contents
Vol.25 渡る世間の真実号(99.2.6-14)

■哲学は病気か?(99.2.6)
■映画版「リング」をやっと見た(99.2.8)
■祝福系(99.2.9)
■反省しない犬〜若森栄樹「裏切りの哲学」(99.2.12)
■13歳(99.2.13)
■世間と他者性〜大澤真幸「戦後の思想空間」(99.2.14)

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Vol.25
哲学は病気か?(99.2.6)
「文学界」去年の12月号で、南木佳士さんが書いている「哲学という病気」という書評コラムがあって、中島義道さんの「孤独について」(文春新書)をとりあげている。それによると、中島さんはしょっちゅう「哲学は病気だ」と言ってるそーだ。これが意外だったのは、ボクが読んだ「対話のない社会」や「カントの人間学」では、そんな感じはなかったし( 書評コーナーで取り上げてマス)、話題となった「うるさい、日本の私」も戦闘的な感じであって、病人とはほど遠い。

まぁそれはいいのだが、哲学が病気だということの理由は、「哲学は何の役にもたたない。なぜならそれは自分が存在することの不思議にとらわれてしまった半病人のする行為なのだから」(南木氏)というのだが、そんなことをいったら現代アートだって病気だし、陸上選手だって病気だ。なんだって病気になってしまう。かといって私は「哲学は役に立つ」と主張したいわけではない。「哲学は病気だ」という規定の仕方が、どうしようもなく凡庸で、二流のセンスだということを言いたいのだ。

同じように池田晶子女史や永井均氏も「哲学は役に立たない」ということをいうが(これも 書評コーナーで取り上げてマス)、彼らは「病気」とは言わなかった。なんと言ったかというと、池田サンは「癖(へき)」と言った(永井氏はなんと言ったかしらない)。そして「病気」より「癖」という規定の方が、より深く体系的にモノゴトを説明しうるという意味でエライ、のである。

たとえば、「哲学は病気だ」と言ったときに「それじゃ、何でも病気だ」と言いえてしまうと、そもそもの「哲学は病気だ」がほとんど何も言っていないに等しくなってしまう、のに対して、「哲学は癖だ」と言ったときに「それじゃ何でも癖だ」と言いえたとしても、そもそもの「哲学は癖だ」の意味合いがなくなることはないのだ。

つまり「癖」の方は、結局のところ、人間が何かに関心をもってその問題に集中してしまうということは、「癖」であり、つまり「Automatic」に生じてしまう何ごとかなのだ、という一つの見解を言っているわけだ。そして「哲学が癖だ」というのは、その見解の中でのひとつの事例、ということになるわけだ。

これに対して「哲学は病気」という言い方は、なんの見解でもない、たんなるコンプレックスの表明にすぎない、ということだ。一流の哲学者として目していた中島さんが、そんなことではいけないのだ。

ちなみに「 オムレット」の第4章「意味と情熱」は、この「癖」を「関心事」として書いているが、これを読んだある方が、私(ひるます)にとっては、まさに「哲学的なマンガを描くことが」が、関心事だったのですね、と言ったが、そういうことなのである(教訓:関心事に貴賤なし)。

あ、しかしここで言いたかったのは、そーゆうことではない。

この書評の中で、南木氏は、中島さんの別の著書「人生を半分降りる」をひいて、中島氏は小説家になれるといって「(中島氏が)本気で小説を書き出したら、これまでの名作と称されてきた私小説が色を失ってしまうような予感がある」と激賞するのだが、これにまったく同感するのだ(ここまでの論調からは意外かもしれないが)。

というよりも、僕は中島氏にかぎらず、こういうふうに本気でモノゴトに取り組む人、取り組まざるを得ない人、それがほとんど病気のごとくにまでなってしまう人、の考えることは、それが学問的にどうかということにはかかわりなく、ものすごい深いレベルに達してしまうということなのだろう。文体がどーの、ということも、実ハあまり関係ないのだ。それに比べるとブンガクって、やっぱ「あらかじめ逃げ場がある」って感じなんだよねー。

