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Vol.24 黄金の碁石号(99.1.24-2.4)

■宮台問題のその後(99.1.24)
■続・宮台問題のその後(99.1.26)
■教訓系(99.1.27)
■宮台問題〜最終章〜(99.1.29)
■偶然系(99.2.1)
■池田清彦「科学とオカルト」(99.2.4)

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Vol.24
宮台問題のその後(99.1.24)
忘れていたが、宮台問題のその後について。宮台問題とは「はたして宮台氏は社会解体を目論んでいるのか?」という問題である(くわしくはこちらをご覧あれ)

いま宮台氏は「これが答えだ」という人生相談ものと「よのなか」というシャカイ学についての本を2冊リリースしている。しかし私はこれはまったく読んでもいない。私が読んだのは、先日の読売新聞(ヨミウリのネタばかりでどーもすいません・・)で、例のドクターキリコ問題に触発された「ネット社会の病理」とかいうコラムのシリーズでのひとコマだ。これは著名人とか識者とか言われる人たちが、一コマずつコラムを書いていくものなのだが、このひとコマを宮台氏も担当したわけである。

ちなみにこのシリーズの一コマを五木寛之氏が担当していて、「病んでいるのは私たちだ」といかにも言いそうなことを書いていて、笑ってしまった。自分が病んでいるからって、高見から見物している方に、こっちまで病気扱いされたくない。「流されゆく日々」とかいっていたていたらくが、そういう病を生んでいるのだから「他力」とか言って開き直らず、精進しなさい、と言ってやりたいが、伝えるすべもない。これがネットの限界であり、健全性でもあるのだ。

一方の宮台氏は、ネットを「匿名性の社会」と規定した上で、そういうものは必要なのだということをのべ、なにか起きたときにプロバイダ側で捕捉できる体勢を整えればいいことだとしている。つまりあくまで「健全性」の枠内のものとみるわけだ。これは私も同意見で、前に「ネットは(あくまで)社会なのだ」ということを書いた。その上で「社会」なんだから、いい人もいれば悪い人もいるんだから、当然のごとくに気をつければいいのだ、と言ったのだ。これも実ハ宮台氏が同様なコトを言っているのだが、その言い方がオモシロイ。

つまりこれまでの「社会」は「みんな一緒」でなくてはならない「共同体」だったから、そこからはみ出すひとはいじめられたり、匿名グループ内で自分を表現しなくてはならなかった。しかし、これからの社会はそれこそ「いい人もいれば変わった人もいる」「それを認めた上で」一緒にやっていくという「共生の社会」だということを子ども達に教えて行かなくてはならない、としているのだ。で、「共同体」的なものが強いが、若者がなかなかそこへ入っていきにくい地方都市ほど、テレクラが多いのだという、なんか分かったような分からないような事例をあげているのだが、これを読むと彼が以前、社会性と反社会性ということで言おうとしていたものが明らかになってくる。

つまり社会とは「共同体」のことを言っていて、それに対する反社会性って「共生の社会」ってことなんだろう。なんか分かりやすすぎてばかばかしくも泣けてくるが、ちょっと待ってくれ。そんな「みんな一緒」ではなくて「いい人もいれば変わった人もいる」社会って、なんのことはない、今オレ達が生きてる現実がすでにしてそーじゃないの?私はいま半分フリーのような社員のような勤め人をしているが、もちろんちゃんとした会社員だったときもある。しかしそのときでさえ、「みんな一緒」なんていう世界はどこにもなかった。一度だけ若い課長に「社員旅行っていうのは全員参加じゃなきゃダメなんだ!」と言われたことがあったが、それすら主流派の意見ではなく、とうぜん参加しなくてもなんのお咎めもなかった。それが10年前の話である。

