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Vol.8 (1997年1〜2月ダイジェスト)

■鶴見俊輔・池澤夏樹の対談 (1997.2)
■Dの食卓 (1997.2)
■バイオハザード (1997.2)
■個人的な知 (1997.2)
■瀧野隆浩「宮崎勤 精神鑑定書」 (1997.2)
■岸田 秀「官僚病の起源」 (1997.2)
■徳南晴一郎「復刻版・怪談 人間時計」 (1997.1)
■野口悠紀雄「1940年体制」 (1997.1)
■池田晶子「メタフィジカル・パンチ」 (1997.1)
■村上 龍「ヒュウガ・ウィルス」 (1997.1)

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Vol.8
鶴見俊輔・池澤夏樹の対談

人につきあって、鶴見俊輔・池澤夏樹の対談というか講演会のようなものに行ってきた。鶴見さんというと、昔、ガロを読んでいたころに活躍されていた記憶があるので、なつかしく思ったが、いまだ健在であるということに驚いた。この講演会は鶴見さんがホストとなって、ゲストをよび、「日本人のこころ」について考えるというシリーズらしいのだが、これまで養老孟司・四方田犬彦氏などをよんで、今回が池澤氏ということなので、こういう顔ぶれからも鶴見氏の「健在さ」がうかがわれる(この対談シリーズはそのうち岩波から出版されるそうだ)。

池澤さんの小説はまったく読んでなかったのだが、講演を聞いた限りでは、私の関心にも非常に近く、親近感を感じた。池澤氏は北海道生まれということで、子どもの頃友達に「自分にはアイヌの血が流れている」とウソをついていたという、ウソの楽しみについて語っていたが、これは私もやっていた。私は岩手出身なのだが、祖母が北海道出身で、近所の人々がいかにも東北風に「白い人」ばかりの中で、私の一族だけが、色黒なので、そういうことを言っていたのだ。自分が「異人」であるという物語はなかなか気分がいいものなのである(実際に「差別」される人からみればとんでもないかもしれないが)。しかし高橋克彦の「炎立つ」を読んで、岩手の人は、平安末期、俘囚といわれて、植民地化の人々と考えられていて、ようするに外人または人外であったということがわかった。とすれば俘囚の末裔ということでいいわけだから、わざわざ「アイヌ」をかたらなくてもよくなったのだった。

池澤氏は、日本の「国家」という物語に対して、個人の物語が重要だというようなことを言っているが、この「ウソ」というものがその基盤となるのだろう。結局もんだいは、個々の生活を(精神的にというか、物語的にというか)豊かにすることであって、小説はそのための道具・手段であるという。作品をそのようにみなす態度は、文学者にはめずらしく、スカッとしていてよい。

それはさておき、鶴見氏は「私とは母親である」という。ようするに生まれつきの人格というものはなく、母をコピーしたものが基盤になり、それがだんだん心の底のほうに沈澱していき、やがて「私とはたくさんの人々が交流する場のようなもの」になるという。これはサリヴァン(精神科医)のいう「人格は人間関係の数だけある」ということとつながるものだろうが、だから人格は幻想だ、という方向へいってしまうのが現代思想だとすると、鶴見氏は、そういうガキの思想ではなく、ちゃんとそこでもがき苦しんでいる人格というものを見つめ、肯定している。

そのことは日清・日露戦争後、日本に「個人」はいなくなってしまった、という議論にもよく表れている。「個人」とは肩書きや・学歴・所属する団体のパワーなどに頼らずに、他者に直面できる人のことだ。養老孟司もこの「個人がいなくなった」ということをさかんに言っていたが、彼の場合いなくなったのは江戸時代からということになる。しかし時期的なことは問題でなく、ようは「個人」を中世(とくに鎌倉仏教の創始者たち)に見出す(養老氏)か、幕末の志士から明治初期の日本人像に見る(鶴見氏)かの違いにすぎない。ようは現在の「わたし」が個人として立っているか、ということだ。たとえばこの「ひるます」は、読んでくれている人にとって「個」たりえているか。

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Vol.8
Dの食卓(プレイステーション)