ふとそんなことをまた思ったのは、 前の項で予告した森岡さんの「現代文明は生命をどう変えるか」について調べようと思ったら、実は森岡さんの「生命学ホームページ」というのがすでに出来ていて、そこに森岡さんが最近「仏教」誌に連載している「無痛文明論」というのがアップされていて、それがスゴイのだ。いや、そーいうことを言うヤツこそ敵だ、というよーなことをご本人がおっしゃっているので、なまなかにコメントは出来ないのだが、まさに文学を凌駕する問題作、という感じなのだ。もう逃げ場のない思考、というか。読む方も単に「共感した」ということではすまない、というところまでいっているのだ。ごらんいただきたい。

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Vol.25
映画版「リング」をやっと見た(99.2.8)
このまえのテレビ放送でやっと見たのだが、こんなところでこんな完璧作品に出会えるとは思ってもいなかった。絶対賛辞。まぁ面白さについてはなにも言うことはないが、ここで「完璧」ということの意味合いを言っておきたい。

「完璧」とは、もちろん「リング」原作に対して完璧、というのである。前に(教訓系)あまりに普遍的・・と書いたが、この映画版はそれをさらに押し進めて、完璧に仕上げたということだ。映画版は原作との違いがいろいろあって、その違いがいちいち「うがって」いるということでもある。

主人公の女性への変更は、いうまでもなく、正解だ。これは「母性」の物語といってもいいわけだから、女性差別とかいうんではなしに、この方がしっくりくるのだ。

そんな変更も、高山リュウジの性格変更(異能)に比べたらたいしたことではない。ひょっとすると、すでに原作を知っている人にとってはこの異能設定は話をスムーズにするためのご都合主義と感じたかもしれないのだが、それは話が逆なのだ。実は「リング」原作自体が、非常にご都合主義的に話が進みすぎるのであって、それを「修正」したのが、映画版と考えるべきなのだ。つまりよくよく原作を振り返ってみると、異常に登場人物たちの「直感」が冴え渡りすぎていて、その「直感」によって話がトントン拍子に進み、たった一週間のうちにコトが完遂されるという次第になっているのだ。

実際にはもう一つのハシラとして、この映画では「噂」が巧みに導入されていて、それによって主人公たちが誘導され、話がうまく進む。ひょっとしたら、「異能」を導入しなくても、この「噂」だけでも、原作の「あまりに直感がさえすぎ」というアポリアは回避できたかもしれないが、いずれにせよ、ここで言っておきたいのは、この映画が「完璧版」をやってしまったことで、逆にリング原作のご都合主義部分(直感冴えすぎ)が露わになってしまったということだ。

もちろんそれだけなら、「らせん」以降はダメだったけど、実ハ「リング」原作もそもそもダメだったのね、で済んでしまうのだけど、この「直感冴えすぎ」という問題は、単に作劇上の問題ではなく、原作者・鈴木光司氏の思想的な限界というものにまで関わってきてしまうのではないかと、私はいいたいわけだ(わ〜出た出た、また悪口がはじまったよ〜)。

結論からいうと、そのダメさというのは鈴木光司の無自覚な「要素還元主義」なのだ。

要素還元主義とは、たとえばDNAのデータに、生命を還元する立場、といえば言い尽くされるだろう。「らせん」以降、くりかえし鈴木氏が持ち出すのがこれである。DNAという要素(データ)が同じなら、そこから同じ生命が発生する、「ループ」世界に至っては、まったく同じ文明が発生するのだ。しかしこのような要素還元ははっきりと単なるマチガイである。たとえば、クローン牛(クローン人間でもいいが)は「双子」かもしれないが、まったく同じ個体ではない。彼が「らせん」で言っているように「仮に」記憶までもがDNAに刷り込まれていて、その時点での記憶を要素から再生したとしても、それは「同じ」ではないのだ。

われわれの心は「記憶から出来ている」と言うことも言われるが、これも厳密にはマチガイだ。記憶というデータが、我々を作るのではないからだ。そうではなくて、記憶のもとになるようなデータをヨリドコロとして、そのつど「立ち上がる」のが、我々の心なのだ。つまりこの前も話に出た「一回性の出来事」なのだ。余談だが、これを「オムレット」では「先制的な作用」と称しておいた(宣伝です)。データに対して、心であればイメージや概念、細胞であれば形態が、それを先取るカタチで制御的に作用するという意である。

