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Vol.16 1998年1月

■フロントミッションは究極の「オヤジゲーム」か 98.1.15
■夏目房之介『マンガと「戦争」』 98.1.21
■中島義道「カントの人間学」 98.1.21
■中島義道「対話のない社会」 98.1.24
■内海の輪/影の車 98.1

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Vol.16
フロントミッションは究極の「オヤジゲーム」か 98.1.15

フロンミッション2だが、これは「バイオ」を除くと、いままでで最高のゲームかもしれない。
とくに私が気に入っているのは、

1 反射神経がいらない
ゲーセンなどで、カチャカチャガシガシやっているのを見て、テレビゲーム=反射神経という先入観が植え付けられてしまっている人も多いかと思うが、このフロントミッションは、自分の持つキャラクター(の乗るロボット=ヴァンツァー)に適当に武器を装備させて、将棋の駒のように盤面を移動させ、敵に対して攻撃をしかける、というものなので、まったく反射神経がいらない。昔の「軍人将棋」に近いといったらわかりやすいだろうか。しかも時間制限がないので、基本的にいくら「長考」してもいい、というのもいい。しかもいざ格闘となると、それまでの将棋の盤面のようなマップから、いきなり画面が3Dによるロボットの対決画面になり、「リアルな」対決を楽しむことができるわけだ。ここでの対決の成果は、どういう武器を選んだとか、それまでどういう経験を積んできたかとか、戦いを仕掛けた・あるいは仕掛けられた地形の状況がどうだったか、などで決まってくる。運の要素も強いが、それだけに感情移入しやすい。

2 ストーリーがいい
基本となる世界設定もおもしろいが、各登場人物のそれぞれのキャラクターがいい。単にキャラクターの個性が描かれているだけではなく、キャラクターの生き方が、ストーリー(未来社会での、ある小国での革命とそのウラでうごめく国際的陰謀)の中に絶妙に絡んできて、このストーリーそのものを飽きさせないようになっているのだ。と言うことで、戦闘ステージではひとりや二人のキャラクターの機体(ヴァンツァー)が破壊されても、ゲームオーバーにはならないのだが、やはり好みのキャラクターの機体が破壊されると、リセットしてやりなおしたくなる。

3 情報量が多い
やはりゲームというのは、開発にかかる費用を考えると当たり前だと思うが、高い!ので、それに見合った情報量(濃さ)がないと、頭にくる。いい例がエムジェイだ(これについては前に航海日誌に詳しく書いたので、そちらをご覧ください)。このフロントミッションは圧倒的な情報量で、ほんとに満足できる。フロントミッションではストーリーはほとんどキャラクターのイラスト(2D)と字幕によるせりふで、進行するのだが、せりふもそのイラストレーションによる感情表現もうまい。これをゲームだからといってわざわざ3Dにし、せりふも声優の音声にしたとしよう、そうしただけで膨大な情報量(CDの空きスペース)を消費してしまうわけだが、それがへたくそだったら、感情移入どころか、反発さえ引き起こしかねない(それを実際にやってみせたのがエムジェイだった)。あと「クロックタワー」のせりふも結構へたくそだったが、こういったものを見て私は「ゲームのせりふは下手くそだ」という観念を抱いてしまっていた。が、それも悔い改めねばならない。
ようするに、せりふとイラストがうまけりゃ(それって要するにマンガだから)、それで十分、人は感情移入できるし、感動できる。あえて3Dやナレーションにこだわる必要って、現時点では実はあんまりない。そんなことをするヒマがあったら、せりふと「絵」に工夫を凝らした方がずっといい。フロントミッションではロボットによるバトルシーンは3Dだが、人物による会話はイラスト、というようにかき分けられている。これはすごく「正しい」という気がする。人物を3Dにすると、なんかすごく感情移入がさまたげられるのだ。それはプレステの「マリア」という多重人格モノのCMを見た人はみな感じたのではないだろうか。「うぇ、気持ち悪りぃ」と(などといいつつ、私も3D女をこのサイトに掲載しているが)。
フロントミッションはそういった「工夫」によって空いたディスク容量で、ディテールを作り上げるためのデータを充実させている。たとえば、武器やスキル(キャラクターの持つ技量)データがこまかく設定されていて(破壊力はもちろん、命中率・回避率、重量、ランニングコストなど)それが瞬時に計算されて、戦闘に反映されて行くわけだが、戦闘の3D映像をつくるだけでもスゴイのにその背後で、戦闘そのものを作り出す「計算」が行われているのだ。それを考えると、もたもた3D画像をレンダリングしたり、ちょっとした計算に時間がかかるデータベースソフトを動かしてるパソコンっていったい何?、という気がしてしまう。
それ以外にも、そのストーリーの進行にそった世界の政治・経済情勢が読める「ニュース」や、商品情報が読める「フォーラム」などもその都度「更新」されていくのだ。ここまでやるのか?という感じだが、とにかくエライ!としかいいようがない。

