哲学」

講談社現代新書の「<子ども>のための哲学」(永井均)がおもしろかった。
というか、このひとのもつ<哲学>の問いそのものは、わたし自身の<哲学>(そんなものがあるとしてだが)とは、関心のありかが違うので、面白く読んだわけではないのだが、その議論をとおして、そういうふうにそれぞれの人によって、問題の関心のありかは違うし、それでいいのだ、ということがよくわかり、非常に「ほっとする」ものがあった。
つまり「なんで自分は存在するのか」というより「なんで自分は<じぶん>であって、<ほかの誰かではないのか>」といった「子どもじみた問い」をもつことは、異常でも何でもないということがひとつ。
そして逆にえらいことでもなんでもない、ということがひとつ。
そういうことは、自分では納得しているつもりだったが、きちんと声を大にしてこういうことを言われたのは、はじめてだというそういうさわやかさであった。
なんか<哲学する>ことは、えらいことでもなんでもなく、「そういう疑問をもってしまった人が、それをすることでやっと、そういう疑問を持たない人と同じスタートラインにたてる」というような程度のものだという割り切りは特に重要で、思考することの「健全性」を保証するものだ。
ぼくだって、「哲学」を専攻するという時には、なにか「有意義な」理由がなければならないという強迫感にとらわれていた。
必要以上の「有意義性」の強調は、結局はオウム的な精神世界・宗教の「ありがたさ」というものにつながってしまうだろう。「考える」ことが、人よりえらくなることであり、人を精神的に支配することであるというような、オウムにみられる短絡性は、ぼくらの中の「哲学すること」の中にすでに潜んでいるものと同質のものかもしれないからだ。
というわけで、僕自身の「子どもの哲学」を、健全につきつめていきたいという、また新たな企画が自分の中にうまれ、楽しくなってしまった。
しかし「子ども」だけに執着しているわけにもいかないので、お読みになるかたには、同時に西研の「ヘーゲル・大人のなりかた」(NHKブックス)の併読もおすすめしたい。

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Vol.7

橋本治「貧乏は正しい!」

橋本治の「貧乏は正しい!」シリーズ(小学館)の「ぼくらの資本論」と「ぼくらの未来計画」を読んだので、もうほとんど資本主義と日本の経済システムというものが、すべて分かってしまった。もう何でもオレに聞いてくれって感じだが、もちろん橋本治の本を読んでいただければよいのではあった。
これを読んで思い知らされるのは、けっきょく世の中のシステムってのは、そこそこ「いいもの」で、問題は当事者であるひとりひとりの意識の問題だってこと。当人の意識がどうにもならないかぎり、システムをどうかえたって、何もかわらない。あたりまえのことだが、ついついシステムや「上司」などのせいにしてしまうほどに、私達は「世の中」のしくみやなりたちを知らなすぎるのではないだろうか。

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Vol.7

渡辺恒夫「輪廻転生を考える」

哲学の話である。
前に永井均氏の「子どもの哲学」を読んだと書いたが、同時期に同じ講談社現代新書から出た渡辺恒夫氏(いわゆるナベツネではない)の「輪廻転生を考える」を読んだ。二人ともに、同じ問い「私はなぜ・いま・ここにいる私なのか」というものから出発している。
渡辺氏の議論は永井氏の議論よりも「私(ひるます)の関心」に近いものがあって、面白く読んだが、そこで主張される「遍在転生説」なるものは、氏がいうほど目新しいものとは感じなかった。私の「師匠?」でもあるモロネ(仮)という人が、すでに私にあきるほど言って聞かせていた話だからだ。同じ様なことを考えてる人がいるのは、うれしいことではある。
しかし、この永井・渡辺の両氏とも、「私」が、「私」であって、なぜ他の誰かではないか?ということが、根本的に問題として感じられているようなのだが、私にとってはこの手の問いは、「なぜ私は私として生きているのか」というように、「生きている」ことそのものへの不思議として感じられる。
他の誰かであったとしても、やっぱりその他の誰かとして生きて、自分を意識するとき「私は私」でしかないと思うからだ。とすると、問題は「なぜ他の誰かではないか?」ということよりも、どの人間であれ、動物であれ「なぜ生きている」ということが、ありうるのか?、「生きている」ことそのものが不思議だということになるではないか。かの二人は「哲学者」だから、哲学的に考えてしまうのかもしれないが、あるいは「生命の発生」がすでに科学的に説明がついた、というような前提にたっているのではないか。私は全然そのことに説明がついたとは思っていないのだが。
ともかく、詳しく書いているヒマはないが、それをマンガで書いたのが、肥留間氏の魔法の本・生命論ブックガイドなのである。先日も紹介した山口實氏の「生命のメタフィジック」がもっとも参考になった。このへんのことはいずれくわしくまとめてみたい。

