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Vol.23 オムレットうらばなし号(99.1.15-23)

■手塚治虫の生命論とオムレット(99.1.15)
■横尾忠則快美王国へ行く(99.1.16)
■「京極夏彦読本超絶ミステリの世界」と「謎解き大菩薩峠」(99.1.18)
■やっぱり大槻教授はアーティストだった(99.1.19)
■悲しき理系女(99.1.21)
■「黙阿弥の明治維新」に泣く(99.1.22)
■告知関係(99.1.23)

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Vol.23
手塚治虫の生命論とオムレット(99.1.15)
オムレットはもうご覧いただけましたでしょうか?
ある方よりこの本は「心理学」ではなくて「哲学」だ、という指摘をいただきました。たしかに心がどういう動きをするかというような、いわゆる心理学的なレベルの話ではなくて、そもそもその心というのは何なんだという「哲学」レベルの話ですから、そうとられてもしょうがないんですが、でも哲学というとただ答えもなく考えていくという姿勢だけの問題になる感じがしてイヤなんですよね。抽象レベルがいきなりついていけないところへ行っちゃうとでもいうか。でも「心」という対象をきちんと定めた科学ってのは、ありうると思うんですが。いわわゆる認知科学とか認知哲学というのが、それにいちばん近いトコにはいるんでしょう。でも「認知」というとまたせまーい感じで、やはりここはズバリ「心の科学」といいたいところです。心の科学は心理学ではない。考えてみればオムレットのどこにも「心理学の本」とは書いてない。実は分類コードが「心理」になっているのだが、これは分類コードがこの本に関しては「哲学」と「心理」しかないからしょうがなく「心理」にしたまでのことだったわけで、ようするに分類方式がもう古いってことなのだ。

以上どうでもいい話でしたが、オムレットでは「心」というのは、結局「生命」のあらわれ方のひとつのあり方なんだって話になっていて(そーゆーふうには書いてませんが)、そういう意味では「哲学」というより、より限定的に「生命論」なんだって言ってもいいわけです(生命論についてはこのウェブでいろいろと書いてきたので、探してご覧ください)。と、いうことをこの日NHKでやっていた手塚治虫についての特番を見ながら思った。だって結論が同じなんだもん。これは手塚の残した「ファゥスト」の原稿を元にして、手塚の生命論を考えるって具合になっていたのだが、その「生命論」ってのは、よーするに関心事に集中して生きる時に人は生命を実感して生きることができるのであり、心や生命はそのためにあるのだ、ということでしょ。生命が生命のためにある、という循環論であり目的論であり、非科学的な考え方といえばそうなのだが、神がそうしたのだ、と言わず、生命はそのような目的論的なあり方として「現れる」という現象学的な言い方をしておけば、一応「科学」の範囲におさまるでしょう。というかオムレットではそういう立場をとっていて、手塚こそ盟友だったのだ、と失礼にも勝手に思いこんじやいました。

ただ生命の基礎をDNAというモノにおいていたり、クローン人間が単純に奴隷になるような魂の抜け殻みたいにあつかわれていて、やはり時代的な制約というのは感じましたが。でもそれはまさに時代の制約であって、手塚の制約ではない。誰だってそういう制約を超えることは出来ないし、超えていたらまわりの人が理解できるハズがない。「どんな理論であろうと、その時点での仮説でしかない」ことを常にアタマの片隅においておくことがダイジだと、クリシンも言っていた。

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Vol.23
横尾忠則快美王国へ行く(99.1.16)
ラフォーレで「横尾忠則快美王国」を見る。これがメチャクチャ面白かった。アートを見てワクワクする面白さを感じるということはそんなにないが、この面白さはある意味ではマンガを読んでるときの面白さだ。

