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鶴見和子「日本を開く」(岩波書店)
恥ずかしながら、というか、恥ずかしいのかどーかもよく分からないが、私はこの鶴見さんの本をはじめて読んだ。本といっても講演の記録である。つまり、この人の著書は読んだことがない。鶴見俊輔氏のごきょうだいだというのも、ついこの前、はじめて知った(鶴見俊輔氏については、ここにも記事あり)。
で、この講演緑を読んで、「学者!」というものを感じてしまった。学者ってのは、かくも「明晰」でなくてはならないのだ!というのを思い知らされたというか、むしろ爽快な開放感を受けた。学問ってのは、やっぱり「ものが分かる」ためにあったんだ、と思うと「ほっと」するし、心がハレバレとしてくる。わけの分かんないことを言って、エラソーにするために「学問」を使う人が多いからだ(特に「南方マンダラ」についての捉え方を宗教学者のN氏と比べて、そう言ってるのだが)。
厳密かつ明晰なコトバを使いつつ、著者は「新アミニズム」という「宗教的なもの」を提唱するわけだが、ここでもまた厳密に「宗教」と「宗教的」は分けられている。これはどっかで聞いた話ではないか、と思えば、森岡正博氏の「宗教ではない宗教性」とダブってくる(これについては森岡正博「宗教なき時代を生きるために」と、ワン・トゥー・ワン 個人の表現の発信でふれた)。鶴見氏によれば「宗教的なもの」はジョン・デューイの概念だそうで、制度化された宗教ではなく、個々の宗教をこえた「人間の態度」だという。で、それはどういう態度かというと、「人間はより大きなものの一部だ」と認識し、その「大いなるもの」に近づこうとする態度だというのだ。ここで鶴見氏はその大いなるものは「自然」だ、と言っているのだが、それが新アニミズムという「態度」になるのだろう。僕としてはあえて、宗教的なものとか宗教性と言わなくても、「生命論」でいいんじゃないかと思う(ここやここ)のだが、ようはそういったコトバが「意味するところのもの」が何か、ということだろう。そういう意味では鶴見氏に非常に共感した(ちなみに村上龍は「ヒュウガ・ウィルス」のあとがきで「アニミズムは精神の堕落だ」というよーなことを書いていたが、たぶんその「大いなるもの」を安直に擬人化してしまうところに、その堕落したアニミズムがはじまるのだろう)。
「日本を開く」というタイトルは、こういう新アニミズムというか、全体としての生命(自然)とのつながりを失わないようにしながら、個人が「自立」していくことで、はじめて日本の開国、文明開化が可能になるのだ、という意味だろう。かつての文明開化では、あまりに性急に「外発的に」おこなわれたため、「個人」というものがまったく育たなかった。形式的な「個人」では、外国の(中身もある)「個人」と渡り合っていくことはできない、というよりは「中身」なんかないんだから、(インターネット風に言えば)なにも「発信する」ことがないということか。「内発的に」成長した個人が登場してこなくては、ほんとうに「日本を開国する」ことなどできない、ということなのだ。「開国」というと、なんか国際化という呑気な問題に感じられるかもしれないが、ビッグバンなどボーダーレス化、相互依存の進展する現在においては、「自立した個人であること」は、誰にとっても、目前の現実的な問題なのだ。
では、どうすればいいか? ということは、漱石が示していて、「神経衰弱にならぬよう、ゆっくりと自己本位をやっていくしかない」ということなんだそうだ。ようするに、人は「ゆっくりとしか大人になれない」ということだろう。それを西欧で言ったのが、実はユングで、ここではユングと漱石はいっしょだ、という驚くべき結論!になってしまう。ユングは「個性化」ということを言ったのだが、これもまた、表面的に確立された「自我」の深層にある全体としての「自己」を回復するという話なわけで、「全体とつながりながら、しかも自立した大人」になるには「ゆっくり」やるしかない、という結論になるからだ。
しかし漱石は、西欧人は長い歴史の時間をかけてゆっくりと成長してきたから「大人」だが、日本人は急激に外圧によって近代化したから、表面的にしか「大人」ではないと、ようするにそう考えたわけだが、ユングが西欧においてもそのように「ゆっくりと成長すること」を言わねばならなかったというのは、西欧だって、ほんとに「自立」なんてのはなかったってことでもあるわけだよね。
それ以外にも、想像力についての議論も刺激的で、オススメの本である。
(98.4.22)
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