contents
Vol.15 1997年9月

■イエモンはすごかった(いろんな意味で) 97.9.8
■小浜逸郎「子どもは親が教育しろ!」 97.9.28

←前号  次号→

 

バックナンバー総目次トップページ(最新情報)
感想・ご意見をお知らせください。 info@hirumas.com (C)HIRUMAS 1997

 

Vol.15
イエモンはすごかった(いろんな意味で) 97.9.8

イエモンのライブにいったのだ(西武球場)。イエモンのライブははじめてだったが、すごい。数あるライブの中でも、これだけ異世界を創造できるアーティストはいないのではないか。私はライブより映画派なのだが、それは映画の方が容易に自分を異世界にとばすことができるからだ。しかしイエモンにはそれを超えるドラッグ的なパワフルな世界があった。
だいたいふつうの日本のロックで歌われること、ライブで感動することというのは、このしみったれた日常からのちょっとした離脱だったり(今夜だけは特別だ、等)、日常の再解釈(この世の中もちょっとは生きるに値するものだ、等)だったり、新たな自分の倫理(モラル)の宣言(人生の意味や答えは必ずあるから、とにかく生きていこう、など)ようするに日常を否定しつつ実はこの日常にべったりはりついたものでしかない(背景としての日常に大きく依存したものでしかない)が、イエモンはもう、ほんとうに根底からぶっとんでる。

このイエモンのぶっとび方のすごさを証明するものに「笑い」がある。イエモンの創造する異世界は、感動と同時に「笑い」を引き起こすのだ。これは吉井さんや広瀬さんのパフォーマンスが、単にこっけいだったり、卑わいすぎるということからくるものではない。たぶん、その笑いは背景としての日常性が、崩壊していく感覚からくる笑い(つまり崩壊がもたらす快感であり、大地震の後に何もなくして笑うしかないというあの笑いに近い感覚)なのだ。そうでなければ、笑いと同時に極端なまでの「感動」(泣ける感動)をもたたらすなんてことはできないだろう。

まあ、以上のようなことは音楽評論家にでもまかせておけばいいのだが、私がこの初イエモンライブで一番、感じたのは「世代間ギャップ」だ。イエモンのお客は10代から20代前半が多いようなのだが、私は30代後半に突入してしまっている。私は佐野元春など、同世代が多いライブしか体験していないので、この若い世代のライブの楽しみ方に非常な違和感を感じてしまった。一言でいうと、彼らはまったくデジタルに楽しむのだ。象徴的なのは、アンコールのときで、我々の世代では盛り上がって、もう一度アーティストがでてくるまで、拍手をやめないのだが、彼らはぴたりとやめてしまう。西武球場が秋の虫の鳴き声でこだまするほどシーンとしてしまうさまは、なにかそら恐ろしいものすらあるのだが、彼らにとってはそれが普通らしい。一緒にいったイエモンファンによると「いつもそう」なのだそうだ。そしてそれでいて、彼らはしらけているわけではない。イエモンが登場するやいなや、すぐにスイッチが入って、熱狂モードにはいるのである。オンとオフが極端に入れ替わるのだ。思えば、曲と曲の間ですら、そうなのだ。曲が終わると、とたんにスイッチがオフになる。たとえば元春のライブでは、曲が終わってもしばらくはその曲の「余韻」というものがあり、多くの人は拍手をつづける。それが自分からアーティストへの「思い」の表現だったりもする。彼らはちがう。思いの表現は、あくまで、曲が続いている時だけ、スイッチが入っている状態でなされる。つまり「現在」がすべて、なのだ。逆にいえば我々は「引きずりすぎる」のかもしれない。我々にとっては、ライブという時空間が一つのものという感覚があるが、彼らにとってはそうではないらしい。ところで、私は基本的にライブは「ワン・トゥー・ワン」であるべきだ、と思っていたので(このことはすでに書いた)、まさにこのように全員が一体となって盛り上がるということの対極にあるライブは、これこそ私の考えるライブだ!と言ってもいいはずだが、しかし、それを目の当たりに実現してみせられると、すごい違和感を感じてしまった。こういう人たちが主流になっているとすると、これからのライブというのは(だんどりが)変わってくるのだろうという気もする。

ちなみにイラストは、ライブの風景だ。イエモンのライブでは女の子が9割をしめ、両手を前に突き出した特有のリアクションをするのだが、それがクネクネして妙にイヤらしいので描いてみた。特にオヤジ化しつつある、わが同世代の方、ぜひイエモンを聴きに(体験しに)いこう。

追記
以上、とくにイエモンの「笑い」にスポットを当ててみたのだが、「それを言うなら、イエモンは笑いとだ」という指摘があった。たしかに言われてみると、それは重要だ。を語らずして、イエモンを語ることなかれ。
私の性についての考え(なんじゃ、そりゃ)は、実はでぃーぷ・ひるますというコーナーの中の「エヴァンゲリオン」についてのコメント(シンジ君の謎)に、こってりと書いている。これは現代は、男の「エロス」が失われた時代であり、男女かかわらず真の自立のためには「自らの身体のエロス化」が必要だ、ということを書いたのだが、まさにイエモンは、この「エロス化」の理想を身をもって示しているように思う。実際、イエモン以外で、「エロス」を感じる男性アーティストはいない(この「エロス」というのは、男の色気なんていうなまやさしいものではないのだ)。
というわけで、でぃーぷ・ひるますのコーナーもあわせご覧いただきたい(なお、このコーナーはネタバレを含むので、自己責任にてご覧下さい)。

