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透明な友人と「多重人格」説
97.6.7
神戸での事件が妙な動きになっており、腹立たしい。ここに何か関連して書くのもいやになる。しかし、モノを書こうと思うと、どうしてもそのとは頭をかすめている。今回、「多重人格」をにおわせる(よそおう)内容のメッセージが出てきたわけだが、そのことに対する私の考えはかつて宮崎について書いたことと「平気でうそをつく人たち」の書評に、とりあえずは、ほぼ表現されていると思う。
ところで私はこの神戸の事件への犯行声明を、「多重人格」をにおわせる(よそおう)内容のメッセージと思ったのだが、テレビなどを見ていたら、誰もそうとは言わないので、意外な感じがした。つまり僕は詮索の余地なく、これは「多重人格をにおわせる(よそおう)」ものと思い込んで読んでいたのだが、それは必ずしも「共有された」前提ではないということが意外だったのだ。
というのも、声明文冒頭の「ぼくが出ているときに・・」という言い方からして、多重人格における「第二の人格が顕在化している時に・・」と読むのが、文章の流れからして普通ではないかと思うし、その他「友人」についての記述など、文脈の流れからして「多重人格」的なものを感じるのだが、どうだろうか。ただしこれは「実際上においいて多重人格だ」という印象ではなく、「多重人格」的なものを(フィクションにおいて)描き出しているという印象としてなのだが。
だから、疑問は本当の多重人格の場合の「第二の人格」が、「ぼくが出ているとき」というような「自分についての認識」をもちうるのかどうかという問題だと思っていたのだ。つまりは、ここで提出されている「症状」が、いわば真性の多重人格なのか、それとも詐病なのかということだ。せっかくテレビなどに精神科の先生がたくさん出ているのだから、そのへんを突っ込んで言ってもらいたいものである。
この点に関しては、その後の情報をご覧下さい。
で、今回のメッセージについての認識が「多重人格」をにおわせる(よそおう)ものというところには落ち着いていないということに、意外な感じがしつつも、ふと福島章氏(今回の事件についてのコメンテーターとしておそらくもっともひんぱんにテレビ出演されている)の新刊本で、「創造の病」(新曜社)を読んでいたら、意外な「一致」に出会っておどろいてしまった。
その本の中の「ドグラマグラと多重人格」なる項目で、著者が、普通の(多重人格という病気でない)人のなかでも「人格」はひとつに固定したものではなく、さまざまな人格(意識の流れ)が「あざなえる縄のよう」にまじりあっている「集合体」だと言っている部分がある。このことは一般的にも了解されていることではないかと思う。で、福島氏はそのことを文学的に表現した例として、宮沢賢治の(自分は)「あらゆる透明な幽霊の集合体」とした一節(「春と修羅」序)をひき、「実に見事な表現」と言っているのだ。
ここで注意してもらいたいのは、もちろん「透明な」という言葉であり、それが「多重人格」と関連づけられて語られていることの「一致」だ(実際のところ宮沢賢治の場合は意識の流れの複数性ということであって、「病気」としての多重人格を指して言っているわけではないが)。例の声明文でも自分を「透明」としており、また「透明な存在」である友人というのもあった。この「透明」については、他人から無視をされていることへの恨みがまじった表現であるとか、自分の純粋さについての表明であるという説が語られているようだが、この宮沢賢治の表現を通してみると、むしろ「多重人格」におけるいろいろな人格のうちのひとつを表現したものと考える方がしっくりくるのではないだろうか。
普通に多重人格というものをテレビドラマや小説などでみると、別人格はちゃんとそれなりの名前や経歴を持っていたりする場合が多いが、そういう属性が貧弱で(たとえば「国籍もない」)ただ「殺すのがすき」という属性しかもたない人格の場合(その方が現実的にはありうると思うが)、「透明な」存在として表現されるのは順当なものだという感じを受ける。
もちろんここでは、それが本当の多重人格かどうかはペンディングしている。声明文の作者が福島氏の著作や、あるいは宮沢賢治からダイレクトに「透明な」という着想を得た可能性(つまり多重人格を「よそおった」可能性)は十分にあるからだ。
さらに言っておけば、僕はこのページでたびたび宮崎の判決についてマスコミが多重人格説にかたよった報道をしていること(はっきり言えば「宮崎は多重人格の疑いがあるから「免責すべき」という論調)を批判してきたが、そういったマスコミの風潮がなんらかの影響を与えている可能性もあるのではないか。
なんかワイドショーや夕刊紙の「もとネタ探し」じみてしまったが、「多重人格」なのかどうかというとば口に立たないと議論が始まらないように感じたので、あえて書いてみた次第だ。
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