先日書いたように、バイオハザードをクリアしたので、調子に乗って中古ソフト屋でDの食卓を買ったのだが、これがメチャクチャつまらない。

なんかすごいというウワサだし、彼(Dの食卓の作者・飯野さん)の新作「E0」はセガサターンのソフトなので、とりあえず旧作から、と思って買ったのだが、まったく失敗だった。まえの項(バイオハザードについて)で、人の目の位置からの視点でこういうゲームをすると非常につまらないものになるのではないか、と予想したが、まさにこの「D食」(Dの食卓)はその「視点」からのゲームだったのである。この視点でリアルに見せようとするために、わざわざ手ぶれのように画面がゆれるが、何を考えているのか。我々の視界はこんなふうに揺れたりしていないではないか。目の筋肉で物理的に手ぶれ防止機能を使っているのか、脳の方でソフト的にぶれ情報をキャンセルしているのかはしらないが、そういうものなのである。

また作者側で意図したポイントに視線がくぎづけになって、行動が一方向に制御されてしまい、自分の意図したようには動き回れない。まったく自由度がないのである(時間が制限されているのに、走ってはやく移動することもできない)。このため、作者が厖大なデータをつかいつくり出した3D空間が、「空間として」は生きてこないのである。もう一回基本的な認識論からはじめたほうがいいのではないか。

こういった基本的な視点の問題以外にも、そもそもこの作品の描き出そうとしているドラマがどうも面白味に欠けること、主人公に魅力がないこと(中途半端なリアルさ)、セーブできないことなど、それこそ根本的な問題が多すぎる。なんでこんなものが「作家性」があるだとか、傑作であるとかもてはやされているのか。とにかく私は怒っている。

しかし、そうやって怒ったあとで、ゲーム雑誌などをみてみると、どうもバイオハザード以上に「面白そうな」ものは見あたらない。ひょっとして一番最初に一番いいものをやってしまったのだろうか。

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Vol.8
バイオハザード(プレイステーション)

先週、遅ればせながらプレイステーションを購入し、まるまる一週間ばかり「バイオハザード」にはまっていた。

「バイオハザード」は、古い洋館の中でゾンビを倒したり逃げたりしながら、ゾンビの謎を解いていくといったアクション・RPGゲームだが、これまでこういった類のゲームをまったくやったことがない私だったが、するっと入っていけて、どっぷりとはまって抜け出せなくなった。だいたい休日で12時間、平日で6時間以上はやっていたのではないか。それで一週間かかったことからおわかりのように、私は異常に?へたくそで(初心者だし、年だし)時間がかかったわけだが、それでもまったく飽きることなく、続けさせられてしまった。それはこの3D画像の美的なセンスにもよるだろう。また3Dの世界の中を歩いたり走ったりすることそのものの快感らしきものが、どうもあるようだ。

普通のゲームの操作は、温泉ホテルなどによくある「レーシング」のゲームなどを思い出してみるとよく分かるが、基本的にモニターに映っている画像は、このゲームをしている「私」の視点から見える映像であるが、この3Dゲームの場合、モニターに映し出されているのは、このゲーム世界で、冒険をしている当のキャラクターである。つまり、画像にはそのキャラクターを中心とした「風景」が、映画のような中空の視点から映し出されているわけだ。この「風景」をみながら、キャラクターを操作するとどうなるかというと、当然だが、キャラクターの前後左右と自分自身の前後左右は違うから、方向がおぼつかなくなり、まさに右往左往してしまうことになる。

ところがなぜか、やっているうちに、これが自然に動かせるようになる。実際に見えている「見え」が手元のコントローラーの方向をしめすキーとはまったく異なるにもかかわらず、これがスムーズに動いてしまう。これは心理学における逆さ眼鏡の実験を思い出させる。これは視界が上下逆転する眼鏡をかけて生活するという実験なのだが、はじめはまったく日常的な行動ができないのに、やがてそれに「慣れ」、普通に暮らせるようになる、というものだ。とくにおかしいのは、この眼鏡をして立ち小便をすると、それが顔に向かって落ちてくるように感じるのだが、やがて平気でできるようになる、というものだ。

そもそもこうやって正面を見て、見えている映像自体、網膜には逆に逆に映っているのだから、驚くことはないが、上下左右が、視覚にとって固定的なものではないように、どうも「視点の位地」も固定的なものではないようだ。それが上方に移動して、下を見下ろしている視点をとるのが、典型的な「臨死体験」というやつだろう。つまり視覚とは、本来「バーチャル」なものなのだ。