じゃー「みんな一緒の社会」ってどこにあるの?といえば、学校ぐらいじゃないの。しかもその学校でさえ、「みんな一緒に」上の学校に進ませてくれるなんてバカなことはないんであって、つまりこれは「タイマエ」でしかない。じゃー宮台氏のいう「社会」って、「学校」の、しかも「タテマエ」の部分、っていう狭〜〜〜い部分のことを言っているわけ?こりゃ確かに「ボクちゃん学者」と言われてもしょうがない(件の小田先生の記事の見出しにそう書いてあった)。生まれてこのかた「学校」しか知らない人が、学校だけをモデルに「社会」の概念を考えてただけのことではないか。

で、宮台氏も自分で噛みついてるのが「社会」でもなんでもなく、「タテマエ」に過ぎないことを実は知っているから、子どもに「共生の社会」を生きる術を教えて行かなくちゃならないなんて言ってるわけでしょ。結論はマチガイではないが、もういいかげんに「反社会」だなんだと、空疎な理屈をこねまわすのはやめてほしい。社会というガイネンすらまともに抽象できないのでは、学者とは言えないんじゃありませんか。

追記:よーするに宮台氏は「反社会」じゃなくて「反世間」と言えばよかったのね…(99.9.21)。

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Vol.24
続・宮台問題のその後(99.1.26)
前項で宮台問題について書いたところ、シンクロニシティというわけでもないだろうが、「ニッボンの知識人」という本(またしてもKKベストセラーズ)が届いて、宮台氏についてイロイロ書いてある。この本はスガ秀実、宮崎哲弥、高澤秀次の三氏による知識人論的な鼎談が半分、あとの半分は知識人61名をそれぞれ見開き2ページづつでコメントし通信簿をつけるというもの。

そもそも私はこの三氏のそれぞれの著作を読んだことがないので、この三氏の鼎談を読んでもいったいどーゆうスタンスで言ってるのかよくわからない。知っている話題をぜんぜん知らない人たちが喫茶店の後ろの席でぺゃくちゃしゃべってるのを聞いている感覚なんだけど、件の宮台氏については鼎談部分で宮崎・高澤両氏でまったく意見が分かれていて、にもかかわらず後半の通信簿部分ではベタぼめしているというわけのわからん本なのではある。

しかし明らかに通信簿コメントの著者(不明)は、強烈に宮台氏を支持していて、「宮台真司ほど手のつけられない誤解に晒されている知識人はまたとないだろう」と来て、彼への批判は「大概が的外れ」で、そうなるのは彼の「理論の全体を捉えそこなっていることに起因する」と来ている。おいおい、知識人というか、識者がTVや雑誌でコメントするのを聞くときに、我々はその知識人の「理論の全体」をいちいち把握して置かなきゃなんないわけ?「予習」しとけってのか?学校の授業受けてるわけじゃあるまいし(またしても宮台氏のまわりには「学校」のイメージがつきまとう)。何をねぼけているのか。宮台氏が「理論」を伝えたいなら、その理論が伝わるよーに、コメントする義務があり、「理論」を伝えたいわけではなくて、コメントをいいたいなら、コメントがコメントとして成り立つように語る義務があるわけでしょ?(余談だが、オレだって、「オムレット」全部読まなきゃ「ひるます」のコメントは理解できないなんてことがないよーに、書いてるわけじゃん。)

それはいいとして、通信簿著者の要約する宮台氏の「自己決定権論」なるものがまた笑わせる。ようするに社会の複雑系理論みたいなもので、社会的関係の中で何が原因となって個人の行為が生じるかがはっきり確定できない以上、個人の行為の責任はその当の個人が引き受けるしかない(当たり前だ!)。したがって、個人はあらかじめ「潤沢な選択可能性」に開かれていなければならない、というのだ(そりゃ結構なことだ)。

しかし「潤沢」と言ば聞こえがいいが、いったいどこまで「潤沢」にすれば、いいのかといったらキリがなく、潤沢にしなくてはいけないと言って、たとえば世襲によって伝わっていた伝統芸能の家の子どもをそこから引き離すことで「自己決定」させねばならないという逆の「悪平等」的なファシズムにさえなりかねない。つまり内容がない言葉でしかない。

