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Vol.22 オムレット発売記念号(99.1.5-14)

■1年の計(99.1.5)
■オムレットの中身(99.1.6)
■プレゼントの中身(99.1.7)
■ノストラダムスの大予言の謎(99.1.8)
■明石先生の本と新たなハードボイルド(99.1.11)
■科学の倫理(99.1.12)
■オムレットがついに発売!(99.1.14)

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Vol.22
1年の計(99.1.5)
例によって遅ればせながら、今年もよろしくお願いいたします。
今年はなんといっても、「オムレット」がいよいよ発売となります。是非とも皆々様にごらんいただけますよう、心よりお願い申し上げます。
予定どおり15日以降、書店で購入することが可能となりますので、なにとぞ、お引き立てくださいませ。「発行広英社、発売丸善、書名オムレット」です。まずは年頭のごあいさつまで。
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オムレットの中身(99.1.6)
オムレット・ネタつづきでもーしわけないが、しばらくご辛抱ください。
オムレットの詳しい内容をいままできちんと説明していなかったのですが、広英社ホームページ内に公式な内容説明を掲載しましたので、そちらをごらんください。もちろんウェブでごらんいただいてる皆様には、もうちょっとくわしく、画像データもふんだんに、紹介していく予定ですので、しばしお待ちください。また、特別プレゼントなども用意してたりして・・(ふふふ)。
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プレゼントの中身(99.1.7)
「オムレット〜心のカガクを探検する」は「心とは何か?」をテーマにした学習マンガならぬ、ひるます流の「思考スル」マンガです。例によって、オムレットの詳しい内容はこちらに掲載しております。ぜひご覧ください。

というわけで、プレゼントの中身はオムレット特製、カラーポストカードにしようかと思ったんですが、個人的な企画で、印刷や郵送の予算がない(私は超ビンボー)上に、もらう方だってインターネットで住所を送信するのって結構イヤなもの。というわけで、ポストカード用のデータを公開して、それぞれダウンロードしてもらおうかと思ってます。(せ、せこい・・)というわけで、このデータは近日、掲載いたします。いちおう下の4点(見本)ができてますが、まだ増えるかも。


かわりといっては何ですが、「ひるます」の旧作が掲載されたG・U(グレートアンバランス)のバックナンバーに、この特製ポストカードをセットにして格安で販売する、という企画をたててみました。こちらはインターネットを経由せず、郵便局経由で申し込めるからね。これはG・Uのコーナーをごらんください。
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ノストラダムスの大予言の謎(99.1.8)
きのうのNHKの「クローズアップ現代」見た人は、ピンときたんじゃないかと思うけど、あの「恐怖の大王」って、よーするに「99年問題」のことじゃん。「99年問題」って例のコンピューター2000年問題の一種で、99とか9999ってのが、プログラマーが「停止」の記号としてプログラムに打ち込んでいるバアイがあって、日付で9が続くと、キカイがいきなり暴走したりするバアイがあるっていうのだ。で、今年でいうと、9月9日が、9999でヤバイわけね。で、この番組でその日付がプリントアウトされたのが映しだされてオッと思ったんだけど、「9. Sept.99」。つまり「99年7の月」じゃん。Septemberってもともと7番目の月って意味だもんね(英語の時間に習ったと思うけど、ジュライとオーガストに押し出されて本来の7の月が9月、8の月が10月・・となった)。ぞぞ〜。
ま、だから何なんだって話でもないんだけど、この99年問題ってのは、人工衛星に搭載されたチップなんかにも組み込まれてて、それが暴走すると人工衛星が落っこちてくるバアイもあるとか。つまりまさに「降りてくる」可能性もあるっていうんだよね・・。以上、どーでもいい「発見」でした。
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オムレットがついに発売!(99.1.14)
オムレットがついに発売となりました。まずは本屋さんで手にとってご覧いただけますよう、よろしくお願いいたします。マンガですが、たぶんビニール本にはなってないハズですので・・。
ホームページで公開している以上、当然のことではありますが、感想・意見・批評・非難など、どんなメールも歓迎いたしますので、よろしくお願いします。

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Vol.22
明石先生の本と新たなハードボイルド(99.1.11)
明石先生というのは、明石散人である。京極(夏彦)が師匠と仰ぐ人で、たまに京極堂(京極堂シリーズの主人公の中禅寺)が「明石先生が・・」なんていうセリフをいうシーンがある。最初は「東洲斉写楽はもういない」で、謎の人物として登場した。文献そのものをちゃんと読め、という文献の人である。この人の手に掛かると、いわゆる俗説はもとより、通説として学界で常識とされるような考え方まで、いかに文献を「恣意的」に解釈したものであるかが、暴き出されてしまう。

その明石先生が、京極の向こうをはってノベルスを出しているとは、最近まで知らなかった。それが講談社ノベルスの「鳥玄坊シリーズ」で今までに2作でている。2作目「鳥玄坊 時間の裏側」は出たばかりらしく、どこの本屋でもあったが、一作目「鳥玄坊先生と根源の謎」はどこを探しても見つからなかったので、しようがなく2作目から読んだのだが、これはオススメ。

ありていにいって主人公は右翼でホモなのだが、普通にイメージするものとはまったく違って、非常に知性的で知識も豊富、そして一番の普通の人との違いは、常に緊迫感をもって生きているというところだろうか。一瞬一瞬を、強烈なまでに集中して生きている感じ。この小説にはそんな男が、二人出てくのだが、そのためにこの二人の主人公が、まったく同じに見えてきてしまうのが、この小説の小説としての難点だろうか。しかし彼らがその集中力でもって生きる生き方を語る語りというのが、じつに哲学的深みがあって、凡庸ではない。これがこの小説の価値でもあるだろう(もう一つは 「明石先生」ならではの、歴史的知識の披瀝)。