(ちなみに中島義道さんが「時間とは何か」(講談社現代新書)で、「心身問題は時間問題である」といっている。ややこしい話だが、ここでいう過去が現在において立ち現れるという関係が人間において根本的なのだ、という点は、実ハこの「先制的な作用」と同じ事を言っていると思う・・ってなんかスゴイ話になってきたが)

鈴木氏もある時点では、物質的データに還元できない「意識」のそれこそ先制的作用を言う部分もある(呪いの説明など)が、それこそ生命の誕生とか、呪いといった特異な現象にのみそれを適用するにとどまる。日々の生活にヒラメキがある、とこの作家は分かっているハズなのだが・・。悪しき科学信仰が邪魔をするのか。「ループ」に至ってはこの生命発生にかかわる「意識」まで、・・・(ネタバレにつき削除)。

話を「リング」原作にもどすと、このような「要素還元」的な思考の姿勢こそ、鈴木氏を貫くものだということなのだ。つまり特定のデータがあれば、結果として特定のイメージや思考にたどり着くのは当然だ、という態度なのだ。そういう前提だからこそ、「直感冴えすぎ」をやって、平然としている。そうなのだ、どう考えても、あれではデータが少なすぎて、その結果にはたどりつけないのだ。何か「先制的」に作用するキッカケが必要なハズなのだ。映画版はそれを「噂」と「異能」で一挙に解決した。それを私は「完璧」というのだ。

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Vol.25
祝福系(99.2.9)
なんと「オムレット」がCS放送(ケーブル含む)でとりあげられます!
JBS日本福祉放送の「Deaf TV〜ガンバろうBOX」の中での本紹介コーナーです。NHKの「みんなの手話」にも出演されている米内山明宏氏がディレクターをつとめる、ろう者向け番組です。
オムレットがどんなふうにとりあげられるのか、楽しみです(というか、取り上げてくださること自体うれしー!)。
放送日は、2月13日(土) 22:00〜23:00
再放送が、日曜から金曜までの、3:00、17:00、22:00〜それぞれあります。
CSの場合、スカパー 764ch、ディレクTV 530chです。CS持ってるかケーブルに加入されている方は、ぜひぜひごらんください。

みすず書房のPR誌「みすず」では、毎年恒例で一月号で「読書アンケート」というのをやっていて、著名知識人(といっても「ニッポンの知識人」という本に出てくるようなのではなくて、いかにも「高級そう」なヒトビトばかりだが)が、その年のベスト5をあげるというものだが、その中で、精神科医の中井久夫氏が、斎藤環さんの「文脈病」をあげていた。「眩惑的な光りを放って精神医学を横断する感を抱いた」とのこと。カンケーないけど、うれしいね(「文脈病」についてはチラっとここに書いた)。他に安永氏も「文脈病」をあげてました。
それにしてもつくづく思うのは、こーいった重鎮たちがちゃんと「評価」してくれるのに、なんでオビに「顔の精神分析」なんて銘打って、内容も(ゴーインに?)「顔」を縦糸としてまとめちゃったのかな?ってことだ。「顔」問題にしちゃうと、なんかローカルないちエピソードって感じじゃない? 斎藤さんの本は、もっと大きな精神病理学全体にかかわる枠組みを提供するようなスケールのものなのに・・。「顔」問題というと、ちょうどいま春日武彦氏(この方もいつも引用してお世話になっているが)が「顔面考」という本を出していて各紙書評でもとりあげられている。「顔」っていうと、こういうローカルっていうか、軽い本(といっては失礼だが)がちょうどいいんだろう。
ちなみに「顔面考」を出した紀伊国屋書店が、同時リリースしてこれも話題になっているのが、「紅のメタルスーツ」というアニメ解読系マジメ本だ。こっちの系統でも実ハ、斎藤環氏はずーっと「戦闘美少女の精神分析」という本を予告している。これには期待してくださいよ。

