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個人的な知
「個人的な知」とは、マイケル・ポランニーの著書「人格的知」の、栗本慎一郎による「訳語」だ。ポランニーは科学のような「普遍的な知識」と思われているものでも、そもそもは個人個人が、その対象にのめり込み(潜入し)、身体的とでもいうような「過程」を経て、つかみとった(そのアイデアを生み出した)という意味で、「個人的な知」なのだと言ったのだ。どんな知識であれ、きわめてパーソナルなコミットの結果として提出されたアイデアなのだ。そういう意味で、知識は「結果」であり、それだけを得たからといって何も「知った」ことにはならない、というのは、とくに哲学など人文系の知識ではあたりまえのことだが、いわゆる「科学」という分野になると、そこがむずかしい。
きのう、TVをつけてたら「ジェラシックパーク」をやってたのだが、ちょうどつけたときに、サブ主人公のカオス学者が、ジェラシックパークの経営陣を批判して、「きみたちは他人が考えたことの結果(としての知識)を利用しているだけだから、その知識を使った結果についての責任は考えてもいない」というシーンだった。
ここではまさに、単に結果としての知識を得ただけの人が、それを金儲けに利用できるという「科学」の性質をついているとともに、もうひとつ、これまでとは違った「科学者の倫理」が言われているようで、面白かった。
つまり今までは、科学の知識そのものは、普遍的なものであり、誰でも利用可能なものだということが前提であり(逆に誰にでも利用可能だからこそ科学は普遍的だと通念されてきたのではないか?)、科学は普遍的なりという前提の上で、個々の科学者が、その使用についての倫理的な判断をになわされるという図式だった。つまり、アインシュタインが原爆について悩んでみせるのは、なんら科学にとっての必然ではなくして、偶然的なセンチメンタリズムであるというような解釈がそれだ。
それに対して、この「ジェラシックパーク」では意図してかどうかは知らないが、この科学の「個人的知」としてのあり方と、それにともなう「責任」がはじめてリンクして語られているのが興味深いと思ったのだ。
これはようするに僕の言葉で言えば、「科学といえども表現である」ということだ。表現である以上、それを語ったものは、その語ったことについて責任を持って、自分の身をその(他者との境界の)矢面にたたせなくてはならない。きわめて当たり前のことである。
このことが「科学」の領域で意識されだしている、ということだろうか。すべての人が表現者として自覚しなくてはならないということは、(もはや)言わないが、少なくとも「科学者」は「表現者」だと言う自覚をもつべきだろう。
もっとも「科学」と「人文」という分類すら意味がなくなってくるという状況がその基盤にはあるのだろう。また「文学」というものも。いずれにせよ、個人が対象に没入し、血みどろになりつつ?持ち帰ったものとしての「個人的な知」以外、「読む」に値するものがなくなるだろうことだけはたしかだろう。
「ジェラシックパーク」と言えば、最近の「複雑系」ブームにつながっていくが、この「複雑系」とやらがそういう意味での「個人的な知」に値するかどうか。ともかくちらちらと読み出してはいる。
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