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「責任」ってなんだ 97.5.13
菅 直人の雄姿をごらんになったか? 例の諌早湾で現地の担当者に(水門を)開けなさい!と迫ったシーンだ。テレビ的な報道ではこのいきさつはよく分からなかったのだが(たぶん報道する人がよく分かっていないのだろう)、水門を閉めたのは現地の人間の「判断」でやったというので、菅氏が「じゃ君の判断でいますぐここを開けなさい」と言ったら、「管理規制」があるからできない、ときたのだ。じゃその管理規制とやらの責任者は誰かと聞くと、その人はよく分からないらしく、別の代議士が「農林大臣だ」といったので、菅が「じゃ農林大臣が開けろといったら開けるのだな」とせまると、その担当者はなんかくちごもったようなあいまいな態度でその場をごまかしたのだった。
(話はそれるが、役人というのはよくこの「口ごもって」それから「黙り込んでしまう」という対応をテレビのインタビューなどでやっている。しかし一般の社会でこのような対応がありうる(許される)のだろうか。なにかの理由を明言してコメントを控えるというなら分かる。しかし、そうではなく、ただ口ごもって黙り込み、インタビュアーがなにかフォローをするのをまつのだ。こういうシーンはTBSだが、報道特集や日曜昼の「噂の東京マガジン」でよくお目にかかることができる。また日常的な場面では、高校生ぐらいまでは先生にしかられてこういう対応をする子というのがよくいた。しかし基本的には小学生レベルで克服すべき幼児的な態度だろう。大人とは自分がその場に存在して為したことについて「説明することができる人」のことだろう。まず役人を批判するに当たってこの精神の幼児性の問題からはじめるべきかもしれない。)
というわけで、問題は「責任」である。私がいいたいのはただひとつ。このようなまでに誰一人「責任」をとらない「日本という国」の中で「青木大使」の責任を問うとはいったい何のことなのかということだ。
責任という言葉の意味が分かっていないのか、あるいは自分というものと責任というものを結びつけて考えたことのない(子どもの)理屈でものを言っているのだろう。
あるいはここにあるのは、幼児性などではなく、アミニズム的な宗教かもしれない。つまり、事件によってケガレた青木大使を、ハライ・キヨメてしまえば、「平和」が回復するというような。
事件の責任は誰にあるかというTBSでのアンケートがそれを示している。青木大使に責任ありとするのが40パーセント以上、ペルー政府というのが50パーセント以上、だったと思う。バカじゃないのか? この数字が「事件を解決した功績は?」という問いへの答えなら分かる。事件を「起こした」責任を問うているのだ。答えは「テロリストにある」に決まっているではないか。これはほとんど冗談にしか聞こえない。それほどに、ものの考え方はネジまがっているのだ。
あるいはここにあるのはまたリアリティという感覚のマヒだろう。解決への功績や慰労をすっとばして「責任」に飛びついてくるこの思考の背後には、「この事件が解決したのがまるで自然現象であるかのような感覚」がある。テロが脅威であったということを忘れるほどに、非常にのんきな考え方なのだ。責任を問うというパフォーマンスの背後には、「この事件は強行突入しなくたって、時間が解決したはず」(いや、そうであってほしい)という無意識の欲望があるのではないか。要するに自分たちもまた結果的には強行突入に協力したという事実を打ち消してしまいたいのではないか。あるいはさらにバカなことだが、「世界にはテロなどない」ということにしたいのではないか。
青木大使に対する「責任」なるものの内実は(さまざまのゴシップは別として)「テロの対策が不十分だったのではないか」というものだが、このような問題提起のしかたは、いっけんテロの脅威を喧伝しつつも実は危機管理にほど遠い。準備をしておけばテロは起きない、という考え方だからだ。それでは「本当にテロが起きたときに何も手を打てない」だろう。そして今回、実際、だれも「起きてしまったこと」に対して有効な手を打てなかったではないか。そのようなものたちがいったい何を言いうるのか。テロが起きるのは、テロ対策ができてないからだ、とは何という「内罰的性格」だろうか。単なるお人好しではすまない。テロとは明確に世界に存在する「暴力」だという現実から目をそらすものでしかないからだ。ではテロ対策にいったいどれほどの準備をすればいいのか。それが相手の出方・装備による以上、明確にどこまでやっておけば「十分」ということは言いがたいのではないか。テロ対策とは、テロが起きたらどうするか、という「国の対応方針」のことではないのか。
ところでテロ対策が不十分だという、その人たちの国はそもそも「世界の暴力に対してなんら武力対策を持ちませんよ」という「平和憲法」を持つ国であった。世界に暴力は存在しないという世界観の上にたっている「国家」なのだから、その出先機関がテロ対策が不十分だって当たり前ではないか。警備を簡単にして天皇の写真をかかげ、ひたすら海外の人とあらそわず仲良くする。日本の外交方針(国家方針)そのものを青木大使は忠実におこなっているだけではないか。青木大使のテロ対策の責任を追及したいなら、まずは自分の国の憲法を変えてからにしたらいいではないかと言わずもがなのことまで言ってしまったが、そういうことなのである。
「責任」という言葉のもっとも美しい用法は「オレが責任をとる。これを実行しよう」というものだ。行動が伴わないところに責任はない。そして行動(その行動へと動くための判断力)を期待し、権限を与えるためにだけ「ポスト」というものがある。行動すなわち「仕事」がすべてである。今回の件でも誰が何をやり、誰が何もやらなかったか、ということこそ、肝心なことだ。何もやらなかった人が結局は得をするという世の中の風潮が、このくだらない一件によって加速されるのはこまったことだ。冒頭で紹介した諌早湾の無責任管理人だらけの国になってしまうだろうから。
これを書いた後、青木大使解任だか辞任だかの報に接した。いまはただゆっくり休んでいただきたい。橋龍はかなり早い段階で大使から辞意を受けていたという(読売夕刊)。しかし「人の運命をおもちゃにすることはできない」というわけのわからん理由からそれを留めておいたのだと言う。その言葉とうらはらに、結果としてそうやって留めておいたことでまさに青木という人を「おもちゃ」にしたわけだ。総理になった人はすべて言語を軽んずるという傾向が生じる。なぜその時点で功績をたたえつつ「休養をとる」という意味で辞めさせるというもっとも妥当な方途をとれないのか。はっきり言っておくが、本文で言う「何もしない人」とはまさにあんた(橋龍)のことだ。そういえば橋龍は例の脳死法案でも、「行政の最高責任者が判断するのは好ましくない」などというわけのわからん理由をつけて「何もしなかった」のだった(ここにもまた「責任」という言葉が出てくるのは皮肉としかいいようがない)。自分を「天皇陛下」とでも勘違いしているのじゃないか。
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