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Vol.21 新装直前!再録特集

…ウェブ未発表のひるますエッセイを大放出!

■前 説(98.8.22)

■下村誠の「精神」世界(94.11.11)
雑誌G・U創刊準備号に掲載した下村誠プレ特集の記事「シモムラ・ワークス」より

■意識の経験の学(92.3.31)
ペーパーメディア版「HIRUMAS VOL.9」より

■新・意識の経験の学(92.11.25)
ペーパーメディア版「HIRUMAS VOL.10」より

■意識の外部 悲しき近代人(92.11.25)
ペーパーメディア版「HIRUMAS VOL.10」より

■意識のいろいろ(92.11.25)
ペーパーメディア版「HIRUMAS VOL.10」より

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前 説
新装直前!再録特集(98.8.22)

ついに「オンラインひるます」を更新。といっても、なかなか予告通りことが進まないので、旧作掲載でお茶をにごします・・。
題して「新装直前!再録特集」だ。旧作といっても、あんまり古いのは文字データがなく、ペーパー版の「月刊ひるます」の10号と、品切れになってしまった「G・U」の創刊準備号に掲載された「下村誠」論だけである。
92年とか94年とかいうと、とほうもなく昔のように感じるが、あらためて読んでみるとほんとにオレの考えてることって何も変わっていない・・。進歩がないといってもいい。でも今回掲載したのは、不思議と今の問題とシンクロしていて、面白さがあるのだ。
「下村誠」論は、誰も書かないならオレが書く!と前に言っていたが、すでに書いたものがあったので、掲載することにした(ただし、実際はわがG・U創刊号に村田博くんの最高の下村論が掲載されているが)。
意識についての3部作?(後に先行する「意識の経験の学」を追加)は、いまはやりの認知科学や脳理論についてまったく知らずに書いているところが、カワイイという感じだが、それでも今考えてることとそうたいして違いはないし、あんまり古いとも思わない。特に最近考えていたこととドンピシャなところがあっておもしろい。それは最近、大槻ケンヂが心霊関係の番組のコメントで、霊は存在しないとか、妄想だとか「科学主義的」な発言をしていて(大槻教授になったんですか?と突っ込みが入ったくらいらしい・・伝聞)、それが「あわれだなぁ」と思ったということがあったのだが、なんで「あわれ」なのか、と言うことを、もう6年前のこの文章で書いていたってわけだ。
ちなみにそんな話をしていたら、NHKの「ようこそ先輩、課外授業」とかいう番組でアリャマタ先生(荒俣宏、なつかしや深夜番組「アニマ・ムンディ」での呼び名である)が、授業で子ども達に怪談を読ませる(演じさせる)というのをやっていて、さすが、アリャマタ先生!と感激した。これも何かのシンクロニシティか。
ようする人は、そういう怖いものを感じることができるし、それを面白がることもできる。そういう「心」なり「生命」なりがあることは、間違いない。そのことのフシギをどう考えるか?ということだ。自分が考えたわけでもない「科学」を持ち出して、「答え」にしてみたところで、何か「おもしろい自分」が発見できるわけでもないし、他人も楽しくない、ということである。大槻ケンヂは何が楽しくて、そんな発言をしているのか。少なくとも「大槻教授」の方は、科学信仰者としてのスジガネがあり、論争によって「楽しんでいる」のは確かだ。とすると、奇妙なことに、ホンモノのアーティストは実は大槻ケンヂではなく、大槻教授の方なのだ。アーティストとは、「情熱的な関与」以外のなにものでもないからだ。
この番組の最後に、アリャマタ先生はヘンだと思われても、それを30年つづければ、まわりの人もそれを「おもしろいのかもしれない・・」と思うようになるので、絶対に30年つづけなさい、と言っていた。まさに「情熱的な関与」をつづけよ、ということだが、30年というのがミソだ。昔は10年、とよくいったものだ。だが、これはどっちかっていうと、10年同じことをやってダメならあきらめなさい、というように否定的に使われてきたのである。特にマンガを目指す人にはそういう言い方がされてきた。しかしこれは変な話で、あきらめてどーやってその先、生きていけばいいのか?ってことになる。そんなの知ったこっちゃないが、「身を立てる」ということがここに絡んでくるからそういうことになるのだ。しかし人を動かすエネルギーはその「情熱的関与」にしかないのだから、それで身が立つかどーかというのは二義的な問題なのであって、それが続けられるようにバイトでもなんでもすればいいだけのことなのである。第一義的な問題はその情熱的に関与していることを、人が「おもしろい!」と思ってくれるかどうか、ということだ。それに30年かかるよ、とアリャマタ先生は言っているのだ。ありがたいお言葉ではないか。
というわけで、下村論のタイトルも「精神世界」だし、心霊、荒俣、アニマ・ムンディ・・と妙にニューエイジ的なひるますである。当時と今のボクの違いは、この「ニューエイジ思想への気遣い」があるかどーか、というところだろうか。  

