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過剰な感情移入はやめよ
97.7.6
声明文及び、容疑者である「彼」個人への感情移入といってもさまざまなレベルのものがあるわけで、第一に「教育問題化」という仕方でのもの、第二に、なんらかの心理的な原因(心的外傷)を彼の生活史の中に見出した上で彼を理解しようというもの、そして第三に同世代の直感的ともいえる共感の仕方である。
すでにこの件を教育問題化することの愚については意見を書いておいたが、ある教育批判論者によれば、なんと少年Aは、「身を挺して社会を告発してくれた」のだそうだ。ここには若干のことばのあやというものがあるとしても、Aの「英雄視」まであと一歩というか、ほとんどその「理論づけ」のはじまりですらあるだろう。
第二の心理学的な理解についてはまた別に、もう少しことの事態がはっきりしたうえで、考える必要があるだろう。しかしここですでに言えるのは、この事件をなんらかの「心的外傷」の結果として理解するということは、現段階では単に空想的なものにすぎず、なんら根拠があることではない、ということだ。またたとえ何らかの「外傷体験」がありえたとしても、それを原因として特定して理解しようとするアプローチにそもそも問題はないのだろうか。ちなみにアダルトチルドレンなどの議論など、心の問題をすべて「外傷」の結果としてみようというような単純な「心理学ブーム」に対しては、最近、香山リカさんがさかんに警鐘をならしているようである(別冊宝島の「こころの傷を癒す本」に掲載の記事など)。
私としてはそのような教育批判者や評論家たちの「理解」というのは、ペルーでの人質事件での言説につながる詐術があるように思えてならない(ペルー人質事件についてはここ)。つまりあのときさかんに言われていたのは、「事件の原因はテロ対策の不十分さにある」というものだった。私に言わせれば第一義に「事件の原因はテロリストにある」はずだが、その議論をすっとばし(透明化した上で)まず自分たちの対策を反省し、しかしそれには具体的な対策をなんら講じず、誰か(この場合は大使)の責任にし、スケープゴートにして終わりにするのが日本人の対応パターンなのだ。このパターンをそのまま踏襲し、まず第一義に「犯人が単に凶悪だった」という事実があるはずのところでも、それはさておいて、まずは自分たちの社会なり教育システムなりの制度が悪かったのだと反省し、つぎに校長ならびに担任をスケープゴートにして「解決」しようとしているようではないか。基本的にこの現実の中には「凶悪なまでの暴力」が潜在しているという現実から、なんとしても目をそらしたい、ということだろう。また第二の「心理学的な理解」にしても、宮崎(勤)をなんとしてでも多重人格という「病気」として理解したい(そうすれば「幼女殺し」という現実を直視しなくてすむから・・この「論理」についてはここ)という情熱と同様の無意識の欲望が潜んでいるように思えてならない。
前説が長くなってしまったが、私が言いたいのは、第三の、同世代を中心にした心情的な「共感」についてだ。この人々は、上に述べたような教育批判論者や心理学者たちにのせられて、ということもあるのだろうが、それには還元できない、また別な側面があるように思う。
ある意味では、かの声明文は、彼ら同世代の人々が、どう表現していいかわからず、もてあましていた「自己意識の濃さ」に、「表現のカタチ」を与えてくれた、ということだろう。たとえば、自分というものの不確実さやまわりの人間たちの不理解を「透明な存在」というカタチで。しかし、ここではっきり言っておきたいのは、彼らは少年Aの「表現」の中の、自分につごうのいい部分のみを抽出して、「Aは私の代わりに表現してくれた」などといっているということである。もちろんこれは不幸なことである。そんなもので「表現を肩代わりされてしまう」ような「自分」の薄っぺらさが不幸だというのだ。
その表現の共感しうるところは、あくまで断片化された情報の「部分」であって、決してトータルなAの体験ではない。それは当初、声明文が公表された段階で、その文面だけから、本当に「共感」した奴がいるのかどうかを問うだけでもはっきりさせることができるだろう。彼らが「共感」しているのは、「声明文」からのメッセージではない、なんらかの二次的な加工されたメッセージ(虚構的につくり出されたサカキバラ)に対してなのだ。
本当に「共感」するというのなら、彼がやったとされていること、つまり子どもの首をしめ、首を切り取り、校門におく、という行為を逐一想像し、追体験して(脳裏でシュミレートして)、そしてこの声明文の全文を書いてみる、という行為をしてみたうえで、なおかつ「共感しうる」かどうか、自分に問うて見るべきだろう。そしてなおかつ「共感できる」というのなら、そこで「自分はちょっとおかしいかもしれない」ということを誰かに相談してみるべきだろう。
このように「共感」に対しては、自分がどのような点に焦点をあて(すぎて)いるのか、ということを明らかにするために、もう一度ぜんたいをよく眺めてみる、ということが必要だろう。そのためにはもう一度、「彼」が登場する以前のさまざまなプロファイリング的な報道を読み直してみる、ということも必要だろう。容疑者が逮捕されたとたんに、かのプロファイリング的報道は意味がなくなったかに思われているかもしれないが、実はテキストそのものを「読む」ということを徹底していたのはむしろかのプロファイリングのほうだったわけである。いまこそその重要性があらためて理解されると言うものだ(こういう意味でもあの大塚氏の言っていることはすべて「逆さま」なのだ)。私も以前に書いたことを修正せずに掲載したままにしているが、それは公明正大さを表明したいなどと言うことではなく、現実的に訂正するような重大な錯誤はないと信じているからなのだ。
