宮台問題のその後(99.1.24)
忘れていたが、宮台問題のその後について。宮台問題とは「はたして宮台氏は社会解体を目論んでいるのか?」という問題である(くわしくはこちらをご覧あれ)。
いま宮台氏は「これが答えだ」という人生相談ものと「よのなか」というシャカイ学についての本を2冊リリースしている。しかし私はこれはまったく読んでもいない。私が読んだのは、先日の読売新聞(ヨミウリのネタばかりでどーもすいません・・)で、例のドクターキリコ問題に触発された「ネット社会の病理」とかいうコラムのシリーズでのひとコマだ。これは著名人とか識者とか言われる人たちが、一コマずつコラムを書いていくものなのだが、このひとコマを宮台氏も担当したわけである。
ちなみにこのシリーズの一コマを五木寛之氏が担当していて、「病んでいるのは私たちだ」といかにも言いそうなことを書いていて、笑ってしまった。自分が病んでいるからって、高見から見物している方に、こっちまで病気扱いされたくない。「流されゆく日々」とかいっていたていたらくが、そういう病を生んでいるのだから「他力」とか言って開き直らず、精進しなさい、と言ってやりたいが、伝えるすべもない。これがネットの限界であり、健全性でもあるのだ。
一方の宮台氏は、ネットを「匿名性の社会」と規定した上で、そういうものは必要なのだということをのべ、なにか起きたときにプロバイダ側で捕捉できる体勢を整えればいいことだとしている。つまりあくまで「健全性」の枠内のものとみるわけだ。これは私も同意見で、前に「ネットは(あくまで)社会なのだ」ということを書いた。その上で「社会」なんだから、いい人もいれば悪い人もいるんだから、当然のごとくに気をつければいいのだ、と言ったのだ。これも実ハ宮台氏が同様なコトを言っているのだが、その言い方がオモシロイ。
つまりこれまでの「社会」は「みんな一緒」でなくてはならない「共同体」だったから、そこからはみ出すひとはいじめられたり、匿名グループ内で自分を表現しなくてはならなかった。しかし、これからの社会はそれこそ「いい人もいれば変わった人もいる」「それを認めた上で」一緒にやっていくという「共生の社会」だということを子ども達に教えて行かなくてはならない、としているのだ。で、「共同体」的なものが強いが、若者がなかなかそこへ入っていきにくい地方都市ほど、テレクラが多いのだという、なんか分かったような分からないような事例をあげているのだが、これを読むと彼が以前、社会性と反社会性ということで言おうとしていたものが明らかになってくる。
つまり社会とは「共同体」のことを言っていて、それに対する反社会性って「共生の社会」ってことなんだろう。なんか分かりやすすぎてばかばかしくも泣けてくるが、ちょっと待ってくれ。そんな「みんな一緒」ではなくて「いい人もいれば変わった人もいる」社会って、なんのことはない、今オレ達が生きてる現実がすでにしてそーじゃないの?私はいま半分フリーのような社員のような勤め人をしているが、もちろんちゃんとした会社員だったときもある。しかしそのときでさえ、「みんな一緒」なんていう世界はどこにもなかった。一度だけ若い課長に「社員旅行っていうのは全員参加じゃなきゃダメなんだ!」と言われたことがあったが、それすら主流派の意見ではなく、とうぜん参加しなくてもなんのお咎めもなかった。それが10年前の話である。
じゃー「みんな一緒の社会」ってどこにあるの?といえば、学校ぐらいじゃないの。しかもその学校でさえ、「みんな一緒に」上の学校に進ませてくれるなんてバカなことはないんであって、つまりこれは「タイマエ」でしかない。じゃー宮台氏のいう「社会」って、「学校」の、しかも「タテマエ」の部分、っていう狭〜〜〜い部分のことを言っているわけ?こりゃ確かに「ボクちゃん学者」と言われてもしょうがない(件の小田先生の記事の見出しにそう書いてあった)。生まれてこのかた「学校」しか知らない人が、学校だけをモデルに「社会」の概念を考えてただけのことではないか。
で、宮台氏も自分で噛みついてるのが「社会」でもなんでもなく、「タテマエ」に過ぎないことを実は知っているから、子どもに「共生の社会」を生きる術を教えて行かなくちゃならないなんて言ってるわけでしょ。結論はマチガイではないが、もういいかげんに「反社会」だなんだと、空疎な理屈をこねまわすのはやめてほしい。社会というガイネンすらまともに抽象できないのでは、学者とは言えないんじゃありませんか。
追記:よーするに宮台氏は「反社会」じゃなくて「反世間」と言えばよかったのね…(99.9.21)。
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