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Vol.14 (1997年7月)

神戸小学生殺人事件関連ファイル2
容疑者逮捕以後、犯行メモの公開以前まで

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Vol.14
フォーカス「問題」を整理する 97.7.19

フォーカス「事件」が起きた時点で、私はおおむね次のように書いた(航海日誌)。

少年法への「問題提起」をしたいのであれば、言論でやるべきで、なぜこんなスキャンダリズムでことを起こさなくてはないのか。・・・・私が怒りを感じるのは、このような行為が「問題提起」どころか、真摯な議論に水をさすものでしかないからだ。「問題提起」をしたいのであれば、堂々と言語によってするべきである。はっきり言っておくと、私の主義は「14歳でもきちんと裁判を受け、刑罰を受けるべきだ」というものであり、死刑だってありだと思っている。適正な議論によってそこへ持っていきたい、というのが私のいつわりない気持ちだ。

しかし、この時点で私が問題にしていたのは、あくまで

この段階では彼はあくまで「容疑者」でしかない。

というところにしかなかった。そして現在(再逮捕、そして「犯行メモ」の新たな公開という段階)に至ったところで、ほぼ「容疑者だから」という論点は、人権派弁護士たちだけにまかせておけばいいものになってしまったといっていいだろう。

しかしこの論点自体がまちがいというのではなく、たとえば今度の三重の女子高生誘拐?事件においても、「容疑者」の成人男性の名前は報道されていない。これはやはり「確信」がもてないからだと思うが、これが「容疑者」の初期段階では守られるべきことではないかと思う。ちなみに灰谷健次郎氏のフォーカス批判は一部このような「容疑者だから・・」という議論を含みながらも、結局は少年一般をまもろうとしているという論調になっており論旨が一貫していないように思う。また版権引き揚げもあまりにも突拍子もない行動に感じる(筒井康隆氏の断筆に通じるような)。まじめな人だとは思うのだが。

本題に入ると、今回の問題に対する完全に正しい意見というのはまずないのだが、それはもう構造的な問題というか、原理的にありえない、というような類の問題だという感じがする。そもそもこの問題についてどう思うか?、つまりいいか・悪いかという二者択一を迫る態度がそもそもおかしいと私は思っている。

はっきりさせたいのは、フォーカスの問題は「倫理の問題」ではないということだ。これはあきらかに「法律の違反」を巡る問題なのだが、このことの「是非」を問うということのなかに、「法律以前の善・悪」を問題にさせるような雰囲気があるのである。これはすべてを道徳的判断の下におく世界解釈の一元化(ニーチェの指摘。永井均氏の「ルサンチマンの哲学」(河出書房新社)を参照のこと)の中で生きていることを単に証しているということになろうか。問題をそのようにさせているのは、この「罰則のない法律」という奴だ。こんなものに何の意味があるのか?

問題が「倫理問題」化しているがゆえに、これについてコメントする人々の言葉がどうもうそくさかったり、建て前だけをごり押ししているかのような印象があり、また印象だけではなく実際に論理的にも噛み合わなかったりする。そもそもことを起こしたフォーカス編集部の発言自体が、私は「うそ」だと思っている。素直に言えば見たい人がいるから出すのであり、商売としてやっているのだということなのだが、そうは言ってはいけないというのが、この世界を覆う「倫理的世界観」なのである。

そんな中でもっともはっきりしているのは、立花隆氏の同時代を撃つ!(週刊現代7/26号、ウェブページはhttp://www.iijnet.or.jp/kodansha/wgendai)である。この中で氏は、フォーカスの行為は「違法」とした上で、「確信的な違法行為者の存在も必要」だとしている。これは非常にすっきりとした見方だと思う。フォーカスは違法、だから悪い、のではなく、違法だから罰を受けるべきだ、というのであればさらにはっきりするだろう。その「罰」がないから、物事がおかしくなる。罰を覚悟してでも「やった」のであれば、たとえは悪いが「吊るされる」のを覚悟で「やった」サカキバラといっしょであり、そのこと自体の善悪を問題にしてもはじまらないのは当然だからだ(いや、これはたとえが悪すぎたが)。