追記…というよりも、この辺の文章って、単刀直入に言って、濃厚にカワイアン(河合隼雄的ユング派、大泉実成氏の造語?)だってことだよね。で、恥ずかしいから、なかなかデータをアップしてなかったんだと思います。
でも今にして面白いと思うのは、カワイアン的に語ろうと、ラカン的に語ろうと、認知科学的?に語ろうと、哲学的に語ろうと、人の考えるコトってのは、そんなに変わっていないもんだなぁってことです。ホント、何一つ進歩してない。逆に言えば、そういうヨリドコロによって考え方が変わるようであれば、実は何も「考え」てなかったってことなんじゃないか?とも思うけど、…ね。(99.7.9)

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music
下村誠の「精神」世界(94.11.11)
雑誌G・U創刊準備号に掲載した下村誠プレ特集の記事「シモムラ・ワークス」より

下村さんの歌を初めて聴いたのは、いつだったんだろうか…。なんて言ってもそんなに古いことではない。 CD「ホーリー・バーバリアンズ」を初めて聴いたときの印象は、ひょっとしたら本人には意外かも知れないが、「これは精神世界だ!」というものだった。

「精神世界」というと超能力やUFOのことだと思っている人もいると思うので(笑)、一応勝手に定義してしまうと、「精神世界」というのは、「日常的な世界(現実)の背後に、濃密な意味のある(真の)世界が存在する」とした上で、その「真の世界」とは「精神」というか、「心」だという領域だという考え方だ。 まぁ、そういう考え方としての「精神世界」にもピンからキリまであるわけだが、そういう考え方は、まずもってこの「現実」を「真の世界」ではないとする点で、「背世界的」というか(分かりにくいので、言い換えると)非現実的というか、夢想的というか、厭世主義的というか、宗教的というか、ともかくこの世は気に入らないから「あっち側」(それはオタクの部屋であったりもするのだが)に行ってしまおうというような考え方を含むものだ、というようなイメージを持っている人もいるだろう。

しかし、私が下村さんの曲に持った「精神世界…」というのは、全くそういうものではない。それは、言ってみれば「真の世界」を求めるといっても、この現実を否定するのではなく、むしろこの現実を真にリアルなものとして受け取ろうというものだ。

つまり普段私たちは、現実を単なる偶然的でよそよそしい物質的な出来事として受け流してしまったり、また社会的な制度や秩序として捉えて目的化したり意味づけたりしている。もしも、そのように受け取られた現実のみが真の現実だと言われるならば、理屈では何も反対する事は出来ない。しかし、そのような現実がほんとうに「リアルな現実」と言えるものだろうか。たとえば、真に「リアルな現実」とは、すべてが自分自身にとってよそよそしいものなどなく、肯定的に、しかも生き生きと(自分にとって真にリアルに)感じられる瞬間、といったものではないのか。

もしもそういう瞬間が、何も一時の興奮状態などというものでなく、むしろ逆にそこで現れてくる世界こそ、「真の世界」だとしたらどうだろうか。とすれば「真の世界」とは何も宗教的な意味での「彼岸(あっち側)」なのではなく、いま・ここに生きている自分自身の「こころ」であり、「精神」ではないのか…。そして「こころ」とか「精神」というと、何か頭の中で考えたこと・意識的なこと、というようなイメージを持たれる方にもいるかもしれないが、ここでいう「精神」とは、内面的なものであると同時に、実在的なものでもある。いわばそれは現実の中に見いだされた「生命」そのものなのだ。

というようなことが、下村さんの曲に感じた「精神=世界」であり、「生命=世界」なのだった。それは突拍子もない印象かもしれないけれど、しかしそう間違ってはいないのではないか。というのも、下村さんの歌を聴く度ごとに、自分自身の中で、そういう「こころ」とか「生命」そのものを生きようという意志が喚起されてくる、という感じを受けるからだ。

生きる意味を 探すより
僕はありのまま 僕でありたい

旅人になろう
心に帆をかかげよう
(下村 誠「海への風」)

いましかない いましかない
確かに生きてるって
感じるのさ

君の心 輝いてる
君の心 続いていく
(下村 誠「虹の箱舟」)

実際にその音楽を聴いていない人に、こういう引用でどの程度伝わるか分からないが、いわゆる「精神世界」っぽい言葉、ニューエイジっぽい概念を巧みに取り込んだ音楽が多い中で、下村さんの曲ほどに、それを聴く人自身が、自分自身の「真にリアルな世界」への意志を喚起させられるような音楽は少ないだろうと思う。