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Vol.25
反省しない犬〜若森栄樹「裏切りの哲学」(99.2.12)
またまた読売夕刊(2/9)みてたら、映画「リング2」(未見)の同時上映「死国」の原作で有名な坂東真砂子氏の新作の紹介記事がでてて、「旅涯ての地」というんだけど、この内容がスゴイ。
なんでも中国人と日本人のハーフが、奴隷としてマルコ・ポーロに買われ(つまりその頃の話)、ベネチアに連れてこられ、教会と異端カタリ派の「聖杯」争奪戦に巻き込まれる、というなんとも強烈に面白そうな話なのだ。うー、くやしい。しつこいが私が書こうとしてるコレとまたしてもダブってるからだ。またしても、ってのは、例の「日蝕」の件でくどくどと言ったので、もう言わない。私も人の悪口ばかり言い過ぎて、少々反省しているのだ。
あわてて本屋に見に行ったら、この本、すでに去年の10月頃にでてたのね。ぜんぜん知らず、失礼いたしました。まだ読んでないのだが、というか買ってもないのだが(いつになったら買えるのか・・)、すでに読まれた方は感想教えておくれ。読売記事によると「当時のベネチアの路地の一本一本のたたずまい、市内を流れる水路のすえたにおいまで感じさせる描写は圧巻」とのこと。ブンガクはかくありたいよな、平野クン。(全然反省してない・・というか、反省してるっていうのは、自分のコトがおろそかになっていることを反省しているのであって、悪口そのものを反省しているわけではないのだ。だって、ホントのこと言ってるだけだもんなー)

なんてことを考えつつ、本を買う金もないので、積んどいた本から、若森栄樹さんの「裏切りの哲学」(河出書房新社)をパラパラと見てたら、ドンピシャで面白かった。
よーするに人にあわせて「自粛する」なんてのはダメなんであって、人はどんどん「裏切ら」なくちゃいけない!って話なのだ。ここでいう「裏切り」ってのは、「真実を暴露する」って意味でもある(英、仏語ではそうなるんだとか)。世間にあわせて、なんら期待を裏切ることなく生きているイイコってのが、ここでいう「裏切りの哲学」の対極にいるわけだ。いわゆる「いい意味での裏切り」とか「不意打ち」といわれるものだと言っては、身も蓋もないだろうか。
ちなみに「オムレット」でいうと(最近、なんでもかんでも「オムレットでいうと・・」で申し訳ありません。宣伝プラス読者サービスです)ここは「コトの創造」と言うところだ。人は考えや行動として「コト」を組み立てるときに、他者を想定しつつも、すでに自分や他者が分かっているように(学習したとおりに)反復するのではなくて、その都度その都度、新たな「創造」としてそれを行う。つまりそれは自分にとっても他人にとっても「裏切り」となっているという意味で、若森さんとは一致するのだ。
ではなぜ、そういう「裏切り」が生じるのか?
著者若森氏によると、「裏切り」とは、「他者、僕のうちの他者、僕そのものでありながらも僕からは無限の距離を隔てた他者からの呼びかけ」であり、「僕ら」は「この、どこにもない、しかし至るところに偏在する、決して正当化されない、他者の力」を、肯定しなくてはならない、という。
というと何かブンガク的でむずかしく聞こえてしまうが、ようするにここでいう「他者」が「裏切り」を呼びかけるとは、「私」にとって「創造」が「ヒラメキ」として生じる、というのとほとんど同じではないだろうか。それは常に「どこか、オレの関知しないところ」から来るのだ。オムレットで言う「想定される他者」は、この「他者」とは関係なく、むしろ「裏切り」=「創造」によって「裏切られる」側にいる「他者」だろう(オムレットではこの「他者」は、裏切られるというよりも、「説得される」のだが・・)。
じゃ、若森さんの言う「他者」ってオムレットで言うと何だ?っていったら、やっぱ「生命そのもの」でしかないんじゃないの。オレにとってオレの生命が他者なんだ、って感じで。

以上、読んでない人には全然わかんないかも知れない話で失礼しました。ちなみに「反省しない犬」は、昔ガロに載ってたマンガ(森元暢之)のタイトル。

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13歳(99.2.13)
「エヴァ」の劇場版、いわゆる夏エヴァをワウワウで録画して見たのだ。
感想は、ごたいそうなことで・・って感じ。

そーいえば、エヴァといえば14歳。なんでもかんでも14歳というものをキーワードにして商売してるって風潮の中、村瀬学さんの「13歳論」(洋泉社)が出た。拍手。内容は例によって見てないが(そーいえば、この「ひるます」がまだ紙媒体だったころ、「書名だけで書評する」なんてこともやってたっけ)、内容は知ってる。だいぶ以前に出た岩波書店の「教育をどうする」という知識人アンケート本があって、その中に村瀬氏の「13歳の見直し」という文章があり、それをつい最近、オレはコピーしていたのだった。これってもはやテレパシー