この号の目次へもどるバックナンバー総目次トップページ(最新情報)
感想・ご意見をお知らせください。 info@hirumas.com (C)HIRUMAS 1997

Vol.15
小浜逸郎「子どもは親が教育しろ!」(草思社) 97.9.28

小浜逸郎氏の「子どもは親が教育しろ!」(草思社)がおもしろい。あまりに改革案が大胆すぎて、実現不可能ではないか、と思ってしまうところもあるが、「現実を見つめて」方向性を打ち出す(小浜氏のいうようにこれまでに打ち出された改革案なるものは、どれも「現実から離れた」理念・概念によるものでしかなかった)としたら、たしかにこうとしか言えないはずだ、という説得性に溢れている。実は堺屋太一氏の「次はこうなる」(講談社)と同時並行で読んでいたので、ごっちゃになるが、いずれも「官僚(指導)主義」「集団主義」を否定して、民営化を訴える点で、共通するものがあると思う。ただしここでいう教育の民営化とは、談合によってパイを分け合うような現在の「民間企業」になるということではなくて、それぞれが個性的に価値創造し、世に問いかけることによって多様に活性化してゆくものとしての真の民営化をはたすということである。

すでに私自身も「教育の改革案」めいたものを「いじめ論」にからめて書いたことがあるが、ここで書いた「人はヒマだからいじめをする」という考え方は小浜氏とも共通するものだろう。私は学校を解体して、勉強のための「学問所」、スポーツやアウトドアを学ぶスクール、社会体験を学習する機関などに分割しろ、ということを書いたのだが、ここで間違っていたと思うのは、私の案には「生徒全員が学問所」へ行かなくてはならないという前提があることだろう。小浜氏の考えは、義務教育を縮小して、基本的な教科と社会ルールのみを教え(具体的には午前中だけにする)、それ以上のいってみればオタク的な「学問・スポーツ・芸術」などは民間の「塾」的なものに委ね、どれを選ぶかは、生徒や親の選択にまかせるべきだ、というものである。

今はこの小浜氏の考えに賛成だが、そういうのは私が学問所といったときに、やはりオタク的な「学問探究」のイメージをもっていたから、ということがあり、それを反省してのことである。私は学問というものがかなり好きだが、それは自分の「表現」(マンガやここでの評論など)に関係する限りでのことなのである。すべての人が学問の探究を楽しめるわけではない、という事実は動かしがたい(もっとも私は自分の描いた「学問的なマンガ」をすべての人が楽しめる可能性のあるものだとは思っている。しかし、それは学問の「結果」としての表現物を楽しめるということであって、各人が学問という過程を楽しめるかどうかということとはとりあえず関係がない。ひるますの「学問マンガ」はここ)。

小浜氏の重要な概念は「大人化」ということだ。教育は子どもを子どもらしくするためにあるのではなく、子どもにいろいろな大人化の道を提供するためにある。「学問」を通じて大人になるのは、ほんの一部の人の道でしかない。そういってしまえば当たり前のように聞こえるが、ほんとうにいろいろな「大人化」の道があるということを多くの人は忘れている。というか、そもそも「知らない」。私は社会人になってはじめて、この世にこんなに多くの職業があるということをしって驚いたが、たいていの人がそうなのではないだろうか。私はやはりそういうショックを受けたときに、イナカの教師を呪った。あいつは世間がこんなに広いことを知らずに「進路指導」なんかしていいたのだな、ということだ。

そういう風に驚いたり、怒ったり、呪ったりするのは、ようするにそのそれまで知らなかった職業を見てけっこう楽しくやれそうだというような親和性を感じてしまうことが多いからである。そんなに気が多くてもしょうがないだろうが、しかし、将来自分がやりたい・またやれそうだ、という職業がけっこうあるのと、何をしたらいいかわからない・またやっていけるかも分からないという精神状態で、もんもんと大人になるまでの日々を不安にすごすのとでは、まったく違う。大人は大人の責任として、この世は結構すみやすく、いろいろなことを実現していくことで楽しめたりする世界だ、ということを示してやる義務があるのではないだろうか。

このことは、かつてリアリティの問題について書いたときにちょっとふれた「現実とのかかわりを価値のあるものとする」ということを、具体化するものだ。というか、そのような具体的な職業のありかたを通してしか、そもそも我々は「現実」にかかわりえない。そして多くの人が自分にとって価値のある現実とつきあうような選択ができるようになるならば、それは「生きやすい」社会なのではないだろうか(たとえ不景気だったり、収入が人より少なくても)。

ともかく多くの人が「生きやすくなる」ことはいいことだ。それぞれの能力や趣味の偏向性に見合った暮らしを、それぞれが自己責任でやっていけば、よけいなコンプレックスや嫉妬に支配されたこの社会の「居心地の悪さ」もすこしは薄まっていくかも知れない。ちょっとした変化でもそれは、「これからも生き続けていこうというエネルギー」を生み出すものになるだろう。そうなれば、私のように子どもをつくることになんの魅力も感じられない人間にも、少しは希望や好奇心のようなものをかきたてさせ、小子化にも歯止めがかかるかもしれない。

そんなふうに「よく」なるために、まずはこの小浜氏のあまりに大胆な改革が、小さな声で終わってしまわないよう、少しでも議論の舞台にだけでも乗せられるよう、皆様のご支持を頂きたいと思うわけである。

この号の目次へもどるバックナンバー総目次トップページ(最新情報)
感想・ご意見をお知らせください。 info@hirumas.com (C)HIRUMAS 1997