展示場のつくりは、まずプロムナードというか回廊のようなところに、横尾さんの最近の連作「夢枕」がならんでいて、その膨大な数の「夢」を楽しんで見た後、円形のホールに入るとホールの外周を大きな油彩(霊的なテーマのもの)が取り囲み、中央にオブジェや横尾さんの日記が展示され、さらにその片隅にごく普通の銀座あたりの画廊での個展のごとくに横尾さんが座ってるという具合になっている。その中を自由に行ったり来たりして、イメージからイメージへと自分で連想を組み立てながら、つまりカラダを使って楽しめるという意味では、マンガを読んでるというよりは、マンガの中の登場人物になった感じの方が近いだろうか。しかもそこには作者たる横尾氏まで登場人物として参加しているわけだ。

そーいえば、先週だったか紀伊国屋ホールで「ピカソ」の映画とシンポジウムがあり、横尾さんや山口昌男さんが出てたのだが(私は見てないけど)、人に聞いたところでは、横尾さんはさかんに「ピカソの肉体感覚が」どーしたこーしたということを、さかんに言っていたとか。横尾さんといえば、「精神世界」というイメージがあったのだから、肉体がどーのというのは、らしくなく、違和感を感じたものだった(考えてみれば去年、マックのデザイン系雑誌で「肉体派」がどーしたという特集をやっていた)。しかし、この快美王国をみれば、そのギモンは跡形もなく消えてしまう。つまり絵を見ることが身体を使った快感として感じられるからだ。これは横尾さんが描いている時、というより創造している時の、肉体的な快感を共有しているということだろう。だからこそこのアートパフォーマンスのタイトルが「快美」でなくてはならなかったのだろう(テーマ的には「夢枕」というタイトルでもよかっただろうが)。

ちなみにここで描くことの快感、でなく創造することの快感、と言わなくてはならないのは、描くことの快感といってしまうと、どーしてもボディペインティングや即興アートみたいな、身体そのものに還元されるような快感をイメージしてしまうからだ。ぼくも昔、アートを「学んで」いたころは、どーしてもアーティスティックなものというのは、「手」そのものが生み出すような身体的なものなのでは?という観念にとらわれてしまっていた。しかしそんなものはまさに「アタマ」で考えたことなのであって、はっきりいえば絵を描くことに関して「身体そのものの快感」なんてものはないのだ。そうではなく、ここにあるのは「イメージが身体を通じて実現していく」ことの、つまり創造することの快感なのだ。

ということを思っていたら、横尾さんの「死の向こうへ」(PHP)という本に、肉体の快感についてのエッセイが載っていた。アタマで考えたアート(コンセプトアート)に人は感動しない、という(そういわれてみれば、ボクが昔イメージしていたのは「アタマで考えたプリミティブアート」ということになるだろうか)。ここで面白いのは、横尾さんが、人々の感動はむしろスポーツに流れている、といってるところだ。それはスポーツ選手の身体を通して、見る人も自分の身体を(想像的に)使って、感動を共有できるからだという。スポーツ、ことにオリンピックで人は大騒ぎするが、もともとスポーツが苦手なボクは「みんな、そんなにスポーツ好きだったっけ?」などと不思議に思っていたが、最近ではやはりスポーツを見て感動するという方に「流れ」てきていた。いずれにせよ、スポーツは意識の集中によって創造的に生きるという生き方であって、やはりこれも単に「身体的(物理的)」なものに還元できるものではない。横尾氏はそこを汲んで「スポーツはもうひとつの精神世界だ」といっているのが面白い。

しかしそう言う横尾さん自身のアートは、その「流れ」をちゃんとつかんでいる。いま最も感動できるアートのひとつだ。

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Vol.23
「京極夏彦読本超絶ミステリの世界」と「謎解き大菩薩峠」(99.1.18)
「京極夏彦読本超絶ミステリの世界」を読んだのだ(情報センター出版局刊)。著者は野崎六助氏で、なんとオレはつい最近、この人の「謎解き大菩薩峠」という本を読んだばかりだった(解放出版社)。この「謎解き―」という本がメチャクチャおもしろかったので、「京極本」も期待して読んだが、これは前著に比べると軽すぎて物足りなかったのだ。もちろん京極のものは対象がミステリであるから、ネタバレにならないように書かねばならないという制約が多いのはわかる。そこから来る軽さ・薄さは否めないとしても、この野崎氏の「読み」が鋭いことにかわりはない。

