世間と他者性〜大澤真幸「戦後の思想空間」(99.2.14)
まえまえからヘンだと思っていたのである。この本、大澤真幸の「戦後の思想空間」。しかし大澤さんといえば、当代随一の秀才?、とにかくアタマのよさそうな文章を書く人であるから、まちがって突っ込むと、大恥をかかされるのでは、という日和見から、今まで黙っていたのである。しかし、この前の若森氏の「裏切りの哲学」についてコメントしているうちに、はたと気づいてしまった。それを書いておくことにしよう。
大澤さんが言っているのは、僕らが「自由な」行動をするためには、あらかじめその行動を選択している超越的な他者がいなくてはならないが、現在はその「超越的な他者の座」(かつては天皇制や、アメリカ的民主主義の理想がその座にあった)が、空位となっているために、困難をかかえてしまっている、というのだ。その空位を無理やり埋めようとしたのが、ファシズムであり、オウムだ、という話になる。で、僕らとしては、空位を無理やり埋めるのではなくて、空位を空位として引き受けつつ生きて行かねばならない、という極めて「終わりなき日常を生きろ」的ハナシになっているのだ。
誰でもふとヘンだと思うのは、自由な行動をするのになんでイチイチ「超越的な他者」なんてもんが必要なのかってことだろうが、大澤さんは、よーするに行動に先立つ主体、意志の発動者としての主体はありえないという(オムレットで言えば第3章のハナシ)ことからして、あらかじめ選択を行っている他者=超越的な他者ということを言うわけで、その理屈を追っていくかぎりでは、それほど奇妙なハナシではないのだ。ところが、それが「空位だ」とか「空虚だ」という嘆き節じみてくると奇妙に思えてくるわけだ。
というのは、空虚だ空虚だというからには、空虚ではない何か実体的というかメイカクなカタチをもった「他者」というのがあらかじめ決定しているのか、あるいはその決定自体が、明示的というかハッキリしたカタチをもっていることが、前提されているかに思われるからだ。しかし行為や考えの発動に先立って、そんな「メイカクな」ものがあるはずがないのだ。それは自己=主体であれ、他者であれ同じ事であって、そんな「メイカクなもの」が先立っていたら、そもそも「行為の選択ができない」はずなのだ。逆に言えば、そのような超越的な他者の座があるとして、それが「空位」であるのは、あたりまえ、空位でなければならないのだ。これは若森さんの議論を経てきてみれば極めて当たり前のことに感じられるハズだ。繰り返し引用すれば他者とは「僕そのものでありながらも僕からは無限の距離を隔てた」ものであり、「どこにもない、しかし至るところに偏在する、決して正当化されない」ものだからだ。
さらに若森さんの回での議論をふまえて言えば、「他者」なるものが、不在ではなくて、メイカクなカタチをもったもの(つまり「正当化されたもの」)だとすれば、それは我々の行動や考えによって「裏切られる」対象としての他者にすぎないことになる。つまり、ある限定的な文脈を代表するような「他者」なのだ。そして、それによってあらかじめ明晰化されたカタチを、ただ我々が繰り返し、フォローするだけの存在であれば、なんのことはない我々は単なる人工知能にすぎないってことではないか。
そうなのだ。あらかじめ文脈としての「他者」が決定され、メイカク化されなければ、行動できない、創造もできない、というのであれば、人工知能なのだ。それを自分で決定できないからこそ、人工知能においては「フレーム問題(オムレットの「蛇足2」にもコメントあり)」が起きるのであり、人間においては、そんなものを決めてもらわずとも、自分で決定しうるがゆえに、フレーム問題は起きないのだ。
大澤さんにおいて、なんでこういう混乱が起きているのか? 大澤真幸は人工知能なのか?というのはたちの悪い冗談だが、結局は「他者」を直視せず、それを常に外部に求めてしまうからではないか。だいたい「他者が不在だ」という泣き言を聞いたとき、即座に思ったのは「なんでそんなに誰かに甘えたいの?」ということだった。ま、これは余談だが。
この本で、はじめに「他者」が出てくるのは、丸山真男についての議論だ。近代とは何か、「作為」の論理であるっていうハナシ。「作為」というのは、「自然」に対する作為であり、日本というのは基本的に「自然」の論理でやってきた。それが近代になって、「作為」の論理がでてくる。で、その「作為」とは何なのかというところで、これは丸山氏ではなく、大澤さんの考えだと思うが、「作為の論理は自分の内部で二重の立場が重層しており、そのことによって自己が主体化していること」によって可能になるというのだ。つまり「自己が現にそうなってしまうところの、経験的な事実」すなわち「自然」に対して、「選択的にかかわる他者の立場が、自己自身に内部化して」、そのうえで「内部化した他者の立場から、自己の事実性を制御する」ことが「作為」なんだというわけだ。一読しただけでは分かりにくいが、やはり能動的な主体=自我というものを、「他者の視点」に言い換えたものと、考えればわかりやすい(そのような「他者」が「主体化」すると言っているわけだ)。
