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Vol.13 (1997年6月)

神戸小学生殺人事件関連ファイル1
事件のはじまりから容疑者逮捕まで

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Vol.13
「容疑者」逮捕・・終わりのはじまりか?  97.6.28

中学生(14歳)が犯人だったということで、衝撃がじわじわとボディブローのようにきいてくる。これは、メディアの報道がそういう雰囲気であることもあるが、やはり誰にとってもどうしようもなく効いてくる「鈍い衝撃」のようなものだろう。

ともかくも、今はなにもまだ「分からない」状態であり、いろいろと疑問もあるが、ここで言いうるのは、犯人が中学生(14歳)ということから、単純に「社会システム」が悪いという例の議論が蒸し返されることが予想されるということだ。そのような議論こそ大塚氏の言う「彼の物語に荷担すること」になるはずだ。しかし、さらにうんざりするのは、それに対する議論もまたすでに準備されたものであり、ようするにすべてが同じ議論のくり返しとして、ただの「ことば」の中に回収されていくのではないか、という無力感である。

というのも、きれいごとを排していえば、犯人を死刑にして「事実として」この事件に決着をつける、ということができなくなったからだ。なお、私がここまで「多重人格(をよそおっている)」説を書いてきたが、犯人が14歳で、基本的に死刑がないとすると(死刑を避けるために「多重人格をよそおう」必要がないのだから)、「よそおった」のではなく「多重人格のフィクションを単にまねた」だけというのが正しいということになるだろう。

「よそおう」と「まねる」は、結果として外面的には同じ事なのだが、その行為の「意味」がまったく違う。というか、「まねる」のほうは、根本的に「意味がない」のである。(文脈的な「意図」はあっても)社会的な意図性がない、といったほうがいいのかもしれない。意図性というのは、社会的な意味づけということであり、それがないということは、それだけ幼稚だということなのである。子供はなにをするか分からない、というのはよく言うことだが、そのよく分からない行為に大人は「意味」を見出してしまう。私が「まねた」を「よそおう」と解釈したのが、そのいい例ということになるだろうか。

犯人の「幼稚性」というのは、中学生だったという結果から見れば、当たり前に思えてしまう(そのことがもっともはっきりと現れているのが、まさに例の「声明文」ではないだろうか。実物の写真が深夜になって公開されたが、その情報を通してみると、まさに14歳の書いた文字に見えるのである)。逆に犯罪の全体的な流れからみれば、「年少者」による犯罪だったということは、ショックであったり、驚きであったりする。しかし、「14歳」ということを「記号的」にではなく実態を少しでも想像してみれば少しも納得のいかない年齢ではないことに気付く。14歳というのは、エヴァンゲリオンの登場人物の年代であり、例の声明文を書くほどには「内面的」な意識が充実している年頃でもあり、肉体的にも子供ではなく、この事件の犯人だったとしても不思議ではない。

結局、何かすべてが当たり前で、すべてが無意味で、すべてが解体していく感覚をこの事件に感じてしまうが、しかしここを「はじまり」としなくては、何も語ることはできないだろう。

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多重人格」説と「秘密の友人」  97.6.21

さて、私が何度かこの場でこだわっている「多重人格」説だが、「多重人格」説のその後でふれた諸沢英道氏のほか、ほんとによくテレビに出ている高橋紳吾氏も、同様に「犯人は多重人格をよそおっている」と考えているようだ(とくに「女性セブン」24号の記事「犯人は幼稚な多重人格マニア」など。余談だが、今回の事件についての報道に関しては、大新聞・テレビ・オヤジ週刊誌などより、女性誌・東京スポーツなどこれまで「軽く」見られていたメディアの方が、「まとも」なのではないか、という感じがする)。

繰り返しておくが、ここでいう「多重人格」説は、「犯人が多重人格だ」というものではなく、犯人は意図的に「多重人格をよそおっている」というものである。世の識者は「この犯人は多重人格ではない」というところまではよく言うのだが、ということは「多重人格をよそおっているわけだ」と素直にうけとめればそれですむのに、「多重人格」的に読めるところを無理矢理にこじつけた説明をしようとしていることが多い。たとえば「友人」は実在しているから、犯人は複数だなどという説がそうで、ここまで来ると推理のための推理という感じで、「無駄なことをしている」という感じをもってしまうのだ(もちろん犯人が複数である可能性というのはゼロではないのだろうが・・)。