また逆に、このゲームがもし「自分」の視点からみた画像だったら、こんなに面白くはなかったのではないだろうか。このゲームをしている期間、私は(寝不足のせいもあるだろうが)どうも、建物、階段、廊下、テーブルなどがすべて3D画像に見えてしょうがなかった。つまり「風景」の中に見えているキャラクターを自分の意のままに動かせるようになる、ということは、逆から言えば、自分の「からだ」が、その「風景」の中に入り込んで(潜入して)いたということなのだ。だから、身体が3Dの中を歩いてまわってきたような感覚を記憶してしまって(まわりが3Dに見えて)いるのだろう。そこでこのゲームが自分の視点からみた画像だったら、そんなふうに「身体的に潜入する」ということが起こり得ただろうか? どうも仮の話で恐縮だが、もしも自分の視点からの映像だったら、単に視覚的な記憶(たいがいの映画がそうだ)にとどまるのではないだろうか。つまり、「からだ」が対象に潜入して、いわば「技術」を修得するかのように、身体=世界を作り出していくというところに快感が生じているのではないだろうか。

もう一つ言えるのは、この「風景」としての別の視点からの映像の方が、私たちの「自然な視覚」に近い、ということではないだろうか。つまり「視覚」だけを考えるから、自分の顔の位置を中心とした画像を考えてしまうけれども、ぼくたちは自然に暮らしているときは、しょっちゅう視線や、顔を無意識に動かして、周囲の情報を大量に仕入れている。だから、自分のまわりの「風景」というものが、無意識に、いくぶん想像的にではあるけれども、構成されている。自分の側に視点を固定されたゲームでは、真横や斜め後ろの情報を得るために、わざわざコントローラー(など)で視点を移動させて、情報を得ることになるのだろうが、普通はそんな面倒なことはしない、ということである。月面探査機を操作するだとか、モビルスーツを操縦するなどの設定でなら「自然」なのだろうけれど。しかし考えてみると、ロボット対戦ものなどのアニメでも、自分の視点からみたモニターを見ながら闘っていることが多いようだが、別視点の画像をみながら闘った方が、情報量が多いから有利なのではないだろうか。搭乗者もこういったゲームで、そういう視点からの操縦のほうが慣れているはずだし。

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Vol.8
個人的な知

「個人的な知」とは、マイケル・ポランニーの著書「人格的知」の、栗本慎一郎による「訳語」だ。ポランニーは科学のような「普遍的な知識」と思われているものでも、そもそもは個人個人が、その対象にのめり込み(潜入し)、身体的とでもいうような「過程」を経て、つかみとった(そのアイデアを生み出した)という意味で、「個人的な知」なのだと言ったのだ。どんな知識であれ、きわめてパーソナルなコミットの結果として提出されたアイデアなのだ。そういう意味で、知識は「結果」であり、それだけを得たからといって何も「知った」ことにはならない、というのは、とくに哲学など人文系の知識ではあたりまえのことだが、いわゆる「科学」という分野になると、そこがむずかしい。

きのう、TVをつけてたら「ジェラシックパーク」をやってたのだが、ちょうどつけたときに、サブ主人公のカオス学者が、ジェラシックパークの経営陣を批判して、「きみたちは他人が考えたことの結果(としての知識)を利用しているだけだから、その知識を使った結果についての責任は考えてもいない」というシーンだった。

ここではまさに、単に結果としての知識を得ただけの人が、それを金儲けに利用できるという「科学」の性質をついているとともに、もうひとつ、これまでとは違った「科学者の倫理」が言われているようで、面白かった。

つまり今までは、科学の知識そのものは、普遍的なものであり、誰でも利用可能なものだということが前提であり(逆に誰にでも利用可能だからこそ科学は普遍的だと通念されてきたのではないか?)、科学は普遍的なりという前提の上で、個々の科学者が、その使用についての倫理的な判断をになわされるという図式だった。つまり、アインシュタインが原爆について悩んでみせるのは、なんら科学にとっての必然ではなくして、偶然的なセンチメンタリズムであるというような解釈がそれだ。

それに対して、この「ジェラシックパーク」では意図してかどうかは知らないが、この科学の「個人的知」としてのあり方と、それにともなう「責任」がはじめてリンクして語られているのが興味深いと思ったのだ。