なんでそうなるかといえば、選択可能性を自己決定権論という「権利」の問題にすり替えているからだろう。問題は、われわれは自分で選択しなきゃないところに常に、すでにいるってことであって、それを権利だなんていうからおかしくなるのだ。選択可能性を潤沢に拡大するなんて、「権利」の問題じゃなく、「努力」の問題に決まってるじゃない。ひょっとして甘ったれてるだけ? たしかにオレも親に「公務員になれ、公務員になれ」攻撃を受けて「自己決定」を放棄しそうになったこともある。しかし、親がそう言うのを「子どもの自己決定権を奪う行為だから禁止するのだ」なんてことになるのか?そんなバカな・・。そんなの「社会的権利」の問題じゃなくて、自分が親を説得できるかどーかの問題でしかないじゃん。ひょっとして、親に逆らえないから、社会的権利として認めさせようとしているのだろうか、この「ボクちゃん学者」は・・。

さらにだ。もしここで親に屈服して公務員になったとする(なったとするって、今や大変なんだろーなァ)。その人は「自己決定」や「選択可能性」を放棄したことになるのか?といえば、そんなことはないのであって、その状況で常に彼は新たな選択可能性に直面することになるわけだ。この前言っといた「やりなおし」(大槻教授の項)も含めて。つまり人間にとって「ス」の選択可能性なんてものはどこにもなく、つねにその現状において選択可能性が現れるのだ。そんなこと、宮台氏が前提としている社会の「複雑系」論からいってもあたりまえではないか。そんなものを潤沢にするなどというのが空論だ、というところに話は戻るわけだ。結局、前に書いた「共生の社会」でも同じだけど、宮台氏が分析的に社会を見るときには、それはさほどピントがはずれてないんだよ。でもそれをもとにして「反社会」だの「自己決定権」だの、現実に対してアプローチを開始すると、とたんに「空論」になっちゃう。そのことに自覚的になるべきだ、という話でした。

追記:自己決定権論については、それが法的なコトバと関わり合う文脈にしぼって語られるべき、ということであって、ここで言ってるのは、「なんでも法的なコトバで語れるというのは幻想だ」という一般論でしかないでしょう。これについては、ヘッドライン11号にちょっと書いてます。

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教訓系(99.1.27)
予告してました芥川賞受賞、平野啓一郎「日蝕」についてはイロイロ書いたのだが、あまりにえげつないので、久々に「でぃーぷ・ひるます」送りにします。不快感を感じてもイイ人だけお読みください。ついでに「でぃーぷ・ひるます」のロゴデザインを統一して変更しましたので、臆病な方もエントランスまでお入りください(笑)。ちなみにここの結論だけ書き抜いておくと、よーするに次のようなことである。
教訓:思いついたことは早くやろう。

このでぃーぷ・ひるます、では、去年書いた「リング、らせん、ループイッキ読み」という企画が載ってて、なつかしいが、最近はまた「リング」が流行ってる。今回は私としてもまったく怒ることなく、TVのリングは毎週楽しみにしている(映画の「リング2」は未見)。前回はかなり怒ったので、またぞろくだらんネタで儲けやがって!と怒っているかと思いきや、楽しんでいるのは、もちろん、これが「リング」という原点(原典)にピントを絞ったものだからだ。そう、私は前の時も、「リングは面白かった」と言っていて、イヤなのはあくまで「らせん、ループ」と持っていく作者の狭量な作為なのだ。そういう意味では今回の、意図的な「リング」への絞り込みは、むしろ「らせん、ループ」を否定しよう(なかったことにしよう)!という運動にも思えて気分がいいのだ。その結果として作者(鈴木光司氏)が儲かろうがどうだろうが、それは知ったこっちゃない。「リング」は傑作ホラーだけど、考えてみれば、ほんとうに単純な話で、そこらにある怪談ネタそのものだ。それだけに、かえって、何度見ても、何度作り直されても、面白いものになるというところがあるのだろう。つまり普遍的な何かがあるのだ。作者自身、これを創造したというよりは、このネタに「書かされてしまった」思って、作品を自分の恣(ほしいまま)にすることを断念するしかないのだ。
教訓:あまりに普遍的なことを書いてしまうと、その作品は作者のものではなくなってしまうが、もちろんそれでいいのだ。