この人の鋭さに触れるには、やはり「謎解き―」を読んでもらいたい。「京極本」とはまるで別人のごとき、緊張感溢れる論調で、「読む」ということのすごさを思い知らせてくれる。しかしこれを楽しむにはまずは「大菩薩峠」(中里介山、最近はちくま文庫で出てる)を全部読んでもらわなくてはならない。ワシが読んだのは、なんと横尾忠則装画の時代小説文庫版。全20巻だったろうか。大菩薩峠は読もうと思えば誰でも読み通せる類の小説だが、確かに「読んで」いながら、自覚的にとらえ損ねていたものを、野崎氏はその「読み」によって浮かび上がらせる。それは「解釈」ではなく、まさにテキストそのものを「読む」ことによって、テキストに語らせるがごときコトだ。テキストそのものに語らせよ、というとなにやらポストモダンのごときだが、そうではない。(先だっての横尾さんにとっての「肉体」の話といっしょで)テキストという「もの」に還元するのではなく、テキストを通じて「創造されているコト」、それが漠然と読んだだけでは明瞭に焦点を結ばないから、それに焦点を当てる「補助」を与えるという作業が、彼の「読み」なのだ、といえば分かりやすいだろうか。

そういう「読み」からして、タイトルに偽りなく「大菩薩峠」の「謎」を「解いて」しまったところが、野崎氏のすごいところだ。「謎解き―」といったら、私にとっては当然のごとくに「謎解き罪と罰」「謎解きカラマーゾフの兄弟」(ロシア文学者の江川卓、新潮選書)だ。特に「―罪と罰」はまさに「謎」をといた画期的な作品で、以後「謎解き―」と謳う以上は、それなりのことをしなくては許さないという思いがある。今回、この「謎解き大菩薩峠」は図書館で見つけてたまたま借りたのだが、それもやはりこのタイトルに挑発されて「てめえ、ほんとうに謎を解いたんだろうな(こけおどしだったら許さん)」と思ったからなのだった。しかし、みごとにこの野崎氏はそれをやっていた。えらいのだ。

でその謎解きの手法が、テキストが何を語っているのかのフォーカスを浮かび上がらせるという方法で、それが面白いのは、そう言われたとき、それは何か新しいコトを彼から聞くという感じではなくて、すでに自分が読んでいる「大菩薩峠」の記憶が、それ自体で立ち上がって「すーっ」と焦点を結んでいく、という不思議な感覚を得ることになるところだ。つまり「そういわれてみると、あのことは、そういうことだったのか!」と思い当たる、あの感じである。

この面白さを味わうだけのためにも、大菩薩全巻とこの「謎解き―」を読む価値は十分にあるのだが、さらに面白いのは、野崎氏がこの「大菩薩峠」という作品に与える評価だ。そうやって焦点を結んだ大菩薩を、その時はじめて「この作品は何だったのか」と問うことになるわけだが、結論がもうブチ切れていて面白いわけだ。だが、それはミステリの鉄則からして言わないことにしておこう。なんといっても野崎氏は「謎を解いて」しまったわけで、この瞬間から「大菩薩」本編はそうではないかもしれないが、野崎氏の「謎解き―」の方は、一級のミステリ小説となってしまったからだ。

というわけで「京極本」だが、京極の本質解釈などは、完全にボクも同様に思っていたので共感したが、京極の提示する人間観についての解釈は、かなり異論があった(もっともこの本は「ミステリ」という面での解読に集中しており、京極の人間観については刺身のつま程度に考えているようだ)。いずれにしても読んでない人には全然わからない、キョーミもない話で失礼しました。

