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航海日誌で中井久夫のいじめ論が「仏教」誌に載っていることを告知したが、ここで私じしんのいじめ論を書いておきたい。
いじめは「目的意識」のない場所に発生する。
厳密にいうと、実体的な(現実感をもちうる)共通の目標が失われた場所に発生するというべきだろうか。軍隊のいじめも実際に敵と戦っている最中にはできないだろう(そういえば映画「プラトーン」では、敵との激戦のさなかに味方同士が殺しあうという場面があったが、そういうこともあるのかもしれないが、これはいじめというレベルではないだろう)。とすると学校でのいじめは、受験戦争による非人間的教育の結果ではなく、むしろ学問することの不徹底さ(学校が学問するにはあまりにヒマであること)から来るのではないか。
もちろんこれはブラックに語っているのだが、学問することがイコール受験戦争だというのは、あまりにイメージが貧困だ。なぜ学校は学問することのヨロコビを伝える場所ではないのか。それがそもそもおかしい。
学問することを喜ぶ場所である、と学校を規定してしまえば、すなわちそこにいることの目的をはっきりと生徒や教師に「意識」させれば、おのずからそこでどうすることがよいかということも、はっきりと意識され、いじめによって何かを主張することが変だと言うこともはっきりと意識されるはずではないか。しかし、学校は、そのような場所だと自己規定したこともなく、あいまいなままの現状では「いじめられる方も悪い」という主に主婦層の人々が思いつきそうなバカな論理の横行を許すだろう。
学問する、だけでなく共同生活などを学ぶところだ、と言いたいのであれば、学校とは別の組織を同時につくって子どもを通わせればよいのではないか。たとえば月曜・火曜・水曜は「学問所」へ。木曜は、アウトドアスクールへ。金曜はボランティア活動へ。など。しかもそれぞれの場によって、クラス編成はまったく変える。
あくまで学問を喜ぶ場所として「学問所」はある。それが将来のための(学歴としての)道具にされた場合、目前の学問の意味あいは急速に喪失して、学問するという行動自体が無意味になり、ニヒリスティックな人間をつくりだす。これがいじめの温床だ。学問を喜ぶという態度を教え込むことは、ひょっとするとその場しのぎの受験に逆効果だという意味で、主婦層などに反対されて出来ないのだとバカな教師は言い訳するかもしれないが、実態は学問を喜ぶということを「知っている」教師がいないことがもっとも大きな原因ではあろう。しかしもし子供達に「学問のヨロコビ」を教えることが出来るなら、それは結果的には日本の「国力」の増大となることはまちがいないのだから、このことは日本の自由主義経済にとっても合目的的なのである。よいことづくめなうえに、法律を変える必要すらないのだから、教師がやらずにいるのは、たんなる怠慢だろう。そんなことだから「大企業に就職できないから教師になったおちこぼれ」として生徒にさえバカにされてしまうのだ。
目的を喪失して、身内の人間関係などに「問題」を発見してはそれを槍玉にあげ、真の問題解決を回避して「内向き」になってしまうのは、日本の企業や政治にもよく見られることで、とくに珍しいことではない。いじめ「問題」はそういう意味もふくめて私(たち)にとっても切実な問題なのである(なお、現在はこの「学問所」うんぬんについては、考え方を変えているので、小浜逸郎「子どもは親が教育しろ!」についての書評をごらんください)。
付記
ところで、最近、いじめられた子が親にそのことを話せない、というのを、「プライド」や「いじめる子」への気遣いであるというような説明があるようなので、ひとこと言っておきたい。
そのことを話せない、としたら、単純に「言語がない」のだ。いじめられてる空間といじめられてない家の空間とはまったく別の時空間であり、そこで形成されてる「自己」というか「人格」というかもまた別のものだろう。二つの時空がそれほど格差がない場合は、二つの自己を統一的に把握することになんの障害もないが、このように「いじめられる」時空とそうでない時空との間での格差は、それこそ天地の差であるから、それを統一的に把握することはそもそも無理があるし、その一方の体験を他方の空間に「言語的に把握して持ち込む」こと自体、たいへんな精神的エネルギーを要する作業であろうことは想像できる。
ま、想像にすぎないのだが、なんでそんな想像が出来るかというと、オレがいなか(岩手)に電話したり帰郷したときは当然、ズーズー弁でしゃべるのだが、その時空での体験をこちら(東京)で誰かに伝えようとすると、いちいちその体験を標準語で把握し直し(体験し直し)その結果としてやっと言葉にしてしゃべることができるという、えらいたいへんな作業を要しているからである。
ようするにその場という現実にあわせてというか、ながされ、受動的に自己が決められているから、こんなことになっているのである。「現実を凌駕する言葉を得た者を大人というのです」とは、今度の京極の新作の中にあることばで、私がいちばん気に入ったものだが、そんなにも「言語の獲得」とは難しいものなのだ。自然に言語が身に付いていて、多様なレベルの現実もつねに語りうるのだなどと思いこんでると、そのうちえらいしっぺ返しを受けることになるだろう。
こどもは当然、そういう「異なるレベルにある現実を踏み越えていくことば」を持ち得ない(それゆえに子どもなのだ)から、大人がそれをくみとってやれよ、というのが結論だ。言葉にならない言葉、自然なしぐさの中にある表現を読み取っていく力も、大人は身につけなくてはならないのだ。
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