これはようするに僕の言葉で言えば、「科学といえども表現である」ということだ。表現である以上、それを語ったものは、その語ったことについて責任を持って、自分の身をその(他者との境界の)矢面にたたせなくてはならない。きわめて当たり前のことである。

このことが「科学」の領域で意識されだしている、ということだろうか。すべての人が表現者として自覚しなくてはならないということは、(もはや)言わないが、少なくとも「科学者」は「表現者」だと言う自覚をもつべきだろう。

もっとも「科学」と「人文」という分類すら意味がなくなってくるという状況がその基盤にはあるのだろう。また「文学」というものも。いずれにせよ、個人が対象に没入し、血みどろになりつつ?持ち帰ったものとしての「個人的な知」以外、「読む」に値するものがなくなるだろうことだけはたしかだろう。

「ジェラシックパーク」と言えば、最近の「複雑系」ブームにつながっていくが、この「複雑系」とやらがそういう意味での「個人的な知」に値するかどうか。ともかくちらちらと読み出してはいる。

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Vol.8
瀧野隆浩「宮崎勤 精神鑑定書」(講談社)

なんか繰り返しやもったいつけた表現で、肝心なことが語られなかった印象がある。食い足りないというか、浅い本だ。

出だしは、宮崎事件のディテールを忘れていることもあるし、宮崎の鑑定書・とくにその中での宮崎が書いたという「小説」の引用などが、興味を引きつけ、著者のドキュメントタッチの筆致も魅力的に感じられ、引き込まれたのだが、いつまでたっても、著者の視点がはっきりしないし、かといって、この事件の全体像がはっきりとつかめる資料的な位置づけをもつ本でもないので、読後感にそういった印象をもってしまうのだ。

つまりいったい人格ってなんなのか?とか、宮崎が「多重人格」だったらとしたら、いったいどうなのか、というもっとも興味のある点がぼかされてしまっているのだ。

著者はえんえんと多重人格なのかどうなのかをめぐって、あれこれ悩んでみるのだが、最後に服部雄一氏の談として「多重人格だから罪をとえない、ということは、アメリカでさえない」という言葉を引いている。これは僕にはきわめて当たり前のことと、思われるのだが、その点、日本ではどうなのか。日本ではそもそも「多重人格」という病名は認められていない、という。先日読んだ精神科医・春日武彦氏の「ロマンチックな狂気は存在するか」という本でも、多重人格という「病気」はない、と書かれていた。春日氏は「風邪という病気はあっても、咳という病気はない」というような例えで、説明していたと思う。つまり多重人格は、神経症などの「病気」のひとつの「症状」なのだ、ということだ。この春日氏の本も面白い本だったが、それはさておき、病名がどうのという「名付け」の問題は、それが「治療関係」においてなされるのかと、「司法関係」においてなされるのとでは、当然「意味」が違ってきてあたりまえだろう。「司法関係」上における「意味」を吟味せずして、「多重人格かどうか」など「検証」されてもなんの意味もないのではないか。

しかも著者は、最後にひとりの多重人格の人の症例を出してきて、宮崎と比較したりしているのだが、「多重人格」と「幼女殺し」にはなんの(必然的)関係もないのだから、こんな比較も無意味ではないか。もうひとりの多重人格者は「踏みとどまり」、宮崎はそうでなかった、と著者はいうのだが、「踏みとどまり」という言い方が、多重人格者はみんな殺人に走るという前提に立っているみたいで、いやである。

それよりは、この判決がどうなるかが、興味深い。そもそも「多重人格」という鑑定が採用されるのかどうか。そして採用されたとしたら(「多重人格」という精神の障害を前提として)宮崎は責任を問われるのかどうか。

私としては、精神の障害性を認めた上で、なおかつ責任を問うことが、もっとも「健全」な判決ではないかと思う。すべての場合にそうせよ、と主張するものではないが、この場合は、人格が「多」であっても、その根底には「あるひとつの個」としてのまとまりが「感じられる」からだ。「感じられる」などというと、感情的な意見だと言われそうだが、それだけではない。そこには殺人を実行した宮崎の身体がある。心だけが裁きの対象となり、心が病んでいたら裁いても意味がない、とするならば、それを受け入れるには、心だけが人間をつくっているということを主張する「宗教」を受け入れる必要があるだろう。