この「13歳の見直し」は、よーするに13歳は大人から子どもへの移行期であり、「自分」というものが、きわめて不安定になる。それは「家族」という世界の住人という位置づけから「法(市民)」の世界の住人への移行期であるために、どのように自分を位置づけたらいいか分からなくなる、たとえばいじめられても家族に訴えるべきか法に訴えるべきかわからない「過酷な立場」におかれることにある、というのだ。

で、村瀬氏は10歳頃から、「13歳になれば法の国に入るのだ」ということをしっかりと教えるカリキュラムを組むべき、と主張するわけで、これがまさに卓見、と思った。このやり方なら、13歳になれば、法でさばかれるのだというキビシサを、ちゃんと段階をふんで子どもに教えていけるからだ。現在は、そのことがまさに明確にされないために、すべてがアイマイになっているのだ。16歳になったら法で裁かれるのだ、ということはあまりはっきりと言われない。16歳までなら裁かれないよ、という意味にとられると、つい感じてしまうからだろう。この「つい」がダイジで、つまり14、5歳というのは、そーいうふうに、自分というものがある程度、安定し、その上でさまざまな狡知を働かせうる、そんな歳だってことである。

また最近とくにオカシイと感じていたのは、14歳は大変な歳なんだ、っていう、とくに女性評論家の語りようだ。なんか「若さ」を神秘化しちゃって恍惚とした感じでみっともないっていうの。じゃ、どうするの?っていうと、どうせ「やさしく見守り」「存在を承認してあげ」るとかいうに決まっている。柳美里か。いったい「誰が」それやるっていうの? これに対して、村瀬氏の「13歳見直し論」は具体的だ。14歳あたりで不安定になるのは、システムのせいなんだから、システムとしてちゃんと「安定」させてやればいい、つまり13歳からは大人だってしてやればいいってことでしょ、ようするに。そのうえで、個人的に不安定の度合いが激しい人ってのは当然いるだろうけど、それこそ個別的な問題で、ケアが必要だったらしてやればいい。それは単なる当然なのだ。14歳がみんな「心の病」を抱えているがごとき捉え方がダメなんだよ。

ちなみに「他者からの承認」ということを、柳美里が筑紫哲哉のニュース23で言ってたけど、それって14歳とか20歳とかの「イイ大人」に必要なことじゃなくて、ゼロ歳から3歳くらいの子どもに必要なことでしょ。芸能コースとか作家コースをつくってもっと(14歳くらいの子どもが)勉強以外で「他人から承認される」機会をつくってやらなくてはならない、とか言うんだけど、そういう「技能」には(勉強でもそうだけど)本人が好き嫌いということとは関係なく「うまい・へた」があるのであって、下手くそな人を「承認」するわけにはいかないでしょ? それくらいの歳の「イイ大人」だったら、自分で承認を得るようにがんばらなきゃならないって「事実」があるだけのことで、学校にいろんなコースをつくることと「承認」は関係ないんだよ。つまり「承認」はそれ以前の問題なのだ。よーするに、「愛」ってことだろう。なんで「愛」ってズバっと言えないのか。(なんか「エヴァ」について書いてるような気分になってきたが)

ちなみにこの村瀬氏の「13歳の見直し」という文章は、末尾に「この原稿は神戸児童殺害事件の前に書いたものである」とある。その後の成果がこんどの「13歳論」ということになる。

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世間と他者性〜大澤真幸「戦後の思想空間」(99.2.14)
まえまえからヘンだと思っていたのである。この本、大澤真幸の「戦後の思想空間」。しかし大澤さんといえば、当代随一の秀才?、とにかくアタマのよさそうな文章を書く人であるから、まちがって突っ込むと、大恥をかかされるのでは、という日和見から、今まで黙っていたのである。しかし、この前の若森氏の「裏切りの哲学」についてコメントしているうちに、はたと気づいてしまった。それを書いておくことにしよう。