というわけで、この「フロントミッション」は、ぜひまだゲームをやったことのない、30代以上のオヤジにやっていただきたい。反射神経がいらないので、まず挫折することはないし、ストーリーが子供だましではないので(はっきり言って下手なハリウッド映画よりは「大人」だ)、感情移入できないということがないし、情報量が多いので「損した」と後悔することもない。
そーゆう意味ではこれは「究極のオヤジゲーム」だということになる。子どもの頃やった「軍人将棋」を懐かしむという意味もあるんだけど。

ちなみに、「フロントミッション2」の攻略については、S.S'S Homeさんのページをご覧ください。ちまたの攻略本はよけいなデータやストーリーのネタバレが多すぎるので、はっきりいってゲームをつまんなくしちゃうところがあると思う。その点、S.S'S Homeは、要領を得ていて、こっちが楽しめる最低限の情報を書いているのでいい(本人はネタバレ注意と書いているが)。

付記
このゲームは30代以上のオヤジにこそうってつけだ、と書いたわけが、ひとつだけ問題があるということを言い忘れていた。それは異常なまでに時間がかかるということだった。
このことは、ただでさえ時間がなく、家に帰れば家族たちに時間をとられてしまうオヤジたちにとっては致命的かもしれない。したがって、オススメだが、ただし1年くらいかけてじっくりやれ、ということを付け加えておきたい。

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Vol.16
夏目房之介『マンガと「戦争」』(講談社) 98.1.21

この本、マンガに表現された「戦争」を追いながら、「戦後精神史」を探る、というような企画だと思うのだが、著者もいうように、なんか「物足りなさ」が残る。本そのものは非常に面白くて、またいろいろと自分の思考が刺激されたりするのだが、読後感はそういう感じがする。なんだろうと、思うと、やっぱり「戦争」を語りながら、「戦争」とは何か、ということと、「戦争」をやる「国家」って何なのか、という点がすっぽり抜けてるからじゃないだろうか。

戦争とマンガというより、私はどちらかというと、戦争と「アニメ」の方が興味深いと思う。昔、「決断」という戦記アニメがあり、第二次世界大戦の日本軍をテーマにして、山本五十六を少々ヒーロー扱いしていたという以上の記憶はいまとなってはほとんどないのだが、「先の大戦」についての無意識的なイメージの多くをこのアニメに負っているのではないか、という気がしてならない。

以下、私の「アニメと戦争」論

夏目氏はこの本で、戦後のほんとうに戦争を知らない世代が、戦争のイメージを安易にフィクションにできるようになったという意味で「宇宙戦艦ヤマト」の意義を重要視しているのだが、私にとってはまた別の重要な意味合いがあった。

それはこの「ヤマト」によって、それまでのアニメでの「一話につき一体の敵を倒す」というセオリーがうち破られた、ということにつきる。

古くはウルトラマンから仮面ライダー、マジンガーZというアニメではなく特撮もふくめて、ようするに「戦い」が主なテーマになるお話においては、一話につき一体の敵が当然だったのだ。ところがこの「ヤマト」では、一体の敵というくくりがはっきりしない。全体的にはガミラスという悪の星の軍隊が敵なことははっきりしているが、それは組織としての軍隊なわけで、「一体」というのはない。個人的に個性を発揮する敵将が出てきて、それがこれまでの「一体」に近いが、それが一話ごとに交代するわけではない。ヤマトのストーリーは、長期的な時間の中での全体としての軍事組織との戦いなのだ。その中には、敵との戦いのない「一話」すら含まれている。

こんなことがなんで、重要なのかというと、こういう描き方によって、はじめて本当の意味で「戦争」が描かれるようになったからだ。というか、一話一体という基本的には「戦争」ではなく「格闘」でしかなかったアニメ・特撮の空間を、はじめて「戦争」の空間に変えたからだ、といってもいい。