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Vol.23
やっぱり大槻教授はアーティストだった(99.1.19)
大槻教授の「「文科系」が国を滅ぼす」(KKベストセラーズ)という本が出ていて、私が前々から言っていた「大槻ケンヂが、ではなく、大槻教授こそが、ホンモノのアーティストである」という理論?が証明され、実にうれしい(別に大槻ケンヂなんてこの際どーでもいいわけだが)。

大槻教授が言ってるのは、文系のガクモンそのものがイカンというのではなく、文科系のいわゆる「エリート」たちが、実際にはなんら専門的な教育を徹底されないまま、シロートとして国や会社を指導した結果がこの大不況なのだ、という話なのだ。つまり文科系が、というより、文科系の不徹底が、国を滅ぼす、というのがこのタイトルの含意だ。

それで何で大槻教授がアーティストになるのかというと、理系・文科系いずれにせよ、学問を徹底しておこなうことが、プロとして現実に関わることになるのであり、ひいては現実の中で創造することになるのだという信念があるからだ。学問というとついつい現実とは関係のない抽象というものをイメージしがちだが、そうではない。解釈ではなく、新たな価値創造こそが学問の「目的」なのであり、その意味でこそ学問はアートと一体のものなのだ。大槻教授が理工系の学問と言えども、その「目的」とするところは「哲学」なのだ、というときにそれは表明されている。

大槻教授は、法学部経済学部に「文科系」の典型をみていて、そこの出身者が欧米における大学院(ロー・スクール、ビジネス・スクール)なみの教育を受けていないことを問題にしているが、これって文学部一般にも言えることではないだろうか。肝心なことは、理工科系が世の中にハードウェアとしての創造的な価値を提供するものだとすれば、当然、文科系はそれを徹底したときに、ソフト的な価値を創造するべきだということなのだ。それを全然しないで、接待や営業、広告力だけでどーにでもなると考えてきたところに、シロート文科系の堕落があったわけだ。

そういった創造的なこと、とくにブンガク的なことは、何も大学院で学ぶことではないのではないか、という考えが大半だと思うが、それは今の大学院のあり方が、現実からかけ離れているだけのことで、NHKの「面白学問人生」などを見るまでもなく、学問の先には、本当に創造的なことがあるのである。小説だって、資料(や実体験)なしで想いだけ書いたようなのは、今や読む気がしないでしょ?(念のために言っとくけど、大学院出なきゃダメっていう「形式」を言ってるわけじゃないよ。創造を目標とすれば当然ガクモンのカタチの方が変わってきてしまうってこと。具体的には小説家よりは、マスコミ、とくにジャーナリスト、編集者などにおける「創造性」の問題だろう。)

このことにちょっと関係するが、大槻教授の大学(教育)改革論で、専門を決めるのが遅ければ遅いほどいい、と言っているが、これには私は反対で、専門は早く決めれば早く決めた方がいいと思っている。結局専門が自分にあっているかどうかは、専門にどっぷりと入ってみなくては分からないからだ。そして早く決めるということは、それだけやり直しのチャンスを与えるということと対になっていなくてはならない。実際、時間的な問題からしても明らかにそうなるだろう。理想的に言えば、中高一貫によって、この間の教育機関を二年間縮め、そのかわり大学を修士課程までコミにして22才までに終わらせるのだ。これならやり直しをするリスクが、現在における院に進むと同程度になるし、なによりモラトリアム人口を抑制することで、高齢化社会における負担を減らすことができるのだ。この点、大槻先生にも再考いただきたいところだ。

