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「クーロンズ・ゲート」をふりかえる
97.6.19
ついにクーロンズ・ゲートも終了した。前半の感想ではゲーム・システム上の話ばかりしてきたので、「クーロン・・・」とは、いかにもゲーム的な無機質なものであるようにイメージされているかもしれないが、実際は(ゲームのイメージ画像などがあれば一目瞭然だが)まったく逆にねちっこい有機的なものである。ストーリーも「濃い」。これは基本的にはゲームというより、いわゆるインタラクティブ・ムービーであって、映画化されている断片を自分が拾い集めてつないで見るという感覚に近い。というわけで、ラスト近くなどは、まさに「映画的」な感動もあった。しかし、これは「ゲーム」でもあるので、「映画的」といっても、当然、全体としては「普通の」映画での感動とはちょっと異質な体験であるのでそれについて、ちょっと書いておきたい。
普通の?映画では、ストーリーに感情移入して、そのストーリー上ではじめて「感動」ということが起こると思うのだが、このクーロンの場合、ストーリーというのがあまり感情移入できるものではないように思う。むしろ、最後までいったい自分は何をやっているのか明確ではないという感じが強い。これは例の「攻略本」のインタビューなどを読むと、むしろ意図的にそうしているところがあるようだ。ゲームであまりにも「ストーリー」を明確にしてしまうと、白けてしまう、ということだろうか。
ストーリーへの感情移入がなく、「感動」が起こるのは、この場合、このゲームがあまりにも長すぎたために、キャラクターやその「世界」への愛着が起こっており、ゲームの終わりが近づくにつれて、そのキャラクターとこの「世界」への別れが近づいてくる、その別れへの寂しさ・悲しさが、この感動の主たるものではないかと思う(もちろん、その前提としてキャラクターや「世界」のもつ魅力があることはいうまでもない)。
つまりキャラクターと世界への「感情移入」が、ストーリーをさしおいて、起こっているのである。これは変な意味で、「より現実に近い」のではないだろうか。「現実」には明確なストーリーはないが、出会う人々(つまり「キャラ」)やその状況(つまり「世界」)への愛着を、ぼくらは持っているからだ。そしてその「愛着」は、それがもつ魅力ももちろんあるだろうが、それ以上に「それ」らとのつき合いの「長さ」に多分に規定されてはいないだろうか。とすると、クーロンはゲームというよりインタラクティブ・ムービーだと言ったが、さらに言えばムービーというより「現実」に近いと言ったほうがいいのだろう。
すべてが終わって、クレジットも流れたあと、さらにプレイヤーは廃虚となったクーロンに立たされることになるのだが、そこで感じるのは、この廃虚の街をもっと歩いてみたい!という感情である。
最後の最後に思わせぶりな演出があるのだが、それは「クーロン2」の制作を予告するものなのだろうか。駄作でもいい、パート2の制作を待つ。
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