これは程度の問題というか、質の問題というか、よくは分からない。しかし完全に責任を負わせても意味がないだろうというレベルの「病気」というのは、明らかに別のものではないだろうか。ようするにこれは社会の問題、公共性の価値の問題という範疇であって、臨床とは別のものだろう。それゆえ、判決についても社会的なコンセンサスというものが必要なはずで、その鑑定書についての新聞記事や、こういった書籍から受ける宮崎についての「感じ」というのは、非常に重要な意味をもつ。本来はこういったレポーターではなくて、鑑定者が自ら、そういった意味を(法廷を通じて)社会に伝えていく義務があるのではないだろうか。

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Vol.8
岸田 秀「官僚病の起源」(新書館)

ひさびさに岸田秀のものを読んだのだが、これは面白かった。本人も「あまりネタがないので同じ事をくりかえしている」と言っているが、そんなに高い本でもないので、許せる。許せるといえば、精神分析の用語があまり鼻につかなくなった。日本は精神分裂病にかかっているといったかと思えば、日本の行動は神経症特有の強迫反復だ、という。いったい分裂病なのか神経症なのかはっきりしてほしい、といいたいところだが、そんなことはどうでもいい。

つまり、著者岸田のいわんとしていることが、あまりに明解で、常識にもすんなりと訴えるものであるので、そんなことは気にならないのだ。精神分析の「理論」はここでは、現実をより確かに認識するための道具(としてのボキャブラリー)でしかないからだ。

著者岸田のいわんとしていることは、ようするに日本は「国家」を持っていない、ということだろう。

「国家」というのは、共同体や集団が現実に対処するためのシステムなのだろうが、それが現代において「国家」という以上は、「家族」や「村」などのような自然発生的なシステムではなくて、合理的でコントロールの効いたものであるべきだろう。それが日本の場合、外圧によって「国家」を外面的にとりつくろって作ってきた(著者岸田によれば、それは日本の建国=大和朝廷にまでさかのぼる)ために、国の内実が自閉的な共同体のままだというものだ。ここに国のことではなく、自分たちの利益しか考えない官僚が生まれるのは当然だということになる。

ここには自立した国というものはなく、国民が現実逃避するためのシステムでしかないというのが、著者岸田の見方だ。一度として日本は自立した「国家」であったことはないのだから、現在のていたらくも納得がいく。このようなものでしかない「日本の国」というものの、誇りだとか価値だとかにこだわっている連中のことは理解できないが、もちろん私は「国」一般の基盤となっている社会や公共性の価値を否定する者ではない(福田和也「日本人はなぜかくも幼稚になったのか」の項参照)。逆にだからこそ、国家は意識的なコントロール下におかれるべきだと思う。そういう意味では「国家主義者」だし、「管理主義者」だ。つまり「国家」権力によって、ちゃんと官僚・お役人を「管理すべき」ということである。

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Vol.8
福田和也「日本人はなぜかくも幼稚になったのか」(角川春樹事務所)

 基本的につっこみが鋭く、おもしろい。おすすめ本だ。

 著者は30代の「若僧」なので、なんでこんな人に「日本人は幼稚」とか「バカ」とか言われなくてはならんのだと、お年寄りは思うらしいのだが、そういう世代的なことをいうなら、ようするに、全共闘世代というか、団塊の世代が、あまりになさけいからだ、ということだろう。なんてことを思ってたら、筑紫哲也のインタビューで、後藤田サンが出てて、「全共闘世代は、造反有理の傾向が身にしみていて、建設的なことを考えずにどうしても破壊的なことを志向してしまう」というようなことを言っていた。これは「社会」とか「教育」について、つねづね僕も身近な「団塊の人」に感じていることだ。自分がつくっている、という感覚がまったくなく、傍観者として見ている感じ。この対社会的感覚は、吉本隆明などが元凶ではないか、と勝手に思っているのだが、まぁ、個別的にはともかく、一般化したとたんに世代論は意味がなくなってしまうので、これはまぁだべりとしておこう。

 さて、この本だが、そういうつっこみの面白さにもかかわらず、最後の根拠を「くに」というものに持っていく論理が納得できない。僕がイメージする「くに」は崇高なものではなく、単に人間がつくり出したシステムとして、人間の知性によって完全にコントロールされるべき「下位の」存在だ。それでこそ、官僚批判があり、行革があり、国防がある。