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Vol.23
悲しき理系女(99.1.21)
理系はよくやっている。ほめてやれ、というのが、前回「大槻教授」を読んでの結論だが、ふとNHKの人間大学を見てたら、「群れる離れるの動物学」とかいうシリーズをやっていて、琉球大学の助教授とかいう女のセンセイが講義をしていた。これが猫のエサ場グループの行動や世代交代についての詳細な追跡調査をもとにしたもので、異常な面白さがあった。ちなみに私は「犬派」で、実は猫にはまったくキョウミはないので、ほんとうにこの調査内容自体が面白かったわけだ。それはいいのだが、このセンセイが暗いのが気になった。この人が、猫をひたすら追いかけて調査をし、研究発表のために猫のイラストを必死で描いたかと思うと、何か悲しくなるのだ。ファッションも研究室から駆けつけてきたみたいに白衣をはおっただけだし。たしかボクが学生の時にも、こういう理系女っていたよなー、というノスタルジーもあるのかもしれない。もうちょっと女としてのシアワセを生きてもいいのではないか?などというと、単なる女性差別発言だが、大きなお世話でふと思ってしまったわけだ。
しかし、そんなふうに日和ってはいけない。きっと猫を追いかけ、調査結果から新たなヒラメキを発見して、彼女は充実した生をおくっているのだ。そうにちがいない。人から哀れみを感じられるようなスジアイはないに違いない。
というわけで、せび皆様もこのセンセイを応援していただきたい。この「人間大学」を見て、出来れば応援のハガキを送ってやってくれ。でもホントにこの講義内容は面白いんだから。
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「黙阿弥の明治維新」に泣く(99.1.22)
泣ける論文、というのは久しぶりだが、これは泣けた。この本は著者渡辺保氏が、幕末から明治にかけての歌舞伎の作者、黙阿弥の全体像を再現しようと試みたものである。

まずスゴイのは、渡辺氏が当時の脚本から、その作品をまるで「見てきたように」、役者の息づかいが聞こえるがごとくに、再現するその迫力だ。途中、一カ所、「私も見たわけではないが」という但し書きがあって(見てなくてあたりまえだが!)、それまであまりにも自然に読みすすめたために、そこではたと「そうだよな、見てきたわけじゃないんだ」と改めて思わされるというくらいなのであった。

しかし泣くのは、その芝居の再現があまりに迫真的だから、というわけではない。あくまで著者がそれを通して、黙阿弥の全体像を描き出そうとしている、そのことに泣けるのだ。どういうことかというと、著者が描き出す黙阿弥像とは、江戸歌舞伎の最終ランナーでありながら、明治になってもとことん芝居づくりにとりくみ、新たな演劇をつくり出そうとした人、である。著者によれば、そこには歌舞伎が歌舞伎のまま近代劇に進化していく可能性があったのであり、現在の演劇のようにいったん歌舞伎という伝統を否定した上で、西洋の演劇を輸入したところから新たにつくり出し、一方に伝統という固定的なものとして歌舞伎を保存しておく、というあり方とはまた違った、別の世界がありえたのだ、という。しかし日本の演劇はそういう方向には進まなかった。進まなかっただけではなく、そのように努力した黙阿弥の業績を評価することもなく、むしろ江戸の伝統という枠組みの中に、押し込め、封印してしまっていたのだ。

そして著者は、丹念に脚本を読み込み、当時の役者の資料を駆使して、黙阿弥の演劇世界を再現することで、その封印を解き、全体像を提示するわけだ。これが泣ける。それは、オレが黙阿弥だったら泣いて喜ぶ、ということと同じだ。自分が何をやってきたか?を少なくとも一人は「分かった」ヤツがいたわけだ。もちろん黙阿弥は単に認めらなかったわけではない。むしろ死ぬまで超人気作家として認められつづけてきたのだ。しかし著者がその典型を永井荷風にみるような「黙阿弥=江戸の美学」という一面的な評価、認め方によって、その業績の全体は打ち消されてしまっていたのだ。(ふと思えば、これと同じコトを現代における宮崎駿において行ったのが、「運動の倫理」を書いた斎藤環ではないか(『文脈病』収録)。彼はまさに誰もが認める、今をときめく宮崎を、その全体像を提示することによって「擁護」してみせていた!)

