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Vol.10 (1997年4月)

■猪瀬直樹「日本国の研究」 (97.5.3)
■多重人格について (97.4.23)
■3Dグラフィックについて (97.4.10)

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Vol.10
猪瀬直樹「日本国の研究」(文芸春秋)

すでに厚生省の疑惑の項目で、贈収賄という個別的な犯罪の問題よりも、そもそもの問題は「ここには便宜によって供与されるような国家の金(予算・補助金)がある」ということだと書いた。つまり賄賂を払ってもおつりが来るような仕事の出し方を国はしているのであり、そのことは単にその予算や補助金の無駄ということにとどまらず、そもそもその仕事が必要なのかどうかということまで疑わせるものだ(国家の「仕事の企画・立案者」としての能力への疑問)。しかし、その時点では、私も経験的に、日本の「国家社会的」というか、「親方日の丸的」体質というかはともかく、世の中を普通に生きていれば受け取らざるを得ないそういう雰囲気的なものをベースにして発言していたのだった。つまり具体的なデータというか、事実に基づいて言っていたわけではない。そのへんをハッキリと、意識的に明確にしようとしたのが、この猪瀬氏の「日本国の研究」だ。それは単にデータを提供したということだけではない。データはデータとして存在しているだけでは何の意味もなく、それがひとつの問題意識のもとに捉えられたときにはじめて「意味」をもつものだからだ。

そういう本はエライ!に決まっているわけで、私が論評してもしょうがない。ここでは、この本から知り得るデータを整理して、あとあと使えるようにしておこうというだけである。

まず、森林開発公団

林野庁所管の特殊法人だ。林道をつくっているという。この「林道」がくせもので、現在この公団が力をいれてすすめているのは、「大規模林道」というもので、実態は観光道路である。「林道」は国道ではないから当然、林道によって利益を得る人がその事業費を負担すべきだろうが、これに厖大な国家予算と補助金がつく。国が80パーセント、道県15パーセント、これで95パーセントで、この数字どっかで聞いたことはないか(例の小山の老人保健施設に近い)。このような予算がつくことの理由として、(観光開発によって)山村の過疎化をふせぐという「公共的」な理由はついているらしい。公共的なものなら「国道」や「県道」にすればすっきりするはずだが、そうしないのは国道や県道にすると、「道路としての規格」が厳しくなり金がかかるらしい。ようするに規制をすりぬけて、安くあげようというわけだが、もちろんそれが本当に役に立ち・将来的に必要なものであれば、まことにいいことをしていることになるが、そうまでして作る価値があるものかどうかが、問題だ。

しかし本当に「必要」なのであれば、多少コストがかかっても「国道」なり「県道」にすればいいではないか。「必要」な道であれば、安全面でのチェックも当然必要で、規制をすりぬければいいというものではないはずだ。それですむならそもそも規制は無意味なものだということになる(この国においてはもちろんそういうことは十分ありうるが)。ようするにこれは必要のないところに作り出された一つの「発明」なのだ。「林道」という言葉を使えば、そこに「なんらかの公共性」という理由と、予算と補助金が出るというシステムが作られる。そこに土建屋が群がり、地方の政治家も役人もそこに「自分の仕事」を見いだしたりするわけである。こういうシステムを猪瀬氏は「記号」だという。なんら生活の必要も将来へのビジョンも実態としてはともなわない「金を引き出すための記号」だ。

しかし、その金はいったいどこから出るのか。この大規模林道事業は96年の時点で総事業費1兆円に近いという。必要がないところに事業を興して必要そのものを創出するというのは、事業としてはまちがってはいないが、そういう価値の創出が果たしてなされたのかどうか、という検証を「国」はおこなってはいないらしい。同じ林野庁の所管である「国有林事業」の累積赤字は三兆三千億にのぼるという。そういう全体のバランスを見て、国家の予算をどのように使っていくべきかという「企画者」がそもそも日本にはいないのだ。

水資源開発公団

システムが「発明」されてしまえば、それに群がる欲望の機械が自動的に走り出してしまう。それが暴走にならない保障は何もないのだが(国の赤字が二百四十兆円にもなっていれば、もはやすべての企画は暴走ではないか、という話もあるのだが)、必要がないところに、企画を起こして、しかも結局は需要も創出できなかった例として、長良川河口堰が取り上げられている。つまり水が余ってしまったのだ。しかも地元の三重県は余ることを予想していたというのだ。