でぃーぷ、といえば、ウチには「別ひ」という忘れられたコンテンツもあるのだった。この中の「どうぶつ実験コーナー」で、ウチの犬(シトリン)に、「おすわり」というところを「オズワルド」と言ってお座りするかどーか、という実験をやったという話があるのだが(面白いのでぜひごらんください)、その後日談。なんと、ウチの犬は「おすわり」と言っても「?」という表情をし、「オズワル!」と言わないとお座りしないよーになってしまった。とほほ。
教訓:動物を遊びの道具にしてはいけない。

あと、この「別ひ」では、「フェチ」のコーナーもあった。最近のオレのフェチといえば、例のNHK人間大学の猫の先生もそうだが、やはりなんといっても宇多田ヒカルだ。徳光の番組(大辞テン)で、藤ケイコの娘といってるのを聞いて、ガツンときた。というのは冗談だが、もちろん「Automatic」にしびれたのだ(オヤジかオレは・・)。
「automatic」っていうと、なんかロボットみたいだが、「ひとりでにそうなる」っていうくらいの日常語なんだろうな。ところがオレ的には、これが妙に心理学的?ガイネンとして響いてきて、それが新鮮でよかったのだ。つまりここにあるのは、ある事実やドラマといった個別的なコトではなく、好きな人?に出会うと、自分では意識も意図もしていないのに、心が「automatic」に動き出す、そのこと自体のフシギを歌っているごとくに聞こえたのだ(ホントにそーいうつもりかどーかは知らないが)。日本人なら、明らかにこれは「自然に」と歌うところだよね。
だから何だ?と言われると、どーということではないのだが、やはり「人間観」というか「心についての見方(のパラダイムというか?)」がすごく変わってきていて、心がなんらかの原理によって動いているということを冷徹に?見るような態度がごく普通に出てきているって感じなんだよね。しかもそれは必ずしも科学的・キカイ的なものではなくて、この「Automatic」の曲さながらに、情感ある、想像力にみちたものという感じで。というよりも、はっきり言っちゃえば、人間を人間たらしめている原理は「想像力」なのだ(クリシン)ということになるのかもしれないけれど。とにかく、悪い方向には行ってないのだ、ということを強く感じるわけです。
教訓:世界が変わっていくのは何も悪いことばかりじゃない。

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宮台問題〜最終章〜(99.1.29)
笑っちゃうような話だが、またもや偶然にも「<宮台真司>をぶっとばせ!」なんていう本が出てた。諸富祥彦氏と「トランスパーソナルな仲間たち」という人たちが著者で、発行/コスモス・ライブラリー、発売/星雲社となっている。サブタイが「終わりなき日常批判」で著者が「トランスパーソナル」ときたら、だいたい内容も想像がつくが、ニューエイジ系なんだろーなぁ。

ここで言ってきたこととはあまり関係もなさそうだが、考えてみれば「終わりなき日常を生きよ」と言ってた人が、サカキバラが出てきたとたんに「反社会」とか言い出すのも、そもそも変な話なのだが、「宮台問題」というのは、そういう分かりやすい矛盾点がごろごろしているだけに、それに気をとられると、何がなんだか分かんないってことになってしまう。

実際は単純な話で、宮台氏は現実がこうなっているから、こうすればいいじゃないか、ということを言っている、という意味での「現実主義者」だというだけのことなのだ。つまり学校や会社での「幻想」的な規範が崩壊してくる兆候を見つけると、その規範を解体せよ!というし、日常に意味を見いだそうなんて人が少なくなって、現実をゲームのように生きる人たちが増えてくると、人生はゲームなんだから、世の中のルールを知って、上手く立ち回ればいいだけのこと(「よのなか」って本ってそーゆうことじゃないの?)と言うわけだ。べつにたいしたことではない。これが何に似ているかというと、マーケティングの人に似ているのである。あるいは怒られるかもしれないが、80年代のフェミニストに似ているのである。つまり人の尻馬にのって、前衛(時代の先端)ぶる、というヤツである。