このように議論を「中性化(倫理的判断から)」したうえで、やはり少年法は変えるべきだというのがここでの私の意見だ。

しかし立花氏は単に議論を中性化することにとどまるのではなく、実は「写真」掲載は是という主張をしているのであり、「写真を見ることを拒否している人は、そもそもあの事件のもつ本当の意味を理解しようとする意志が根本的に欠けている」とまで言いきっている。これではせっかく中性化した議論をまたもや「倫理問題」にしてしまうようなものではないか(見るべきだという主張なのだから)。

私自身は写真がそこまでのものだと主張する気はない。氏がそこまで言うのは氏が写真を「もう見た」からであり、それはズルイと思う。というのもまだ見ていない多くの人がいるからであり、見れないことに責任はないからだ。そして(見るべきであるとしながら)見るということがいつまでもその「確信的違法行為者」に依存しなくてはならないというのも変な主張だ。しかもその肝心の違法行為者はひよったのか、次の号でも掲載するというような持続はしていないのだ。このような状況で「確信的違法行為者」を支持する他のメディア(氏の原稿を掲載している「週刊現代」をはじめ「週間文春」などのほとんどの週刊誌、そして立花氏自身のウェブページ)は、「支持する」としながらなぜか自分たちだけは「合法」の域にとどまっている。これを私は「ズルイ」と言うのだ。はっきり言って立花氏は少なくとも自分のウェブページで写真を掲載すべきではないだろうか。

これはかつてなら単にメディアを持っている少数者の問題だったろうが、いまや立花氏を含めインターネットやパソコン通信にアクセスできるすべての(ということは原理的にはほとんどの国民が含まれる)人々の問題だろう。このすべての人々が「確信的違法行為」の権利を持っているのだ。私だってここに写真を掲載しようと思えばやれてしまう、という状況がすでにあるのである。すべての「発言」はその(写真を掲載できるという)状況ともはや切っても切り放せないものになっているのだ。そこまでを常に意識しながら、発言をしていただきたい、と私は強く願っている。

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Vol.14
言葉が熟すとき・・  97.7.14

朝日新聞夕刊に「透明なボク」なるコラムのシリーズが掲載されていて、先日は河合隼雄氏が書いていた。

その中で河合氏は「言葉が熟すのを待て」と書いている。これは同世代の子供たちの言葉が熟すのを待て、といっているのだ。それは親や学校がこの事件のことを問題にし、彼らに感想を求めて、その上で話し合ったりして問題を「解決」したり、子供たちの心を癒していこうというような態度への批判として言われていることだ。そのように今は彼らに言葉を求めたり語らせたりするのではなく、「言葉の熟すのを待て」というわけである。

これには私は全面的に賛成で、先日書いた14歳の容疑者への過剰な感情移入についての批判も、私としてはマスコミが彼らに意見を求めること(FAXを送ってください等の)に対する批判という意味あいが強かったと思う。というのも、感情移入を表明する人たちは、結局、自分の言葉がないからこそ、あのような単純な「表現」によって、自分を仮託してしまうのである。そして子供とはその定義上、自分の言葉をまだもっていない(これについては、詳しく書くと切りがないが、とりあえずは私の「いじめ論」への付記をご覧いただきたい)のであるから、そのように安易な表現に身を寄せてしまうのはしょうがないのである。だからこそ河合氏のいうように「言葉の熟す」のを待つ必要があるわけだ。