などとつらつら思いつつ、仕事で「ミステリースパ」という雑誌(SPA!の別冊で、占いやミステリー小説・映画を特集したムック本)を見ていたら、またびっくりしてしまった。

サイコホラーなどのミステリー小説を紹介しているコーナーなのだが、単行本や文庫本の表紙写真を並べ、その横に短いあらすじを書いている。その中に「女性の生首を両手で持ち上げている」イラストが、表紙になっている本があったので、ふと気になってタイトルを見て驚いたのだ。それはアンドリュー・クラヴァンという人の「秘密の友人」(角川文庫)という本だったのだ。もちろん驚いたのは「生首」のイラストと「友人」という言葉の「一致」である。

で、あらすじによると、「精神のバランスを失うと残虐な殺人を犯す」という少女の治療を担当することになった精神科医の話ということである。しかし、その少女は「自分は殺人者ではなく、自分にしか見えない人格「秘密の友人」の仕業なのだと訴える」のだという。つまりここでは明らかに「友人」は「多重人格における別人格」を指しているのだ。それ以上はくわしくあらすじは書いていないので実際に現物をみないと何とも言えぬが(生首のイラストとの一致については、ここでは問題にしないが)少なくとも、「多重人格」であることを「友人」という言葉によって「表現」することが、なんら突飛ではないのだという一つの実例ではあるだろう。さらにいえば、「友人」という言葉の「出典」はこのあたりのミステリーにあるのではないか、ということまでは言えるわけである(少なくとも「スクールキル」が、巷間いわれているようにミステリーからの引用であるならば、同程度にこの「友人」がこのミステリーからの引用であるということはいいうるだろう)。

なお、「透明な」という言葉が多重人格(をよそおっていること)を示唆することについては、「多重人格」説の項をご覧いただきたい。

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Vol.13
大塚英志氏への批判  97.6.18

週刊文春(6/19号)で大塚英志氏が、「宮崎勤と酒鬼薔薇聖斗の落差」という記事を書いていたが、ここで彼は容疑者すら定かでない現時点で、「声明文」などをもとにプロファイリングし報道を繰り返すマスコミを批判している。

私はマスコミの報道をいいものとは思っていないが、プロファイリング的な報道を批判しても意味はない、と思う。とくに大塚氏が「プロファイリング」を、海外推理小説の中の小道具と規定した上で、「淳くんはサイコサスペンスの登場人物ではない」と言っているが、それはおかしい。そういうなら「プロファイリングは、サイコサスペンスの小道具ではない」ということも同様に言いうるではないか。プロファイリングはSFにおけるレーザー光線ではない。プロファイリングが「先に」あって、それがミステリーに使われたのだ。あまりに単純なことだが、プロファイリングするのは、まさに「犯人がサイコサスペンスの登場人物ではない」からなのだ。

「淳くんはサイコサスペンスの登場人物ではない」ことなど、誰でもわかっている。だからこそ、そういうことをしてしまった犯人とは何者なのか?ということに関心があるのであるし、何よりもその犯人を早く捕まえたい(捕まえてほしい)のだ。多少のミスリーディングや先走りがあったとしても、その根底にあるのが「犯人を一刻も早く捕まえよう」という「意志」である限りにおいて、私はむしろマスコミを支持している。というか、それは当たり前のことであって支持するとか支持しないとかいう以前の問題だろう(だから私はマスコミでのプロファイリングの「内容」については批判したが、それが行われていることについてはなんら批判しなかったのだ)。

この記事の中で大塚氏は「ぼくらはサブカルチャーの断片、ジャンクを引用することによってしか何かを語れない」などとニヒリスティックなポーズを決めて見せてはいるが、そんなことを言うなら、そもそも言語とはそういうもの(断片的なジャンクの集積)でしかないのだ。言葉そのものに「意味」があるわけではない。有意味とは、それを語る「ひと」の意味でしかないはずだ。