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Vol.7

「排除の論理」のドタバタ

武村正義という男について。

有能な社員(鳩山)が独立するという時に、強引にその独立会社に、自分の会社をまるごと入れた上で、自分は会長に納まるぞということでしょ。しかもそれを独立しようという社員に相談して決めるのではなくて、自分の会社の幹部(菅・田中・園田等)を抱き込むということで決めてしまう。この強引さ、あつかましさ。

ちょっと冷静にみれば、この武村氏がはじめから蚊帳の外なのははっきりしている。それがなんとなく武村氏に発言権があるかに見えてしまうのは、まえまえからやるとかやらないとかいってた武村氏が仲良くしていた半民半官会社(社民党)の社長である村山氏との合併話があり、鳩山社員の独立話をその合併を推進するためのものであるというように、読み換えさせる強引さにある。

すべてを自分の文脈に読み換えさせ、しかもそれを実現してしまう手腕。それがこれまでの武村氏の「政治」の根幹だったのであり、マキャベリストといわれるゆえんだろう(強引さということでは小沢氏以上なのではないか)。

はたから見れば、この二つの道はまったくコンセプトが違うものであり、その選択に「迷う」ような余地はないことは明らかだ。それをあたかも「迷う」性質のものであるかに見せてしまう、この武村という人が「すごいな」と思ったわけだった。

なんかもう政党である必要ってなにもないんじゃないかという気がする。武村氏がさきがけ代表を辞任するそうだが、これはちょっと意外だった。さきがけはいまこそ「政党である必要ってあるのか」という問いをつきつけられていると思う。そんな必要なんでないんだということを見せてほしいとも思う。個人として立ち、個人として信託されて個人として責任を負えばいいじゃないか、と思う。

思想家とか言論人とかインターネット発信人はみなそうしている(みなではないか・・)。政治家だって個人でいいじゃないか。

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Vol.7

わたしの「いじめ論」

航海日誌で中井久夫のいじめ論が「仏教」誌に載っていることを告知したが、ここで私じしんのいじめ論を書いておきたい。

いじめは「目的意識」のない場所に発生する。

厳密にいうと、実体的な(現実感をもちうる)共通の目標が失われた場所に発生するというべきだろうか。軍隊のいじめも実際に敵と戦っている最中にはできないだろう(そういえば映画「プラトーン」では、敵との激戦のさなかに味方同士が殺しあうという場面があったが、そういうこともあるのかもしれないが、これはいじめというレベルではないだろう)。とすると学校でのいじめは、受験戦争による非人間的教育の結果ではなく、むしろ学問することの不徹底さ(学校が学問するにはあまりにヒマであること)から来るのではないか。

もちろんこれはブラックに語っているのだが、学問することがイコール受験戦争だというのは、あまりにイメージが貧困だ。なぜ学校は学問することのヨロコビを伝える場所ではないのか。それがそもそもおかしい。

学問することを喜ぶ場所である、と学校を規定してしまえば、すなわちそこにいることの目的をはっきりと生徒や教師に「意識」させれば、おのずからそこでどうすることがよいかということも、はっきりと意識され、いじめによって何かを主張することが変だと言うこともはっきりと意識されるはずではないか。しかし、学校は、そのような場所だと自己規定したこともなく、あいまいなままの現状では「いじめられる方も悪い」という主に主婦層の人々が思いつきそうなバカな論理の横行を許すだろう。

学問する、だけでなく共同生活などを学ぶところだ、と言いたいのであれば、学校とは別の組織を同時につくって子どもを通わせればよいのではないか。たとえば月曜・火曜・水曜は「学問所」へ。木曜は、アウトドアスクールへ。金曜はボランティア活動へ。など。しかもそれぞれの場によって、クラス編成はまったく変える。