しかし、これは子供だけに言えることだろうか。自分の反省も含めていうのだが、やはり、あまりにも早急に語ってしまうのは(語ることで忘れてしまうことができるという機能はあきらかにあるのだから)、やはり自分の中にある「思い」を薄めてしまうのではあろう。今夜の筑紫哲也のニュース番組で宮崎駿氏がインタビューに答えて「いまは(この事件について)語りたくない」といっていたが、まったく真摯な態度だと思った。河合氏は「(この事件についての)悲しみを(脇へどけておくのでなく、心の)中心に据え、日常のくらしをしっかりとする」ことが癒しになると書いている。この機微がおわかりになるだろうか。宮崎さんは、ここで語らなかった思いをしっかりといだいてまた次の作品をつくるだろう(このところ引退するって話ばかり言ってたけど、不思議とこのインタビューでは引退の話はでなかった)。またそれぞれの人々も、結局その答えはこの日常生活で出して行くしかない・・・よかれ悪しかれ、この事件は、そういうふうに「問われてしまった」事件ではあったわけである。

私もここで書くことを「答え」にはしたくない、と改めて思う。とにもかくにも「答え」としては書いていないのが、救いだろうか。私の書いたのは、あくまで「教育問題化」への批判であり、「共感」への批判であり、遡っては「プロファイリング批判への批判」であるというように、消去法によって、問題整理をすることでしかないからだ。

しかしこのような言説もまた、問題整理によって、考える下地をつくっていくという意味では、有意義な点もあるのではなかったろうか。そう思わないとやってられないわけだが。そしてまた、さらに一歩進んでいえば、あきらかにこれは一つの政治問題としての意味あいを持ち始めており(一刻も早い少年法の改正という問題)、一人の大人の市民としては、どこかで割り切った立場において判断するということも、もちろん必要なことだからだ。このためには、正確なデータを冷静に見極めていく必要があるだろう。

そして、そのようなデータの整備を待つとともに、ひとりひとりが、いま、自分の言葉を熟させていく必要にせまられているのだ。それには「時間」がかかると、思われるかも知れない。しかし、言葉が熟すのに客観的な意味での時間の長さというのはあまり関係がないのではないだろうか。実際、何十年待とうと、自分で考えるということが起きない場所では、言葉が熟すなんてことも起きるはずがない。哲学者のハイデガーは「時間」の意味は「時熟(時が熟すこと)」だと言ったが、必要なのはそのような「熟しゆくものとしての時間」をそれぞれが持つということだろう。

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過剰な感情移入はやめよ  97.7.6

声明文及び、容疑者である「彼」個人への感情移入といってもさまざまなレベルのものがあるわけで、第一に「教育問題化」という仕方でのもの、第二に、なんらかの心理的な原因(心的外傷)を彼の生活史の中に見出した上で彼を理解しようというもの、そして第三に同世代の直感的ともいえる共感の仕方である。

すでにこの件を教育問題化することの愚については意見を書いておいたが、ある教育批判論者によれば、なんと少年Aは、「身を挺して社会を告発してくれた」のだそうだ。ここには若干のことばのあやというものがあるとしても、Aの「英雄視」まであと一歩というか、ほとんどその「理論づけ」のはじまりですらあるだろう。

第二の心理学的な理解についてはまた別に、もう少しことの事態がはっきりしたうえで、考える必要があるだろう。しかしここですでに言えるのは、この事件をなんらかの「心的外傷」の結果として理解するということは、現段階では単に空想的なものにすぎず、なんら根拠があることではない、ということだ。またたとえ何らかの「外傷体験」がありえたとしても、それを原因として特定して理解しようとするアプローチにそもそも問題はないのだろうか。ちなみにアダルトチルドレンなどの議論など、心の問題をすべて「外傷」の結果としてみようというような単純な「心理学ブーム」に対しては、最近、香山リカさんがさかんに警鐘をならしているようである(別冊宝島の「こころの傷を癒す本」に掲載の記事など)。

