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遅ればせながら、エヴァンゲリオン 1997.4.1
まだ映画版は見ていない。ビデオでのろのろ見てきたのだが、テレビ東京の再放送にあっという間に追い越され、これで最終回まで見た。
というのが、私のエヴァ歴なのだが、まあこれについては厖大な言葉たちが駆けめぐっているわけで、いまさら書くのもなんなのだが、私としては「とくに謎なんてなにもないんじゃない?」と感じていた。謎と言うよりもストーリーの破綻でしかないのではないか、という感じ。
神とか天使とアニメ的なヒーローとのつながりというと、私にとってはこれはもう「サイボーグ009 神々との戦い篇(天使篇とは別物)」だ。これもまったくエヴァ同様にストーリーが破綻して終わっている。これは要するにサイボーグ009における最終2話なのだが、やはりマンガの「語り口」というか「記述方法」そのものが、ストーリーマンガ(という文体)を放棄してしまう。こうなるのは、テーマが「神々との戦い」ということで、どうしても物理的な戦いという次元をこえてしまうからなのだろう。こういう展開は論理的にも単に必然的で、あまりに当たり前のことだ(神が物理的な次元で攻撃してくるようなものなら、それはすでに「神」ではなく、たんに我々と同等かあるいはそれ以上の知的生命であるにすぎない。つまり論理的には彼らもまた「被造物」という意味で、神の下の次元に属する)。そういえば、平井和正のアダルトウルフガイも、最後は「人狼天使」で、精神的な次元に戦いの場が移動するということをすでに描いていた(主人公は実は物理的な次元でも闘っているのだが、それは全く描かれず、精神的な次元での戦いが終わって気がついてみると物理的な次元での戦いも終わっていたという書き方だったと思うが)。
だから、エヴァの最終2話というのも、「ああこうなるのね」ということで、この成りゆきは納得してしまえる。すなおに見ていれば、どうしたってこれは「神々との戦い」をテーマにしたものだから、別に今までの謎もなんら謎ではなく、その舞台設定を暗示的に示したというだけのことだからだ。
というわけでエヴァの仕掛け(形式)自体になんら謎はないのだが、しかしこの最終話の内容にはまったく納得できなかった。なんかシンジくんの自己承認というか、受容というかが、あっけなく、やらせっぽいのだ。しかも脚本が、まさに「自由連想的」に(ようするにダジャレ的に)繋げられて書かれているために、「神々との戦い」というテーマが忘れられてしまっているのだ。彼らが神々との戦いというコンセプトでやったのではないと言われればそれまでだが、それを何と呼ぼうと、このアニメが示そうとしている方向性は「人間の精神的な意味での進化」ということではないのだろうか。それをごくごく普通のレベルでの「自己受容」というところで「オチ」にしてしまったのがこの最終回だったのではないだろうか。つまり内容が浅いのだ。
ちょっと考えただけでも、シンジ君の心理の中に父親とのことばかりが出てくるのはおかしい。シンジ君じしんが、何をやりたいのか、どう生きたいのかが全然見えてこない。そんなことも描かれてないのだ。しかしもし、精神的な意味での進化と言うことが問題になるとしたら、そういうことのさらに二段階か三段階は先の話でなければおさまらないではないか。これは描き方が浅いだけだと私は言う。この心理的なドラマについて、いろいろ解釈はできるのだが、それを言ってやるのはもったいない。作者が自分の責任でやるべきことでしかないからだ。
追記
と、書いたが、小谷真理さんの「聖母エヴァンゲリオン」にまきこまれるかたちで、「自分の解釈」を書いてしまった。これはネタバレ情報を含むので、「でぃーぷ・ひるます」のコーナーに掲載してます。
なお、当初このつづきにエヴァに関連してなぜか「ツインピークス」についての論評を書いていたのだが、これは以前それだけをテーマにしぼって書いたものがあって、やはり「でぃーぷ・ひるます」のコーナーに転載してあるので、ここの記述は削除しました。またここで、私の独自の物語の分類学についてふれていたのですが、これについては、それなりに意味あいがあると思いますが、やはり以前に書いていたもの(ペーパーメディア版の「月刊ひるます」に掲載)があるので、ここに転載しておきます。
(97.7.14記)
はかない物語 1989.1
ペーパーメディア版「月刊ひるます」の再録シリーズだ。VOL.9(92年の3月発行)に掲載。
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「はかない物語」とはなにか?
はかない結末のストーリィ、などという事ではない。
物語るその行為自体がはかなく、むなしい、そんな物語。それは見るもの聞くものになんら超越的な「感動」、脱自的なエクスタシーをもたらさない。そしてお話しがウマク出来ていればいるほどに、そのはかなさも際立たせられるだろう。それがはかない物語だ。徒労といってもいい。あらゆるジャンルを超え、はかない物語は存在しつづけている。たとえば芸術映画に対してB級映画がはかない、という話ではない(いまさらそんなバカな事を言う人もなかろうが)。
はかない物語の対立概念はなにか? ひとつははっきりしている。それは「あきれた物語」だ。はかない物語は物語としてはじつに巧妙に、まさにプロの仕事としてつくられていたが「だから何?」といいたくなるほど感動とは無縁の存在だったが、この「あきれた物語」たるや、それ以下。お話しにすらなっていない、という一群の物語をさしている。これは解説の要すらあるまい。あまりに出来の悪い映画を見た後のあのもう思い出したくもない…あの時の気分。
蓮実重彦が「もはや非凡というものは存在しない。凡庸に対立するのは愚鈍である」と言ったときの「凡庸」に「はかない物語」が、「愚鈍」に「あきれた物語」が対応するだろう。だが、彼は非凡は存在しないというが、僕は非凡は存在する、と思う。なぜなら僕はそういう非凡で、超越的で、なんらかの意味で神秘的でさえあるような、そういう作品との出会いというものをいくつか挙げる事ができるから。
ではそーゆう物語をなんて呼ぼうか。僕は「終わらない物語」と呼びたい。結局のところ、はかない物語が「はかない」のは、それが「終わって」しまうからでしょ。終わるって事は、それが自分とは関係なくなってしまう、って事。自分とは関係なくなって、きっと映画だったら年間ベスト10だとか、小説だったら文学史だとかの「客観的な」世界に入っていくんだろう。自分がそれを見たり、読んだりした時間ははかなく消えてしまう…。
これに対して「終わらない物語」って、その物語自体が終わっても自分の中では終わっていない。というか、事態としてはむしろ逆なのであって、たとえばその物語を思う時、自分の存在自体がその物語の方に引っ張りだされ、自分の現実が空しくなってしまう…とそんな物語だ。
だから何なんだ? というと、「終わらない物語」って奴を終わらせたい、のだ。自ら「終わらない詩」をうたうことによって…。
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