こういう音楽はどこから生まれてくるのだろうか。下村さんは、だいぶ以前に書いた佐野元春についての文章でこう言っている。

「…そして彼は人間の生命の持つ限界を自分の力で覗いてやろうと思った。さらに彼は硬直した自分の意識をほぐし、変革し、拡大するためのきっかけをマンハッタンで発見したのだろう」(下村 誠「詩人の声」チャート3号所収)。

ここで言われている「硬直した意識」にとって現れてくる現実が、「意味のない日常的な世界」「よそよそしい物質としての世界」「制度によって目的化された世界」であれば、「変革され、拡大された意識」にとって現れてくるものが、真に「リアルな現実」であり、自分自身の「精神」「生命」としての世界なのだ。そして、ここで語られているのは、いわば「精神世界」が、開かれた瞬間の、「変容の体験」そのものなのだ。それは佐野元春に託されて語られてはいるが、形を変えた下村さん自身の体験でもあるに違いない。 自ら「真にリアルな現実」を創造し、持続していこうという「意志」を持つ者だけが、聴く人にもまた、そういう意志を掻き立てさせるような、そういう表現ができるはずだからだ。

話が大きくなってしまったが、下村さんについて書こうとすると、この点だけはどうしても避けられない。しかしまだ下村さんの曲を聴いていない方は、まぁ、肩肘を張らず、気楽にふれていただければ、と思う。下村さんはそれに応える単純ハッピーな面も持っていて、そこがまた不思議な魅力にもなっているのだ。

下村誠についての情報は「下村誠ホームページ」をご覧ください。

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think
意識の経験の学(92.3.31)
ペーパーメディア版「HIRUMAS VOL.9」より

【意識の姿形】

 意識とは「何かについての」意識であるように、ある作用の事であるのだが、いまこの作用自体に目を向けるならば、それがある姿形を持っている事に気付くだろう。それは鏡に映る自分の姿かもしれない。そしてそれは「自己意識」というようななにか抽象的なものではなくして、「自己イメージ」とでも言うべき具体的な「顔」と「体」を持ったものだろう。だろう、とは言ってみたが、はたして本当にそうだろうか。

 人間というものは「意識の姿をイメージしてください」なんて聞かれれば、その場で「イメージ」してしまうようなものだから、実際に意識が意識として作用している「その時その時に」それがどのような「姿形」をしているか、という事を知るには、実際にそういう意識が働いている現場に介入しつつ、心理を考察する、力動的心理学(精神分析)に尋ねるに限る。

 河合隼雄は次のように言っている。「西洋人の自我は男性像によって表わされる」。さらにこの男性像を見て行くと、それが「英雄」という姿を持つ事が分かる。「西洋の自我=英雄の意識は、竜殺しの神話に象徴されるように、自分を生み出した母と己れとを自ら切断し、明確な意識を持って、ものごとを裁断していく」。ここでオモシロイのは、この意識が男女という性差に関りなく、男性像という姿をとる、という事だろう。これは一体全体ホントなのだろうか。おそらくホントだろう、というのは、西洋人が明晰にモノゴトを認識し、キ然とした判断をくだし、法に従ってあるいは「神」に従って倫理的な行動をとる、という場合、その意識がマリリン・モンローの姿をしているとは、とても思えないからだ。私自身はマリリン・モンローの姿をした意識がそのように行動する事こそ、オモシロイと考える人間なのだが、事実はそこまで進んではおらず、逆にマリリン・モンローの肉体を持っていた彼女自身すら「男性像の意識」を持ち、そのように行動しようとしたのではないかと考えられる。そしてそれこそが悲劇だっのではないか。

 話を戻すならば、では「日本人」の意識はどのような姿をしているのか。「おそらく日本人の自我は「無」によって表わされる。あるいは無自我の状態にある」と河合は言う。これは予想どおりというかむしろ当り前で、すでに言われた西洋的な意識の姿形である英雄の特質、すなわち明晰な認識と毅然たる決断そして倫理的行動が、それこそ自立した自我の特質とでも言うべきものでもあってみれば、そういう特質を持たぬ日本人が「自我」がない、無自我の状態だ、と言われても仕方なかるまい。しかるにこの「無自我」たるや仏教でいう「無」の境地というものでは全くない。もしそうであれば、すべての日本人は悟りを開いているなんて事になってしまう。  明確な主体としての意識を持たず、かといって無の境地に達しているのでもない、としたら一体何なのか?といえば「単に流されている」のである。「流されている」だけでも、ことさらに「意識」なんてものを持たなくとも、「世の中の道理」さえわきまえていれば、何の問題もなくイキテゆける。これこそ道理というもので、江戸時代はそれが当り前だった。結局、日本人はまだ「江戸時代のまんま」なのだ。それではイケないのか?、江戸時代のまんまで何がわりぃんだよ、べらんめぇ、という意見も当然あるであろう。