私としてはそのような教育批判者や評論家たちの「理解」というのは、ペルーでの人質事件での言説につながる詐術があるように思えてならない(ペルー人質事件についてはここ)。つまりあのときさかんに言われていたのは、「事件の原因はテロ対策の不十分さにある」というものだった。私に言わせれば第一義に「事件の原因はテロリストにある」はずだが、その議論をすっとばし(透明化した上で)まず自分たちの対策を反省し、しかしそれには具体的な対策をなんら講じず、誰か(この場合は大使)の責任にし、スケープゴートにして終わりにするのが日本人の対応パターンなのだ。このパターンをそのまま踏襲し、まず第一義に「犯人が単に凶悪だった」という事実があるはずのところでも、それはさておいて、まずは自分たちの社会なり教育システムなりの制度が悪かったのだと反省し、つぎに校長ならびに担任をスケープゴートにして「解決」しようとしているようではないか。基本的にこの現実の中には「凶悪なまでの暴力」が潜在しているという現実から、なんとしても目をそらしたい、ということだろう。また第二の「心理学的な理解」にしても、宮崎(勤)をなんとしてでも多重人格という「病気」として理解したい(そうすれば「幼女殺し」という現実を直視しなくてすむから・・この「論理」についてはここ)という情熱と同様の無意識の欲望が潜んでいるように思えてならない。

前説が長くなってしまったが、私が言いたいのは、第三の、同世代を中心にした心情的な「共感」についてだ。この人々は、上に述べたような教育批判論者や心理学者たちにのせられて、ということもあるのだろうが、それには還元できない、また別な側面があるように思う。

ある意味では、かの声明文は、彼ら同世代の人々が、どう表現していいかわからず、もてあましていた「自己意識の濃さ」に、「表現のカタチ」を与えてくれた、ということだろう。たとえば、自分というものの不確実さやまわりの人間たちの不理解を「透明な存在」というカタチで。しかし、ここではっきり言っておきたいのは、彼らは少年Aの「表現」の中の、自分につごうのいい部分のみを抽出して、「Aは私の代わりに表現してくれた」などといっているということである。もちろんこれは不幸なことである。そんなもので「表現を肩代わりされてしまう」ような「自分」の薄っぺらさが不幸だというのだ。

その表現の共感しうるところは、あくまで断片化された情報の「部分」であって、決してトータルなAの体験ではない。それは当初、声明文が公表された段階で、その文面だけから、本当に「共感」した奴がいるのかどうかを問うだけでもはっきりさせることができるだろう。彼らが「共感」しているのは、「声明文」からのメッセージではない、なんらかの二次的な加工されたメッセージ(虚構的につくり出されたサカキバラ)に対してなのだ。

本当に「共感」するというのなら、彼がやったとされていること、つまり子どもの首をしめ、首を切り取り、校門におく、という行為を逐一想像し、追体験して(脳裏でシュミレートして)、そしてこの声明文の全文を書いてみる、という行為をしてみたうえで、なおかつ「共感しうる」かどうか、自分に問うて見るべきだろう。そしてなおかつ「共感できる」というのなら、そこで「自分はちょっとおかしいかもしれない」ということを誰かに相談してみるべきだろう。

このように「共感」に対しては、自分がどのような点に焦点をあて(すぎて)いるのか、ということを明らかにするために、もう一度ぜんたいをよく眺めてみる、ということが必要だろう。そのためにはもう一度、「彼」が登場する以前のさまざまなプロファイリング的な報道を読み直してみる、ということも必要だろう。容疑者が逮捕されたとたんに、かのプロファイリング的報道は意味がなくなったかに思われているかもしれないが、実はテキストそのものを「読む」ということを徹底していたのはむしろかのプロファイリングのほうだったわけである。いまこそその重要性があらためて理解されると言うものだ(こういう意味でもあの大塚氏の言っていることはすべて「逆さま」なのだ)。私も以前に書いたことを修正せずに掲載したままにしているが、それは公明正大さを表明したいなどと言うことではなく、現実的に訂正するような重大な錯誤はないと信じているからなのだ。

