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Vol.17 1998年2月

「少年A犯罪の全貌」を読む(98.2.12)
  1 掲載の是非について
  2 問題は「サカキバラが出てくる日」でしかない
  3 供述調書の読み方

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Vol.17
「少年A犯罪の全貌」を読む 98.2.12

1 掲載の是非について

これについては、すでにフォーカス問題の整理でかいたように、ことは善悪の問題でなく、罰則の問題、でしかないと思う。

立花隆が「盗んできたわけではないから犯罪ではない」というのはまったくのこじつけで、ある意味で「盗んできた」と同じだということを「知って」掲載しているわけだから(なぜならそれは「誰の所有物」でもないが、誰かが勝手に所有していいという類のものではないから)、たとえてみれば旦那が盗んできた金と「知って」妻がその金を使う、というのと同じなのである。立花氏は、フォーカスの場合は「違法」としたうえで、確信的違法行為も必要としたが(「フォーカス問題の整理」参照)、今回どう強弁しようとこれは「合法」というよりは「脱法」だから、確信的脱法行為も必要、などと開き直りでもすれば、潔かったことだろう。そして彼の文章は実質的にはそういっているようにも感じられる。

私は今回の掲載は自分でも読みたいと思うし、読んでよかったと思っている。そういう意味では「是」だが、公益のためといえ、違法行為を行ったのだから、それをやった人が、それについての罰をあまんじて受ければいいというだけのこと。それだけのことをするのだから、辞職をかけてやるとかの自主的なものでもいい。「命をかけろとまではいわないが」それぐらいの覚悟はして、出版というものを考えてほしいものだ。そうすれば、私はひそかに「その人」に感謝をするだろう。そんなに積極的な感謝ではないが。

第一、これは「いますぐ」読まなければ大変なことになる、というわけの文書でもない。立花氏は「このまま事件が終わってしまう」ことが耐えられないようだが、まだ事件から1年もたっていないのだ。なにを焦っているのか。文書があった・読んだ・出した、ではあまりに拙速だ。

文春の表紙には「芥川賞発表」とある。しかし芥川賞は該当作がない。しかしこの号はどーしても売らなくてはならない、ということで「文書」を掲載したのではないかと勘ぐりたくなるのは私だけだろうか。というのは冗談だが、この「芥川賞」という表示は、それ以上に象徴的なものがあるだろう。

人がこの事件にひかれる関心は「首切り」という猟奇性ではなく、サカキバラの文学的表現と、その背後にうかびあがる「深層心理」にあるからだ。「表現」じゃなくて「心理」に関心がある、という人もいるだろうが、もちろんサカキバラがあのような声明文を書き、それが発表されるということがなければ、誰だってその「心理」を伺い知ることも、そもそも関心を抱くこともできなかったはずだ。そう考えると、文春がまるでサカキバラの一連の声明から、この「供述」にいたる「表現」に対して芥川賞をおくったかのような気にさえなってしまう。というとこれもまた冗談にきこえるだろうが、これが「冗談じゃなくなる」ところに、この事件の肝心な点があるのだ(それは一方では、それほどまでに「文学」って意味がなくなっている、ってことでもあるが)。
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2 問題は「サカキバラが出てくる日」でしかない

奇しくも立花氏はこの文章の中で、サカキバラの文学的才能にふれ、

「・・その才能が花開くはるか以前のところで、その可能性を自らの手でつぶしてしまったことは、惜しいといえば惜しい。」

などと悠長なことを言っているのだが、なぜそのように確定的に「つぶしてしまった」などと言えるのだろうか。佐川君のことを持ち出すまでもないが、殺人をしようが食人をしようが、「表現の自由」が保証されてしまうのがこの日本という国だ。「つぶした」どころかあまりに露骨で言いかねるが、イイネタを仕入れた、とさえ言えるのではないだろうか。その佐川君じしん、ある新聞紙上でサカキバラに「文学の修行をしなさい。私か師匠をつとめてもいい。私のようなものでは師として不足だろうか」などとのたまっていたことは記憶に新しい。さらにことはそれだけではすまない。

立花氏はこの供述書は「多くの人に読まれるべき貴重な文書」だという。この「べき」というところは、フォーカス問題のさいの、「写真をみるべき」という発言を思い出させるが(「フォーカス問題の整理」参照)、ともかく、少年の心理や実際に何が起きたのかを知ることが、社会にとって「公益性」がある、ということが、その理由とされている。しかし、だ。ではサカキバラ自身が、自分の小説として「この事件」を発表しようとしたら、どうなのか。それはその少年の心理を知るには供述書よりも重要なものになるはずだが、それもまた「多くの人に読まれるべき貴重な文書」ということになる、と立花氏はいうのだろうか。