 「江戸に心理はない」っていう有名な(?)お言葉がありますが、なぜそうなのか、という事は橋本治が「江戸にフランス革命を」で言っているように、江戸時代は厳格な身分制度によって存在が規定され、いわば「未来が禁じられ」ていた。夢を見て、この現在を変革していくという事が禁じられ、永遠に変わらぬ「江戸時代」という現在に縛り付けられていた。こんな所で「意識」だの「自我」だの持ってもしょうがない、それよりは世の中の道理、「実用」に従って生きたほうがイイ、というわけだ。という事は逆に言うと、「意識」だの「自我」だのってのは「未来を変革する」あるいは「切り開く」ための道具だって事になる。そして恐ろしい事にそうでないなら「意識」も「自我」も無用の長物という事になる。

 この事を読者はどのように受け止めるだろうか。私はこのように書く人間として執筆している場合はやはり「英雄」とまではいかぬが、ある種の「知者」とか「古老」のような者を「自己イメージ」として抱く者である。しかし常にそのような意識として行動しているわけではむろんない。むしろ私もまた通常はやはり一日本人としては「無」の形式の意識を持っている者なのである(当たり前だ)。というわけで「無」という意識形態を基盤に持ちつつも、未来というものを持ってしまった(あるいは持たざるを得なくなった)日本人はそこから様々な意識形態をとって行く事になるだろう。ここで引用した河合隼雄も非常に興味ぶかい「方向」を示している。興味のある方は「昔話と日本人の心」を参照のこと。ここでは昔話を素材として日本人の意識のありうべき姿を模索するという方法が取られているのだが、我々もこの日本人の意識の零度とでも言うべきものをスタート地点として次号より様々の意識形態を弄って行きたいと考える。その素材としては実際に健康に生きている人々に取材し、ただしその人間のプライバシーに踏み込もうというのでは決してなく、その人の意識の姿を経験するという方法による。すなわち意識の経験の学である。

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think
新・意識の経験の学(92.11.25)
ペーパーメディア版「HIRUMAS VOL.10」より

 前回(意識の経験の学)は日本人の「意識」の基本的な姿は「無」であるという事だったが、そこで言いたかったのは、かなり多くの人々は、基本的には「流れされて」生きており、そういう意味では「江戸時代のまんま」だ、という考えようによっちゃ、ひどく人をバカにしたような話なのだが、そういうわけでは全然ない。

 そこでは私自身が「無」の意識によって生きていると言っているわけであるし、だいたい全員が自我という意識を明確に持たねばならないなどという啓蒙思想を主張しているわけではなかった(これは、前回引き合いに出した河合隼雄氏にしてもそうで、日本人もまた西洋人のような「英雄」の意識を持たねばならない、などと主張しているわけでは毛頭ない)。問題は、意識的に状況を変革してゆく事、すなわち「自我の確立」というような所にはすでにない、というのが実は私の真意なのであるが、しかしこの事はすぐに誰とでも共通認識を持てるような事でもあるまい。

 例えば江戸時代には意識(心理)がなかったとか、大衆は「無」の意識で生きているなどと聞いて、我が意を得たりなどと小踊りするような人もいるのだが、そういう人はもちろん「意識がある」という事自体がエライ、「自我」がある事自体がエライ、というふうに考えているわけである。こういう人は根っからの、というか単純な「近代人」なのであって、「江戸に心理はない」などと聞くと、コトバそのままに江戸時代の人々には意識も心理もなく、まるでロボットのように「反応」して動いていたのだなどと解釈しないと気がすまないらしい。というのは冗談としても(実は冗談じゃなく、そう考えている人もいるのだが)、こういった「近代人」達にとっては、意識的であるという事こそ、自分達「人間」と、それ以外のモノとを分けるメルクマールとなっているのであり、つまり「意識」こそ「意味のある」ものであり、自我を確立することこそ究極の目的であり、ついでに言うと、自分の「意識」を「表現」した文学が「価値のある」ものとなっているという次第なのであった。