ようするに大河ドラマだ、といってもいいが、ヤマトでもってアニメが大河ドラマ形式でもいい、ということにならなかったら、ひょっとしたら「ガンダム」もなかったかもしれない。ヤマトはガンダムを準備したという意味で重要なのだ。ガンダムはさらに「戦争」というキーワードでみた場合すごいことをやった。ヤマトは「一話一体」というセオリーを崩したが、「ヤマト」というこのストーリー上の主役が、ここで描かれる戦争の主役でもあるという点で、古典的なアニメ・特撮の範疇をまだ超えていなかったのだ。ガンダムはそれを崩して、「ガンダム(のいる部隊)」は、このガンダムというストーリーの主役ではあるけれど、このアニメで描かれている「戦争そのもの」にとっては主役ではない!ということにしてしまったのである(後半はだんだん「主役」になっていくのだが)。

戦争は個人の力で、どうこうなるものではない・・・これは、ガンダムシリーズの中で繰り返し語られる言葉だが、それはガンダムのストーリーの組み立て方そのものでもあるのだ。「主役」のメカ一体で、大きな意味での戦争の動向を左右することはできない、という位置づけのもとに、ある意味ではむなしい戦争を続けるのがガンダムの主役たちなのだ。とすると、ガンダムの主役たちは実は、失われた「一体一話」形式の世界を憧憬しつつ、むなしい戦いを繰り返す神経症の人々と言えなくもない。

そうするとガンダムシリーズの続編がなんで面白くないのか、が、よく分かる。ようするに戦う必要も理由も本当はないのに、戦いを続けているからだ。本当はそうする理由はないし、自分でもそれを分かっているのに(分かっちゃいるのに)、その行為をやめることができない症状を「神経症」というのだ。

戦争論に話をもどすと、ガンダムによってストーリーの主役が戦争の主役ではないという視点がうちだされ、これによって本当の意味での「戦争」がアニメ・特撮に持ち込まれたといってもいい。ヤマトが用意した「空間」に、ガンダムが「実体」を持ち込んだわけである。なぜなら、戦争とはまさにそういうものだからだ。

しかし、ガンダムが持ち込んだのは「実体」と書くより「実態」と書くべきものだったのかもしれない。つまり、その後のガンダムシリーズのていたらくを見ると、たしかにガンダムにおいては、戦争は「個人」ではどうすることもできない、悲惨なものであるという「実態」を取り込んでいるけれども、なんで戦争が起こるのか、戦争を起こすシステムはなんなのか、戦争を起こす国家とはなんなのか、という、それこそ「実体」にせまる考察はきわめて希薄だったと思わざるを得ない。それがしっかりと把握されていれば、戦争がこのストーリーの中の世界に起きる「理由」も明確になり、戦う「必要」も自覚され、主役たちが神経症的に戦う必要もなくなっていたはずなのだ。

というわけで、その後である。ヤマト、ガンダムをうけついで、「戦争」概念を追求するアニメは果たしてあったのか? エヴァンゲリオンは違うだろう。むしろ「一話一体」の世界ではないか。ナウシカ、もののけ姫は? こういう問いは意味がないのかもしれない。

戦争というものをエンタテイメントの中に位置づける作業は、むしろ「ゲーム」の中で傑作ができている。私もこのページで評している「フロントミッション」だ。フロントミッションは、ゲームという制約が多い中で、非常に丹念に戦争が起きる背景の世界を描いているし、決してその「戦争」において主役たりえない主人公たちを、練り込まれたストーリーで、巧妙に戦争に絡ませていく。そこには「理由」と「必要」が説得性をもって描き出されている。このシリーズは現在、「オルタナティブ」という外伝のシリーズもでており、今後このゲーム世界の中の「戦争」がどういうふうに描かれていくのか興味深い。

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Vol.16
中島義道「カントの人間学」(講談社) 98.1.21

この著者は最近「哲学者のいない国」や「うるさい日本の私」などで、おもしろい哲学エッセイストとしても有名になった。この本は、もともと「モラリストとしてのカント」というカタイ書名で出た本の新書版ということだが、こういう売れっ子のエッセイストの本と言うことで、出すことになったのだろう。

