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Vol.12 (1997年6月)

■岩手のうまい蕎麦屋・以釘庵 97.6.24
■「クーロンズ・ゲート」をふりかえる 97.6.19
■さらば勝新〜「青春」って何だ? 97.6.22

■パリ・テキサス 1992.3
  フリーペーパー版「HIRUMAS VOL.9」より

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Vol.12
岩手のうまい蕎麦屋・以釘庵  97.6.24

岩手でうまい蕎麦屋を見つけたので、お知らせしておく。岩手といっても、私の行動半径はせまく、北上市を中心にした領域なのだ。この町は、多くの人にはあまり用もない土地であるが、8月上旬(たぶん7日〜10日にかけて)に、郷土芸能祭というものがあるし、温泉やスキー場へのアクセスには便利なので、ぜひ立ち寄っていただきたい。

で、その蕎麦屋だが「以釘庵(いていあん)」といって、市内の「県立北上病院」の入口付近にあるので、駅でタクシーの運転手に言っていただければすぐだ。歩いても15分もかからないだろう。

かんじんの蕎麦だが、さらしな系の白っぽい蕎麦で、しゃきっとした活きのよいコシがある。私もバイクツーリングによって、各地の有名蕎麦は食べまくっているのだが、ここまで「活き」のいい蕎麦は初めて食べた。

むかし、マンガ「ワイルド7」を読んでいたら、飛葉ちゃん(おなつかしや・・)が、スパゲティの講釈をするシーンがあって、「スパゲティは一本つまんで、床に落としてみたら、それがはねかえって、テーブルにもどってくるぐらい」活きがよくなくっちゃいけないと言っていたのだが、ここの蕎麦はまさにそんな感じだった。つまり硬すぎても柔らかすぎても論外で、その上に何か内側からはじけ出てくるような「しなる力」がなくっちゃいけないのだが、それがここの蕎麦にはある。

つゆは、東北人向けなのだろう、かなり「しつこい」感じではある。にぼし・いりこ系の「こく」があるだしに、かなり甘みが強い味がからまっている。私には絶品だ。この店が変わっているのは、このつゆに(もり・ざるの場合でも)わさびを入れるのではなく「紅葉おろし様のもの」を入れるというところだ。「様のもの」というのは、大根おろしに一味唐辛子をまぜたあと、水分をしぼりだし、ちょうど「わさび」状のかたさにしてあるからだ。これが、甘めのつゆと交わってまた「うまさ」を引き立てるわけだ。さらに入れれば辛い物好きには応えられないだろう。

というわけで、ぜひこの東北・北上の至宝をご賞味いただきたい。

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Vol.12
「クーロンズ・ゲート」をふりかえる  97.6.19

ついにクーロンズ・ゲートも終了した。前半の感想ではゲーム・システム上の話ばかりしてきたので、「クーロン・・・」とは、いかにもゲーム的な無機質なものであるようにイメージされているかもしれないが、実際は(ゲームのイメージ画像などがあれば一目瞭然だが)まったく逆にねちっこい有機的なものである。ストーリーも「濃い」。これは基本的にはゲームというより、いわゆるインタラクティブ・ムービーであって、映画化されている断片を自分が拾い集めてつないで見るという感覚に近い。というわけで、ラスト近くなどは、まさに「映画的」な感動もあった。しかし、これは「ゲーム」でもあるので、「映画的」といっても、当然、全体としては「普通の」映画での感動とはちょっと異質な体験であるのでそれについて、ちょっと書いておきたい。

普通の?映画では、ストーリーに感情移入して、そのストーリー上ではじめて「感動」ということが起こると思うのだが、このクーロンの場合、ストーリーというのがあまり感情移入できるものではないように思う。むしろ、最後までいったい自分は何をやっているのか明確ではないという感じが強い。これは例の「攻略本」のインタビューなどを読むと、むしろ意図的にそうしているところがあるようだ。ゲームであまりにも「ストーリー」を明確にしてしまうと、白けてしまう、ということだろうか。

ストーリーへの感情移入がなく、「感動」が起こるのは、この場合、このゲームがあまりにも長すぎたために、キャラクターやその「世界」への愛着が起こっており、ゲームの終わりが近づくにつれて、そのキャラクターとこの「世界」への別れが近づいてくる、その別れへの寂しさ・悲しさが、この感動の主たるものではないかと思う(もちろん、その前提としてキャラクターや「世界」のもつ魅力があることはいうまでもない)。

つまりキャラクターと世界への「感情移入」が、ストーリーをさしおいて、起こっているのである。これは変な意味で、「より現実に近い」のではないだろうか。「現実」には明確なストーリーはないが、出会う人々(つまり「キャラ」)やその状況(つまり「世界」)への愛着を、ぼくらは持っているからだ。そしてその「愛着」は、それがもつ魅力ももちろんあるだろうが、それ以上に「それ」らとのつき合いの「長さ」に多分に規定されてはいないだろうか。とすると、クーロンはゲームというよりインタラクティブ・ムービーだと言ったが、さらに言えばムービーというより「現実」に近いと言ったほうがいいのだろう。

すべてが終わって、クレジットも流れたあと、さらにプレイヤーは廃虚となったクーロンに立たされることになるのだが、そこで感じるのは、この廃虚の街をもっと歩いてみたい!という感情である。

最後の最後に思わせぶりな演出があるのだが、それは「クーロン2」の制作を予告するものなのだろうか。駄作でもいい、パート2の制作を待つ。

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Vol.12
さらば勝新〜「青春」って何だ?  97.6.22