水資源開発公団は、ダム・河口堰など水資源を開発する仕事を担当する公団だ。ダムなどの建設費は、ダムは水資源としての目的の他に、「治水」の目的があるので、4割は建設省が持つ。残りを地元が負担するが、30パーセントは補助が出る。しかし地元はこれをローンで返済すればよく、では誰に返済するのかというと、これが水資源開発公団だ。水資源公団が、財政投融資(郵便貯金だ)から借り入れて、まず一括して建設費を持つわけである。「水資公団は自分の腹は痛まない」(猪瀬氏)から、有益性や需要の創造性もない仕事を平気でおこなうのだ。こうなると、国家社会主義的な事業に業者たちが群がっているというより、根っこの問題は、元締めの「公団」が自己増殖するために国の仕事をほしいままにしている、というところにあるのではないか。それで猪瀬氏は「ダムに寄生する水資源公団」というわけだ。

小山の老人施設ですっかり有名になった「丸投げ」だが、水資源公団が丸投げしているのは、出来上がった河口堰の管理業務だ。住宅都市整備公団が、公団住宅の駐車場業務をほとんど子会社に「丸投げ」していたことは報道番組で知っていたが、同じ事はここでもある。ということは、もっとたくさんあるということだろう。ただし住都公団は、設置法の中に子会社をもっていいことが規定されているということだが、水資源公団はそれがない。つまり子会社をつくって業務をまるなげし、ひいては職員の天下り先にするということが、法的にはできないことになっているというのだ。しかし実際は「水の友」という会社がそれをおこなっている(しかしよく調べるな、猪瀬氏は)。

どういう仕組みでそれが可能になっているのか。なんと水資源公団の厚生会つまりは互助会が株主になっているというのだ。あきれた話だが。

しかし、そもそもの問題は、水資源公団のようなところに、財投の金が、するすると流れ込んでいるという仕組みがそもそもおかしいのではないか、ということは、まともな神経があれば誰でも思い至るだろう。

道路公団

その財投だが、五十兆円。最大の借り手が道路公団で、二兆円ということだ。

これに料金収入と補助金等を加えて四兆五千億が道路公団の予算だ。それにしても、道路公団は累積二十二兆円の借金をかかえており、毎年二兆五千億を返済しているのだ。その内訳は元金償還が一兆三千億。利子がなんと一兆二千億だ。これを返すために国の補助金があり、平成8年度で二千六十七億円。郵貯の利子が税金から巡り巡って払われるという仕組みだ。

それにしても、なんでそんなに赤字なのか。あんなに高い料金をとっているくせに。収益性の低い路線を作っているからだということはよく言われる。しかし収益性が低いとは何なのか? 道路公団は旧国鉄のように自ら電車を走らせたり改札したりというほどの厖大な業務をしているわけではない。人件費の圧迫がないのだから、もっと儲けていいはずだ。なぜ儲からないのか、というと、なんと儲かる部分が切りはなされているのだ。それが道路施設協会だ。道路公団から、サービスエリアの土地占用権を得て、それを子会社や外部の企業に又貸しをする「地所会社」的なことをしている。売り上げが七百三十億円。この占用権が道路施設協会に独占される法的根拠はない。さらにこの「協会」(というより「会社」)の設置にも法的根拠はなく、またもや水資源公団の「水の友」同様、厚生会が主体となっているという。さらにこの施設協会が自分の子会社をもってそこにテナントの業務や管理をやらせているから、そこにプールされる利益を考えれば、実際に「道路」から派生している収益はさらに厖大なものになっているはずだ。それが「身内」の会社に吸収され、国民の前には公団の赤字だけが示され、やがて料金の値上げに跳ね返ってくると言うことになる。

住宅都市整備公団

これについてはメモしておくこともないだろう。ほぼ同様の構図で、独占しているのは日本総合住生活株式会社。

財政投融資

「財投は巨大な社会主義金融である」(大阪商船三井船舶・転法輪会長)

利益があるかどうかにかかわりなく、「投資」するから社会主義金融なのだが、金利も融資先も大蔵省と郵政省が勝手に決めている、つまり金利市場と無関係に決定されているから社会主義なのでもある。こうなると、財投の「投」は「投げ捨て」の意味かと思ってしまうが、公団との関係で見れば、「丸投げ」の「投」でもあるだろう。

「財投の仕組みを大づかみに説明すると、郵貯、厚生・国民年金を原資とした資金運用部資金を大蔵省理財局が運用するもので、税金とは別の有償資金、つまり金利を付して返済させる。一種の国営銀行である。」(猪瀬氏)

