contents
Vol.9 (1997年3月プラスダイジェスト)

■遅ればせながら、エヴァンゲリオン (1997.4.1)
■クロックタワー2(セカンド) (97.3.15)
■思考の道具としての手帖 (1996.10)
■政治と公共性への忌避感 (1996.10)

■はかない物語 (1989.1)
 フリーペーパー版「HIRUMAS VOL.9」より再録

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Vol.9
遅ればせながら、エヴァンゲリオン 1997.4.1

まだ映画版は見ていない。ビデオでのろのろ見てきたのだが、テレビ東京の再放送にあっという間に追い越され、これで最終回まで見た。

というのが、私のエヴァ歴なのだが、まあこれについては厖大な言葉たちが駆けめぐっているわけで、いまさら書くのもなんなのだが、私としては「とくに謎なんてなにもないんじゃない?」と感じていた。謎と言うよりもストーリーの破綻でしかないのではないか、という感じ。

神とか天使とアニメ的なヒーローとのつながりというと、私にとってはこれはもう「サイボーグ009 神々との戦い篇(天使篇とは別物)」だ。これもまったくエヴァ同様にストーリーが破綻して終わっている。これは要するにサイボーグ009における最終2話なのだが、やはりマンガの「語り口」というか「記述方法」そのものが、ストーリーマンガ(という文体)を放棄してしまう。こうなるのは、テーマが「神々との戦い」ということで、どうしても物理的な戦いという次元をこえてしまうからなのだろう。こういう展開は論理的にも単に必然的で、あまりに当たり前のことだ(神が物理的な次元で攻撃してくるようなものなら、それはすでに「神」ではなく、たんに我々と同等かあるいはそれ以上の知的生命であるにすぎない。つまり論理的には彼らもまた「被造物」という意味で、神の下の次元に属する)。そういえば、平井和正のアダルトウルフガイも、最後は「人狼天使」で、精神的な次元に戦いの場が移動するということをすでに描いていた(主人公は実は物理的な次元でも闘っているのだが、それは全く描かれず、精神的な次元での戦いが終わって気がついてみると物理的な次元での戦いも終わっていたという書き方だったと思うが)。

だから、エヴァの最終2話というのも、「ああこうなるのね」ということで、この成りゆきは納得してしまえる。すなおに見ていれば、どうしたってこれは「神々との戦い」をテーマにしたものだから、別に今までの謎もなんら謎ではなく、その舞台設定を暗示的に示したというだけのことだからだ。

というわけでエヴァの仕掛け(形式)自体になんら謎はないのだが、しかしこの最終話の内容にはまったく納得できなかった。なんかシンジくんの自己承認というか、受容というかが、あっけなく、やらせっぽいのだ。しかも脚本が、まさに「自由連想的」に(ようするにダジャレ的に)繋げられて書かれているために、「神々との戦い」というテーマが忘れられてしまっているのだ。彼らが神々との戦いというコンセプトでやったのではないと言われればそれまでだが、それを何と呼ぼうと、このアニメが示そうとしている方向性は「人間の精神的な意味での進化」ということではないのだろうか。それをごくごく普通のレベルでの「自己受容」というところで「オチ」にしてしまったのがこの最終回だったのではないだろうか。つまり内容が浅いのだ。

ちょっと考えただけでも、シンジ君の心理の中に父親とのことばかりが出てくるのはおかしい。シンジ君じしんが、何をやりたいのか、どう生きたいのかが全然見えてこない。そんなことも描かれてないのだ。しかしもし、精神的な意味での進化と言うことが問題になるとしたら、そういうことのさらに二段階か三段階は先の話でなければおさまらないではないか。これは描き方が浅いだけだと私は言う。この心理的なドラマについて、いろいろ解釈はできるのだが、それを言ってやるのはもったいない。作者が自分の責任でやるべきことでしかないからだ。

追記
と、書いたが、小谷真理さんの「聖母エヴァンゲリオン」にまきこまれるかたちで、「自分の解釈」を書いてしまった。これはネタバレ情報を含むので、「でぃーぷ・ひるます」のコーナーに掲載してます。
なお、当初このつづきにエヴァに関連してなぜか「ツインピークス」についての論評を書いていたのだが、これは以前それだけをテーマにしぼって書いたものがあって、やはり「でぃーぷ・ひるます」のコーナーに転載してあるので、ここの記述は削除しました。またここで、私の独自の物語の分類学についてふれていたのですが、これについては、それなりに意味あいがあると思いますが、やはり以前に書いていたもの(ペーパーメディア版の「月刊ひるます」に掲載)があるので、ここに転載しておきます
(97.7.14記)


はかない物語 1989.1

ペーパーメディア版「月刊ひるます」の再録シリーズだ。VOL.9(92年の3月発行)に掲載。

・・・・・・・・・・

 「はかない物語」とはなにか?