たしかにプロファイリング的な言葉の多くは、単なるこじつけ的なジャンクに終始している。しかし、そこで語られていることの多くは明らかに「このような行為は絶対に許さない」という社会的なメッセージとはなっている。さらに言えば、プロファイリング的なものの多くは、明らかに「犯人の引用を明らかにすることによって、その浅はかさを暴露し、社会的に糾弾する」という意味あいが強いのではないか。ありていにいえば、「犯人さん、あんたバカだね〜」というメッセージの方が強いのではないか。大塚氏は、この事件に関してプロファイリング的な詮索をすることが、犯人自身の「物語」に荷担することであり、劇場犯罪の劇場を提供することであり、次の犯罪への共犯者になることでもあるとしているが、事態は逆ではないか。

しかし、この大塚氏の「物語への荷担」という考えは事実問題としてあまりに皮相だという以上に、なにか最近の「幼稚的な文化人」という「症状」をあからさまに「表現」しているようで、気になるところだ。つまり、ここにあるのは、「発言さえしなければ(沈黙していれば)、犯人と無関係な「キレイな身体」でいられる」という発想であり、「社会」と自分はそもそも無関係であるがごとき態度である。しかし、われわれはすでに犯人と同じ「社会という劇場」の共演者(共犯者?)であるからこそ、そのルール違反者に対して(またルール違反者の予備軍に対して)、そのような行為は「絶対に許してはならい」のだ。その「秩序」は誰かが与えてくれるものではなく、結局は自らつくり出すしかないものなのだ。そのことの決意として、犯人を分析し、糾弾する行為がある。

もっとも、「社会」と「個人」についてのこのような言い方は一つの「虚構」であり、大塚氏の言う「ジャンク」である。しかし、そんなことは分かって言っているのだ。それを「意味あるものにする」のは、結局は社会に参加するものとしての自分でしかないからだ。そういうふうに「言葉」を使える人間を「大人」というのである。

大塚氏の発言には何ら積極的な提言というものはない。これこそ「意味」のない言葉であり、それはまさに大塚氏自身の「無意味さ」(幼児性)から来る。ジャンク的なプロファイリングの言葉にすらある最低の「社会性」「公共性」が欠落しているのだ。

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Vol.13
酒呑童子説の検討  97.6.17

岩手県在住のミステリー作家高橋克彦氏だが、いぜん、ワイドショーで神戸の事件にコメントしていた。

関西の人間にとって、「酒・鬼」という文字は、即座に「大江山の酒呑童子」を連想させるもので、犯人もそのことを前提として、この事件を演出しているのではないか、ということだった。件の「酒呑童子」伝説では、大江山で悪さをしていた「酒呑童子」なる鬼を、源頼光という武士が退治をするわけだが、頼光は「酒呑童子の首を切り取って、都まで持ってきた」という。そしてそうであれば当然なのだが「胴体は(大江山という)山の上においたままにした」のである。

高橋氏はこの首と胴体の位置関係の「一致」に着目し、例のタンク山からみて中学の校門が「鬼門」の方角(北東)にあるということまで指摘していた。

高橋氏の「推理」では、犯人はこのような「民俗学」にもくわしい(つまり知識が豊富な)人物ではないか、というものなのだが、私はいちがいにそうとは言えないのではないか、と思っている。

それは、こういう「説」があまりに荒唐無稽だとか、そういうことではない。むしろこの一致は、他の様々なワイドショーでのたわごとにくらべれば、非常に「説得的な説明」ですらあるのではないか、と思うほどだ。

違うと思うのは、犯人が「意図的・意識的」にそれを演出したのではないか、というところだ。私はこのような呪術的な演出をすることと、少なくとも例の文面で表現されている「意識」との間には共通するものを感じられない。それがそのような「演出」になっていたとしたら、それは「偶然」であろう。ただし、僕のいう「偶然」は、「深層意識」レベルでは、ある種の「意図」であったかもしれない、という含意はある(なんたって、私は易占いをやっていた人間でもある)。

それは「酒呑童子」伝説が、頭の奥にインプットされていて、それをそのまま演じてしまったというのとも違う。むしろ「酒呑童子」伝説に先立つ何らかの「元型」(童子の頭を切り取って、山から下りてくるという原イメージのようなもの)があって、それがそれぞれに無意識的なレベルで表現されてしまった、というのが近いだろうか。