そういう資金が「公共的」という隠れ蓑の下で、無制限に(根本的な査定をされることなく)利益の出ないところに垂れ流されていけばどうなるのか。あるいは利益が出ていたとしても、我々の見えないところで、その利益が「子会社」の利益として「移転」され続けていけばどうなるか。郵貯が破綻する、ということになればまた住専のように税金投入ということになるだろう。しかも規模はその比ではない。

猪瀬氏はまず特殊法人の民営化を提言している。96年総選挙での争点が行財政改革だったのに投票率が低かったのは、その「意味」が国民に理解されていなかったからだという。それはいまだに変わっていないだろう。特殊法人の問題は単に「天下り」といういささか感情的・ジェラシックな問題としてしか語られてはいなかった。官僚の汚職もまた単に「倫理」の問題にとらえられがちだ。その根本にある「見えないシステム」の問題、そんなものの上に我らの暮らしがのっかってしまっているという危うさ。そういうものをこれからはドンドン意識化していく必要がある。猪瀬氏のこの本は売れているそうなので、多少ともこういうものの見方が広がっていくことになるので、非常によろこばしい。で、私もこういうダイジェストを作成して、こういう考え方の喧伝に一助を担おうというわけである。

本文はさらに面白く続くが、つづきは実際に本文をごらんいただきたい。

その後の日本国の研究

ひどさはそれにとどまらない。猪瀬氏の週刊文春への連載「ニュースの考古学」(5/15号)では、豊浜トンネル崩落事故を食いものにしている「北海道開発協会」のことがとりあげられている。北海道開発局からの「仕事」を随意契約でとり、それを子会社などへ丸投げしてその「差額」を稼いでいるという。つまり税金を吸収している無駄な機関なのである。さらに当然のことながら、その協会や子会社が役人の天下り先となるという機能も合わせ持つわけだ。

まったく情けなくもはらだたしい気持ちにさせられるが、この仕組みをあばいたのは、「北海道新聞」だと言う(この連載自体が猪瀬氏じしんの取材によるのではなく猪瀬氏がニュース記事を読んでそれにコメントするという趣旨である)。このようにいろいろな方面で同時的にいろいろな「無駄」があばかれていくのは、いい兆候ではあるかもしれない。例のムツゴロウの問題なども(「日本国の研究」でとりあげられた長良川の問題とほぼ同様の構図だと思うが)、単にムツゴロウがかわいそうという「環境破壊」の問題としてというよりも、日本の国の税金の使われ方がほんとにおかしいという(猪瀬氏いうところの)「税金破壊」の問題として「意識」される傾向が大きくなっている。いつまでも国民はバカではないのだ。

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Vol.10
多重人格について

宮崎に死刑判決が出て、私は非常に納得しているのだが、世間ではどうもそうではないらしい。

すでに瀧野隆浩「宮崎勤 精神鑑定書」(講談社)という本が、歯切れが悪く要領を得ないことは別のところに書いた(この著者が判決に対してどういう意見を持っているのかはわからないが)。この本をはじめとして、マスコミの論調は「多重人格とはなにか」ということへの関心に妙に傾きすぎているのではないか。

そしてこのことの暗黙の前提になっているのは、「多重人格ならば減刑されるはずだ」ということなのだが、私が前からはっきりしてもらいたいと思っているのは、そもそもそうなのか?多重人格なら死刑はないのか?ということなのだった。そしてマスコミの多くはそのことにはふれず、「多重人格かもしれない・・」という憶測だけを興味本位に流しているようだ。

私の個人的な感覚は、「多重人格を免責にしてしまうと、かなりヤバいことになるぞ」というものだ。基本的に普通人でも「多重の人格」を持っていて、どれが「ほんものの人格」かということは、いちがいに言えないということ。今後ネットワーク社会が進展するにともなって、さらに「ひとつの人格」に規制される外的な要因が少なくなるだろうと言うこと。逆に(もともと人格が多重的なものなのだから)ひとは演じようと思えば多重人格など簡単に演じてしまえるだろうということ、それは意識的でなく、無意識的な「逃避」かもしれないが。このことはたとえば、犯罪者がかつては「地下」に潜伏したものが、いまや「心の中」に潜伏しれば、やはり逃げ果せたことになるのではないかというアナロジーを思わせる。実際もんだい、テクニックとしてそのように「逃げた」場合、それが「逃げた」のか「病気」でそうなったのかを判定するのは難しいのではないか。以上のような点から、多重人格を免責にすることは、犯罪を増加させることにつながるし、社会的公正感を欠くものがあると思う。