 はかない結末のストーリィ、などという事ではない。

 物語るその行為自体がはかなく、むなしい、そんな物語。それは見るもの聞くものになんら超越的な「感動」、脱自的なエクスタシーをもたらさない。そしてお話しがウマク出来ていればいるほどに、そのはかなさも際立たせられるだろう。それがはかない物語だ。徒労といってもいい。あらゆるジャンルを超え、はかない物語は存在しつづけている。たとえば芸術映画に対してB級映画がはかない、という話ではない(いまさらそんなバカな事を言う人もなかろうが)。

 はかない物語の対立概念はなにか? ひとつははっきりしている。それは「あきれた物語」だ。はかない物語は物語としてはじつに巧妙に、まさにプロの仕事としてつくられていたが「だから何?」といいたくなるほど感動とは無縁の存在だったが、この「あきれた物語」たるや、それ以下。お話しにすらなっていない、という一群の物語をさしている。これは解説の要すらあるまい。あまりに出来の悪い映画を見た後のあのもう思い出したくもない…あの時の気分。

 蓮実重彦が「もはや非凡というものは存在しない。凡庸に対立するのは愚鈍である」と言ったときの「凡庸」に「はかない物語」が、「愚鈍」に「あきれた物語」が対応するだろう。だが、彼は非凡は存在しないというが、僕は非凡は存在する、と思う。なぜなら僕はそういう非凡で、超越的で、なんらかの意味で神秘的でさえあるような、そういう作品との出会いというものをいくつか挙げる事ができるから。

 ではそーゆう物語をなんて呼ぼうか。僕は「終わらない物語」と呼びたい。結局のところ、はかない物語が「はかない」のは、それが「終わって」しまうからでしょ。終わるって事は、それが自分とは関係なくなってしまう、って事。自分とは関係なくなって、きっと映画だったら年間ベスト10だとか、小説だったら文学史だとかの「客観的な」世界に入っていくんだろう。自分がそれを見たり、読んだりした時間ははかなく消えてしまう…。

 これに対して「終わらない物語」って、その物語自体が終わっても自分の中では終わっていない。というか、事態としてはむしろ逆なのであって、たとえばその物語を思う時、自分の存在自体がその物語の方に引っ張りだされ、自分の現実が空しくなってしまう…とそんな物語だ。

 だから何なんだ? というと、「終わらない物語」って奴を終わらせたい、のだ。自ら「終わらない詩」をうたうことによって…。

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Vol.9
クロックタワー2(セカンド)

例によってプレイステーションのゲームなのだが、常にバイオハザードが念頭にあるため、これもいまいちであった。

シザーマン(巨大なハサミを持って追いかけてくる怪人)から逃げ回りつつ、謎解きをしていくというゲームなのだが、殺されてもすぐ同じ場所からゲームを再開できるので、ぜんぜん緊迫感がない。シザーマンという怪人も最初から最後まで同じパターンで追いかけてくるだけなので、だんだん飽きてきてまじめに逃げようという気がなくなってくる。逃げるより殺されておいて再ゲームにした方が展開的に有利になってしまう場合もあり、このこともゲームの中に集中させるのを阻害しているようだ。つまりゲームで表現された世界の外側をもふくめたレベル(メタ・ゲーム)での計算が意識にはいってくるということだ。このことはゲームの制作者の姿勢でもあるようで、場面がかわるたびに「シナリオ1」とか「ラスト・シナリオ」とかいうタイトルが表示される。いちいちなんでプレーヤーが「シナリオ」を意識しなくてはならないのか。プレーヤーはそのゲームの世界の住人になりきってこそはじめて快感を感じられるのではないだろうか。