 さて、私もこのように文章を書いたり、ひとに見せたりという事をしていると、そのように「意識の充実」を以ってして価値とするような人々が仲間だと思って近寄ってくるわけだが、実際お付き合いをしてみれば、その彼我の差のあまりの大きさに唖然とするばかりである。確かに私もヒルマス創刊号以来、「意識を明確にする」という事や、論理を明晰にする、という事を言ってきた。だが、それはこのように自分の考えを外側に向かって表現するという事が、ひいては論理を明晰にする、という事につながる、という事を言っているのであって、書く事の目的がそのような明晰化ひいてはそれによる意識の「啓蒙」といったところにあるのではなかった。結局意識と論理を明晰にし研ぎ澄ますのは「思考のフィットネス」でしかない、という事を結論として揚げたのはすでに5年も前のことである。つまり「明晰化」とかあるいは「論理そのもの」といったものは、ある「他の」目的に接近するための「手段」でしかない、のである。ではその「目的」とはなんなのか。という事は言わないまま、ヒルマスはずっと休刊していたわけだった。が、言いうる事は言ってしまうべき時である。目的とはなんの大層なこともない「意味のある生命を生きる」という一言で言えてしまう事でしかないから、である。

 たしかに、意識によって立つ、という事自体が「感動的」であったり、「意味のある」事として体験される、という場合もある。私も含めて「地方出身の文学青年」といった者の多くがそのような初発の体験をベースとして出発しているに違いない。それは河合隼雄が「英雄の意識」について説明している次のような比喩に相当するものだろう。「西洋の自我=英雄の意識は、竜殺しの神話に象徴されるように、自分を産み出した母と己とをみずから切断し、明確な意識をもってものごとを裁断してゆく。」というように、母なる竜は我々にとっては、「家」であったり、地方都市であったり、無自覚なまま過ごしてきた自分にとっての「江戸時代」だったりしたわけである。そこから目覚めるという事は確かに「意味のある」事のように思われる。いや確かに意味があったのだろう。そのように目覚め、意識的に行動し、状況を変えようという事を80年代にやはり明確な意識で歌った佐野元春の「インディビジュアリスト」という曲は今だに私にとっては「意味のある」曲であり続けている。しかし当時から既に彼も歌っているようにどんな初発の感動も「やがてアンティークなリズムを奏で始める」のである。英雄の意識とて例外ではない。「一旦確立された英雄も年と共に次の英雄にその座を奪われる事になるので、常にそれは『進歩と発展』によって特性づけられている」というように、一旦自覚した個人は「自分を失わないように」次々に目標を打ちたててはクリアしてゆく、という進歩主義者となるわけであるが、そこに初めの感動があるかといえば、実は英雄の意識は「常に死と凋落に脅かされ」ているのである。そう言えばハイデガーは「現存在(人間)の根本情状性は不安である」と言っているが、それはまさしくと言うか、単にと言うか、西洋的、近代的な意識(英雄の意識)の特性を言っていたわけである。

 では何故そんな事になるのか、と言えば、そもそも「英雄の意識」が「切断する知性」を以って特性としていた事からして当然のごとくにそうなるわけである。近代人の意識はモノゴトを切断し、また自己と他を切断する。自己と他者との間にあるのは共感による調和てはなくして、法と契約による調整である。あるいはお互いの意味を重さの比べようもないものとして大切にするという態度ではなく、競走によるランク付けなのである。またモノゴトを切断的な知性によって見る、という事はモノゴトを分析し、吟味するという事である。これは「批判的な態度」という事である。批判的な態度というのは、自分という個人的な視点を出来る限りその場から引き離して見るわけである。これは共感的な態度によってモノゴトを体験し、感動するという「自分」に密着した態度、感情的な生活とは対照的である。そしてかつての初発の「自覚」に「意味」があったとするなら、それは個人的な、感情的なものであったはずなのだから、分析・批判する英雄の意識が、非個人的なものとなり、意味や感動といったものを失っていくのは当然であったというわけである。というわけで「近代的な自我」に目覚めたものが、そのような個人的、感情的な「意味」とは正反対の、無味乾燥した孤独な(というか独りよがりな)世界に陥ってしまうのは、なんという皮肉なのであろうか。

 しかしここではそのような近代的な意識を「批判」する事が、目的なのではなかった。批判は「手段」なのである。それは「意味ある生」という目的に対しての、というほど大袈裟なものではないのだが、少なくともものを考えるに当たっての基準とでもいったものをこれによってはっきりと揚げる事ができるだろう。我々は「無」の形態の意識を持っている。だがそれを「近代人」のように否定しようとする事はやめよう。そして我々は同時に現在に生きるものとして、近代的な意識=理性というものも持っている。それを神秘主義的に、あるいはのっけから何か宗教的な原理を持ち出して否定する事はやめよう。しかし「意味」のない事には「意味がない」とはっきり言う事にしよう。そしてまた近代的な理性のように道具として利用しうるものは、どんどん使う事にしよう。というような「基準」がそれである。