しかし私は精神医学者でもなんでもないから勝手なことを言っているだけなので、そこのところがどうなのかをはっきりしてもらいたいと思ったわけだ。書評のところで精神科医の春日武彦氏の意見は紹介した。また週刊文春(4/24号)の記事内で、町沢静夫氏は「宮崎は多重人格ではない」とした上で、多重人格(障害)はノイローゼ(神経症)の一種で精神病(分裂病)ではないから「多重人格者には明確な現実判断能力がある」としている。また私が常々へんだと思っていた「ネズミ人間が現れた」という問題(ネズミ人間が現れたのだったら、多重人格ではなく、単純に「妄想・幻覚」ではないか)についても、「明らかに見える人格が指令することはない」として、多重人格説を否定している。町沢氏は「精神病的なものが若干くわわっているが、免責される範囲は少ない」とする中安説に近いようだが、この方が説得性があると思う。

それはさておき、多重人格が町沢氏のいうように「現実判断の能力がある」ものであるならば、そもそも多重人格であったとしてもなんら減刑の対象にはならない(なりえない)のではないか。それを明確にすることなく多重人格にまつわる「ロマンティックな議論」をしているのは、宮崎にではなく結局は「多重人格という現象」か「自分の心」に興味があるだけのことだろう。そういう興味があることはいいのだが、宮崎をだしにすることではない。多重人格と聞いて連想するのは、突然意識を失い、別な人間として行動し、その間のことをまったく覚えていない、というものである。だから多重人格ときけば、その間についての記憶がなく、その間にしたことについて「責任を問えない」のではないか、というのがすぐに思いつかれるわけだが、宮崎が多重人格かどうかという場合の「問題」はそこにしかない。しかしすでに見たように「多重人格」というものの定義が、神経症の一種であり現実判断能力を有するものであるとされているのであれば、そんな問題ははじめから存在しないということになるのではないか。にもかかわらず「多重人格だったら・・」という甘ったるい議論が出てくるのは、そういう単なる「安っぽいドラマ」みたいな思いこみに左右されていることになる。この町沢氏のコメントを掲載した文春の記事にしてからが、宮崎は多重人格ではないというこのコメントを結論部にもってきながら、なぜかタイトルは「宮崎勤 4重人格を示す7年間の獄中書簡」なのである。

また作家の佐木隆三氏は、週刊朝日(5/2号)では「多重人格論の不採用」を批判している。しかしこれはよく読むと単に「事件当時の宮崎の精神状態がちょっとおかしかったことは事実ではないのか」ということを主張しているのにすぎない。つまり判決では(いちおう)事件当時の宮崎を正常としているので、正常ではなかった証拠も採用されている(じいさんの骨を食べたこと)を挙げ、判決主文の矛盾を指摘しているのだが、それは矛盾の指摘にすぎないのであって、より積極的に多重人格説を支持するものではないはずだ。分裂病とした中安説がまったくかえりみられないのは、いかに「多重人格」がブームだからといって、フェアではない。佐木氏はこの記事の最後で「はじめに死刑ありき」という考え方を批判しているが、あくまで「病気」にこだわるのであれば、自分こそ「はじめに免責ありき」ではないか。しかしそもそも多重人格(ていど)では免責にならないのであれば、今後、宮崎が病気だと信じたい人は、重い分裂病症状にあったことを主張すべきなのだが、そんな鑑定結果は今回でてもいないのだ。

話はそれるが、事件後から評論家の吉岡忍氏がさかんに、判決で動機を「性的欲求の満足」においたことをとりあげ、遺体から「精液反応」が出ていないことを指摘し、この「矛盾」をあげつらっていたのだが、私はこの性欲=精液というあまりに単純な図式に吹き出してしまった。このおっさん、マジでそんなことをいってるのか。それを根拠としつつ吉岡氏は「やはり宮崎は病気なのでは」ということをにおわせ、「裁判制度への不信感」を表明するのだが、私はむしろそんなことを根拠に宮崎を減刑してしまうような裁判所なら不信感をいだくだろう。つまり今回の判決にはなかなか信頼できるという感覚を持っている。

結局裁判などは、フィクショナルでバーチャルなもの。そんなものの中である個人のすべてが理解され、評定されるなどということはありえない。佐木氏にしても吉岡氏にしても、なにかを「信じている」人なのだろう。一方では精神科学が人間を完全に鑑定できるのではという思い込みであり、一方では裁判所がプラクグマティックな社会的調整の泥臭い場所ではなく、神聖な「真実」をさばく場であるという思いこみだろう。そういうと私が何かミもフタもないアナーキズムのようだが、そうではない。完全とか真理とかに還元されない「大人的な判断」を私は信頼しているというだけのことだ。奇しくも佐木氏はこの判決について「一番近くで見ていた裁判官が判断したことだから、この判決を尊重したい」といっていたが、まさにその「判断」のことだ。それは、なんだかんだ鑑定の結果はあっても、ここにいる被告は「じぶんがやった」ことを明らかに知ってもいるし、責任を負う基盤となる意識・感覚がある、という「感触」だろう。そんなものは法律として明文化もできないし、またしてはならない(絶対悪用する奴がいるから)ことだろうが、きわめて重要な人間としての共感覚なのだろう。