即座にそのような考えを連想してしまうほど、昔から「神話・伝説」をそのままに演じてしまうような「事件」は多かった。その一つ一つが「神話・伝説」を模倣・引用したものではないのは言うまでもない。そのような事例についてはむしろ高橋氏がくわしいだろう。そしてそういう「事件」の繰り返しが、遠い過去において「神話・伝説」へと(ある意味で抽象化されて)形づけられていったのかもしれない。

ちなみに岩手に帰っていたとき、日曜日のテレビ番組で「妖怪」の特集をやっていた。中盤から「妖怪」ではなく「鬼」の話にずれていって、偶然にも「酒呑童子」伝説についても語られたのだが、そこでは「首」の話はふれられていなかった。

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神戸の事件と「罪と罰」  97.6.13

「罪と罰」は、「あまり読まれもしないままに、読んだ気になっている名作」のランキングがあるとしたら、その上位に入るのではないだろうか。通常、この「名作」のテーマは、「超人思想」をいだいた主人公が殺人をし、しかし「罪の意識」から、それを悔い改め、「罰」を引き受けることによって人生をやりなおす、というものだろう。

しかし、江川卓(野球評論家とは別人)の「謎解き罪と罰」(新潮選書)を読むと(私の記憶が確かならば)、それがまったくの「誤読」であるということが分かる。江川氏の読みでは、主人公は悔い改めて凡人となるような弱い人ではなく、むしろ(社会的)弱者の「弱さ」を引き受け、自分が「世のため人のため?」の社会的理想を実現するのだという意味での「ヒーロー(英雄)」として描かれているというのだ

  • 主人公ラスコリニコフのファーストネームは「ロジオン」であるが、これは「ヒーロー」を意味する言葉「イロジオン」の省略形であること。ちなみに、主人公のフルネーム「ロジオン・ロマーノビッチ・ラスコリニコフ」をイニシャルであらわせば、PPPであるが、これを逆さまにして裏側から透かしてみると「666」すなわち「ヨハネ黙示録」における「獣の数字」となる。つまりラスコリニコフは、「英雄」であると同時に「反キリスト」でもあるような両義的存在として描かれている、というような言葉あそび的な解読にこの江川氏の本は満ちている。
つまり「超人思想」そのものは、ここでは「間違ったもの」とは見なされていない、というのだ。「超人思想」などというと仰々しいが、ようは人が正しいと思ったことを実現するというときには、必ず「英雄的な意志の発揮」というのがあるのであって、そういうことがなければ、人は生きている意味なんてないんじゃないか、ということなのである。つまりここで擁護されているのは「実存主義」的とでもいうべき、「人間の意味」なのであって、「超人であれば、なにをやってもいい」というような単純なわがまま論ではない。当たり前だが。

とすると、主人公の「悔い改め」は、実は「超人=実存思想」そのものにあるのではなく、そのような思想のもとでの行為が、世間の人々の常識からあまりにもかけはなれていて、共感的な理解を得るまでの「妥当性」「説得性」に欠けていた、そういう意味で「(行った行為=犯罪は)間違いだった」というところにある。

つまり「ビジョン」はよかったが、現実との関わり方が「あまりにもひとりよがりで」説得性に欠けていたことが反省の対象になっているのである(なんかウチの月刊ひるますの主旨みたいだが)。そう考えてみると、ドストエフスキーの目指したのは、「超人」などというものではなく、「まっとうな大人の思想」だということになるではないか・・・。

などと、つらつら思いながら、ふりかえれば、神戸の事件の犯人に言われている「超人思想」なるものの「底」の浅さがむき出しになってくる。

なお、「SPA!」の6/25号によれば、「罪と罰」については、ピープルネット上でも話題になったそうである。私はそこにはアクセスできないので、ご存じの方がいらっしゃれば、くわしく教えていただきたいものである。

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透明な友人と「多重人格」説・その後  97.6.9

「多重人格」説について、問題は「これが本当の多重人格なのか、にせの多重人格なのか」だと言っておいたが、今日のワイドショー(フジテレビの朝の)で、例の福島先生が(録画で)「多重人格」の疑いについてのコメントを求められ、「多重人格の場合は(「友人」のような形であらわれて、互いの人格が)交流し会うということはない。互いの人格の間にはバリアーのようなものがある」と、明確に否定していた。