モラリストという概念については、この本のあとがきにくわしい。モラリストというと、誰もが「道徳家」という意味にとってしまい、興味がうすれてしまうが、ここでのモラリストはそういう意味ではない、という。私はいぜん、ある人に「モラリストとは人間観察者という意味だ」と聞いたことがあったが、やっとその意味がわかった。つまりモラリストというのは「人間の本性やある時代の習俗や情念を観察し分析し叙述する」人々であるが、その際に関心を「哲学大系」や「大問題(世界規模の政治問題や環境問題など)」ではなくて、小問題といってはなんだが、「個々の人間そのもの」に向けていく人々だという。この本の目次をみればわかりやすいが、「親切について」「友情について」「容貌について」といったような問題が、問題としてとりあげられる、ということ自体がモラリスト的なことなのだろう。

フツウの人に対して、哲学的にものを考える人がいる、といっても、哲学スル人もいろいろだということだ。モラリストとは「哲学的」な人たちの中でも、いわゆる「哲学大系」を考える人ではなくて、個々の人間を観察する中から人間の真実を探り当てようという人たちだ。哲学大系というのは、だいたい「存在とは何か」「自由とは」「神とは」などという問いを論理的な体系に組み立てていくものだが、モラリストというのは、そういう体系を好まない。というより、そういう体系なるもの自体を「まやかし」だと思っている人たちだ(そもそも「存在とは何か」という問いかけから始まる体系の中に、とうてい「親切とは何か」といった問題が入ってくるわけがない)。人間とは何か?といったときに、「考える管(チューブ)である」などと答える人々のことだ。で、カントといえば「純粋理性批判」ほかの「3批判」という巨大な「哲学的体系」をうち立てた人であるから、まずもって「モラリスト」という範疇には入ってこないわけだが、カントが実際に書いてあることを見ると、ここでいうモラリスト的な「人間観察」にあふれているので、モラリストとして見たら面白いぞ、というのがこの本の趣旨だ。

しかし実際には、この本ではカントのモラリスト的な観察の紹介より、(とくに後半では)モラリストとしての著者(中島氏)が、カントという人間をモラリスト的に読みとっていくという「評伝」的な内容が多いので、読んでる方としてはちょっと気が抜けたような気にもなる。そして著者のモラリストぶりは先にあげたエッセイ集の方でもっと展開されるということになるのだろう。

私はもともと体質的に、「体系的」というか「本質は何か」を問題にするような「形而上学的な」思考のパターンを好む方だと思うし、本もそういうものを選ぶ。そういう分け方でいうと、私はモラリスト度が超低いことになるし、ここでいうモラリストというものに対してばくぜんと苦手意識をもっていたと思う。モラリストというくくりを知らなかったので、私はこれらの人々をこれまでシニカルな人とか、アイロニーをいう人、というくくり方で見た来たと思う。そういう人たちがなんか哲学者ぶって、すべてモノゴトが分かったような顔をしているだけのイヤなヤツという印象が強かったのだ。醒めた見方で、ひとこと皮肉をいい、それ以上のモノゴトを突き詰めていく努力をしない、情熱のない人々、というイメージで見ていたのだ。

しかし、年のせいもあるのだろうか、自分もこういうモラリスト的なものごとのとらえ方の方が「ぴったりくる」ような気がしてきた。モラリスト的な知は、単なるアイロニーやシニカルという「くくり」ではすまない「面白さ」を持っているということを今回この本で、思い知らされたわけだ。モラリスト的見方をしている人々がイヤなヤツに見えたのは、実は私のまわりのモラリスト然とした人が、当然ながら、私と同じ年くらいの若者ばっかりだったということに、原因がありそうである。若造のくせにそういう見方をして平然としている、というのが気に入らなかったのだろう。若造なら、それなりになやんだり、モノゴトの本質に向かってつきすすんでみたりというのが正しいのではないか、と言うわけだ。それとここでいうモラリスト的なものの見方というのは、それなりにまっとうに生きていれば実はちゃんと身にしみているはずのことであって、いくら本の中の言葉として読んでも身に付かないことばかりだと思う。つまり、ある程度、実体験として身にしみているからこそ、それを読んだ時に「ああ、ほんとそうだよな」と納得したり再確認したりできる種類の「知」なのであって、実体験のない人が暗記してもしょうがないものなのだ。私が若造のモラリストに感じた不快感というのは、実体験が実はないはずなのに、そういうモラリスト的知が身に付いているかのような態度をとる矛盾というか浅はかさが見えてしまっていたからなのだろう。

あと私がこの本で面白かったのは、描かれているカントという人物の、「まったく他人に心をゆるさない」「それゆえ他人をほんとうは必要としていない」生き方だ。何か自分の戯画をみているようで、笑いながら読んでしまった。面白くないと思う人にはまったく面白くない本だと思うのだが、なんとなくみんなにススメたい、そんな本である。