 「意識」というものが、ことさらに「近代的な意識」というものを指すのであれば、すでに「意識の経験」に意味はない。それは「反復」に過ぎないのだ。とすれば今や問題は「意識の外部」という事になる。というわけでとりあえず「意識の経験の学」を終了という事にする。

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think
意識の外部 悲しき近代人(92.11.25)
ペーパーメディア版「HIRUMAS VOL.10」より

 さて、それでは「意識の外部」というものをどう考えればいいのだろうか。一つの例として小倉智昭氏の言動を取り上げてみたい。彼は某TV局で「不思議な世界」といういわゆる超常現象、怪奇現象などをメインテーマとするトーク番組の司会をしている(92年当時のことである)。この小倉氏の「不思議な世界」は、司会である小倉氏が、そのテの事に関して否定的な見解を持ち、番組全体の論調としてはそのテの現象自体を否定したいという所に特徴があるのであった。見ていると、そんなに否定したいのであれば、番組自体を止めればいいのに、と(神秘主義者ではない私でも)思うほどに否定的なのであるが、さてある回では悪霊祓いという事がテーマで、奇病・難病に取り付かれた人が、御祓いをして貰う事によって回復するという例が何件か報告された。

 病気・災害を「霊」が引き起こすもの、つまり「霊障」として捉え、それに対して「除霊」する事によって解決しよう、というのがその論理なのだが、さてこの件に関して小倉氏は、霊が病気の原因なのではなく、御祓いが何か「精神療法的な」効果をもたらしたのではないか、という。確かに末期治療における精神的な要素の重要性があちこちで指摘もされており、精神的な効果によって病気が治癒するという考え方(自己治癒力という考え方)はかつての「病は気から」という諺を裏付けつつある。つまり常識となりつつある考え方であろう。しかし小倉氏はその「常識」に続けて、「除霊にはせっかく精神療法的なモノであるのだから、除霊者たちはむしろ『霊』なんて事を言わなければいいのだ、『霊』なんて事を言うから『まやかし』になってしまうのだ」という事を言うわけである。

 それではどうしろと言うのか。除霊者達はまず最初に「これは一種の精神療法的なものなのであって、科学的なものなんですけど、一応手続きというか、儀式として悪霊を祓う、なんていうお芝居を致しますので…」なんて事を断わった上で、除霊しろ、というのだろうか。もちろん全然そうではなくて、除霊なんていう「まやかし」はすべて廃止し(禁止し?)、除霊に行こうなんて人はすべて精神医療を受けるべきだ、とまでは言ってないにしても論理的に詰めていけばそー言っている事になるわけである。しかし除霊が精神療法的な効果を持ち、それによって病気が治ったという(小倉氏のものでもある)説を前提にしても(つまり除霊のプロセスというかメカニズムというかが、客観的に証明できるかどうかは別として)、その治った当人にとってはこれから行なわれる事が「精神療法だ」という前提の下ではなく、「除霊だ」という前提の下で「治った」のであり、治った当人は治ったという事実を「除霊によって治った」という説明によって受け入れている、という事こそ肝心な点なのである。つまり除霊というものに精神療法的な効果があるというのであれば、そのカギとなるのは、患者の「治療」(ここでは除霊)への積極的な関与という事だったのである。つまりは患者の側の積極的な(確信的な)関与によって生じたであろう自己治癒の力とでもいうか。それを指して精神療法的というのが正しいのかは別として、精神的なファクターによって、治ったのだとしたら、そういう事でしかないわけではある(もちろんここでは除霊がリアルに除霊なのだったという可能性は除く)。さて、ところがそのように除霊という局面で自己治癒力を発揮した患者に、今度は精神療法を説明して行なったところで、そのようなまでの積極的な関与が生じるかどうかは、保証の限りではない。つまり病気を治してしまうほとの強い関与への「鍵」となったのは霊とその御祓いというある種の体系的「知」だったのであって、精神科学というものではなかったからである。それをいとも簡単に代替可能なものであるとする小倉氏のような人々の前提となってる考えは「精神療法は科学である」というものであり、さらにはその科学そのものに対する無批判的な信仰であろう。