大澤さんが言っているのは、僕らが「自由な」行動をするためには、あらかじめその行動を選択している超越的な他者がいなくてはならないが、現在はその「超越的な他者の座」(かつては天皇制や、アメリカ的民主主義の理想がその座にあった)が、空位となっているために、困難をかかえてしまっている、というのだ。その空位を無理やり埋めようとしたのが、ファシズムであり、オウムだ、という話になる。で、僕らとしては、空位を無理やり埋めるのではなくて、空位を空位として引き受けつつ生きて行かねばならない、という極めて「終わりなき日常を生きろ」的ハナシになっているのだ。

誰でもふとヘンだと思うのは、自由な行動をするのになんでイチイチ「超越的な他者」なんてもんが必要なのかってことだろうが、大澤さんは、よーするに行動に先立つ主体、意志の発動者としての主体はありえないという(オムレットで言えば第3章のハナシ)ことからして、あらかじめ選択を行っている他者=超越的な他者ということを言うわけで、その理屈を追っていくかぎりでは、それほど奇妙なハナシではないのだ。ところが、それが「空位だ」とか「空虚だ」という嘆き節じみてくると奇妙に思えてくるわけだ。

というのは、空虚だ空虚だというからには、空虚ではない何か実体的というかメイカクなカタチをもった「他者」というのがあらかじめ決定しているのか、あるいはその決定自体が、明示的というかハッキリしたカタチをもっていることが、前提されているかに思われるからだ。しかし行為や考えの発動に先立って、そんな「メイカクな」ものがあるはずがないのだ。それは自己=主体であれ、他者であれ同じ事であって、そんな「メイカクなもの」が先立っていたら、そもそも「行為の選択ができない」はずなのだ。逆に言えば、そのような超越的な他者の座があるとして、それが「空位」であるのは、あたりまえ、空位でなければならないのだ。これは若森さんの議論を経てきてみれば極めて当たり前のことに感じられるハズだ。繰り返し引用すれば他者とは「僕そのものでありながらも僕からは無限の距離を隔てた」ものであり、「どこにもない、しかし至るところに偏在する、決して正当化されない」ものだからだ。

さらに若森さんの回での議論をふまえて言えば、「他者」なるものが、不在ではなくて、メイカクなカタチをもったもの(つまり「正当化されたもの」)だとすれば、それは我々の行動や考えによって「裏切られる」対象としての他者にすぎないことになる。つまり、ある限定的な文脈を代表するような「他者」なのだ。そして、それによってあらかじめ明晰化されたカタチを、ただ我々が繰り返し、フォローするだけの存在であれば、なんのことはない我々は単なる人工知能にすぎないってことではないか。

そうなのだ。あらかじめ文脈としての「他者」が決定され、メイカク化されなければ、行動できない、創造もできない、というのであれば、人工知能なのだ。それを自分で決定できないからこそ、人工知能においては「フレーム問題(オムレットの「蛇足2」にもコメントあり)」が起きるのであり、人間においては、そんなものを決めてもらわずとも、自分で決定しうるがゆえに、フレーム問題は起きないのだ。

大澤さんにおいて、なんでこういう混乱が起きているのか? 大澤真幸は人工知能なのか?というのはたちの悪い冗談だが、結局は「他者」を直視せず、それを常に外部に求めてしまうからではないか。だいたい「他者が不在だ」という泣き言を聞いたとき、即座に思ったのは「なんでそんなに誰かに甘えたいの?」ということだった。ま、これは余談だが。

この本で、はじめに「他者」が出てくるのは、丸山真男についての議論だ。近代とは何か、「作為」の論理であるっていうハナシ。「作為」というのは、「自然」に対する作為であり、日本というのは基本的に「自然」の論理でやってきた。それが近代になって、「作為」の論理がでてくる。で、その「作為」とは何なのかというところで、これは丸山氏ではなく、大澤さんの考えだと思うが、「作為の論理は自分の内部で二重の立場が重層しており、そのことによって自己が主体化していること」によって可能になるというのだ。つまり「自己が現にそうなってしまうところの、経験的な事実」すなわち「自然」に対して、「選択的にかかわる他者の立場が、自己自身に内部化して」、そのうえで「内部化した他者の立場から、自己の事実性を制御する」ことが「作為」なんだというわけだ。一読しただけでは分かりにくいが、やはり能動的な主体=自我というものを、「他者の視点」に言い換えたものと、考えればわかりやすい(そのような「他者」が「主体化」すると言っているわけだ)。