ここまでのところで、たぶん私は1度もそういうことを言ってないが、実は犯人逮捕の時点からいちばん危惧していたのは、このことより他にない。つまりサカキバラが佐川二世というより、佐川などたんなる前説としてはべらせるような、反・人間的な「言葉」として登場してくるのではないか、ということだ。

そういう意味では、私はこの供述書が「先」であってよかったとさえ、実は思っている。サカキバラ自身による「回想」などより先にこれが世にでることによって、いくぶんかはその登場の際の「衝撃力」は弱められる可能性はあるからだ。しかしそんなことは気休めであって、実際は「実体験」の力というのは恐ろしいから、もしサカキバラ自身の手記がでれば、それは書かれている言葉そのもの以上の力を社会に引き起こすだろう。今回の掲載の是非の「非」の論拠のひとつは「被害者感情」だが、これに対して私はいう言葉がない。だからこそ、確信的違法行為の責任を誰かがとる必要がある、といっている。しかし調書はなんら文飾をこらしてことさらに事件を意味づけようという意図はなく、被害者の方々にとっても「事実」をひとつ知り得たという意味での「救い」はある。しかし犯罪を行った当人がそれを自分で文飾をこらし、表現し、発表するなどということが許されていいのだろうか。さらに言っておけばそんな原稿があれば文春や新潮はきそってそれを出版しようとするだろうということも今回の流れをみていればはっきりするだろう。立花氏との対談とかね。

こんなことを言うと私の「妄想」だと思われるかもしれないが、このことを一番先に指摘しているのは、たぶん文春9月号での藤原新也氏の次の発言だ。

「つまりかりにである。このようなことは誰も予想だにしないようだが、まだ容疑者にすぎない酒鬼薔薇少年が議論百出の渦中で、「ボクは自分の本名と顔写真を自らが進んで世間に発表したい」という選択を行った場合、人権派といわれる人はその少年の意思と人権、そして表現の自由をどのように尊重するかということだ。(中略)しかし私は思うのだが、少年は人権を奪われるより、心や身体すら奪われている「透明なボク」というさらに不遇な境遇から脱出するために罪を犯したのである。」

これはだいぶ以前のものだから、後半の理由付けにはちょっと疑問があるが(しかし、それすら「供述書」を読んだために分かることだ)、しかしバモイドオキ神の神学大系などを創作し、一連の声明文を創作した人間が、まったく作品を発表する意思がなとなどとは考えられないだろう。世間に対して発表するということに価値を感じているかどうかはわからないが(感じていないようだが)、逆に発表することを拒絶する理由はまったくないといっていいだろう。いずれにせよ、「彼」の側から、発表します、ということが起きたとき、どうするんだ?という問いかけをしたのは、この藤原新也がはじめてだったと思う。

問題は被害者感情だけではない。事件の手記にとどまらず、サカキバラ自身が、ひとりの著述家・思想家として世間的に認知される可能性だってあるからだ。あれだけの若者や知識人があの「文章」に「共感」したのである。オレに言わせりゃバカだが(「過剰な感情移入はやめよ」参照)、そのバカさ加減をいちばんよく知り、それを利用するすべを心得たのもサカキバラ自身だろう。これも私ひとりの妄想ではない。赤間啓之氏は「分裂する現実」(NHKブックス)のあとがきで次のように言っている。

ついでに言うと、現行の少年法に従って、早晩出所するであろうこの少年の、評論家の眼さえ欺く文才をもってすれば、倒錯的な社会の「生々しいリアリティ」をいかに担うかが評価の基準になるマスメディアにおいて、今度は彼自身が評論家「さかきばらせいと」として、若者文化の騎手に変貌しないともかぎらない。実体験されたアクチュアリティに直接、生(なま)のリアリティを求めるならば、そのとき、われわれはどうやって、むせかえるようなリアリティの評論家「さかきばらせいと」と戦え、というのだろうか。ラ・ロシェフコーの言葉をもじって言えば、「太陽も死も見つめることができる」彼ほど、生々しいリアリティに触れているものは他にいない以上、そこではもはやいかなる言葉も無益なものとなり、「言葉のハイパーインフレーション」が見事に完成してしまうのである。

