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Vol.20  98.4.23

■書評
鶴見和子「日本を開く」(98.4.22)
リンダ・サパディン「グズの人にはわけがある」(98.4.21)
佐々木高明「日本文化の基層を探る」(98.4.23)

■ゲーム評
「天誅」「ネオ・アトラス」(98.4.23)

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book
鶴見和子「日本を開く」(岩波書店)

恥ずかしながら、というか、恥ずかしいのかどーかもよく分からないが、私はこの鶴見さんの本をはじめて読んだ。本といっても講演の記録である。つまり、この人の著書は読んだことがない。鶴見俊輔氏のごきょうだいだというのも、ついこの前、はじめて知った(鶴見俊輔氏については、ここにも記事あり)。

で、この講演緑を読んで、「学者!」というものを感じてしまった。学者ってのは、かくも「明晰」でなくてはならないのだ!というのを思い知らされたというか、むしろ爽快な開放感を受けた。学問ってのは、やっぱり「ものが分かる」ためにあったんだ、と思うと「ほっと」するし、心がハレバレとしてくる。わけの分かんないことを言って、エラソーにするために「学問」を使う人が多いからだ(特に「南方マンダラ」についての捉え方を宗教学者のN氏と比べて、そう言ってるのだが)。

厳密かつ明晰なコトバを使いつつ、著者は「新アミニズム」という「宗教的なもの」を提唱するわけだが、ここでもまた厳密に「宗教」と「宗教的」は分けられている。これはどっかで聞いた話ではないか、と思えば、森岡正博氏の「宗教ではない宗教性」とダブってくる(これについては森岡正博「宗教なき時代を生きるために」と、ワン・トゥー・ワン 個人の表現の発信でふれた)。鶴見氏によれば「宗教的なもの」はジョン・デューイの概念だそうで、制度化された宗教ではなく、個々の宗教をこえた「人間の態度」だという。で、それはどういう態度かというと、「人間はより大きなものの一部だ」と認識し、その「大いなるもの」に近づこうとする態度だというのだ。ここで鶴見氏はその大いなるものは「自然」だ、と言っているのだが、それが新アニミズムという「態度」になるのだろう。僕としてはあえて、宗教的なものとか宗教性と言わなくても、「生命論」でいいんじゃないかと思う(ここここ)のだが、ようはそういったコトバが「意味するところのもの」が何か、ということだろう。そういう意味では鶴見氏に非常に共感した(ちなみに村上龍は「ヒュウガ・ウィルス」のあとがきで「アニミズムは精神の堕落だ」というよーなことを書いていたが、たぶんその「大いなるもの」を安直に擬人化してしまうところに、その堕落したアニミズムがはじまるのだろう)。

「日本を開く」というタイトルは、こういう新アニミズムというか、全体としての生命(自然)とのつながりを失わないようにしながら、個人が「自立」していくことで、はじめて日本の開国、文明開化が可能になるのだ、という意味だろう。かつての文明開化では、あまりに性急に「外発的に」おこなわれたため、「個人」というものがまったく育たなかった。形式的な「個人」では、外国の(中身もある)「個人」と渡り合っていくことはできない、というよりは「中身」なんかないんだから、(インターネット風に言えば)なにも「発信する」ことがないということか。「内発的に」成長した個人が登場してこなくては、ほんとうに「日本を開国する」ことなどできない、ということなのだ。「開国」というと、なんか国際化という呑気な問題に感じられるかもしれないが、ビッグバンなどボーダーレス化、相互依存の進展する現在においては、「自立した個人であること」は、誰にとっても、目前の現実的な問題なのだ。

では、どうすればいいか? ということは、漱石が示していて、「神経衰弱にならぬよう、ゆっくりと自己本位をやっていくしかない」ということなんだそうだ。ようするに、人は「ゆっくりとしか大人になれない」ということだろう。それを西欧で言ったのが、実はユングで、ここではユングと漱石はいっしょだ、という驚くべき結論!になってしまう。ユングは「個性化」ということを言ったのだが、これもまた、表面的に確立された「自我」の深層にある全体としての「自己」を回復するという話なわけで、「全体とつながりながら、しかも自立した大人」になるには「ゆっくり」やるしかない、という結論になるからだ。

しかし漱石は、西欧人は長い歴史の時間をかけてゆっくりと成長してきたから「大人」だが、日本人は急激に外圧によって近代化したから、表面的にしか「大人」ではないと、ようするにそう考えたわけだが、ユングが西欧においてもそのように「ゆっくりと成長すること」を言わねばならなかったというのは、西欧だって、ほんとに「自立」なんてのはなかったってことでもあるわけだよね。

それ以外にも、想像力についての議論も刺激的で、オススメの本である。 (98.4.22)

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book
リンダ・サパディン「グズの人にはわけがある」(ネスコ)