しかしこのように、彼らの「声明文」および「サカキバラ(A)」の「読み方」が間違っているのだと指摘することは、なんら本質的な批判ではないだろう。むしろ問題は、彼らが声明文の中で「何に」共感できるとして焦点化(フォーカシング)しているのか、ということであり、その「焦点化された部分」そのものの是非なのだ。その「焦点化された部分」とは、ようするに「自己意識」である。

Aは、その声明文において、なんら「教育」にしろ「社会」にしろ、外側の現実に対して問題提起をしているわけでもなく、ただただ「じぶん・じぶん・じぶん・・」と「意識」を表出しているわけだが、たとえば社会なり教育の中で自分が疎外されたとしても、そのことに関してはなんら具体性がないにもかかわらず、人が「共感する」というならば、結局はこの「じぶん・・」という意識にのみ共感しているだけということになるだろう。その「自分」なるものを構成している具体的条件については、ほとんど読み手の側の勝手な空想であることはすでにのべた。

ちなみに具体的な状況をそぎ落としていけば、そもそも自分というのは「抽象的な点」のごときものにならざるをえない(「「自分」取扱説明書」の著者・頼藤氏はそれを「ヴィトゲンシュタイン点」と呼んだ)のだから、その点が(まさに透明な焦点として)各人共通なのは、当たり前なのであって、「共感」の基盤は結局こんなものなのだ。

つまり問題は、「首切り殺人」という具体的な事件をムシしてまで、その「じふん・・」に共感してしまうほどに、若者の多くが「自分の意識」だけが大事だという気分に傾いているという事だろう。たしかに「自分をつくる」という過程では、「自分」というものをある面では強く押し出して行かなくてはならないのだが、まず「他者にも意識がある」ことを前提にしてほしいものだ。これは当たり前のことだが、率直に言って、「共感した」などと言っている人は「淳くんにだって同じようにつらかったり苦しかったりした意識はあったのだ」ということをすっかり失念しているようなので、このことははっきりさせておきたい。

あるいは「淳くん」は「知恵遅れ」だったから「意識なんかなかった」とでもキミは言うのだろうか(実際、Aへの共感を表明してる言動からはそのような差別的な雰囲気が感じられる)。そう言いたいのであれば、言えばよい。しかし、そもそも「他人にも意識がある」なんていう反論の仕方そのものが、「自分の意識」に焦点化する人々の土俵にのってしまった議論だったのである。たとえば「公共性の価値」を基礎づけるのは、なにも「他者の意識」の存在ではない(それをいうならむしろ「他人の迷惑」だろう)。

しかし私が危惧するのは、ひょっととすると、この同世代たちの過剰な感情移入を引き起こしているフォーカス・ポイントが「自分の意識」というよりも「意識そのもの」という部分にあるのではないかということだ。自分のよってたつリアリティや根拠、存在理由というものをすべて「意識すること」におく(あまりにおきすぎる)ということと、このような「感情移入」がおこり、他者の(そして動物たちの)生命を軽視し、他者とのかかわりを軽視し、現実への否定的な態度を持つ(それでいてまわりへの自己主張の欲望は持ち続けるという矛盾した態度を持つ)ということが、根底でつながっているように思われるからだ。

はっきり言っておくべきことは、「意識」など人間の根拠でもなければ価値でもなく、それがあるからといってエライわけでもなんでもないということだ。「意識が最高のものである」という「意識至上主義」が西欧的な病理である、とは「現代思想」の得意とする「近代批判」であるが、そういう思想すら過去のものであろう(新たな問題提起をする議論というよりは、「常識」の範囲に含まれるものだろう)。意識が最高のもの(人間を人間たらしめている)とするならば、そこでは感覚・記憶・情緒など個人に関わるものはもちろん、家族・社会など人と人とのつくりだす「現実」も、歴史性や文化という意味での「現実」も、(自分を自分たらしめるもの、自分を人間たらしめるもののアイテムとしては)排除されることになる。しかし「生命」は意識に還元することはできないのだ。意識至上主義という錯誤はおそらく意識がもっとも「言語」と近接しているがゆえにおきるのだろう。経験が浅く、内実が希薄な「若い時期」には、そのように「言語化しやすい」意識こそ、もっとも手っ取り早く「確実に」手に入る「根拠」のように思われるものなのかも知れない。人類史の青年期ともいうべき、西欧近代における「意識」がそうであり、つい最近までの日本の「文学青年の意識」がそうであろう。しかし、ここで私がたらたら述べるより、坂口安吾(もっとも「文学青年」から遠くにいる作家だろう)の私の好きな言葉があるので紹介しておくことにしよう。