赤間氏の著書を読まないとわからない言葉遣いがあるとしても、だいたいのところは分かっていただけると思うが(関心のあるかたは、赤間氏の著書や赤間氏のホームページをご覧ください)、要するにこれはオウムのある意味での「完成形」だと言える。つまりオウムというのは修行によって「見て」きたリアルさを根拠として、「見てきたものにしか真理は語れない」として、教義への反論や、社会的な倫理や、人間としての共感を排除する言語の帝国をつくりあげてきたのだ。多くの人はオウムの根拠となる「リアル」の浅はかさを見て取っていたから、それが反社会的存在となったときに、いっせいに「共通の敵」とすることができたが、「さかきばらせいと」の持つリアルさはどうか? 実は我々はそれを無理矢理にでも承認させられているのであり、それを根拠につくられた(つくられるであろう)言葉の体系に対して、原理的に我々の言葉は幻想・虚構としての性格を持ってしまうことになるのである。

しかし彼が評論家として立ち、その言葉によって直接、影響を受けた人々が犯罪に走る、よってそれが社会の危機だ、などと言いたいわけではない。そうであればホラービデオやキムタクのテレビの「影響」云々とあまり変わらない。おそらくそうではなく、問題は彼が存在して発言するということを現実として許す、ということが「リアル」になったときに、どういうことになるのか、ということである。それは村山(元総理)が引き起こした社会的な破壊(社会的な「現実」を成り立たせるものとしての責任感の破壊〜「冗談としてのリアリティ」参照)どころでないものを、じわじわとガン細胞のように増殖させるに違いない。
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3 供述調書の読み方

ではどうしろというのか? これはどうしようもない。とりあえずその危険性を「共通のもの」にしていきたい、というのが私の考えだ。

ある意味では立花氏の悠長な考えの通り、サカキバラがその可能性を自らつぶした、ということに結果的になるのであれば、願ってもないことである。また、「更正」がうまくいってサカキバラ自身が良心にめざめ、よもやそのような存在として社会に登場するなどとは思いもしなくなる、ということになれば一番いいことではある。しかしそれを「期待」するのはいいが、期待は期待であって、ようするにサカキバラのもつリアリティに対して「幻想」である。これは精神科医や少年院を信じない、ということではない。しかし明らかにサカキバラは(法的に)更正しなくても、出てくる可能性がある以上、それを視野にいれない議論は、お人好しの雑談にすぎない。

なぜそこまで言わなくてはならないのか?といえば、相手が人格障害者だからである。

人格障害者とは何か?といえば、私は素人なので、何もいうことはできない。しかし春日武彦氏によれば人格障害は「病気」ではなく、精神医学の対象では実はない(しかし精神科医以外、まともに相手にする人がいないかぎりにおいて、それは医学の対象になるということにすぎない)。それは「その人物の精神構造そのものが、もともとねじれている」(「諸君!」97.8)のである。しかし当然だが全員が犯罪を犯すわけではない。それに病気ではないから正常の人との間に明確な境界線はない。「人格障害者は我々とグラデーションを成している」(同)のだ。そういう意味では立花氏の今回の弁論「正常と異常の間」というのは、当を得ているような気もするが、そうではない

立花氏はそれを精神病質者という言葉でとらえ、「精神病質」そのものが、「正常と異常の間」の病だ、と捉えているようだ。しかし人格障害というもの(症状)に「正常から異常までの幅、つまりグレーゾーン」がある、ということと、個々のケース、つまりサカキバラの場合が「正常と異常の間」だ、ということの間にはまったくの飛躍がある。もっとはっきり言えばサカキバラを「異常」でないとしたら、異常などというものはこの世にないといってもいいくらいのものである。これは立花氏が「異常」という意味を実は暗黙のうちに「分裂病」においているからではないかと思われる。しかし人格障害を考えるのに別に分裂病的な意味での「異常」は関係ないだろう。春日氏の整理を使えば、分裂病の問題は「正常か病気か」というモノサシではかられるものであって、人格障害の「正常か異常か」というモノサシとは関係がない。そして人格障害のモノサシでみれば、はっきりサカキバラは異常だろう。だからこそ鑑定結果が「行為障害(つまり成人における人格障害)」なのだし、「正常」になる過程で「罪業感や良心」が芽生えてくれば、それが「両刃の刃」で精神に重大な(病気という意味での)障害を与えかねない、などという但し書きがつけられたりしているわけである。