それに対して、このニューエイジ系の人々のように、そうじゃないはずだ!(人生には意味があるはずだ)と思う人も多いだろうが、べつに理屈ではなくて、そんなことは当たり前のことであって、宮台氏に「日常を生きろ」なんて言われるスジアイはない。逆に日常を生きてるヤツは、とっとと日常を生きていて、金儲けなりなんなりでうまく立ち回っているのだ。つまりこの人達だって、あえて宮台氏に「日常を生きろ」と言われるスジアイはないわけで、じゃあ誰がスジアイがある人(宮台の読者)なのか?というと、まわりの人たちの影響がつよすぎて自分がよく見えなくなってる人、ということになる。

そうであれば、宮台の著作というのも、それなりの意味があって、それで問題が整理できた、と思う人もいるということになるだろう。しかしそこに「主張」と勘違いさせるような要素があるがゆえに、妙なことになるわけだ。勘違いといっても、実際、宮台氏は「主張」のように語るわけだから、しょうがない。だからその「主張」はおかしいぞ、と前回からしつこく言ってきたのだった。つまり、「宮台は何も主張せず、ただそこにある」、と思えばそれでいいのである。

追記:もちろんこれは「〜氏をぶっとばせ」と言ってる人に言ってるだけです。前項の「続…」にしてもそうですが、宮台氏本人ではなく、外野の人の言説に挑発されて攻撃的に発言してますが、そもそもの僕の立場は最初の「宮台問題」に書いたように、宮台擁護(大きなお世話だけど)にあるのです。また現時点では、宮台氏のさまざまな議論は、非常に現実とかみ合ってきていると思います。奇しくも?「宮台真司とその思想」というHPのリンクコーナーに私の発言として掲載していただきましたが、「そう考えてるなら最初からそー言ってよ。」というのが正直な気持ちです(その後の宮台氏についての議論は「ヘッドライン」で続いてます)。基本的には、今は宮台氏にはいろいろ教わっているなぁ、という意味で感謝しているというところです(99.10.2)。

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Vol.24
偶然系(99.2.1)
またもや偶然にも「<宮台真司>をぶっとばせ!」なんていう本が出てたってことは、ここに書いたが、さいきんは偶然が続いている。

伝聞だが、東大学長蓮実重彦氏が、「学歴社会を守りたい」とか「真のエリート教育」が必要だとか、言って、結果的に大学院の教育を充実したいというようなことを言い出しているとか。なんで「いま」そんなこと、言い出すんだろう?と考えてみれば、大槻教授の本読んだんじゃないか?って思っちゃうよね、あまりのタイミングに。東大学長が恥ずかしくてそんなこと言えないだろうが、カッコつけてないで、ぶっちゃけた話したほうがいいんじゃないでしょうか。

きのう日テレの「特命リサーチ200X」見てたら、「天才のひらめき」がテーマで、菅野美穂が「ひらめきって何だろう?」というシーンから始まるのだが、わが「オムレット」には「ヒ・ラ・メ・キ!」という章があって、私はここに登場する珠緒さん(登場人物コーナーをご覧あれ)が、ひそかに菅野美穂似だと思っていたので(誰もそー思わないだろうが)、個人的には「偶然の一致」的な出来事だった。しかも、最後が(ひらめきを得るために)「ょーし!興味のあることに集中するぞ!」というセリフで、これも「オムレット」と妙に重なるのだった(考え方のナカミ的には全然重ならないけど)。だから何だってこともないのだが(宣伝の一環です)。

偶然といえば、G・Uアベニューの鈴木さんのページが久々に更新になってますが、宇多田ヒカルについて書いてました。(偶然、というか、ハヤリだからねぇ。)鈴木さんのページというと、ドラマのレビューがずーっと続いてるけど、今回は「金太郎」について書いてます。ぜひご覧ください(ちなみに私の宇多田ヒカル論?はこちら)。

