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宮台問題をめぐる随想(98.3.24)
あまり興味のわかない話題だろうが、先日「諸君!」誌に「ボクちゃん社会学者・宮台真司はここまでキレてる」という記事がのった。「あの」小田晋氏と筑波大の中川八洋という人の対談で、基本的に「社会学者・宮台真司氏は、社会の解体を目論んでいる」という論調のものである。
しかし、ここには実際はいろんな論点がごっちゃになって含まれていて、それを宮台個人を批判してすますというのもどうか、と思う。といっても宮台氏の肩を持つつもりも毛頭ない。それぐらい言われてちょうどいいんじゃないか、というのが率直な感想だ。ところがそのあと、雑誌「ダ・ヴィンチ」に掲載された「少年は、戦争をしたいのかもしれない」という特集記事で、宮台氏は「反論」ともとれるようなことを言っていて、ちょっと考えてしまった。
この「戦争」の記事は、ダ・ヴィンチの4月号に掲載されていて、取材・文は「藤井康洋」氏となっている。まず、福田和也氏への取材を通して「ファシズム」などのイデオロギーによって「国家」として戦争ができる時代が終わり、日本人が戦争を起こすことの不可能性を示した後、西谷修氏の「戦争論」により、その論を確認し、「国家の決闘としての戦争はとっくの昔に死んでいた」とする。その上で、件の宮台氏登場となり、戦争の最終形態は、サカキバラなどの「脱社会的存在」による、社会に対する暴力として現れてくる、と結論づけているのだ。
前半の国家による戦争の不可能性、という論点は、国際化・ボーダレス化などの進行と同時に、なんとなく雰囲気としても納得できるものだろう。一部の人々が「日本人の誇りをとりもどせ」などと言って、教科書問題をさわぎたてたりしても、それを「再軍国化」への動きだなどと感じる人はまれだろう。実体としてもう「国」が戦争をするなどということは、実感できないのだ。
このことは田中明彦氏の「新しい「中世」」(ここに情報あり)でもっと明確に語られていた。つまり国際的な相互依存が高まれば高まるほど、現在の「近代主権国家」は(その力を)後退していかざるをえない、というものだ。ボーダレスかつ多様化した相互依存によって、どこからどこまでが「自国の利益」と言えなくなってしまう以上、これは当然の結果だろう。このような社会ではまた個人も「国家」よりも、「企業」や「非政府的団体」「地域」などに、帰属意識やアイデンティティのよりどころをもとめるようになる。そういう意味でも「国家」は希薄化していくというのだ。このような多様化し、相互依存が進展した国際社会を田中氏は「新しい中世」と言っているわけだが、とうぜんこれは背後に「新しい中世」にはふくまれない一群の国家を持つことになる。はっきり言えばフセインなどの国のことである。「新しい中世」にとっての安全保障問題というのは、こういった「国際相互依存の外部」に居続けようとするものに対してのことでしかない(最近は、フセインすらも「国際相互依存」の仲間入りを希望しているようだが)。福田氏もこの記事の中で、国際的な秩序の中で不利益を被っている国から戦争を仕掛けられる可能性を指摘している。
多様化した相互依存が進展する「国際社会」とは、契約と信用、そして「公平性」を原則とするものだろうが、その「内部」では、「競争」はあっても、もはや「戦争」はない。「戦争」はその「社会」の「外部」との間でのものでしかないのだ。フセインなどの特定の国家との「戦争」と、テロリズム等の「反社会的存在」との「戦争」が等価になってしまう理由がここにある。では、サカキバラ事件のような「反社会的」な犯罪もまた「戦争」ではないのか?というと意外に感じる人は感じるかもしれないが、単に定義上の問題だと言えば、自然な結論である。
というわけで話をもどすと、宮台氏はこのダヴィンチの「戦争特集」において、サカキバラ事件をこのような意味での「戦争」という範疇にあてはめ、サカキバラのような「脱社会的」犯罪こそ「戦争の最終形態」だとするわけである。
それは(別にびっくりするような結論でもないという意味で)いいのだが、これはあまりにも彼がいままで言ってきたことと違う、のではないだろうか。少なくとも小田晋さんらが、「彼(宮台氏)は社会解体を目論んでいる」という話とは全然違う。ここで宮台氏はあきらかに「社会防衛」の立場に立つことを表明しているからだ。
サカキバラ事件を契機に宮台氏は、「学校批判」をしたのだが(それがまさに小田氏らのいう「社会解体」になるわけだが)、ここで宮台氏は
「・・でも、この反社会的メッセージはもうひとつの社会を構想している。学校がこあればいいなと。それは広義の意味での社会性なんです。ところが、酒鬼薔薇の常軌を逸した行為は、実は、社会性/反社会性を包含した、広義の社会性を逸脱している。向こう側にブッ飛んでいる。これを社会性/反社会性に対して「脱社会性」と僕は呼んでいます」
という。社会性/反社会性に対して「脱社会性」なんていうのは、まったく言葉遊びか冗談のようだが、ようするに、これまで自分の言ってきたことと、供述書によって明らかになってしまったサカキバラの「異常性」との間に、整合性をつけるための「苦肉の論理」だろう。ようするにここに至っても「声明文を別にすると」などと断りを入れていることから分かるように、決して今までの自分の発言を修正したりはしたくない、というわけだ(注:宮台氏は「声明文」を典拠として「反社会」論を展開していたが、サカキバラ供述書によれば「声明文」は単なる「めくらまし」としての作文でしかない。このことについて宮台氏のコメントはないが、ここでの発言がすべてを物語っているだろう)。
