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Vol.18  (98.3.12)

■少年A供述書のその後(98.3.12)

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少年A供述書のその後

文芸春秋4月号、「少年A検事調書の衝撃」について。これは、もちろん私が前に「少年A犯罪の全貌を読む」を書いてしまった行きがかり上のものでしかない。言いたいことは、そこにほとんど書いてしまったので、ここではこの文春4月号のコメンテーター諸氏のコメントについて、一言ずつ思ったことを書いておこう。

柳田邦男氏
ヴァーチャルなものとしての「法」の性格から説き、ジャーナリズムの使命にもっていく論は、説得力もあり、バランスがとれた「大人の意見」に見える。しかし、柳田さんがメディアが「原罪」をになうべきとしてあげている「被害者救済」は、「メディア」が、ではなくいつのまにか「国や自治体」がやるべきことにすりかわっており、メディアの自己責任という問題はじつは問われていない。これは甘い。どーせメディアが被害者救済としてとりくむことなど、たかが知れているかそもそも出来ないのであれば(そしてメディアはそもそも「そーゆう機関ではない」のだから、できっこないのだが)、そんなことはハナからあきらめ、編集者・発行人が自らを「罰する」などして社会的制裁を受けることで、すくなくとも「感情の上での取引」をすべきではないか、というのが私の考えだ。メディアは社会の外部にあって中立的に判断しているのでは断じてなく、社会の中の一つの要素としては、被害者と対等なのであり、場合によっては被害者と差し違えて一つのメディアが消えてなくなるということもあってしかるべきだろう。銀行もつぶれる時代だ、メディアのひとつやふたつつぶれてもフシギはない。「TBSオウムビデオ事件」で、彼らは「TBSはこれからどうしたらいいでしょうか?」と馬鹿みたいな質問を視聴者にあびせていたが、その答えは「自主廃業でもいいんじゃないの?」ということもありうるわけである。何がなんでもメディアの存立そのものは前提としてしまうような議論は間違いだろう。
こういった「甘さ」ともからむが柳田氏は、立花隆が例の弁論で、精神医学の基本的な用語を誤った解釈で使い、読者を混乱させた、と指摘しているが、立花氏への個人的配慮からか?、このことは「供述調書の評価とは無縁」として、とどめている。しかし読者に対する影響という点では、この立花氏の誤用問題はおおきいのではないだろうか、と私は思ってるので、ぜひその点、つっこんで議論していただきたい。

柳 美里氏
断片的にはもっともらしいことが書き並べられているのに、それをまとめて眺めてみれば、この人の言ってることは「しっちゃかめっちゃか」である。サカキバラそっくりといっては失礼だろうか。
直感像素質と想像力のもんだいを安易に同一化した上で、想像力のある子(文学的才能のある子?)を受け止めることのできない教育を批判したかとおもえば、ナイフの所持の禁止を「問答無用」ですることを学校に期待する。3歳になるまでひたすら愛情をそそげば、少年犯罪を減らすことができると言ったかと思えば、子育てが失敗する原因は「資本主義」だといいだす。
この人、言うまでもなく立花弁論でサカキバラの「文学的才能」を語るためにひっぱりだされた「芥川賞作家」である。この人の「作品」は読んだことがないのだが、ぜんぜん別の意味で興味をいだかされてしまった。