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池田清彦「科学とオカルト」(99.2.4)
「リング〜最終章〜」がいよいよ盛り上がってきたが、長瀬の文化人類学者が、黒木瞳の病理医に、「あなたは現実を切り取ってきて記述しているだけだ」と言い、呪いで人が死んだ原因を、心臓麻痺から心臓の血管内に出来た肉腫、その肉腫をつくり出したウイルス、と遡っていっても、結局、そのウイルスが「なぜ」生じ、呪いを実現してしまったか?という究極の問いには答えられない、と指摘する場面が面白かった。これを単なるオカルト屋、神秘主義者のタワゴトと考えてはならない。生物学者の池田清彦さんも最近出た「科学とオカルト」(PHP選書)の中で、同様なことを言っている。科学とは、通常考えられているように「因果関係」を明らかにするものではなく、何度でも起こりうることがらの「関係」を記述しているだけであって、一回性の出来事の「原因」を言い当てるものではない、というようなことを言っている。

ここで言えばなぜ、他のではなく、「その」ウイルスが発生したのかという、一回限りの出来事を「科学」は説明できないということだ。進化一般があると科学は言えるとしても、「その」進化がなぜ起きたのか?を言うことができない。せいぜい状況証拠を並べられるだけだが、状況証拠だけで「その」進化を決定づけることは出来ないだろう。もちろんだからといって、その「原因」を安直にオカルトに求めるしかないのだ、ということではない。

結局のところ、それが一回切りかどーかは神様しかご存じないのだから、オカルト的な「答え」を否定した上で、その出来事を追求していく、というところに科学のダイゴミ(ダイナミズム)があると言ってもいいわけだ。つまりオカルトの否定はこのダイナミズムがあってはじめて意味があるのであって、後につづくダイナミズムもなしに、ひとつの「答え」としてオカルト否定が来てしまうものを、私は軽蔑する、と言ってきたわけだ。ようするにそれでは、単なる信仰という意味で神秘主義者とおなじものなのだ(ちなみにそういうダイナミズムとしての科学に情熱をささげる人々をアーティストとしての科学者、と言ってきたわけだ)。

しかし肝心なことは、自然現象とちがい、ワシらの心の動きや考え、行動などは、神様に聞くまでもなく、つねに「一回限り」の出来事だってことだ。てことは、科学はこの「心」というものの一回限りのヒラメキを決して説明できないってことでもある(「オムレット」では「説明」しちゃったけど・・)。それを理解するにはどうするか?っていうと、この「科学とオカルト」の面白いところは、錬金術に代表されるオカルトを、単にオカルト的な「答え」を信じる者としてではなくて、錬金術という行為によって、「一回限りの」「かけがえのない自分」を探求するものとして捉えたところだ(ユング派なんかは昔からそーゆうことを言っているけど、ユング派の場合、錬金術という具体的な行為そのものに関心が向かい、袋小路に入ってしまう)。つまり単に「答え」としてオカルトを持ち出すのではない、「オカルト」の肯定面がそこにあるのだ。

問題はあくまで、ボクら自身の「かけがえのない一回性」とどうつきあうか?ってことでしかないのだ。とすれば、科学そのものが現在どのようにルーティン化され、産業化されようとも、その中で、かけがえのない自分を見いだすことは可能だろう。というより、対象は何でもいいのだ。それが安直に「答え」をくれないから、オカルトに走る、ということ「だけ」が間違っているのだ。

しかし実際の科学は産業化され、逆に人間の生命までを「コントロール」しようとするまでになっている。つまり昔のコトバで言うと、人間が「疎外」されている。この本のひとつのテーマはそこにあるはずだが、その点の記述はあまり多くはない。なんて思っていたら、この本でもひきあいにだされている森岡正博氏(「宗教なき時代を生きるために」)の新刊「現代文明は生命をどう変えるか」という本が出た。これについてはまた後日。

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