さらば勝新。勝新はオレの青春そのものだった・・。

と、そこまでいう人間は、勝新のファンだという人間でも少ないのではないか。 しかし、私にとっては「青春そのもの」という言葉はなんら比喩ではなく、まさに言葉そのままの意味である。

というのも、僕が高校生くらいの時に、座頭市のTVシリーズをやっていたのだが(78年から80年ころだと思うが、というと、私の歳がばれてしまうわけだが)、このTVシリーズが、時代劇とは思えない「前衛的な」映像美を追求した作品シリーズだったのだ。で、毎回、たぶん監督も違うのだと思うが、次から次へと「新しい」映像表現があれこれと試みられ、それに惹かれ、初めて映画というものを創りたいと思った。ど田舎で、ごくごく普通のテレビドラマや、せいぜいハリウッドのメジャー映画しか見たことのないガキにとって、このシリーズはあまりに衝撃的だった。それまでも「絵」や「マンガ」は書いていたが、音楽やサウンドと動く画面が一体となって時間的な表現を創り出すものとしての「映像表現」というものを意識したのは、これがはじめてだった。

この映像体験がなければ、おそらくゴダールもフェリーニも、見ようとは思わなかっただろうし、見ても「わからん」で済ませていたかもしれない。

そういう意味で勝新は私の「青春そのもの」なのだ。

しかし、こうして思い出してみると、「青春」ってなんなのか、ということが、逆に分かってくる。「青春」ってのは、ようするに「意味のないところに過剰な意味を感じている」ということではないだろうか。つまり「座頭市」はどんなに素晴らしい映像詩に仕立て上げようと、やっぱり「座頭市」でしかなかったはずで、そこに「意味」は実はあまりないのだ。「意味」を感じているのは、見ている側(私自身)の「想像力」なのである(これは作品の価値を否定していっているのではない。あくまで「私」の「青春」を分析しているわけである。念のため)。しかもその「想像」的な意味とは、外の世界へと向かっていく「表現」には決してならず、あくまでも「自分の内部で感覚され」ているものにすぎない。つまりなんら、具体的な形をもった・論理性をもった・説得性をもった「意味」ではない。感性的といえばそれまでだが、このように「過剰」で「内的」だという点が「青春」というものの特徴だという気がする。

というわけで、勝新とともに私の「青春」なるものにも、おさらばすることにしよう。つつしんで冥福を祈りたい。

それにしても勝新といえば、最近、偶然にも別の書評の中で映画「座頭市」についてコメントしたばかりであった。こちらも座頭市についての面白い見方が書いてあるのでごらんください。勝新じしんが監督した最後の「座頭市」映画は、まったくの私の「理想」をそのまま形にしたような至福の作品であった。とにかくもこの作品を残してくれたことに感謝したい。

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Vol.12
パリ・テキサス  1992.3

フリーペーパー版「HIRUMAS」VOL.9の再録シリーズだ。92年の3月のもの。

 「パリ・テキサス」のビデオを再見する。これは妻に溺れたために破滅する男の話だ。妻に溺れるとはどーゆう事なのか。妻が求める物は何か?常にそれを第一に考え、それを実現してやる事を目的として生きる、そーゆう状態を妻に溺れるというのである。つまり妻と暮らしている内にどんどん「自分」がなくなり、妻の自我が自分の自我にとってかわり、妻はそういう存在感の希薄となった夫という存在に満足できず、二人は破局を迎える。

 なぜこんなことになるのか? こんな話は聞いた事がない。あるいは「パリ・テキサス」を見た人はこの映画をそーゆう話として受け取っているんだろうか。実は私は最初に見た時はそーゆう話とは全く思わなかったのだ。旅情・息子との心の交流・男のロマン…そういう外面的なこの映画を構成する要素をみて満足していただけだった。で、今回みて、エーッこの映画ってこんなにオトナだったのか、と驚いた次第。これがオトナの映画ってのは、分かるひとには分かる、というよーな問題であって、例えば不倫で悩んだりしてみせればオトナだっていうようなレベルとは全く異なる意味でオトナだって言いたいわけなんだけど、つまりそこには愛っていう問題が、単に誰かと誰かの組み合わせだとか、人生における選択と葛藤だとかいう「自意識」にとって外的な現象においてではなく、まさに意識の存立と愛という融合との狭間におけるギリギリのせめぎあいとして描かれている、って事。

 というのは全くの「実感」の世界で、そーゆうふうにこの映画を「分かる」のは、僕自身の体験からして分かるので、なんでそーなるのか、なぜ男は妻に溺れてしまうのか、というその答えは、妻とは可能性そのものだから、である。この映画の妻が特殊でそーなのでも、私の妻が特殊にそーなのでもなく、妻とは原理的にそうなのであって、そうでない、と思っている人はまだその可能性を発見していないだけだ。そして妻に溺れているという状態は、男がそういう妻すなわち可能性そのものに敗北しているという事なのだ。自分の可能性というものから目をそららした瞬間、男の妻への頽落は始まる。と私は考える。だがだからといって、妻のもとを去るオトコとは、やはり可能性というものから逃避しているのだ。マジックミラー越しにしか出会わない「二人」は結局お互いの可能性がすれ違ったままの状態にある。映画はそれでよい。ここまでこじれて、いちどに和解しちゃったりしたら、ウソだもんねぇ。

 でも映画をはなれて現実には、男と女の可能性ってものが、ちゃんと直視しあって交差してなきゃ、一緒に暮らす意味なんてないじゃない? ま、ウチさえうまくいってりゃ、他所の事なんてどーでもいいって話もあんだけど…。ま、やめとこ。

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