私としては「彼」が「多重人格」だと主張したいわけではなく、あの「文面」は「自分が多重人格だ」ということを文脈的に指示している、と言いたいわけで、このように専門家が多重人格説を否定したことで、彼が意図的に「自分が多重人格だ」ということをよそおっているということが、はっきりした、と思う。

こういう意味での「多重人格」説については、このフジの同じ番組の中で、コメンテーターの諸沢英道氏(犯罪学・常盤大学学長)が、犯人は「連続幼女殺人事件(いうまでもなく宮崎の事件)での報道の影響から多重人格をくわしく知り、それをよそおった可能性がある」と指摘していた。やっとそういう見方がでてきて、我が意を得たりという感じだった(だからなんだということもないのだが)。

以前、別の書評の中で、春日武彦氏の「ロマンティックな狂気は存在するか」という本についてちょっとふれたが、この本は、フィクションの題材としてとりあげられる「狂気」についてのイメージと、現実の「狂気」や「病気」がいかに違うものか、ということを描いた本だった。この中で「高名な推理作家」でも、精神医学的な題材をまったく勘違いして使っていることが多いということが指摘されていて面白かった。その手の推理小説や犯罪小説の中の「精神医学」的な記述は、実際の病気について知らない人が「病名」から来るロマンティックな幻想に基づいて描いているものが多いというのだ。

今回の事件でも、犯人はいろいろな資料からの引用によって声明文を作っているのは明らかだが、その傾向からみて、推理小説や犯罪関連の本に興味が偏っているようだから、おそらくはその手の本の中から「多重人格」についての知識も仕入れている可能性が高い。そして「その手の本の脚色されたイメージ」をまにうけて、文面の上でだが「そのイメージを演じてしまった」のではないか。

多重人格をよそおうことに(フィクションを創作しようという以上の)意味があるとしたら、多重人格という「病気」を理由に刑を減刑するか免責するかしてもらうということ以外にないだろう。これについては私はくどいほど繰り返して言っているが、マスコミが宮崎の判決に関連して「多重人格ならば減刑される」かのような(根拠のない)イメージを流しつづけたことに大きな責任があると考えている(「多重人格について」)。しかし、犯人がそれをよそおおうとして安っぽいフィクションなどから盗用してしまったために、かえって「詐病の意志(意図性)」が、あからさまになってしまった(つまり当然のことだが、免責どころか、情状の余地もない)ということは、皮肉というほかはないだろう。

ところで、マスコミがこれほどまでにあからさまに「多重人格」説(犯人が意図的に「多重人格」を装っているという説)を避けているのは、とうぜん、宮崎事件で無意味にかつ無批判的に「多重人格説」(多重人格ならば「免責」されるのではないかという説)を持ち上げすぎてしまったことを、無意識に「抑圧」しているからではないか、というのが、これほどまでに私がこの問題にこだわる理由だ。この点において、この一連のファイルは興味本位的なものではなく、あくまで私の「考え」の延長にあるものである。

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透明な友人と「多重人格」説  97.6.7

神戸での事件が妙な動きになっており、腹立たしい。ここに何か関連して書くのもいやになる。しかし、モノを書こうと思うと、どうしてもそのとは頭をかすめている。今回、「多重人格」をにおわせる(よそおう)内容のメッセージが出てきたわけだが、そのことに対する私の考えはかつて宮崎について書いたこと「平気でうそをつく人たち」の書評に、とりあえずは、ほぼ表現されていると思う。

ところで私はこの神戸の事件への犯行声明を、「多重人格」をにおわせる(よそおう)内容のメッセージと思ったのだが、テレビなどを見ていたら、誰もそうとは言わないので、意外な感じがした。つまり僕は詮索の余地なく、これは「多重人格をにおわせる(よそおう)」ものと思い込んで読んでいたのだが、それは必ずしも「共有された」前提ではないということが意外だったのだ。

というのも、声明文冒頭の「ぼくが出ているときに・・」という言い方からして、多重人格における「第二の人格が顕在化している時に・・」と読むのが、文章の流れからして普通ではないかと思うし、その他「友人」についての記述など、文脈の流れからして「多重人格」的なものを感じるのだが、どうだろうか。ただしこれは「実際上においいて多重人格だ」という印象ではなく、「多重人格」的なものを(フィクションにおいて)描き出しているという印象としてなのだが。