しかしである。ここですでに混乱があるように思うのは、まず「自分の内部で二重の立場が重層しており、そのことによって自己が主体化していること」は、「作為」の側にだけ成り立つのか?ということだ。近代以前は「自然」だといわれるが、その場合、人はだれも「主体化」せずに、自然のままでこのような日本史がつくられてきたというのだろうか。そんなはずはない。人工知能のつくり出すシミュレーションじゃあるまいし。「自然」の論理で生きている人だって、ちゃんと同じ意味で「他者を内部化し、主体化」していたはずだ。ではなにが違うか?といえば、その他者が「選択的にかかわって」いるかどうか、という点だろう。近代以前では、選択するまでもなく、おうおうにして「答えが決まっている」からこそ、他者の視点で行動しても、現にある自分と矛盾することはない、したがって「自然」なのだ。近代以後は「答えが決まっていない」からこそ、現にある自分との矛盾(緊張)が起こる、すなわち「作為」がおこる余地ができるわけだ。たいした違いではないのではないか、と思われるかも知れないが、そこまで言わないからこそ、次のような混乱がおこるのだ。
つまり、このあと実際問題として、この作為の論理を成り立たしめる「他者の視点」は、丸山にとっては、ヨーロッパなんだ、ということになる。そして大澤さん自身も、そのような「他者の視点」に、説得力があるからこそ、戦後民主主義の論理というものが成り立ちえたのだ、と言うわけだ。たしかにそのように問題を設定してしまえば、現に今ある自分(戦後の日本)と他者の視点(理想としてのアメリカ)とは矛盾している、したがってそこに作為の論理が成立しているのだ、ということはスジが通っているかにみえる。しかし、ここでは実ハ、人が行為したり考えたり作為したりするまでもなく、すでに「他者の視点」は明確なものになっているのだ。つまり「選択的にかかわる」どころか、すでに分かりきった、あるハッキリとしたカタチを持っているのだ。つまり「答えが決まっている」のであり、ということはなんら「自然の論理」とかわらない、ということになってしまうのだ。
すでにここで、大澤さんの、外部にハッキリとした「他者」を想定し、それがあるからこそ、我々が行為しうるのだという、それゆえ、そのような「他者」の不在を嘆いてしまうという陥穽が見えている。そのような他者とは、ようするに共同性であり、「世間」だ。それがいかに「現実」と矛盾するようにみえようと、たとえば「知識人」という共同性の中で、アメリカ・ヨーロッパの理想という「他者」に依拠しつつ「分かりきったこと」を語る限りでは、なんら「現実」との矛盾は引き起こさないだろう。そう、そこには「裏切り」も「不意打ち」もないのだ。ついうっかり?大澤さんは「他者の視点」そのものに「説得力」があるという言い方をしているのだが、たしかに「共同性」としての他者であれば、そのような「力」を持っているだろう。しかし、それに依拠して語るのであれば、単に共同性という「自然」と一体化しているだけであって(「世間内的存在」とでもいうか)、近代を象徴するものとしての「作為」(そんなものがありうるかどうかは別として)とは、まったく関係ないだろう。
問題は、説得力のある他者と一体化することではなく、我々にとって想定される共同性として立ち現れてしまう「他者」をいかに説得しうるか、という努力の問題でしかない(「オムレット」ではそー言っている)。それこそが「作為」(いまや「オムレット」風に「コトの創造」とでも言うか(笑))のあらわる境涯なのだ。
ちなみに大澤さんはこの後、丸山氏が「変節」した、と言う。それは丸山が、日本の文化の中に「作為」の論理、つまり近代を見いだそうとしていたのに、後期の著作では、日本の文化の中にはそのような作為の論理が存在しない、というふうに変わった、というのだ。それを「執拗低音」というヒユで、日本の文化の中に「自然の論理」だけがつらなっていると言っているというのだが、以上のように見てくれば、これは何も「変節」でもなんでもない。たんに「事実」に気づいただけのことではないか。つまり日本人は、「近代化」するにしても、よーするに「すでに分かりきった他者の視点」を輸入し、それを共同的にもつような「世間」を形成することで、その視点と一体化する。「分かりきった」事実性に依拠するという意味で、常に「自然の論理」を貫徹しているのだ、と考えれば、きわめて当たり前のことなのだ。誰一人、孤立して「分からない」コトに立ち向かい、説得的に事実を構築しようとはしなかった、ということである。
とにもかくにも大澤さん的に、他者性を捉える限り、この地点は見えなくなってしまう、ということを指摘しておきたい(と、ゆうか、反面教師的に、この大澤さんの本を読むことによって、僕の中で「他者性」についての考えがクッキリとしたので、感謝してマス)。
|