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猪瀬直樹「日本国の研究」(文芸春秋)
すでに厚生省の疑惑の項目で、贈収賄という個別的な犯罪の問題よりも、そもそもの問題は「ここには便宜によって供与されるような国家の金(予算・補助金)がある」ということだと書いた。つまり賄賂を払ってもおつりが来るような仕事の出し方を国はしているのであり、そのことは単にその予算や補助金の無駄ということにとどまらず、そもそもその仕事が必要なのかどうかということまで疑わせるものだ(国家の「仕事の企画・立案者」としての能力への疑問)。しかし、その時点では、私も経験的に、日本の「国家社会的」というか、「親方日の丸的」体質というかはともかく、世の中を普通に生きていれば受け取らざるを得ないそういう雰囲気的なものをベースにして発言していたのだった。つまり具体的なデータというか、事実に基づいて言っていたわけではない。そのへんをハッキリと、意識的に明確にしようとしたのが、この猪瀬氏の「日本国の研究」だ。それは単にデータを提供したということだけではない。データはデータとして存在しているだけでは何の意味もなく、それがひとつの問題意識のもとに捉えられたときにはじめて「意味」をもつものだからだ。
そういう本はエライ!に決まっているわけで、私が論評してもしょうがない。ここでは、この本から知り得るデータを整理して、あとあと使えるようにしておこうというだけである。
まず、森林開発公団
林野庁所管の特殊法人だ。林道をつくっているという。この「林道」がくせもので、現在この公団が力をいれてすすめているのは、「大規模林道」というもので、実態は観光道路である。「林道」は国道ではないから当然、林道によって利益を得る人がその事業費を負担すべきだろうが、これに厖大な国家予算と補助金がつく。国が80パーセント、道県15パーセント、これで95パーセントで、この数字どっかで聞いたことはないか(例の小山の老人保健施設に近い)。このような予算がつくことの理由として、(観光開発によって)山村の過疎化をふせぐという「公共的」な理由はついているらしい。公共的なものなら「国道」や「県道」にすればすっきりするはずだが、そうしないのは国道や県道にすると、「道路としての規格」が厳しくなり金がかかるらしい。ようするに規制をすりぬけて、安くあげようというわけだが、もちろんそれが本当に役に立ち・将来的に必要なものであれば、まことにいいことをしていることになるが、そうまでして作る価値があるものかどうかが、問題だ。
しかし本当に「必要」なのであれば、多少コストがかかっても「国道」なり「県道」にすればいいではないか。「必要」な道であれば、安全面でのチェックも当然必要で、規制をすりぬければいいというものではないはずだ。それですむならそもそも規制は無意味なものだということになる(この国においてはもちろんそういうことは十分ありうるが)。ようするにこれは必要のないところに作り出された一つの「発明」なのだ。「林道」という言葉を使えば、そこに「なんらかの公共性」という理由と、予算と補助金が出るというシステムが作られる。そこに土建屋が群がり、地方の政治家も役人もそこに「自分の仕事」を見いだしたりするわけである。こういうシステムを猪瀬氏は「記号」だという。なんら生活の必要も将来へのビジョンも実態としてはともなわない「金を引き出すための記号」だ。
しかし、その金はいったいどこから出るのか。この大規模林道事業は96年の時点で総事業費1兆円に近いという。必要がないところに事業を興して必要そのものを創出するというのは、事業としてはまちがってはいないが、そういう価値の創出が果たしてなされたのかどうか、という検証を「国」はおこなってはいないらしい。同じ林野庁の所管である「国有林事業」の累積赤字は三兆三千億にのぼるという。そういう全体のバランスを見て、国家の予算をどのように使っていくべきかという「企画者」がそもそも日本にはいないのだ。
水資源開発公団
システムが「発明」されてしまえば、それに群がる欲望の機械が自動的に走り出してしまう。それが暴走にならない保障は何もないのだが(国の赤字が二百四十兆円にもなっていれば、もはやすべての企画は暴走ではないか、という話もあるのだが)、必要がないところに、企画を起こして、しかも結局は需要も創出できなかった例として、長良川河口堰が取り上げられている。つまり水が余ってしまったのだ。しかも地元の三重県は余ることを予想していたというのだ。
水資源開発公団は、ダム・河口堰など水資源を開発する仕事を担当する公団だ。ダムなどの建設費は、ダムは水資源としての目的の他に、「治水」の目的があるので、4割は建設省が持つ。残りを地元が負担するが、30パーセントは補助が出る。しかし地元はこれをローンで返済すればよく、では誰に返済するのかというと、これが水資源開発公団だ。水資源公団が、財政投融資(郵便貯金だ)から借り入れて、まず一括して建設費を持つわけである。「水資公団は自分の腹は痛まない」(猪瀬氏)から、有益性や需要の創造性もない仕事を平気でおこなうのだ。こうなると、国家社会主義的な事業に業者たちが群がっているというより、根っこの問題は、元締めの「公団」が自己増殖するために国の仕事をほしいままにしている、というところにあるのではないか。それで猪瀬氏は「ダムに寄生する水資源公団」というわけだ。
小山の老人施設ですっかり有名になった「丸投げ」だが、水資源公団が丸投げしているのは、出来上がった河口堰の管理業務だ。住宅都市整備公団が、公団住宅の駐車場業務をほとんど子会社に「丸投げ」していたことは報道番組で知っていたが、同じ事はここでもある。ということは、もっとたくさんあるということだろう。ただし住都公団は、設置法の中に子会社をもっていいことが規定されているということだが、水資源公団はそれがない。つまり子会社をつくって業務をまるなげし、ひいては職員の天下り先にするということが、法的にはできないことになっているというのだ。しかし実際は「水の友」という会社がそれをおこなっている(しかしよく調べるな、猪瀬氏は)。
