明石先生の本と新たなハードボイルド(99.1.11)
明石先生というのは、明石散人である。京極(夏彦)が師匠と仰ぐ人で、たまに京極堂(京極堂シリーズの主人公の中禅寺)が「明石先生が・・」なんていうセリフをいうシーンがある。最初は「東洲斉写楽はもういない」で、謎の人物として登場した。文献そのものをちゃんと読め、という文献の人である。この人の手に掛かると、いわゆる俗説はもとより、通説として学界で常識とされるような考え方まで、いかに文献を「恣意的」に解釈したものであるかが、暴き出されてしまう。
その明石先生が、京極の向こうをはってノベルスを出しているとは、最近まで知らなかった。それが講談社ノベルスの「鳥玄坊シリーズ」で今までに2作でている。2作目「鳥玄坊 時間の裏側」は出たばかりらしく、どこの本屋でもあったが、一作目「鳥玄坊先生と根源の謎」はどこを探しても見つからなかったので、しようがなく2作目から読んだのだが、これはオススメ。
ありていにいって主人公は右翼でホモなのだが、普通にイメージするものとはまったく違って、非常に知性的で知識も豊富、そして一番の普通の人との違いは、常に緊迫感をもって生きているというところだろうか。一瞬一瞬を、強烈なまでに集中して生きている感じ。この小説にはそんな男が、二人出てくのだが、そのためにこの二人の主人公が、まったく同じに見えてきてしまうのが、この小説の小説としての難点だろうか。しかし彼らがその集中力でもって生きる生き方を語る語りというのが、じつに哲学的深みがあって、凡庸ではない。これがこの小説の価値でもあるだろう(もう一つは
「明石先生」ならではの、歴史的知識の披瀝)。
はっきり言ってまったく新しいハードボイルドのスタイルをつくり出したといってもいいくらいだと思う。蛇足ながら、オレ流ハードボイルドの定義は、ようするに「ルール」を巡る物語、ということだ。自分でつくり出し自分に科した「ルール」が現実の中でどのように実現されていくかが、ハードボイルドのストーリーであり、そこから生まれるのが、ルールを巡る会話であり、名ゼリフであり、美学なのだ。そんなハードボイルドが、ヘミングウェイをのぞいておおむね軽く見られるのは、その「ルール」が、たとえば「男の美学」だとかいうような、ウスッペラのものでしかないからだ。いつしかハードボイルドはパロディの対象でしかなくなるのだ。
しかしその「ルール」が、たとえばハイデガーの「実存」や、安吾の「命がけ」みたいなものだったら、どういうことになるのだ?ということが、この明石流ハードボイルドだといったら、分かりやすいだろうか。ひきあいに出すのもなんなんだが、京極のシリーズを読んでいて不満に感じるのは、徹底して人物の精神がアイマイで、決してこのようなハードボイルド的人間が登場しないところだ。榎木津や京極は、そういう意味では人間と言うよりは「超人」として描かれている。
超人が出たところで、ついでに言うと、この明石先生の小説もまた「超人」をめぐる物語である。われわれ人間のあり方としては、一瞬一瞬を意識の集中によって生きる、つまり「生命を生きる」以外にないのだが(それが極致だが)、そうしてでさえ、それは「人間」としてのあり方にすぎないのだ、と明石先生はつきはなして見ているのだ。明石先生のいう超人とは何か、というのが、これがまた面白いのだが、それは本編をお読みください。いずれにしても、人間ってのは、いかに「生きた」ところで、はかなく、悲しく、哀れだということである。そんな人間をやさしく見つめる(ある意味ではいじわるく見つめてる?)明石先生の小説が非常に気に入ったのだった。
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