それにしてもここで私は宮台氏の「不誠実な態度」を批判したいわけでもまた、ない。むしろ宮台氏が明らかに「社会防衛」の立場に立つことを表明してしまったことは、評価したい。とりつくシマができるからだ。というように、フクザツめいた言い方をしてしまうが、ようするにカンジンなのは、次の点だ。
つまり、「社会」の外部にあって、社会に対して「戦争」を仕掛けてくる「国家」(フセイン)、「テロリスト集団」(オウム)、「個人的犯罪者」(サカキバラ)など、宮台氏のいわゆる「脱社会的存在」、との「対抗」においては、なるほど「社会」というものを防衛しなくてはならない、ということは絶対的に言いうるとしても、その「社会」なるモノのカタチはまだはっきりと決定されているわけではない、ということだ。
国際的な相互依存の進展だとか、新しい中世だとか言うまでもなく、社会そのものが大きく変動し、それゆえに社会人として求められる能力も大きく変化している、ということは、多くの人が認めることではないだろうか。一言でいえばビックバンだ。このような状況で、なにを「教育」すべきなのか、ということに大きな「ゆらぎ」が生じてしまうのも当然、ということである。
しかしどんな社会状況だろうと、それが「社会」である限りは「不変の」社会的な「原則」といえるものがある。それは「この現実を多くの人が共有し、そこで活動する(生活とか表現を含む)舞台=インフラとして、肯定し、尊重する」ということであり、不正や、犯罪、そして「期待される行為の不実行」など、そのインフラ自体を否定するような行為がついては「責任」をとらなくてはならない、ということだ(これについては「村山論」や「小浜書評」を参照)。
それが最低限にして基本の社会の原則であり、それを守ること・守るように教育することが、最低限にして基本の「社会防衛」の論理なのだ。その最低ラインに比したとき、小田晋さんたちが、宮台氏につきつけている「社会性」はあまりに過重だし、宮台氏が提出している「反社会性」(という名の社会性?)は、ちょっとピントがぼけているように思える。
たとえば小田氏らが提出している問題に「自律か他律か」というのがあって、宮台氏流の「自律」に子ども達をまかせたら、子どもが「野獣」になってしまう、という。これは実際的な面があって、一面では納得するのだが(キレる子ども達の多発を想起しつつ)、しかし伝統的な教育?一辺倒によって、他律的な子どもを量産したとして、そんなものがこれからの多様化した社会で役に立つ(能力を発揮できる)人間になるのかは疑問だ。はっきり言えばこれまでのように地縁的・家族的な集団(世間)の中で、それなりに人間関係をうまく調整するという能力があれば、そこそこの「地位」を確保できた、というような状況は完全に終わった。しかし伝統的な「集団主義」的な教育は、そのような「今は滅びつつある」世間の中で生きるための教育でしかもはやないだろう。
そして、それ以上に問題なのは、教育によって「社会」に出ていった当の本人が、その社会で生き甲斐を感じられる人間になれるかどうか、ということである。とりあえずテロリストやテロリズム国家(フセインなど)は別として、「社会」内部の人間に関しては、それぞれの個人が「生き甲斐」を感じていきていけるようにすることが(その生き甲斐の元になっている「役割」やさらにその大元の「社会」を肯定し尊重することにつながるがゆえに)、もっとも「秩序」の維持には役立つのだ。つまり「社会肯定の意志」を育てることこそ、最大の社会防衛なのだ。しかし、伝統的で他律的な教育は「世の中はつまらない」という「現実」を作り出してしまうがゆえに、巡り巡って社会解体を推進していることにもなりかねない。
以上のような意味で「伝統」や「他律」のお仕着せを保守することに終始している小田氏らの「社会性」に立つ議論は、「過重な」つきつけと言ったわけだが、過重というよりむしろ「不適切」と言ったほうがいいのかもしれない。その一方で、宮台氏のいう「反社会性」がピントはずれだというのは、それがなんら有効な「社会構想」を語ってはいない以上、多言を要しないことだろう。ご自分であとになって言い訳されているような「もう一つの社会を構想している」というのが感じられないのだ。
ついでに言っておくと、「自律」というのは言葉通りとれば「自分を律する」ということであって、「野獣化」とは明らかに違う。自律の「律」の中にすでに「社会性」が含まれている、といえば言葉遊びにも聞こえるが、そういうことなのである。ようするに「自律か他律か」なんて問題は本来なく、最低限にして基本の「社会性」の原則の内側の差異でしかない。しかしこの差がきわめて重要で、はっきり言えば私は「自律」一辺倒でいい、とすら思っているのだが、「自分で律すること」を学ばなければ、結局なにもできない人間になるというだけのことである。小田氏らにしてからが、他律的に「精神科医」になったわけではなく、その時点での「自律」によってなしとげられたことなはずだ。逆に宮台氏の「反社会性」論には、この「律」がみられないのだ。どんなものであれ、「社会性を構想している」というのであれば、上記のような最低限の原則を守るという意味での「律」が不可欠のハズだが。
しかし、ようやく「社会防衛論者」であることを表明したばかりの宮台氏であるから、本格的な論は今後、これから開始されるのかもしれない。それに免じて今後を見守ってやることにしようではないか。・・・ま、それにしても宮台氏は「あまりにマスコミに過大評価されてしまったがゆえの悲劇」って感じがするんだけどね。
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