ここでいう「グズ」ってのは、やろうと思ってたりやらなくちゃないと分かっていることを、ついつい先送りにしてしまったり、なかなか手をつけられなかったりする人のこと。読んでたら、これはほとんど自分のことなので、身につまされてしまった。

今回の外人著者による一連の俗流心理学本(失礼!)のブームは、たぶん「平気でうそをつく人たち」からはじまって、「困った人たちとのつきあい方」で本格化したのだろうが、「平気でうそを〜」は別として、基本的に「病気」という捉え方をしていない、というところがおもしろい。ナントカ病とか、ナントカ症候群とかいう「名付け」は、そこから「治療」が発生するから意味があるのであって、「治療」が発生しない状況で、「アイツはナントカ症候群だ」などといっても世間話以上の意味はない。といいつつ、オレは人を「人格障害じゃないか」などとよく言うが(!--たとえば「少年A」関係)、これは春日武彦氏によって示された、人格障害は精神医学の「外部」の概念、という用法にのっとったものである。

肝心なことは、それを病気といおうというまいと、人間は知らず知らず特定のパターンにはまっちゃって生きている、ということだ。そのパターンが「現実」とかみ合わなくなり、それでもそのパターンを抜けられないというのが「病気」のはじまりなのだろうが、そこにいく以前に、その無自覚なパターンのためにすごい損をしていないか?、というのが、この手の本のスタンスだ。この「パターン」を「マインドウイルス」とよべば、例の「ミーム」(リチャード・ブロディ著 講談社)になる。

この「グズ」本で、取りざたされる「パターン」は、なにか大事なことをしたり決断したりしなくてはならないことがあるのに、「でも・・」というつぶやきが起きてそれを先送りしてしまう、というものだ。考えてみれば、僕らも、それなりに意識的に生きているつもりでいても、けっこうその都度その都度の「つぶやき」に動かされていることが多い。安易にながれる場合はたいていこういう「つぶやき」が起きる。これがほんとの「つぶやき心理学」か。

こういう「つぶやき」に対して、心のパターンを変え、「グズ」を脱出しよう、というのが、この本のテーマなのだが、その実際的な効果については、私はよくわからない。私もこの本を読んでからだいぶ立つが、またぞろ「グズ」な生活にもどりつつある。しばらくは、またこれを思い出しつつ、グズ脱出にはげみたい。 (98.4.21)

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book
佐々木高明「日本文化の基層を探る」(日本放送出版協会)

副題は「ナラ林文化と照葉樹林文化」。ということから連想されるように、これも「もののけ姫」関連の読書である。宮崎さんは、何かっていうと、「照葉樹、照葉樹」といっていたからね。宮崎さんがよく引き合いにだすのは、中尾佐助さんという人の本だが、この佐々木さんの本は「ナラ林文化」との対比ということで、興味を引いた。ようするに東国は「ナラ林文化」で、西国は「照葉樹林文化」だという話である。私は東北なので、だんぜんナラ派で?、照葉樹がなんだ!という思想の持ち主なのだ。というのは冗談だが、そもそもナラとブナ、クスとツバキの区別もできない植物音痴の私であった。

この区分が面白いのは、これまで私は東西というと、縄文vs弥生という対立概念しか知らなかったからだ。縄文は自然との共生であり、弥生は自然の制圧、縄文はイマジネーションあふれる文化であり、弥生は画一的な機能的文化、縄文は心と心のつながりであり、弥生は身分と制度によるギスギスした人間関係、縄文は正直だが、弥生はうそつき、縄文は利他的だが、弥生は利己的、縄文はグレートスピリッツだが、弥生は天皇教、縄文は所有の概念がないが、弥生は所有にからむ争いから戦争を起こす、縄文は釣った魚を川にもどすフライフィッシングだが、弥生は釣った魚の物量を争う河口湖のバス釣りだ・・・などなど、ようするに弥生はキライだってことになる。

しかし、縄文文化はほとんど東国(関東以北)ということになっているのだが、それじゃー、たとえば熊野の異界的な文化(小栗判官〜武蔵坊弁慶〜南朝〜南方熊楠)をどー考えるのか、ということになると、これがなんなのか分からなくなる。ここにあるのはあきらかに度を超した「縄文的」というか、森林的な文化だが、これをどう位置づけるかというと、縄文vs弥生という枠では語れないのだ。そこでナラ林文化と照葉樹林文化という区分が使える。これは弥生以前にこの二つの「森林文化」があり、それが日本文化の「基層」になっている、という話だ。しかし弥生以前の森林文化っていったら常識的な回答としては「縄文」のことなのだから、それを東側の文化パターンに限定するなら、「縄文」=ナラ林文化ということになるのではないか? はっきりそう重なるものではないのだろうが(視点がまったく違うものだから)実質としてはそうだろう。そうするとエポックメイキングなのは、西国における「照葉樹林文化」の発見、ということになるだろう。そこからの対比で、縄文や弥生以降の日本文化とは何かということがまた明確になってくるわけだ(つまり上記のような?単純な紋切り型の「縄文と弥生」というお話はこれで終わりだってこと)。