それに関していうと、このシザーマンというのは、こちらが逃げるだけでなく、あるていど撃退したりもできるのだが、そのことがシナリオ上でぜんぜん影響してこないようなのだ。たとえば海へ落としたはずなのにすぐに別の部屋で出てきたりする。出現のしかたにも納得できないところがあって、どうも「実在感」を感じられないのだ。この実在感のなさもゲームへの没入を阻害させているようだ。それにくらべてバイオハザードでのゾンビたちの実在感は・・(これを言ってはおしまいだが)。

しかしこのゲームはもちろんいいところもあるのだろう。シザーマンが登場するときの音楽は、ダリオ・アルジェントの映画を思わせるもので、往年のスプラッターファン(私もその一人だ)にはたまらないものがある。この音楽にのって少女が逃げ回る(しかもそれを自分が演じれる)という快感は、「おおーっ」と声を出してしまうぐらいのものだろう。ただしアルジェント系列と呼ぶにはあまりにこの主人公(逃げる方の女たち)は魅力にかける。ミニスカにロングブーツといういでたちはいいとして顔があかぬけない。また少女ではなく女性心理学者を主人公にしたばあい、この女がオバサン歩きでのろのろと歩き、イラつかせる。どうも本当のオバサンの歩きをシュミレートしたようで、ここだけ妙にリアルなのだ。

ということで、ゾンビ系列に属するバイオハザードと、アルジェント系列に属する「クロックタワー」は、ぜひとも2枚ならべて愛蔵したいコレクションではある。「クロックタワー3」での改善をのぞむ。

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Vol.9
思考の道具としての手帖

転向し続ける私だが、超整理手帳をすてた。

超整理手帳はその考え方が非常に気に入って、去年の発売時に手に入らなかったので、ついに自作してしまったほどのファンだったのだが、その後はアスキー製の製品版を使っていたのだが、ここ半年ほどはまったく使わなくなってしまっていた。

気に入っていたのはA4サイズの紙がリフィルとして使えるという「互換性」だったのだが、けっきょく鞄や書類袋(例の超整理袋でもいいが)を持ち歩くようにすると、いちいち手帳にA4サイズの紙を折り畳んでいれておくということに、なんの意味もなくなり、ひいてはA4サイズの紙を折り畳んだ状態の、つまりやたら馬鹿でかいスケジュール表を持ち歩くことにも意味がなくなってしまったのだった。互換性のために使いやすさを犠牲にするというのは、本末転倒である。

だいたい広げると50センチはありそうな?スケジュール表にかくほどのスケジュールは私にはない。一週間はやたらはやく過ぎてしまう。逐一書き出せばそれくらいの予定はあるのかもしれないが、それは仕事をむしろ止めてしまうだろう。

しかもどうも「ふにゃふにゃして」安定感がなく、書きにくい。この書きにくさは「システム手帳」でまんなかのリングがじゃまだったことを上回る。つまり史上最大に書きにくい手帳なのである。

でかさはスケジュール表としての欠点であり、ふにゃふにゃはメモ帳としての欠点だ。

もともと私はメモ魔で、メモ帳にドンドン書き込んで、日記以上のものになり、むしろ作品に近いものになってしまう。システム手帳はこのようなメモの使い方にはとてもあっていたが、結局、再利用がしにくく、書きつけたものが無駄になるということで、パソコンが手にはいると、ほとんど使わなくなっていた。

しかし、パソコンというのは、すでに「思考されたこと」を編集したり整理したりするのには、非常に有効だが、ゼロから「それに向かって」思考するものではない。これは人の好みや育ちや現在の環境にもよるのだろうが、私にはそうだ。むかし一番最初に買ったシャープの、一行10文字しか表示がないワープロは、ぼくにとっては「思考の道具」だった。その前に向かうと「本番の思考」がするするとはじまったものだ。それよりだんぜん表示のひろいワープロなりマックなりで、どうしてそういう「本番の思考」という感覚がおきないのかはなぞだが、それぞれの人にとっての本番の思考を起こす「道具」はちがうのだろう。私の場合のシャープのワープロはいま、また手に入ったとしてももちろんもはや「道具」にはなりようがない。その時、その瞬間にそうなったというだけのものだからだ。