 科学としての医学は患者自身の関与に関りなく、それを一個の(主体性を持たない)物体として取り扱い、治す。これを操作主義といってもいいだろう。それは症状の違いは別として、誰にとっても同じ治療がなされるうる。つまり患者は代替可能である。そしてそれこそが、客観性というものであり、それゆえに医学は科学なのだ、という次第であった。しかしながら、このような考え方は医学の側の方からすでに疑問が出されてきている。精神療法(心理療法)においてはなおさらである。すなわち患者の側のコミットメント(関与)が治療において必須となる局面がある、という事はむしろ医学の側から発言されているのであるが、とすれば、真に切実なる問題とは、いかにして医学においてそのようなまでの切実なる関与を引き起こせるのか、あるいはそういう事は宗教にまかせてしまっていいのか、という臨床の現場における問題でしかないのである。ここではすでに、ただ単に除霊というものを取り上げて、それが科学か非科学かといった事を問題にするような段階の数段先の事が問題にされているわけである。

 問題のステージが既にそこまで来ている以上、部外者たる一介の科学主義者(科学に対して無批判的な信仰を持つ者)が「医学は科学だから、患者の関与はいらない」などと言っても、単なる無知として片付ければいいのではあるが、しかしこのように見てきたのは、そのような科学主義者=近代人を批判するためではなく、「意識の外部」へのアプローチの端緒を探るためなのであった。すでに見たように、近代人の意識とは、モノと自分を切断し、また自らも「自分」から引き離し「客観的な」位置に視点を置こうとするものであった。これは一見して「科学」とあい通ずるものがあるように思われる。実際私達が学校で習った科学とはそのようなものであった。では近代科学とは「近代的意識」によって作り出されたものなのであろうか。  確かにここに見たように、近代人(ここでは小倉氏)は、科学的知識を信奉し、前近代的知見に接すると否定し、攻撃するという類いの者なのだが、詳しく見てみるとその考え方そのものは特に「科学的」というものでもない、という事がはっきりしていた。近代人、近代的な意識はけっして「科学をして」はいないのである。つまり近代人は「科学する心」がないにもかかわらず、なぜか科学主義者である、のだが、では近代人が自分では信奉していると思っている科学とはなんなのかといえば、科学の「結果」としての知識である。つまり「真の科学」と言っては大袈裟だが、彼等のしていない事こそ実は「科学」なのであるとすれば、科学とは、ある「アイデア」と「思考(実験)」と「説得としての論理」という一連のムーブメントの事になる。そして近代人である我々はその結果としての知識のみを学校で科学として学び、当然のようにそれを安直に受け入れ、決してそのムーブメントそのものには「関与」しようとはしなかったわけである。そんなヒマはない、からではなく、そのような想像力(発想)がなかったからである。

 科学においても新しい知識の獲得(発見)には、科学者自身の情熱的な関与が必要であるという事は、マイケル・ポランニーが『個人的知識』で明らかにしているそうであるが、これも科学者になったつもりになって、その科学のプロセスをちょっと想像してみれば、その労苦に見合うだけの情熱の量というものがすぐに想像できるだろう。ポランニーの言っているのは、意外な事だが、科学と言われているような「客観的知識」も、科学者個人の知るための技能、そして知る事への情熱的な関与というものによって作られた「個人的知識」だ、という事なのである。しかし科学において個人的知識が「主観的」ではなくて「客観的」と受け取られるのはなぜか。それはこの個人的知識が、より全体的な構造へと関与し、それゆえにその知識を受け取る者にもまたその全体構造への関与を要求するからである、という(中村雄一郎の要約による)。ところがこの近代人においては要求されているところの関与がなぜかなされないまま、なぜか皆が科学主義者になってまう。近代的な意識にとって科学的な知見は受け入れやすかったからであり、ある時点まではそれは「整合的」だったから、と言えるだろう。しかし、これまで見てきたように近代人の信奉する科学と現実の科学と間に生じてきているズレが、さらに拡大していくならば(拡大していかざるをえないのだが)、関与を持たない「科学主義者」という者は消滅してしまう事だろう。

 というわけで「近代的な意識」の「外部」とは「情熱的な関与」なのである。近代人とは基本的に「醒めている人」なのであり、「関与」という事の持つ特殊な意味を認める事が出来ないのであるが、それは自分自身の事を顧みるならば、自己の基盤としての「関与」という事を直視しえない人、と言ってもいい。科学と宗教の対立という事がよく言われるが、深い(情熱的な)関与という事において見るならば、むしろ科学と宗教は似ているのである。それは人間と世界との関わる全体構造を捕えようという情熱なのでる。そしてそこで問題になってる人間とは誰とでも代替可能な他者ではなく、まさにいま世界へと関与している自分自身なのであり、その自分自身を知る、という事は、結局それこそが「生きる」という事の意味でもあるからである。そのようなムーブメントの存在をはっきりと知るとき、近代人というものを、ただただ「悲しい存在」と思うわけである。しかしここでさらに問題となるのは、それでは「情熱的な関与」なのであれば、なんでもいいのか、という問題であり、そこではじめて「倫理」という事が問題となる(逆にいうならば、恐ろしい事に全員が「近代人」であれば、この世に倫理という問題などありえない、という事である)。