あくまで学問を喜ぶ場所として「学問所」はある。それが将来のための(学歴としての)道具にされた場合、目前の学問の意味あいは急速に喪失して、学問するという行動自体が無意味になり、ニヒリスティックな人間をつくりだす。これがいじめの温床だ。学問を喜ぶという態度を教え込むことは、ひょっとするとその場しのぎの受験に逆効果だという意味で、主婦層などに反対されて出来ないのだとバカな教師は言い訳するかもしれないが、実態は学問を喜ぶということを「知っている」教師がいないことがもっとも大きな原因ではあろう。しかしもし子供達に「学問のヨロコビ」を教えることが出来るなら、それは結果的には日本の「国力」の増大となることはまちがいないのだから、このことは日本の自由主義経済にとっても合目的的なのである。よいことづくめなうえに、法律を変える必要すらないのだから、教師がやらずにいるのは、たんなる怠慢だろう。そんなことだから「大企業に就職できないから教師になったおちこぼれ」として生徒にさえバカにされてしまうのだ。

目的を喪失して、身内の人間関係などに「問題」を発見してはそれを槍玉にあげ、真の問題解決を回避して「内向き」になってしまうのは、日本の企業や政治にもよく見られることで、とくに珍しいことではない。いじめ「問題」はそういう意味もふくめて私(たち)にとっても切実な問題なのである(なお、現在はこの「学問所」うんぬんについては、考え方を変えているので、小浜逸郎「子どもは親が教育しろ!」についての書評をごらんください)。

付記

ところで、最近、いじめられた子が親にそのことを話せない、というのを、「プライド」や「いじめる子」への気遣いであるというような説明があるようなので、ひとこと言っておきたい。

そのことを話せない、としたら、単純に「言語がない」のだ。いじめられてる空間といじめられてない家の空間とはまったく別の時空間であり、そこで形成されてる「自己」というか「人格」というかもまた別のものだろう。二つの時空がそれほど格差がない場合は、二つの自己を統一的に把握することになんの障害もないが、このように「いじめられる」時空とそうでない時空との間での格差は、それこそ天地の差であるから、それを統一的に把握することはそもそも無理があるし、その一方の体験を他方の空間に「言語的に把握して持ち込む」こと自体、たいへんな精神的エネルギーを要する作業であろうことは想像できる。

ま、想像にすぎないのだが、なんでそんな想像が出来るかというと、オレがいなか(岩手)に電話したり帰郷したときは当然、ズーズー弁でしゃべるのだが、その時空での体験をこちら(東京)で誰かに伝えようとすると、いちいちその体験を標準語で把握し直し(体験し直し)その結果としてやっと言葉にしてしゃべることができるという、えらいたいへんな作業を要しているからである。

ようするにその場という現実にあわせてというか、ながされ、受動的に自己が決められているから、こんなことになっているのである。「現実を凌駕する言葉を得た者を大人というのです」とは、今度の京極の新作の中にあることばで、私がいちばん気に入ったものだが、そんなにも「言語の獲得」とは難しいものなのだ。自然に言語が身に付いていて、多様なレベルの現実もつねに語りうるのだなどと思いこんでると、そのうちえらいしっぺ返しを受けることになるだろう。

こどもは当然、そういう「異なるレベルにある現実を踏み越えていくことば」を持ち得ない(それゆえに子どもなのだ)から、大人がそれをくみとってやれよ、というのが結論だ。言葉にならない言葉、自然なしぐさの中にある表現を読み取っていく力も、大人は身につけなくてはならないのだ。

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Vol.7

家族の本質

橋本治の「ぼくらの・・」シリーズだが、「家」とは戦前までの社会的組織であり、つまり「社会」そのものであったが、すでにそれは制度としてはない、にもかかわらず、現在の「家」が、同じ「家」という言葉を使うために、同じものであるかのような錯覚を生んでいるという指摘があって、非常におもしろかった。

では現在の「家」とはなんなのか、と言えば、じつはまだ何の規定もないもので、橋本治は「いえ」は「ようするに帰ればホッとするところであればいい」と言っているのだが、まさにその通りだろう。制度としてこれからどうなるか、ということはさておいて、親子・夫婦の関係を中心にした(それ以外の関係も含めて)「家」的なつながりの機能は、「ホッとする場所になること」ということでよいのだろう。