システム手帳ももはやそうで、そこに入っていけるものではないだろう。システム手帳のリフィルを入れ替えたり、整理して保存しうるという思想がもはやじゃまなのだ。そういう部分は全面的にパソコンにさせたほうがよい。リフィルでの整理・編集がしうるということは、整理が(パソコンでの整理とあわせて)二重化してしまうということであって、もはや欠点ですらある。このさいメモは徹底的に整理できない・編集できないという原始的なかたちになるのが一番よい。それが書きやすく、入って行きやすく、そこで「本番の思考」がおきやすければ、最高だろう。

ということで、気に入ったメモ帳が一冊あって、それにかんたんなカレンダー型のスケジュール表がついていて、電話メモを書くページがあればなおいいと、思っていたが、まさにぴったりなものがあった。それが「能率手帳ポケット・メモ重視型」というやつだ。びっしりと分厚いメモがついていて、このメモの厚さがうれしい。一瞬「もし一年で使いきってしまったら」という不安があった(システム手帳的なリフィルの入れ替えというあり方にならされてしまっているから)のだが、考えてみればこれだけの厚さを「メモ」したとしたら、それは「メモ」をなんら発展させずに終わったということにすぎないだろうとも思える。メモから発展した本番の作業をちゃんとしてれば、メモだけをこんなに書くような暇はないだろうということだ。そういう「限度」をきちんと押さえたつくりすら、この手帳から感じられる。ぜひ参考にしていただきたい。

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Vol.9
政治と公共性への忌避感

政治のはなしはしたくないという人も多いかとおもうが、それについて一言。

基本的に全共闘世代以降、私のちょい下(30過ぎ)までは、政治に関心がないことが「高尚だ」という感覚があるのではないか。投票へ行く芸術家などありえない、というような感覚。ロックのアーティストが投票所へいったらもうロックでないという感覚。投票へ一度もいったことがないことを自慢する「思想家」。その思想家とは吉本隆明氏のことだが、彼の影響もでかいと思う。市民社会的なものになんらポジティブな価値をみとめない(みとめたくない)という姿勢、それは最近のオウム本にまで引きずられていっているわけだが、そこに彼の思想の破綻をみる。(書評参照のこと

また幾人かのその世代の人に感じられる「管理」や「教育」への忌避感のようなものも、その感覚に近いものがあるだろう。ようするに「公共的な価値」へのネガティブな感覚である。しかし教育ということを考えれば、よく分かると思うが、だれも教育しなかったらどうなるのか。自然な育て方がよいのだ、と教育忌避者はいうかもしれないが、オレはどうせ教育されるのなら、もっともっといろんな教えてほしいことがいっぱいあった、と思う。そのほうが、より自分が自由に、もっといろいろな可能性を試せただろうと思うからだ。もちろん今からでもおそくはないこともあるが、やはり遅きに失したということのほうが多い。そういう意味では教育の不足、とくに可能性に関する情報の不足を憂うことはあっても、教育が過度であって迷惑したということはない。

要するに教育ということに対して忌避感を持つ人は「教育」ということに持つイメージが貧困なだけなのだ。政治を含めた公共的な価値についても同様なことが言えるのではないか。公共的なものが、原理的に自分を疎外するもの(自分に絶対的に対立するもの)とする見方が貧困なのだ。公共的な価値は、むしろ自分の自由と可能性を拡大するものと考えた方が、よっぽど世界が広がるではないか。

このへんのことは、以前紹介した西研氏の「ヘーゲル・大人のなりかた」という本でもとりあげていて、非常に共感した。ヘーゲルはそういう自己の自由をこの現実の中でいかに「つぶされずに」実現していくかを考え抜いた人だ、という。ただしヘーゲルの時代は、自分の実現がそく国家の実現であるというように、国家が生きることの目的になってしまっていたが、いまはそんなことを言っても誰もまともにうけとりはしない。しかし人間が生きる目的の「すべて」ではないにしても、公共的な価値の実現は、限定された部分であっても、きわめて重要な「ひとつ」の価値だ、ということだ。こういうことをぼくは今はあたりまえのことだと思うのだが、そこからみたときに、公共性への忌避感は、たんにムード的な、軽薄なものにしか見えない。実際に軽薄なだけの存在というものはあり、許せるわけだが、それを高尚な思想であるかに見せている人々たちは許せない。そういう方々にはとっとと、隠遁していっていただき、およそ「社会」(電脳社会を含む)にいっさい顔をだしていただきたくない。

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