「…だが意識とは何ほどの物であろうか。流れつつある時間のうちに、そんなことを考えてみたこともあった、というだけではないのか」

重要なのは、淳くんはまったく不条理に、その自分が体験し得たであろう「流れつつある時間」を奪われてしまった、ということだ。そして奪った方は、自分の「何ほどのものでもない」自意識を誇らしげに語って、満足し、それを読んだ多くの者が、やはり自分の「何ほどのものでもない意識」をそれに仮託して語り、カタルシスを得ているだけのことではないか。まったく醜いとしか言いようがない。

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家庭の問題・学校の問題  97.7.3

かていの問題・・・。例の中学校校長が、学校側の責任を追及されて、「いまはまだかていの問題ですから」といったところ、アッという間に「校長は問題を家庭の責任にした」ということになってしまったが、私はどう考えてもアレは「仮定の問題ですから」といっているとしか思えなかった。と思っていたところ、きょうのあるワイドショー(フジ系の朝)で実際、そのように訂正していたので、私の「耳」の方が確かだったようである。しかし、この一言で「学校を問題視しようという」マスコミの大きな流れができてしまっているようだ。この校長は、これまでの「いじめ会見」での校長たちにくらべれば、かなりしっかりと筋道を立てて冷静に話すことのできる人であるように感じるのだが、どうだろうか。それこそ仮定の問題にすぎないが、あまりにもこの発言の取り違えがそのままに流布されているようなので、私がここでひとこと報道しておきたいと思ったわけだ。

それにこんどの事件がどうころぼうと、「学校の教育が原因で」こんな人の首を切るような事件がおきるはずはない、と私は考えている。それでは私が村山氏について書いたことはどうなのか?、あの事件を「政治のせい」にしているのではないか?と言われそうだが、そうではない。私が言っているのは、この事件の背後にある「ニヒリズム」というよりもさらに無意味化されていく「冗談」的な雰囲気というものがどこから来たのか、ということなのだ(しかもこの議論は少年が犯人でない場合でも成り立つ議論になっているはずだ。たとえば少年が犯人ではないのに、その心底からのニヒリズムによってかあるいはゲームとして「自供」をしている可能性だってあるわけだが、そのような場合でも言いうる「背景」についての議論だろう)。つまり、これはもっと抽象的?なレベルの問題であって、具体的な因果関係(原因と結果)の問題ではない。そしてどんな「学校教育上の問題」だろうと、ぜったいに(それが学校教育のアイテムである以上)、この首切り殺人と「因果的な(原因と結果という)関係」になるものがあるはずはないのだ。

これはちょっと考えれば当たり前のことではないだろうか。たとえば、体罰があったとある夕刊紙の見出しにあったが、体罰があったから、なんなのか。「首切り殺人」という結果から「体罰」という原因を特定しようとするから、それが意味ありげにみえるのであって、たとえばいま「体罰」というひとつの事実があったとしたら、その「結果」はそれこそ無限に考えつくのであって、それが「首切り殺人」に限定されねばならない「理由」などどこにもない、と考えるのが、当たり前の「論理」ではないか。そしてまっとうな対応としては、体罰が問題なら、それを親や社会に問題として出せばいいのである。