多重人格に話をもどせば、多重人格ということばさえ、ここでは一つのフィクションとしてしか意味がないことに注意すべきだろう。ほんらい、宮崎の不気味さというのは、幼女を殺し食ったということである。それがリアルというものだ。多重人格という言葉を口にすることによって評者は、そのリアルを語らなくてすんだ。また、当時から「宮崎事件はまったく理解できない」とは、多くの人が語っていたところだ。それが「多重人格」といえば、なんとなく理解できたことになるわけだ(佐木氏もはっきりと「複数の人格を持つものの犯行と考えることでようやく納得できた」と書いている)。そう考えれば、マスコミがいっせいに「多重人格」の周囲へ問題をずらしていったこともよく理解できる。自分たちが「犯罪者を理解したい」(理不尽な犯罪というのはこの世にはないということにしておきたい・犯罪者にも1分の理がある・理がなければ「病気」ということにしておきたい)からといって、そんな「解釈」でもって犯罪者を許したのでは、被害者・遺族がいたたまれないではないか。それをまずは直視していただきたい。

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Vol.10
3Dグラフィックについて

3Dグラフィックの面白さとはなにか、というと、これは手作業の熟練が味わえるというところにある。すべてのクラフトワークにそれはつきもののはずだが、コンピュータ上で、そういう熟練性と結びついたツールに出会うとは思ってもいなかった。たとえば、フォトショップの熟練性というのは、あくまで最終出力の品質に関係した、したがって商業印刷にタッチしない(できない)レベルではあんまり関係のないものだ。それに対して3Dグラフィックでの、とくに基本的なモデルづくりという場面では、出力がどうのという世界とは無縁な、非常に原始的な「ものをつくる」という快感が復活しているように思える。

それはまたペインターなどのように、現実に存在するプリミティブな作業をコンピュータでシュミレートするというのとも違って、あくまでコンピュータ上でこそはじめて可能となったという意味で、まったく新しい経験でもある。

というわけで、非常に不思議な快感にはまってしまい、ここの更新も途絶え気味になっているわけだ。

ちなみに私ははじめレイドリームデザイナーというソフトを買ったのだが、すぐにモデルづくりの能力に限界を感じて、国産のシェード(パーソナル版)を買った(シェードのホームページはここ。なお、ひるますホームページのトップ画像肥留間氏キャラクター人形は、レイドリームでの作品)。上の熟練性という話はこのシェードというソフトに関していえることで、すべての3Dソフトについて言えるわけではないかもしれない。なんといってもシェードフリークという人々が存在して、シェードの技法の本を出しているというくらいだ。この本(「ShadeV 3Dグラフィック」秀和システム刊)は、モデリングをするときのバイブルというか奥義書という感じで、3Dに関心のあるすべての方におすすめしたい。つまりソフトはシェードをおすすめしたいわけだ(今ならエヴァ綾波レイをつくって人気者になれるし)。ただし私の買った「パーソナル版」という価格の安いのは、最終出力の画像サイズが限定されているので、いずれは「プロフェッショナル版」に買い換える必要がある。まぁ今の所は見捨てられたレイドリームというソフトがあるので、これにむりやり取り込んで加工するという手もある。

ところで、私もそうだったのだが、3Dグラフィックは高性能のCPUと大量のメモリが必要と感じている人が多いと思うが、これはまちがいだ。それはたしかに最終的な画像(これ自体は2D)を得るためのレンダリングという作業では必要になるのだが、モデリングをしていく段階では、あったほうがいいけど必須というわけではない。モデリングのデータは結局は点と線の位置データでしかないからだ。これはフォトショップをやったあとイラストレーターをやって、やたらファイルが小さかったのにびっくりするのと同じだ。またモデリングデータがあれば、それを汎用の「下絵」として使い回せるという意味で、私などは「ひょっとしてマンガの下書きとして使い回せるのでは」という思惑があるのだ。つまり3Dソフトとはグラフィックソフト界におけるテキストエディタなのではないか?というのが、現時点での楽しい予感なのだが、果たしてそうなるかどうかは、今後の熟練性の獲得いかんにかかわってくるだろう。

なおひるますの3D作品はここ

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