どういう仕組みでそれが可能になっているのか。なんと水資源公団の厚生会つまりは互助会が株主になっているというのだ。あきれた話だが。
しかし、そもそもの問題は、水資源公団のようなところに、財投の金が、するすると流れ込んでいるという仕組みがそもそもおかしいのではないか、ということは、まともな神経があれば誰でも思い至るだろう。
道路公団
その財投だが、五十兆円。最大の借り手が道路公団で、二兆円ということだ。
これに料金収入と補助金等を加えて四兆五千億が道路公団の予算だ。それにしても、道路公団は累積二十二兆円の借金をかかえており、毎年二兆五千億を返済しているのだ。その内訳は元金償還が一兆三千億。利子がなんと一兆二千億だ。これを返すために国の補助金があり、平成8年度で二千六十七億円。郵貯の利子が税金から巡り巡って払われるという仕組みだ。
それにしても、なんでそんなに赤字なのか。あんなに高い料金をとっているくせに。収益性の低い路線を作っているからだということはよく言われる。しかし収益性が低いとは何なのか? 道路公団は旧国鉄のように自ら電車を走らせたり改札したりというほどの厖大な業務をしているわけではない。人件費の圧迫がないのだから、もっと儲けていいはずだ。なぜ儲からないのか、というと、なんと儲かる部分が切りはなされているのだ。それが道路施設協会だ。道路公団から、サービスエリアの土地占用権を得て、それを子会社や外部の企業に又貸しをする「地所会社」的なことをしている。売り上げが七百三十億円。この占用権が道路施設協会に独占される法的根拠はない。さらにこの「協会」(というより「会社」)の設置にも法的根拠はなく、またもや水資源公団の「水の友」同様、厚生会が主体となっているという。さらにこの施設協会が自分の子会社をもってそこにテナントの業務や管理をやらせているから、そこにプールされる利益を考えれば、実際に「道路」から派生している収益はさらに厖大なものになっているはずだ。それが「身内」の会社に吸収され、国民の前には公団の赤字だけが示され、やがて料金の値上げに跳ね返ってくると言うことになる。
住宅都市整備公団
これについてはメモしておくこともないだろう。ほぼ同様の構図で、独占しているのは日本総合住生活株式会社。
財政投融資
「財投は巨大な社会主義金融である」(大阪商船三井船舶・転法輪会長)
利益があるかどうかにかかわりなく、「投資」するから社会主義金融なのだが、金利も融資先も大蔵省と郵政省が勝手に決めている、つまり金利市場と無関係に決定されているから社会主義なのでもある。こうなると、財投の「投」は「投げ捨て」の意味かと思ってしまうが、公団との関係で見れば、「丸投げ」の「投」でもあるだろう。
「財投の仕組みを大づかみに説明すると、郵貯、厚生・国民年金を原資とした資金運用部資金を大蔵省理財局が運用するもので、税金とは別の有償資金、つまり金利を付して返済させる。一種の国営銀行である。」(猪瀬氏)
そういう資金が「公共的」という隠れ蓑の下で、無制限に(根本的な査定をされることなく)利益の出ないところに垂れ流されていけばどうなるのか。あるいは利益が出ていたとしても、我々の見えないところで、その利益が「子会社」の利益として「移転」され続けていけばどうなるか。郵貯が破綻する、ということになればまた住専のように税金投入ということになるだろう。しかも規模はその比ではない。
猪瀬氏はまず特殊法人の民営化を提言している。96年総選挙での争点が行財政改革だったのに投票率が低かったのは、その「意味」が国民に理解されていなかったからだという。それはいまだに変わっていないだろう。特殊法人の問題は単に「天下り」といういささか感情的・ジェラシックな問題としてしか語られてはいなかった。官僚の汚職もまた単に「倫理」の問題にとらえられがちだ。その根本にある「見えないシステム」の問題、そんなものの上に我らの暮らしがのっかってしまっているという危うさ。そういうものをこれからはドンドン意識化していく必要がある。猪瀬氏のこの本は売れているそうなので、多少ともこういうものの見方が広がっていくことになるので、非常によろこばしい。で、私もこういうダイジェストを作成して、こういう考え方の喧伝に一助を担おうというわけである。
本文はさらに面白く続くが、つづきは実際に本文をごらんいただきたい。
その後の日本国の研究
ひどさはそれにとどまらない。猪瀬氏の週刊文春への連載「ニュースの考古学」(5/15号)では、豊浜トンネル崩落事故を食いものにしている「北海道開発協会」のことがとりあげられている。北海道開発局からの「仕事」を随意契約でとり、それを子会社などへ丸投げしてその「差額」を稼いでいるという。つまり税金を吸収している無駄な機関なのである。さらに当然のことながら、その協会や子会社が役人の天下り先となるという機能も合わせ持つわけだ。
まったく情けなくもはらだたしい気持ちにさせられるが、この仕組みをあばいたのは、「北海道新聞」だと言う(この連載自体が猪瀬氏じしんの取材によるのではなく猪瀬氏がニュース記事を読んでそれにコメントするという趣旨である)。このようにいろいろな方面で同時的にいろいろな「無駄」があばかれていくのは、いい兆候ではあるかもしれない。例のムツゴロウの問題なども(「日本国の研究」でとりあげられた長良川の問題とほぼ同様の構図だと思うが)、単にムツゴロウがかわいそうという「環境破壊」の問題としてというよりも、日本の国の税金の使われ方がほんとにおかしいという(猪瀬氏いうところの)「税金破壊」の問題として「意識」される傾向が大きくなっている。いつまでも国民はバカではないのだ。
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