そのような方法がありうるし、そう考えるのが「まとも」だということを、つねに意識しつつ、「教育」の問題は報道されねばならないと思うのだが、どうか。報道する側まで14歳の精神年齢になってどうするのだ。そしてまた、教師たちも、このようなしっかりした「論理」を身につけさせるよう、教育というものをしていただきたいと思う。サカキバラの声明文を読むと、いまの教育の問題と言ったら、頭をよくすること=へりくつがうまくなること、になっていることだとしか思えないではないか(しつこいようだが、私はそれが「原因」だというのではない)。

私は彼が容疑者である段階ではすべて「仮定の問題」にしておきたいのだが、このような首切り殺人のようなことを行い、日常的に動物を虐待していたという人間が、「教師が悪い」などと言ったからといって、それを真に受けること自体がおかしいと思う。14歳だからといって、みんなが純真な人間(たとえばエヴァンゲリオンのシンジくん)だというわけではないはずだ。そのへんを冷静に考えていただきたいものだ。

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冗談としてのリアリティ  97.6.30

神戸での殺人事件の容疑者が逮捕され、周知のように「村山さん」についての容疑者の文章が公開され、ある新聞などは「村山氏へも殺意」などと単細胞的に書いているところもあった。もちろん私としても、この犯罪の責任が「村山氏の(震災への)対応が遅かったこと」にあるというつもりはない。しかし、ここには非常に象徴的なものがある。

私は村山氏は「日本において現実というものをすべて冗談にしてしまった」張本人であると考えている。現実が冗談だなどというと、単に悪ふざけで言っているように聞こえるかもしれないし、今現在、そんなことを言うのは「不謹慎」のそしりをまぬがれないかもしれない。なんたって「殺人」も現実だし、遡ればオウムの事件も震災もそれぞれに「現実」だったのだから。

しかし私が言いたいのは「現実は冗談だ」ということではもちろんなく、(現実が一方にあるにもかかわらず)「現実を冗談にしてしまった」人がいるということであり、それが「国の(行政の)最高責任者」であったために、この国においては「現実は冗談でもいい」ということになってしまったということである。

これはプラックに表現しているので、分かりにくいかもしれないが、ようするに現実を現実のものとしているような最低限の「約束事」がここでふみにじられたために、「現実」はどうでもいいことになってしまった、ということであり、どうでもよい現実とはようするに「冗談」だろう、ということである。

このことはちょっと説明がいるだろう。そもそも「自然」やこの「身体」は別として、社会(対人関係)的に現れてくる「現実」なるものはすべて、「虚構」としての性格を(も)持っている。このページでもたびたび指摘しているように「法」は、そもそもバーチャルなものである。それを「現実」のものとしているのは、かつては何らかの「権力」であったり、「外圧」であったり、あるいはどうしようもない「貧困」であったりしたかもしれない。そういうことが信じられた時代を「リアリズムの時代」と呼ぼう。しかし対抗すべきものとしての権力が見えなくなり、国際的な相互依存が進展し、総体的には「豊か」になってくると、「現実」の根拠をそのようなものに求めることには無理があるということがはっきりしてくる。「現実性」とは何かということがはじめて問題として意識にのぼってくる時代であり、そういう意味でこれを「リアリティの時代」と呼ぼう。

それは必ずしもマルチメディアなどのバーチャルリアリティ技術の進歩とは関係がない。現在マルチメディアについて言われていることは、ビデオがあれば充分いいうることだし、ビデオがなければ「本」で充分だろう。実際、こんどの事件がやはりこの少年によるものだとして、出てくるのはあいかわらずビデオでありマンガなのだ。

話がそれたが、この「リアリティの時代」においては、そもそも「現実」の自明性が疑われているからこそ、現実性が問題意識にのぼるのであり、「現実」はつねに、「あやうさ/ゆらぎ」にさらされることになる。