家族の一員である子どもが社会とかかわるような局面で、「しつけ」が、成員である大人が社会とかかわる局面で「しごと」が、生じてくるだけであって、それ自身は「いえ」の機能ではない。「いえ」そのものが教育機関であったり、仕事のための生産機関であったりしようとするところに、そもそも錯誤があり、いろんな無理が生まれる。

「東大卒の父・金属バットで息子を殺す」というニュースに思うのは、この父は家を「ホッとする場所」にしようというよりは、やはり「教育」しようと必死だったのだろうということだ。それまでの対策や、殺し方に、そういう悲しいまでの「いっしょうけんめいさ」が感じられるのだ。

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Vol.7

厚生省汚職の裏

エイズにひきつづき、厚生省の収賄事件がいきなり発覚したが、ここで何が問題かをはっきりしておくべきだろう。収賄によって便宜をはかったということが、悪いと人はいう。しかし、そもそもの問題は「ここには便宜によって供与されるような国家の金(予算・補助金)がある」ということなのだ。「ある」ということは、いずれは誰かにそれが供与される、ということでもあるのである。いずれは供与されるべき「金」を便宜によって独占した、ということが贈賄側の「罪」になる。たいていの建設汚職や談合はこの「金」の分配をめぐる問題なのだ。

ようするに「国」の発注する仕事で食ってる人たちが多数存在するわけで、今回の老人施設などは、なんと資金の94パーセントまで国と自治体の補助金だと言う(TBSニュース23)。そんなに金が出るなら、実行者(業者)は、それこそ誰でもよかったということになる。誰でもいいなら便宜を図った人に回すというのはあたりまえの流れだろう。しかしそれは、実態としては、ほとんど「国の事業そのもの」である。いつのまに日本は社会主義国家になったのか?(明治政府はそもそも国家社会主義だという話もある)。逆に言えば、社会主義の国はすごい「汚職」だらけだったろうな、ということでもある。

というわけで、事業の主体は誰でもいい(実態としては国である)というような状況がすでにある、ということがそもそも問題なのではないか。そんなことであれば、国はすべての事業をくじ引きで発注するしか「公正さ」を発揮できなくなるではないか。

もちろん実態はそんなもんではなく、とくに贈収賄として問題にされるものではなくとも、特定の「コネ」によって国の事業を占有し、国の金で食っている人は、ごまんといるのである。自分の才覚と資金と体力でまじめに働いている人は知らないかもしれないが。

いわゆる「出入り業者」の「既得権」というものが生じていて、入札という発想すらないところがほとんどではないだろうか。その厖大な金の流れにくらべたら、収賄事件などはたいしたことではない。もちろん収賄事件そのものは徹底的に叩いていただきたいが、そのことによって終わってはならない。問題は分配システムそのものの検証だ。分配というか、そもそも予算として使うことが必要なのかどうかも含めて。だいたい「汚職」につながるということは、その仕事を分配してもらうことで、その「わいろ」をこえる「利潤」が当て込まれているからこそ、「わいろ」を送ってもなおかつ贈賄側は儲かるということである。当たり前だが。ということは、それだけ「税金」がむだに分配されているということであり、その場合「わいろ」は明らかに税金ではないか。そこがほんとうの問題だろう。

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Vol.7

 映画「アウトブレイク」の危機管理

古い話で恐縮だが、ワウワウで映画「アウトブレイク」を見たのだ。ウィルスによる感染症がある町をおそい、それを軍が封鎖して「危機管理」をするが、それがなぜか軍上層部の陰謀と結びついて行き過ぎてしまう、そんな話で、映画はヒューマニズム的な立場から、その行き過ぎに「対抗する」人物(ダスティン・ホフマン)をヒロイックに描く。しかし、見ているこっちは、そういう行き過ぎへの批判以前に日本ではここまでの危機管理がそもそもできないのではないかということが気になる。
O-157でさえ意志によってではなく結果として止まっているだけなのは、いまだにそれがくりかえされていることからもわかる。危機管理の無能さは、村山政権下での阪神大震災対応に皮肉にも象徴されたように、管理社会的なもの、国家的なもの、公共的なものへの国民レベルでの無意識的な「忌避感」が助長してきたものである。「アウトブレイク」という映画はそういう危機管理的なものへのアレルギーに訴えるようなバカな作品ではなかったので、見ていて爽快なのであった。

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