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Vol.16
中島義道「対話のない社会」(PHP新書) 98.1.24

この著者の「カントの人間学」については別項に書いたが、それがあまりに面白かったので、つづけて買って読んだら、輪をかけておもしろかった。堅そうなタイトルだが、内容は難しいものではなく、落語のように読める。ようは、なんら「言葉を獲得」しようとせずに、言葉を軽くみて、意味のない空疎な言葉をまきちらし(無意味な、役所のつくった看板や、公共の場所にながされるアナウンスなど)、決して個人が責任をとろうとしない、日本人のルーズな態度を批判したものだが、それが私には爽快だ。日本人には「個人」がない、などという一般論ではなく、個人がなくとも「個人」を相手に「対話」していくしかない、という著者の心意気がいい。

これを読みながら、そういえば子どもの頃からみんなが合い言葉のように「個人攻撃はよくない」というのに、違和感を感じてきたのを思い出した。ある問題を討議していて、あきらかに「その人」が悪いという場合なのにも関わらず、話し合いはなぜか、これから「みんなが」そうしないようにするにはどうするか、という話になっていくのに違和感を感じたのだ。だってあきらかに「その人」が悪いのであって、その人がそれを直せばそれですむのに、なんで「みんな」の問題になるのか?ということだ。

私が、ペルー事件やサカキバラのときに思っていたことの「根」っていうのは、こーゆうところにあったわけだ。テロリストが悪いのになぜか「日本の警備体勢」がもんだいになり、サカキバラが悪いのに、それをさしおいてまずは「教育」が、次には「家庭」が、そして「法律」が悪いということになってしまう。そういったことも、日本人の、個人を問題にしないというメンタリティから来ているとすれば納得がいく。

しかしそのことに絶望的になるのではなく、この本はそれを笑い飛ばしながら、勇気づけてくれるのだ。

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内海の輪/影の車(1998.1)

これは「内海の輪」と「影の車」という別の作品で、いずれも松本清張原作の映画化。そして岩下志麻主演ということで、並べてみた。いずれもすごい昔の映画だ。志麻さんは20代ではないかと思う。

志麻ねえさんというと、「ゴクツマ」になってしまった。その前は、母子相姦とかオナニーシーンとかも有名になった。きわどい女優である。しかしこの二本の昔の映画を観ると、純粋にこの人の「色気」に感動してしまう。考えてみると、こーゆう色気をもった女優はいまはいない。こーゆう「色気」というものが、すでに過去のものになってしまったということなのだろうか。しかし、「こーゆう色気」といっても観てない人には分からないだろう。こーゆう色気というのは、性的に解放されていない社会で、抑圧されていながらも、なお滲み出てくる色気。しかも、それは文化的な様式(美)のようなものに昇華されるのではなく、あくまであからさまに「性」を感じさせるものとして滲み出てしまうもの、といったらぴったりくるだろうか。

ちなみに私の近所のイエモン(ザ・イエローモンキー)ファンの間では、ボーカルの吉井和哉さんと志麻さんがそっくりだという説が流布している。骨格がどうのということもあるだろうが、やはり「色気」、それも「性」を感じさせる色気というところが共通しているためではないだろうか。

「内海の輪」は、若いときの中尾彬がでてる。今の姿からは考えられないが、超二枚目だ。三国連太郎が志麻さんの亭主で、志麻さんは中尾彬との不倫に走り、破滅していくという内容だが、破滅の仕方がもう今では考えられないほど、「可愛らしい」もので、子供じみている。しかし古くさい映像で、当時の状況として映し出されると妙にリアリティを感じるから不思議だ。亭主の三国さんがやたら「ものわかりのいい」亭主で、そんなにものわかりがよかったら不倫ドラマなんて成り立たないはずのところだが、そういうところに「思いこみ」でドラマがつくられていくという、奇妙なすれちがい、偶発性、そして起きた事件の無意味さ、こういうものがいかにも「清張らしい」。

「影の車」は、加藤剛と志麻さんの不倫もの。こんどは加藤剛が家庭を裏切るという役回り。志麻さんは、子どもがいる未亡人という設定で、加藤にしきりとモーションをかけ、子どものいる家庭に加藤を誘い込む。子どもを寝かしつけて、エッチするという貧乏くささと緊張感がこの映画の見所か。加藤のトラウマ描写はなんかとってつけた感じであまり面白くなかった。

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