蛇足だが、もののけ姫の中国地方と思われる森林は、この「照葉樹林文化」の森で、アシタカは東北の縄文の森=ナラ林文化からやってくるわけだから、これは「ナラ林文化と照葉樹林文化」の対話の物語ということにもなる。

「照葉樹林文化」の特徴として、モチを好むというのがある。そういえばウチは東北なのだが、モチよりダンゴをよく食べた。しかし私の配偶者は岡山から出てきた一族のため、何かというとモチを食べている。なべにモチを入れるなどというのは、ちょっと衝撃的なものがあった。また「照葉樹林文化」の宗教的観念として、死んだ人の魂が、山の頂上へ上っていくというのがあるそうだが、これはよく大江健三郎の四国の谷間の森サーガで語られているものと符合する。そういえば、熊野だけでなく、大江健三郎の森もまた西国にありながら、非弥生的というジャンルがはっきりしないものだったが、「照葉樹林文化」というくくりがあれば、オッケーという感じだ。なんかケーハクな結論だけど、そういうことなのである。 (98.4.23)

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game
「天誅」「ネオ・アトラス」(プレイステーション)

すっかり暖かく(暑いくらいだ)なり、もはやかったるくてゲームなんてやってられない季節となりましたが、今回やったゲームはこの2作だ。「天誅」は忍者ゲーム、「ネオ・アトラス」は大航海時代シミュレーション。

いずれも「バイオ2」の後遺症のすさんだ気持ちをやわらげてくれた。良質のソフトである。特に「天誅」はよかったが、これはまったく恥ずかしいまでの紋切り型の時代劇そのまんまの世界の中で遊べるソフトで、よくぞ作ってくれたと感激の涙ものである(しかし、恥ずかしいまでの紋切り型を「文学」でやられると怒るが、ゲームだと楽しめてしまうのはなぜだ!---もちろん「ループ」を念頭において言うんだけど)。

音楽やナレーションも凝っていて、ちょいと暗めの時代劇ふう(「木枯らし紋次郎」から「必殺」へ行く系譜)であり、しかし戦う相手がスケベな悪徳商人越後屋だったり(「水戸黄門」などファミリー系時代劇の系譜)、海賊や謎の宗教教団だったり(「三匹が斬る」などマイナー系時代劇の系譜)、あきらかにエイリアンだったり(「仮面の忍者 赤影」の世界!)と、内容が濃い。忍者のアクションもショー・コスギがモーションキャプチャーしているとかで、リアルだ。そのせいか、この世界の忍者は基本的に「アクション映画」の動きの範疇を遵守していて、白土三平の忍者もののような荒唐無稽なアクションはできない(分身の術とか)。そう考えてみると、山田風太郎忍法帳の世界もここにはないから、こんど忍者ものを作る人は、白土-風太郎系でいけばいいということになるか(なんかゲームとしてはつまんなそーだが)。

同時期にプレステでは「ブシドーブレード弐」も出ていて、どちらも剣劇のアクションだが、私の好みは圧倒的に「天誅」だ。もちろん格闘コマンドを覚えきれないという反射神経上の問題もある(この話題は「オヤジゲームについて」?で書いた)。「天誅」も格闘ゲーム的な場面はあるのだが、コマンドはそれほどないので、オヤジ的な反射神経でも十分クリアできる。しかしそれ以上に気に入ったのは、このゲーム、基本的に格闘なしでクリアするのが目標だというところだ。忍者だから当然だが、こっそりと見つからないように忍び込むのが仕事である。見つかっては仕事にならない。見つかったら格闘で倒してもいいのだが、そーすると倒したにもかかわらず点数は低くなってしまうのだ。あくびしながら番をしている侍の後ろを、見つからないよう、こっそりと通り抜ける。こういう陰湿な感じがすごくいいのだ(性格が陰湿だから!)。

「ネオ・アトラス」だが、これは大航海しながら自分の世界地図をつくりあげるというゲームで、この世界地図のイラストや、アイテムとして現れる世界の物品などのアイコンが、いい雰囲気を出していて(いかにも大航海時代といった感じの)、これが見0たいためだけにやったようなものだったが、実際、ゲームとしてはあまり面白くない。最初は、新鮮だったこの世界も、だんだん飽きてくるし、いろんなアイテムを見つけたり、貿易をしてもうけるなどというのが、苦痛に(労働のように)感じられてくる。それに見合うだけの(クリアーしたときの)快感があまりないせいだと思うのだが。しかし決して駄作ではない。たぶん、時間があって、ゆっくりと楽しむ余裕があれば、面白いものなのに違いない。ちなみに私は、このイラストを楽しむためにわざわざ攻略本まで買ってしまった。 (98.4.2)

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