別になにがなんでもサカキバラを異常ということにして、排除したいというのではない。立花氏のように、異常なところもあるけど、正常なところもある、というような安易なニュアンスでとらえてしまうことが問題だということなのだ。そして人間的なところもあるから「ちょっとホッとした」り、「少し好意をもった」りするというわけである。しかしこれこそ「人格障害」の人と接したことがない人がもっとも陥りやすい心情なのである。といっても「人格障害者」と接したことがない人には、これは想像しがたいことかもしれない。

立花氏が、というより「人格障害」というものを経験したことがない人が、根本的に勘違いしているのは、部分的にでも正常であれば、同じような「人間としての」心の共感ができるのではないか、という「期待」だ。しかし、サカキバラのような人格障害者はそもそもそのような「人間的な」関係性、価値観の体系からは、根本的にはぐれている。人格障害といってもいろいろあり、ひとくちにはいえないのだろうが、もっとも本質的なことは、他人との共感能力の欠如であり、そういう他人との共感をモチーフにして自分の行動をコントロールするという能力の欠如だろう。ようするに「他人とおりあえない」人である。このような人たちが、多少とも人間的な「正常な対応」を見せるとき、ついつい我々は、それを自分の側から好意的に解釈して、彼の中に「人間的なもの」があるのではないか、と解釈してしまう。しかし、彼の中で働いているのは、おそらくだが、我々の解釈するというより「期待する」人間的なものとは、まったく異なっている。単に形式的に言ってみただけ、という感じと言えば近いだろうか。ともかく、

「なるほど正常な人物を装ってはいるかもしれないけれど、彼らは人格そのものに問題を抱えている。物事を認識したり感じたり判断したり想像したり我慢したりすることにおいて、常に正常とはいいがたい心の動きを示す。ときにはその心の動き具合によって芸術上の天才として作用したり、独特のユニークさを発揮することもあるかもしれない。しかし世の中の人々と折り合って暮らしていく上では、やはり不協和音を発せずにはいられないだろう。・・・・彼らの心の闇はまったく想像もつかないし、行動の予想もつかない」(春日武彦、前出)

というのが人格障害なのであり、「表面的に」みて共感などしていては、とんでもないしっぺ返しを受けるのである。とすると、この「供述書」の読み方がはっきり分かってくると思う。つまりあらかじめ「人格障害者」だということを前提にするしかない、ということだ。そうしないと、勝手な我々の側からの「解釈」が引き起こされ、勝手に我々の側だけの「納得」が起こってしまうからだ。そして立花氏を引き合いにいろいろ言いはしたが、多くの人格障害者が、相手に対してそのような「解釈」や「納得」を引き起こさせるような、ある意味での「魅力」に溢れている、ということも事実なのだ。なんど裏切られようと「友人としてつきあいたい」と思わせてしまう人、どことなく助けてやらなくてはと思わせるためについつい「面倒を見て」やりたくなる人。しかしほとんどの場合、人格障害者の心の中には、こちらが彼に感じているような「解釈」や「納得」に対応するものはないのだ。

ところで、精神科医の斎藤環氏は、「精神病理学」についての論文の中で、次のように言っている(「箴言知の基体としての精神病理学」、氏のホームページに掲載、このサイトのリンク集からジャンプできます)

「・・・欠損(葛藤)を想像的に充填してしまった(「欠損が存在しない」のではなく)主体をわれわれは仮に「人格障害者」と呼んでおくことにしよう。想像上の存在である人格障害者は、自らを語り尽くす言葉を持った主体である。彼はいささかもためらいもなしに「加害者」を自称できる。葛藤を知らない主体は他者に対して加害者としてしか関わることが出来ないためだ。彼らは自らの鋼の無謬性によって、他者を暴力的に排除する。彼らは間違っても他者に「共感」してしまうような愚かしいナルシズムの持ち合わせはない」

もっともこれは「人格障害者」を主題にして語っているのではなく、学問としての精神病理学が「無謬性」を語るとき、それは「人格障害」と同じことになってしまう、というようなことを言っている(あまりに単純化しすぎだが)ので、著者が「想像上の存在」と断っているとおり、これを現実の「人格障害者」と結びつけることは出来ない。しかし、サカキバラの調書を彼が「人格障害」であるという前提で読むときに浮かび上がってくるのは、まさに「自らを語り尽くす言葉を持った主体」としての彼であり、ためらいもなしに「加害者」を自称することの出来る彼である。