吉岡 忍氏
「文学」である。こーゆう場所へのこのこ出てきて、どうどうと自分の「文学」を書いてしまえる感性というのは、どーしても理解できない。厚顔無恥、とでもいうんだろうか。言ってることは、ようするに「近代批判」であり「ニュータウン批判」なのだが、あまりに浅い。サカキバラの家系のおおもとにある南の島を理想化したうえで、それに比べたとき、ニュータウンは「勝手にモザイクされた妄想しかなく」、サカキバラには「人間の行動に意味と統一性を与える原初的イメージは何も伝わっていない」などという。しかしそんなもんが「伝わってる人」など、現代の都市にそんなにいるはずもなく、そうであれば(小田晋による宮台真司批判じゃないが)「ニュータウンは殺人鬼だらけになっていなくてはならない」ことになる。ようするに、サカキバラをだしにして自分の「反近代」感情を述べているだけではないか。
ということで、彼については言うべき事もないのだが、ここでついでに言っておきたいのは、私はむしろサカキバラ供述書に「原初的イメージ」の存在を感じていたということだ。それは彼が「山」を知り尽くしていて、ここでは誰も自分をつかまえることなどできない、というところである。まるでマタギだが、こーゆう「自然」と一体になった奇妙な感覚こそ「原初的イメージ」ではないか。吉岡氏のいうような「人間の行動と意味に統一性を与える」という体のものであれば、「共同体の論理」でも「共同幻想」でもいいはずだ。共同体が崩壊してもなおかつ、わき出してしまうからこそ、「原初的イメージ」なのではないか。と、いっても単に定義の問題になってしまうが。いずれにしても、「原初的イメージ」なるものに、社会規範や倫理をおっかぶせてしまうのは、問題があるんではないかと思う。

中野 翠氏
うーん、落語はいいんだろうが、外人はどーしたらいいんだろうか。

佐木隆三氏
この人が言ってるのは、「公開しない」は「傍聴を認めない」という意味であって、記録物(検事調書を含むのだろう)の閲覧やコピーは許される、ということであって、これがホントなら、そもそも「是非」が問題にもならないことになる。まあ、そういう意見もあったというところだろうか。

川上亮一氏
氏の意見は、もっとも「まっとう」で、なにもコメントすることはない。しかし、私の書いたものにしてもそうだが、川上さんの議論もこれ以上進もうとするとどーしても医学的な意味での「人格障害」にとりくまなくてはならなくなり、「素人」である以上、「その先」の発言は意味を失ってしまうところにきている。つまり「ここ」が議論としての臨界点である。そーいう意味で川上さんがサカキバラの問題は「学校の枠を越えている」として、先日の教師刺殺事件などの「身近な」ところに問題を限定しようとしているのは、賢明だと思う。というわけで、こういった観点をふまえた上での、精神医学関係者からの議論を待ちたい。

江川紹子氏
とくになし。

養老孟司氏
なんかあまりに抽象的な話。議論ってのはいろんなレベルでの話をその都度、切りかえながら、相手との間で調節していくべきものだと思うが、なにもかもいきなり「唯脳論」的レベルで語られてはミもフタもない、という感じ。

久田 恵氏
「運命の少年」・・など、文学的表現がすぎる。文学的な資質がある人は、より文学的に、唯脳論的素質がある人は、より唯脳論的に、人格障害的資質の人(オレ?)はより人格障害的に、というように、その人の本性をよりくっきりと浮き上がらせてしまう「鏡」のごときものがサカキバラにはあるのだろうか? というのは冗談だが、文学的資質に関していえば、先の吉岡氏にしても「ブンガク化」がひどすぎ。サカキバラのブンガクセンスが、彼らの対抗心に火をつけるのだとしか思えないではないか。
彼のように他者への共感を欠いた人間は、「人格障害」というジャンルが成り立っていることからして明らかなように、山のようにいる。その一人である彼がこのような犯罪をしたからといって何で「運命の子」などと「美化」されなくてはならないのか。そして久田氏は最後にサカキバラもまた「自分が解き明かされ、いったい何ものであったかを、知ることを」求めているのではないか、などと言うのだが、誰だって「自分とは何か」を求めて生きているのだ。当たり前のことだ。そのような殺人者が特権的に、自分を知るという「運命」を背負わされているわけではない。さらに言えば、そのような殺人者には「自分を知る」権利などないのだ。なぜなら、彼は「自分を知る」ことができたはずの子ども達の「自分を知る」権利を奪った人間だからである。もちろん、本人が「勝手に知る」のは全然かまわないが、それは「権利」という社会的概念とは何の関係もなく、他人のアナタ(久田氏)が心配してやることではない。
ようするに、久田氏、吉岡氏らは自分の「文学的表現」に酔い、何ほどのものかを世に問うていると錯覚しているだけと言ってもいい。そういう「ブンガク」をはずして見たときに、自分が何を「実際的に」言っているのか?、今一度、よく反省していただきたいものだ。 (98.3.12)

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