しかしこのように、彼らの「声明文」および「サカキバラ(A)」の「読み方」が間違っているのだと指摘することは、なんら本質的な批判ではないだろう。むしろ問題は、彼らが声明文の中で「何に」共感できるとして焦点化(フォーカシング)しているのか、ということであり、その「焦点化された部分」そのものの是非なのだ。その「焦点化された部分」とは、ようするに「自己意識」である。
Aは、その声明文において、なんら「教育」にしろ「社会」にしろ、外側の現実に対して問題提起をしているわけでもなく、ただただ「じぶん・じぶん・じぶん・・」と「意識」を表出しているわけだが、たとえば社会なり教育の中で自分が疎外されたとしても、そのことに関してはなんら具体性がないにもかかわらず、人が「共感する」というならば、結局はこの「じぶん・・」という意識にのみ共感しているだけということになるだろう。その「自分」なるものを構成している具体的条件については、ほとんど読み手の側の勝手な空想であることはすでにのべた。
ちなみに具体的な状況をそぎ落としていけば、そもそも自分というのは「抽象的な点」のごときものにならざるをえない(「「自分」取扱説明書」の著者・頼藤氏はそれを「ヴィトゲンシュタイン点」と呼んだ)のだから、その点が(まさに透明な焦点として)各人共通なのは、当たり前なのであって、「共感」の基盤は結局こんなものなのだ。
つまり問題は、「首切り殺人」という具体的な事件をムシしてまで、その「じふん・・」に共感してしまうほどに、若者の多くが「自分の意識」だけが大事だという気分に傾いているという事だろう。たしかに「自分をつくる」という過程では、「自分」というものをある面では強く押し出して行かなくてはならないのだが、まず「他者にも意識がある」ことを前提にしてほしいものだ。これは当たり前のことだが、率直に言って、「共感した」などと言っている人は「淳くんにだって同じようにつらかったり苦しかったりした意識はあったのだ」ということをすっかり失念しているようなので、このことははっきりさせておきたい。
あるいは「淳くん」は「知恵遅れ」だったから「意識なんかなかった」とでもキミは言うのだろうか(実際、Aへの共感を表明してる言動からはそのような差別的な雰囲気が感じられる)。そう言いたいのであれば、言えばよい。しかし、そもそも「他人にも意識がある」なんていう反論の仕方そのものが、「自分の意識」に焦点化する人々の土俵にのってしまった議論だったのである。たとえば「公共性の価値」を基礎づけるのは、なにも「他者の意識」の存在ではない(それをいうならむしろ「他人の迷惑」だろう)。
しかし私が危惧するのは、ひょっととすると、この同世代たちの過剰な感情移入を引き起こしているフォーカス・ポイントが「自分の意識」というよりも「意識そのもの」という部分にあるのではないかということだ。自分のよってたつリアリティや根拠、存在理由というものをすべて「意識すること」におく(あまりにおきすぎる)ということと、このような「感情移入」がおこり、他者の(そして動物たちの)生命を軽視し、他者とのかかわりを軽視し、現実への否定的な態度を持つ(それでいてまわりへの自己主張の欲望は持ち続けるという矛盾した態度を持つ)ということが、根底でつながっているように思われるからだ。
はっきり言っておくべきことは、「意識」など人間の根拠でもなければ価値でもなく、それがあるからといってエライわけでもなんでもないということだ。「意識が最高のものである」という「意識至上主義」が西欧的な病理である、とは「現代思想」の得意とする「近代批判」であるが、そういう思想すら過去のものであろう(新たな問題提起をする議論というよりは、「常識」の範囲に含まれるものだろう)。意識が最高のもの(人間を人間たらしめている)とするならば、そこでは感覚・記憶・情緒など個人に関わるものはもちろん、家族・社会など人と人とのつくりだす「現実」も、歴史性や文化という意味での「現実」も、(自分を自分たらしめるもの、自分を人間たらしめるもののアイテムとしては)排除されることになる。しかし「生命」は意識に還元することはできないのだ。意識至上主義という錯誤はおそらく意識がもっとも「言語」と近接しているがゆえにおきるのだろう。経験が浅く、内実が希薄な「若い時期」には、そのように「言語化しやすい」意識こそ、もっとも手っ取り早く「確実に」手に入る「根拠」のように思われるものなのかも知れない。人類史の青年期ともいうべき、西欧近代における「意識」がそうであり、つい最近までの日本の「文学青年の意識」がそうであろう。しかし、ここで私がたらたら述べるより、坂口安吾(もっとも「文学青年」から遠くにいる作家だろう)の私の好きな言葉があるので紹介しておくことにしよう。
「…だが意識とは何ほどの物であろうか。流れつつある時間のうちに、そんなことを考えてみたこともあった、というだけではないのか」
重要なのは、淳くんはまったく不条理に、その自分が体験し得たであろう「流れつつある時間」を奪われてしまった、ということだ。そして奪った方は、自分の「何ほどのものでもない」自意識を誇らしげに語って、満足し、それを読んだ多くの者が、やはり自分の「何ほどのものでもない意識」をそれに仮託して語り、カタルシスを得ているだけのことではないか。まったく醜いとしか言いようがない。
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