また、この文章が示唆するのは、逆に、いま私は自分が「人格障害者」を見てきた経験をたてにして(つまり立花氏らは「人格障害」を知らないから、そういう共感に陥るのだという指摘で)、まさに「見てきたもん勝ち」の論理で語っているわけだが、そのときは実は「私」こそが人格障害者となるのだ、ということでもある。実際、私はさっきから「決して共感などするな」といっているわけである。しかしそうならぬよう注意しつつ、それでも言わなくてはならないのは、このような甘っちょろい(立花氏の「共感」のような)発言がこの「供述書」に付されていることは、世論を立花氏の「解釈」にそって誘導しかねない、という意味での「危険」があるからだ。

たとえば立花氏は、調書の中の「幼い子どもの心を奪って気持ち悪いと感じている自分への嫌悪感」や「(殺そうと)思う心に対し、嫌悪感を抱く気持ちもあったのです。その気持ちというのが、僅かに残っていた僕の良心と理性だったと思います」などというところをもって、この少年の「良心の芽生え」としている。しかしそれはおかしい。サカキバラはただそう申し述べているにすぎないからだ。あるいはたんに「良心」や「理性」という言葉を知っている、ということにすぎない、と言ってもいい。立花氏じしん言っているように「それを想起しても心の動揺を見せず、反省の言葉もなく、自分の言葉で淡々と供述していく冷血性そのもの」が、まさに当てはまるシーンなのである。みずから良心や理性という「言葉」を使ったと言うことにだまされてはいけない。当たり前のことだが、本当に「良心の芽生え」があれば、そのような供述ができるはずもない。つまり「良心」というのは、「嫌悪感をいだく気持ち」などと「対象」としてあつかわれるものではなく、人格の中心にわき起こって、自分のあり方・心情を決定してしまうような何か、だろう。したがって本当に「良心」が芽生えれば、そのとたんに「反・良心」的なあり方をしている自分の現在との間に「葛藤」が引き起こされ、たちまちにしてそれを「語る」言葉を失ってしまうはずのものだろう。しかしサカキバラ自身は「そういうものをそのとき落としてしまった」といっているのだから、それはその通りだろうということでいい。たんに立花氏の「解釈」がおかしいだけのことなのだ(そもそもそぎ落としてしまったという「過去形」が、なんで「芽生え」という未来形になるのか)。

もちろん当然だが、このように立花氏の「解釈」がおかしいと指摘することが目的ではない。肝心なことは、これを機に「人格障害」というものを、身にしみて分かっておく必要がある、ということだろう。つまりここにはあっけらかんとして「そういうものを落としてしまった」と語っている人がいる、それでいいのか、ということだ。あるいはこれからも、そういう人物はいくらでも出てきておかしくはない、ということだ。だからこそこの事件を特殊なものとして終わらせることはできないのであり、くどいようだが、立花氏の言うように「ちょっとはホッとした」りしてはならないのであり、結局は「人格障害」というものを徹底的に「知って」おく必要があるのである。そういう意味では立花氏とはまったく異なる見解であるにもかかわらず、この供述書の公開を「あのような事件を二度とおこさないための対策」としての資料提供だということには賛成せざるを得ないわけだ。「供述書の読み方」とは、人格障害を知るためのテキストとしてこれを読む、ということなのである。

たとえば、なぜサカキバラは、供述に際してまったく「冷静に」自分を分析している(かのような)発言ができるのか、というと彼が人格障害者だからであり、そこにこそ「人格障害」とは何かを読みとるべきだということになる。立花氏のいうように「ふつう以上の知能」がある、ということもあるだろうが、そもそも知能とは何か、ということも問題になる。人格障害者に「葛藤」がないのは、結局は「他者への共感能力」がないからだとも言える。その場合の他者は「内面的」なものでもある。「他者」に配慮するからこそ、自己の中に葛藤が起きたり、あるいは抑圧によって無意識化されて自分では意識できなくなるわけで、そういうことがまったく起こり得なければ、すべての心の動きが手に取るようにすべて「語りうる」「語り尽くせる」ものになるに違いない。すべてのではないが、サカキバラのようなタイプの人格障害者はそうなのだろう。単に「定義」をいっているにすぎないかもしれないが。実際、私がこうして「書いて」いるときにも、さまざまな他者への配慮がうごめき、次から次へと心の動きは消去されていく。いっそそのような「葛藤」なしに語れたらさぞやすがすがしいかと思うが、ようするにそうであればそれは「機械」である。そして人格障害者が「機械」のように語れたとして、それを「知能」といっていいのだろうか。とりあえず何もそれをもって積極的に「評価」してやる理由はないではないか。