だから、疑問は本当の多重人格の場合の「第二の人格」が、「ぼくが出ているとき」というような「自分についての認識」をもちうるのかどうかという問題だと思っていたのだ。つまりは、ここで提出されている「症状」が、いわば真性の多重人格なのか、それとも詐病なのかということだ。せっかくテレビなどに精神科の先生がたくさん出ているのだから、そのへんを突っ込んで言ってもらいたいものである。

この点に関しては、その後の情報をご覧下さい。

で、今回のメッセージについての認識が「多重人格」をにおわせる(よそおう)ものというところには落ち着いていないということに、意外な感じがしつつも、ふと福島章氏(今回の事件についてのコメンテーターとしておそらくもっともひんぱんにテレビ出演されている)の新刊本で、「創造の病」(新曜社)を読んでいたら、意外な「一致」に出会っておどろいてしまった。

その本の中の「ドグラマグラと多重人格」なる項目で、著者が、普通の(多重人格という病気でない)人のなかでも「人格」はひとつに固定したものではなく、さまざまな人格(意識の流れ)が「あざなえる縄のよう」にまじりあっている「集合体」だと言っている部分がある。このことは一般的にも了解されていることではないかと思う。で、福島氏はそのことを文学的に表現した例として、宮沢賢治の(自分は)「あらゆる透明な幽霊の集合体」とした一節(「春と修羅」序)をひき、「実に見事な表現」と言っているのだ。

ここで注意してもらいたいのは、もちろん「透明な」という言葉であり、それが「多重人格」と関連づけられて語られていることの「一致」だ(実際のところ宮沢賢治の場合は意識の流れの複数性ということであって、「病気」としての多重人格を指して言っているわけではないが)。例の声明文でも自分を「透明」としており、また「透明な存在」である友人というのもあった。この「透明」については、他人から無視をされていることへの恨みがまじった表現であるとか、自分の純粋さについての表明であるという説が語られているようだが、この宮沢賢治の表現を通してみると、むしろ「多重人格」におけるいろいろな人格のうちのひとつを表現したものと考える方がしっくりくるのではないだろうか。

普通に多重人格というものをテレビドラマや小説などでみると、別人格はちゃんとそれなりの名前や経歴を持っていたりする場合が多いが、そういう属性が貧弱で(たとえば「国籍もない」)ただ「殺すのがすき」という属性しかもたない人格の場合(その方が現実的にはありうると思うが)、「透明な」存在として表現されるのは順当なものだという感じを受ける。

もちろんここでは、それが本当の多重人格かどうかはペンディングしている。声明文の作者が福島氏の著作や、あるいは宮沢賢治からダイレクトに「透明な」という着想を得た可能性(つまり多重人格を「よそおった」可能性)は十分にあるからだ。

さらに言っておけば、僕はこのページでたびたび宮崎の判決についてマスコミが多重人格説にかたよった報道をしていること(はっきり言えば「宮崎は多重人格の疑いがあるから「免責すべき」という論調)を批判してきたが、そういったマスコミの風潮がなんらかの影響を与えている可能性もあるのではないか。

なんかワイドショーや夕刊紙の「もとネタ探し」じみてしまったが、「多重人格」なのかどうかというとば口に立たないと議論が始まらないように感じたので、あえて書いてみた次第だ。

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人を殺したということ  97.6.7

たしか28日の読売新聞だったが、ある殺人事件の判決で「無期懲役」が出て、検察が控訴した、という記事があった。なんでもくわしい法律関係はよく分からなかいが、このケースだと「死刑」と「無期」のボーダーラインにあるそうで、「無期」という判決は妥当性を欠いたものではないのだが、さいきん「死刑判決」を回避する傾向が強まっているため、検察はあえて控訴したのだ、ということだ。検察というところは役所にしてはきちんとした「意志」をもっているところだということでもあるが、これに関しては私はいいことだと思った。なんか「人を意図的に殺した」ということに対する重さがなくなっている気がしていたところだった。そこにこの事件だったのである。

しかし、こういうことを言う以上は、はっきりさせておきたいが、「死刑」とはなにも「おかみが裁いてくださる」ことではなく、原則的にはわれわれ(国民の意)ひとりひとりの行為の「代理執行」なのだ、ということだ。それを明確にしないかぎり、公共性とか倫理とかは根拠づけられないのではないだろうか。

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