はっきり言ってまったく新しいハードボイルドのスタイルをつくり出したといってもいいくらいだと思う。蛇足ながら、オレ流ハードボイルドの定義は、ようするに「ルール」を巡る物語、ということだ。自分でつくり出し自分に科した「ルール」が現実の中でどのように実現されていくかが、ハードボイルドのストーリーであり、そこから生まれるのが、ルールを巡る会話であり、名ゼリフであり、美学なのだ。そんなハードボイルドが、ヘミングウェイをのぞいておおむね軽く見られるのは、その「ルール」が、たとえば「男の美学」だとかいうような、ウスッペラのものでしかないからだ。いつしかハードボイルドはパロディの対象でしかなくなるのだ。

しかしその「ルール」が、たとえばハイデガーの「実存」や、安吾の「命がけ」みたいなものだったら、どういうことになるのだ?ということが、この明石流ハードボイルドだといったら、分かりやすいだろうか。ひきあいに出すのもなんなんだが、京極のシリーズを読んでいて不満に感じるのは、徹底して人物の精神がアイマイで、決してこのようなハードボイルド的人間が登場しないところだ。榎木津や京極は、そういう意味では人間と言うよりは「超人」として描かれている。

超人が出たところで、ついでに言うと、この明石先生の小説もまた「超人」をめぐる物語である。われわれ人間のあり方としては、一瞬一瞬を意識の集中によって生きる、つまり「生命を生きる」以外にないのだが(それが極致だが)、そうしてでさえ、それは「人間」としてのあり方にすぎないのだ、と明石先生はつきはなして見ているのだ。明石先生のいう超人とは何か、というのが、これがまた面白いのだが、それは本編をお読みください。いずれにしても、人間ってのは、いかに「生きた」ところで、はかなく、悲しく、哀れだということである。そんな人間をやさしく見つめる(ある意味ではいじわるく見つめてる?)明石先生の小説が非常に気に入ったのだった。

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Vol.22
科学の倫理(99.1.12)
ヨミウリの朝刊(99.1.12)で、科学史の村上陽一郎先生のインタビューが載っていて、科学、とくに生命科学分野で、倫理的な規制が作用せず、クローン人間実験などのような「暴走」が起きるのは、ようするに「科学者集団」が、たとえば医者や法曹関係者のように特定の「依頼人」という相手をもたず、社会から隔絶して発達してきたからだ、というようなことをいっていて、そういう科学の暴走を抑制するには、科学者が内部基準(自主規制みたいなもんか)をもうけると共に、われわれ社会が、そういう科学の動向を常に監視し、たとえば予算などによってその研究をコントロールするということ(ようするに科学に対するシビリアンコントロールってことか)をしていかなくてはならない、とおっしゃっている。

科学そのものの「内部」に倫理的な基準はない。それは「数学」を考えてみれば、いちばん分かりやすいが、1と2を足すのはいいが、割るのは、人の道にはずれるからいけない、なんていう「倫理」はどこにもないわけだ。だから社会との「接続」という局面でしか、「科学の倫理」というのは、想定し得ないというのは、たしかにその通りだ。しかし問題はその場合の「社会」というのが、「一つ」のものではないってことだ。そして、村上氏のいうように、科学が「個人」という特定の依頼人に関わるものではない、ということがからんでくる。

つまりある社会、たとえば日本では安楽死が禁止されているので、それが認められている某国(そんなものがあったとしてだが)に行ってやったとする。それがたいして問題にならないのは、やはりそれをつきつめてみれば、結局はその特定の人の個人的な問題だからだ。しかし人類を死滅させる細菌兵器をつくろうとして、ある社会、たとえば日本では禁止されているから、それが認められているある某国へ行ってやったとしたら、それはそれを作ろうとした特定の個人ではなく、全人類にかかわる出来事になってしまう。

したがって、こと「科学」ということに関して、「社会」との接続を倫理の根拠としなくてはならないのであれば、まずもって、それに関わる「社会」の側を一元的なコンセンサスのもとに統合しておかなくてはならない、ということなのだ。しかし現状はそんな流れすらないし、ある一つの発明が経済的利益を生む、ということになれば、国家の側はその開発競争を規制するどころか、奨励する側に回るだろう。さらに危険なのは、グローバル化した大企業が、どの国家の機制からもフリーとなって、開発を暴走させる可能性もある(まさに「新しい中世」である)。この状態では村上氏のいうような「予算配分」によるコントロールなどまったく無意味だろう。

別に悲観的に思っているのではなく、むしろそれによって「世界=社会」というカタチが見えてくればおもしろい、と思う。よく宇宙人という「外的存在」が登場しない限り、人間は地球国家として統合されることはない、などというが、科学の暴走がある意味で「外的存在」にまでなったのだと考えればそれもいいのではないか。

村上氏の話でおもしろかったのは、われわれ一般人が科学を監視し、規制するためには、まずもって我々が「物理学の難しい方程式などは知らなくてもいい」「が、自然探求の面白さを知り、それを土台に科学・技術を理解し、考え、発言し、責任を分担」できるように「成熟」していくことだ、というところだ。これにはまったく共感する。以前、大槻教授を引き合いに出して、「科学者こそアーティスト」だといったが、科学もまた人間としての創造行為であり、社会をはなれてはありえぬことを自覚することから始めなくてはならないのだろう。単に「科学」を信じている科学信仰者は、よーするに「何も考えていない」のであり、科学の何を規制すべきかも分からなければ、責任を分担することもできない、ということなのだ。カンジンなことは、「科学」に対応して「社会」が統合されたとしても、それは単に一元的な社会になるということではなく、それぞれの個人が考え、参加し、責任を持つ社会でなくてはならないってことなのだ。

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