「くに」がそのような単なる約束事であることを思い知らされたのが、先の敗戦ではなかったのだろうか。人は、より高い価値にむけて、成長し、教育されるべきだというのは、まったく同感だが、その価値が「くに」という一元的なものである必要はないのではないか。社会的な側面では「公共性」という価値の認識であり、国際的には「相互性」という事態の浸透であるようなものだし、教育的により高次な「知」でしかないだろう。刺激的な本であるが、それで終わっているようだ。

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Vol.8
徳南晴一郎「復刻版・怪談 人間時計」(大田出版)

すごい本である。雑誌「クイックジャパン」の連載「消えたマンガ家」から飛び出した企画本だが、よくだしてくれた。子どもの頃よく貸本本の怪談マンガを読んでいたので、この徳南さんの特異性とは別にこの手のものにはひかれる。できればどこかで安く大量に復刻して欲しい。この「人間時計」の画風は私は、個人的に知人ににたような「くるった線の」絵を書く人を知っているので、とくに衝撃はない。魅力は、この絵と、ちょっと間の抜けたセリフ回しの組み合わせが生み出す、ユーモラスで、こわい(そう、恐怖とかではなく、底がぬけたような「こわさ」としか言い様のない)世界だ。決してストーリィを「読んで」はいけない。

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野口悠紀雄「1940年体制」(東洋経済)

 この野口悠紀雄の「1940年体制」という本は、猪瀬直樹の「ペルソナ 三島由紀夫伝」(文芸春秋)の中で参考文献で出ていたので、すぐに読んだのだが、まったく世の中のしくみが分かってなかったことを思い知らされる。

 もともと日本は社会主義国家なのではないか、という疑問はもっていたが(例えば例の小山による汚職)その根源が、明治維新政府にではなく、1940年の軍部と官僚の合作による戦時経済体制にあるということを教えてくれる。藩閥政府から原敬の政党政治の崩壊、そして戦時体制の成立というドラマはむしろ猪瀬の「ペルソナ」の方がくわしい。特に岸信介のはたした役割。

 野口悠紀雄の分析は、その戦時体制がなぜ戦後も継続してしまったか、また日本のある意味では裕福な時代を作り上げ得たことへの評価など、冷徹で公平なものだ。

 このように分析されてみれば、なぜそんな「歴然としたあきらかなこと」が、見えなかったのかというふうに感じるだろう。それは野口がこの本の一番最後に書いている。歴史は未来の中にある。つまり未来のビジョンがあってはじめて、そこから逆に歴史が検証できるのであり、なんのビジョンもなしに、歴史の資料をながめてもそこからは何も見えてはこない、ということである。

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Vol.8
池田晶子「メタフィジカル・パンチ」(文芸春秋)

 いろいろな「人」をテーマにして、形而上学的一撃を与えるという快著。吉本隆明については、私も書いたっきりにしているが(ここ)、私がこの本でおもしろかったのは、養老孟司氏への論評だ。養老の面白さがわからない学生たちを批判した一文なのだが、養老の面白さとは何か?というと、ようするに「死体」という「ほんとのこと」と格闘した結果として考えたことを書いている、という思考のリアルさではないのだろうか。「ほんとうのこと」と格闘したことのない人の文章に抜けている「なにか」が、養老にはある。池田サンは、自分自身、哲学しながら、「人が考えてしまったこと」の厖大な残骸(思考の死骸?)と格闘した結果としてものを書いているから、養老さんをそれこそ「同士」として感じるのだろう。

 結局、いろんなものと格闘しつつ、最終的には「自分」というのを考えているのだろう。それが自分の頭で考える、ということで、自分の頭で考えるというのは、なにも世の中から遠ざかって、純粋な「自分」というものを考えたり、そういう「自分」として何かを判断したりするということではない。格闘のないところに「思考」はない。

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Vol.8
村上 龍「ヒュウガ・ウィルス」(幻冬社)

 21世紀はこの本からはじまる、というのがこの本の帯の宣伝文句なのだが、その言葉に文句はない。あとがきで、龍サンは、ウィルスを擬人化しないことを自らに課した、という。擬人化はアミニズムであり、「アミニズムは知と想像力の最大の敵」だという。まさにこれは今後の「最低限の共通認識」にしなくてはならないだろう。そんな中、擬人化もはなはだしい「パラサイトイヴ」が映怪化されたようだが、オレは絶対みないだろうね。

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