現実はそのように「あやうく」、そもそもバーチャルなのだが、ではバーチャルだからと言ってないがしろにしていいのか。といえばそんなことがあってはならないのであって、なぜなら、我々は結局「そこ」で生きて行くしかないからだ。とすれば、「そこ」をいいものにしていく努力をするしかない。「個人個人が現実というものを支えようとする意識をもつ」以外にないのだ。個人がその現実を意味あるものとしてそこに参加し、また逆にそこに参加することが自分や自分以外のより多くの人にとって「有利で有意義なものになる」ようなものとして現実を作り上げて行くしかないのだ。そしてそこには当然、つづく者たちへの「教育」そして「(現実参加への)誘惑」ということが大きなファクターとして必要になるだろう。このことは別の面から見れば「民主主義の成熟」ということであり、究極の利己主義としての利他主義(公共性の価値)の顕揚ということである。

「現実」があやうくなった時代の最低限の「約束事」(言い換えれば倫理)とは、このような「現実とのかかわりを価値あるもの」としてそこに参加すること、いわば現実と取引をすること(取引をしないという選択を排除すること)でしかないだろう。そして現実と取引をするということは、自分の現実において言ったこと・おこなったことに自己責任を持つことなのである。

この「責任」がなくなったとき、あるいは現実において言ったこと・おこなったことに責任をとらなくていいということになったとき、「現実」はまさにバーチャルリアリティと等価ではないか。つまり、仮に「責任というものがなくてもよい」ということを主張する者は、「現実」には価値がなくてもいいと主張することになる。

そして、日本の最高責任者という地位にあって、それをしたのが、かの村山氏なのである。自分の思想・信条をあっさりとひっくりかえし、そのことになんら責任をとらず、また重要な指導的地位にいながら、その地位において発揮すべき「判断力」も「実行力」もないことがはっきりしたにもかかわらず、「連立維持」のためにそこに居座りつづけ、何もしないことによって少なくとも何十名かの人命を「冗談のもとに」無にした。そしてなんら国の問題を解決しないまま、「正月の日の出があまりにすがすがしかったから」という理由で辞めていったのである(かつてはそのような理由を「不条理」と呼んだ)。

彼はその行為(および非行為)によって、「日本においては、現実というものには、価値がなくてもいい」ということ、つまり「現実は冗談である」ということを主張しつづけたのだ。われら大人は、現実が冗談であるということになっても、おそらく生きつづけることができるだろう(すでに内面化した現実の価値、つまり意味のある自分を持っているから)。しかしこのことが、子供達に与えた影響は大きいはずだ、と私は思っていた。現実に生きるということ(とくに社会人として生きるということに)価値などないし、意味もないし、そんなこと自体、出来の悪い冗談なのだ、ということを、それ自体すでに面白くもない学校生活の途上で示されてしまったら、いったいその先どうやって生きていけというのか。

しかし私は、この村山氏のことはそのまま遠い過去のことになっていたかと思っていた(私にとっては、村山氏の辞任やその後の民主党からの排除などはそれなりに、このことをすっきりさせて気を晴らしてくれるものだったのだ)。そこにこの事件がおこり、思いもよらぬ所で「彼の名」を聞くことになったわけである。もちろん繰り返すが、私はこの事件のそれこそ「責任」を村山氏にあり、と主張したいわけではない。しかし、このことが「社会の深部」に与えた影響をいまさらでもいいから、自覚して、なんらかの反省をし、責任をとることをおすすめしたい、と思う。

もちろん、これは他の政治家連中とくにその後継となることによって、なぜか村山氏のマインドまで引き継いでしまった橋本首相、平気でうそをつき続けた動燃の人々、また問題となっている銀行の上層部の方々についても、同様に言えることだ。自分の現実世界における「位置」をいまいちど反省されたい。現在、神戸の事件でのホラービデオの「影響」などが、文部大臣などのレベルでも問題にされているようだが、それをいうならば、現実の価値喪失という「影響」を与えた(与え続けている)政治家を規制した方がよっぽど効果があるのではないか。

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