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think
意識のいろいろ(92.11.25)
ペーパーメディア版「HIRUMAS VOL.10」より

意識の媚態
 意識の媚態とは何か。サザエさんである。つまり、あのあまりにも聞き慣れたあの声で、次のセリフを読んでいただきたい。

「来週もまた見て下さいねーっ、んわっぷぷ」

 この最後の「んわっぷぷ」は、最近は「じゃんけんぽん、うふふふふ」に差し替えられてしまい非常に残念ではあるが、本質が変わったというわけではない。

 その本質がつまり意識の「媚態」だというわけである。だいたい一般にはサザエさんの本質は「あわて者」とか「オッチョコチョイ」という所にあると思われており、それも間違いではないのだが、それだけでは国民的なキャラクターとなる事は出来なかったであろう。自分のドジさかげんが「売り」の番組にもかかわらず、「来週もまた見てくださいねー」と言える、この媚態、自分のプライドも何も捨て去った態度こそが、あらゆる階層の人々を受け入れて来たその秘密なのである。ここには「自分」を世界に対立させて、あれこれ取り繕おうとするあのうっとおしい「自意識」というものはない。 そーいうものがないのは、キモチいいのだ、と多くの人は気付いているのである。

 これを日本的な「無」の意識だ、と言う事はたやすい。しかし、問題はこのセリフを大きな声で言えるかどうかにある。

意識の変態
 意識の変態っていったら、これはもうオカマでしょう。オカマってただの変態であって、ことさら「意識の」なんていう必要はない、と考えてる人もいるだろうが、間違いである。

 例えば単に男が好き、という意味での変態(ゲイ)は愛する対象が普通からみると変だという意味では「趣味のヘンタイ」だと言えるのだが、彼等の意識そのものはそれによってなんらの変容を蒙っているというわけではない(蒙っているヤツもいるだろうけど)。だからゲイはデモをしたりするわけである。まさしく意識の発現として。

 またオカマに似たもので、単なる女装趣味者というものもいるのだが、女装趣味というものは単に「美しくなりたい」という欲望が高じたものである。美しい男というものはいるのだが、男が美しくなる「道」というかシステムというものは公式にはない。それゆえ走るというのが女装というものの真実なのである。そーゆう意味では女装する男の体や意識は男のままで構わないというものなのである。つまり女装する事とオネエ言葉を使う事の間にはなんら必然性というものはないのである。

 そこで意識の変態と言いうるのは、オネエ言葉を自分の基盤の意識とする人々なのである。もちろん「差別」しているのではない。ようは別の意識の可能性という問題なのだ。オネエ言葉というのは、何かというとそんなものは一言で言えるわけではないのだが、今回の文脈で言えば、近代的意識の「分断」とは異なる事ははっきりしている。あえて言えば強引なまでの「合意と許容」の精神とでも言おうか(でっしょーっ )。

意識の痴態
 これまで見てきた「媚態」とか「変態」とかは、たしかに近代意識ではない意識のように感じられるが、当然ここで、「日常的に媚態やオネエ言葉を使っている女というものはそもそも近代的意識がないのではないか」という女性=近代の外部論が登場するわけであるが、もちろん間違いである。前回もマリリン・モンローの意識がを「英雄の意識」だったという話がでていたのだが、今回『マドンナの真実』という本が主版されるに及んで、彼女の意識もまた激烈なまでに「英雄の意識」だったという事が判明した。マドンナよお前もか、というわけだが、もちろんそんな本がでなくても私には分かっていた。というわけで、どんなに媚態を作ろうとも、オネエ言葉で話そうとも基盤となる意識が近代的な、つまり「切断する」意識であるという事はあるわけである。だから女性を「外部」と考えるのは単なるサベツなのだが、ある人々にとっては女性をそのように捉える事は「女性を高める」事になるらしいが。

 さて前説が長くなってしまったが、意識の痴態が今回のテーマであった。意識の痴態といったら、これは「バカ」である。バカというのは知能指数の低さと一般には思われようが、間違いである。「バカ」とは意識の無防備さを表わす言葉にすぎない。例えばいま貴方が女性で好きな男にオネエ言葉でやたら媚態を使ってしまったとする。その事に「バッカみたい」と感じる人は多いはずだ。この場合の「バカ」が知能とは関係無いという事はいうまでもない。近代人というのは「バカ」と言われると異常なまでに怒るのだが、それはこのように無防備に意識がさらけ出される事が、自分のよってたつ「分断」という拠点を脅かされる事になるからなのである。実に下らない意識である。

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