またサカキバラの文学的才能に関して、この立花氏の論においても柳美里さんを引き合いにだして語られているが、孫引きをしておくと「彼には信じられないほどの客観性、自己批評能力があると思うべきであり」と柳氏はいうのだが、人格障害であれば、これは何も「信じられない」ことでもない。心の動きに葛藤が起きないし、他人に共感も起きないのだから、客観的であるのは当たり前で、むしろ客観的である以外できないのだ。とすると、先に見た赤間氏の指摘する「さかきばらのリアル」は、殺人を犯した者の「語り」という意味での「実録的なリアルさ」などというレベルのものではなく、実は「人格障害者」として、自分があからさまな「事実」でしかあり得ず、またそういう「事実」を語ってしまうという意味での「リアル」だったのだということがわかる。つまり「さかきばらのリアル」もまた「人格障害」によって説明がつくのである。

しかし逆に柳氏はつづけて「この作文(懲役13年」のこと)は自己の内面の葛藤を綴った告白文ではなく、精巧に構築されたフィクションであると言い切ってもいい」という。私もこの「作文」が公表された時点でほぼ 同様の感想をもった。つまりこれはまさに大人が使う意味での「作文」そのものだ、と(航海日誌97.9.26)。ここで彼がフィクションを語りうるということ(供述書によれば「声明文」もまったくのフィクションである)と、彼がリアルを語ってしまうということとの間には矛盾があるように感じられるかもしれないが、これもそうではない。おそらくこのような人格障害者にとっては「言葉」はまったく明瞭な「道具」として現れているはずだ。われわれにとってはそうではなく、「言葉」は非常に複雑な心のあやがからみついた、それこそ一語一語葛藤を引き起こすような「複合体(コンプレックス)」である。それが人格障害では脱落し、言葉はモノとしての「リアル」になるにちがいない。だから、フィクショナルな構築物としての文章が「うまく」書けるのだ。というのは私の「空想」でしかないかもしれないが、そう考えると、ある人格障害者が強烈なまでに「文章」がうまく、というより「文学的な雰囲気を醸し出す」ことがうまく、また同時に「鋭い」と思わせるような観察力をしばしば示していた、ということに納得がいく。

しかしそれは「文学的才能」というものだろうか。たしかに個々の言葉には「惹かれる」ものが多い。しかしこの文章を通して読んだとき、この文章の「主体」がいったい何を言わんとしているか、「理解」できるだろうか。「文章」の意味が理解できないということはまったくないが、文章として何も言っていないのである。つまり他者に何かを訴えるのでもなく、ただ自分が「わかって」いるだけのことで、この文章そのものがコミュニケーションをそもそも志向していないのだ、といってもいい。あまりにも当然だが、それはこれが「人格障害者」の文章だからだ。コミュニケーションを志向してない文章なら、「文学」の中にごろごろある、という人もいるかもしれない。そういう意味でなら、これを「文学的才能」といってもいいのだろう。しかし、あまりにくだらない才能ではないだろうか。すべての人にいっておくが、あまり文学的な才能などというものを過大評価してはならないし、自分が文才がないなどと卑下してもならない。言語があまりにも「精神」や「意識」と密着しているが故にそれが何か偉いものだという感覚が生じる(これについても一応「過剰な感情移入はやめよ」を参照)のであって、ここでいう意味での「文学的才能」などは、アニメオタクやコミケの同人誌にこだわる人の「趣味」と変わるところはない。そんなものにいちいちおどろいて見せる「芥川賞作家」柳美里が情けないということである。

というわけで、また芥川賞の話に戻ってきたところで終わりにするが、サカキバラがどうなろうと、人格障害というものがあるかぎり、このような事件の再発はさけられないだろう。ただし、サカキバラの特殊性はあくまで「少年」であったことにある。人格障害者がいくら出てこようと、成人であればそれなりに法的に制裁されるわけだし、その事件によって「社会」というものを成り立たせている基本的な信頼感覚が崩壊するということもない。しかし、「少年」の間にさらに「人格障害(行為障害)」がひろがっていけばどうどうなるか。きれた少年による事件もその一環にあるのかもしれない。「サカキバラは特殊だ」などと言っている場合ではないことを肝に銘じ、人格障害というものが「ある」のだとまずは認識し、それをついついお人好し的に「解釈・納得」して、とんでもないしっぺ返しを受けたり(当然殺人というしっぺ返しもそこに入る)しないようにしなくてはないし、そういう人々が「いる」「いてしまう」社会というものをどのようにしていかなくてはならないのか?という大きな課題を考えて行かなくてはならない、ということなのである。
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