さらに著者は「江戸の美学」という一面的な理解が、歌舞伎をドラマとしてではなくて、リズムや名セリフ(という部分)として鑑賞する現代の歌舞伎の鑑賞法につながっていると指摘している。これがまた黙阿弥は別として興味深いところである。

私も思い当たるのだが、まずは歌舞伎を分かろうとするときは、リズムに身をまかせるのだ。そうするととりあえず何かが「分かった」気になれる。これはお神楽とか伝統音楽なども同じで、かつてはレゲエ、いまアイルランドなどといっている人も同じだと思うが、よーするにリズムは世界共通の言語である、というように、とりあえず「分かった」気になれるものなのだ。それがその先の理解に入っていけるかどーかの「鍵」であったりする。しかし、それはいわば両刃の刃なのだ。つまり「分かってしまう」がゆえに、そこに理解が終わってしまう、ということでもあるからだ。奇しくも、美輪明宏様がご著書「人生ノート」で、黒人音楽が、音楽をダメにしたとおっしゃっている。黒人音楽はリズムにはじまりリズムに終わるからだろう。そこでは、リズムを背景に押しやり、ドラマ、つまりメロディと言葉(つまり「思想」)の融合としての「うた」が生まれる土壌がなくなるのだ。もちろんそこから、なおかついいものを生み出している人もいる、ということはまた別問題として、である。

歌舞伎に話をもどすと、リズムや名セリフには、それだけをドラマから切り離しても成り立ってしまう一種の陶酔感があるだけに、むしろ歌舞伎は意図的にそういうところに生きる道を見いだしていったのではないだろうか。だからこそ、黙阿弥以外の作品もいまや「切り売り」されて、ほとんど通しでは演じられない、のだろう。しかし、そうではなくて、歌舞伎はやはりドラマ=思想なんだ、ということこそ、著者が黙阿弥から受けとったコトだろう。歌舞伎=ドラマ=思想こそが「全体」であり、リズムと名セリフは「部分」なのだ。これはボクが、横尾論、大菩薩峠論を通してこの一週間言ってきたことと、実はまったく重なってくるコトだ。「部分」を通して実現される全体こそ、ボクらが見据えるべきところであって、部分に還元してことたれり、とするのは、「青年」の思想だとでもいうことになるだろうか。「黙阿弥の明治維新」は「大人の本」である。

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Vol.23
告知関係(99.1.23)
あいかわらず「鳥玄坊シリーズ」の一作目は見つからないが、高橋克彦(「炎立つ」の著者)との対談「日本史鑑定」(徳間書店)が出てた(明石先生の「鳥玄坊シリーズ」第2作「鳥玄坊 時間の裏側」についてはここ)。この「日本史鑑定」はまだ買ってもないのだが、立ち読みしたところではなんと「炎立つ」の「なぜ頼朝は奥州攻めをしたか」のアイデアは明石先生のものだったとか。明石先生はこれはフィクションではなく「歴史書」なのだ、と言い切っているが、ってことは・・(フフ、これについては後ほど)。

しばらくごぶさたしているが、ハシケンのライブが2月12日(金)、吉祥寺のスターパインズカフェである。超豪華メンバーをひっさげてのライブで、「しばらくハシケンから遠ざかっていた方にこそ見て欲しい」とのこと。ということは、ハシケン初心者にも見て欲しいということだろう。くわしくはチケットぴあにお問い合わせを。

そういえばしばらく「下村誠ホームページ」の更新を休んでいました。休んでる間に、NATTYレーベルでは「陣内絵里奈」という女性ボーカルのCDを出していた。また今年はお待ちかねの下村誠ソロアルバムが出る。ライブ情報もあるので、下村誠ホームページをごらんください。

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