しかしである。ここですでに混乱があるように思うのは、まず「自分の内部で二重の立場が重層しており、そのことによって自己が主体化していること」は、「作為」の側にだけ成り立つのか?ということだ。近代以前は「自然」だといわれるが、その場合、人はだれも「主体化」せずに、自然のままでこのような日本史がつくられてきたというのだろうか。そんなはずはない。人工知能のつくり出すシミュレーションじゃあるまいし。「自然」の論理で生きている人だって、ちゃんと同じ意味で「他者を内部化し、主体化」していたはずだ。ではなにが違うか?といえば、その他者が「選択的にかかわって」いるかどうか、という点だろう。近代以前では、選択するまでもなく、おうおうにして「答えが決まっている」からこそ、他者の視点で行動しても、現にある自分と矛盾することはない、したがって「自然」なのだ。近代以後は「答えが決まっていない」からこそ、現にある自分との矛盾(緊張)が起こる、すなわち「作為」がおこる余地ができるわけだ。たいした違いではないのではないか、と思われるかも知れないが、そこまで言わないからこそ、次のような混乱がおこるのだ。

つまり、このあと実際問題として、この作為の論理を成り立たしめる「他者の視点」は、丸山にとっては、ヨーロッパなんだ、ということになる。そして大澤さん自身も、そのような「他者の視点」に、説得力があるからこそ、戦後民主主義の論理というものが成り立ちえたのだ、と言うわけだ。たしかにそのように問題を設定してしまえば、現に今ある自分(戦後の日本)と他者の視点(理想としてのアメリカ)とは矛盾している、したがってそこに作為の論理が成立しているのだ、ということはスジが通っているかにみえる。しかし、ここでは実ハ、人が行為したり考えたり作為したりするまでもなく、すでに「他者の視点」は明確なものになっているのだ。つまり「選択的にかかわる」どころか、すでに分かりきった、あるハッキリとしたカタチを持っているのだ。つまり「答えが決まっている」のであり、ということはなんら「自然の論理」とかわらない、ということになってしまうのだ。

すでにここで、大澤さんの、外部にハッキリとした「他者」を想定し、それがあるからこそ、我々が行為しうるのだという、それゆえ、そのような「他者」の不在を嘆いてしまうという陥穽が見えている。そのような他者とは、ようするに共同性であり、「世間」だ。それがいかに「現実」と矛盾するようにみえようと、たとえば「知識人」という共同性の中で、アメリカ・ヨーロッパの理想という「他者」に依拠しつつ「分かりきったこと」を語る限りでは、なんら「現実」との矛盾は引き起こさないだろう。そう、そこには「裏切り」も「不意打ち」もないのだ。ついうっかり?大澤さんは「他者の視点」そのものに「説得力」があるという言い方をしているのだが、たしかに「共同性」としての他者であれば、そのような「力」を持っているだろう。しかし、それに依拠して語るのであれば、単に共同性という「自然」と一体化しているだけであって(「世間内的存在」とでもいうか)、近代を象徴するものとしての「作為」(そんなものがありうるかどうかは別として)とは、まったく関係ないだろう。

問題は、説得力のある他者と一体化することではなく、我々にとって想定される共同性として立ち現れてしまう「他者」をいかに説得しうるか、という努力の問題でしかない(「オムレット」ではそー言っている)。それこそが「作為」(いまや「オムレット」風に「コトの創造」とでも言うか(笑))のあらわる境涯なのだ。

ちなみに大澤さんはこの後、丸山氏が「変節」した、と言う。それは丸山が、日本の文化の中に「作為」の論理、つまり近代を見いだそうとしていたのに、後期の著作では、日本の文化の中にはそのような作為の論理が存在しない、というふうに変わった、というのだ。それを「執拗低音」というヒユで、日本の文化の中に「自然の論理」だけがつらなっていると言っているというのだが、以上のように見てくれば、これは何も「変節」でもなんでもない。たんに「事実」に気づいただけのことではないか。つまり日本人は、「近代化」するにしても、よーするに「すでに分かりきった他者の視点」を輸入し、それを共同的にもつような「世間」を形成することで、その視点と一体化する。「分かりきった」事実性に依拠するという意味で、常に「自然の論理」を貫徹しているのだ、と考えれば、きわめて当たり前のことなのだ。誰一人、孤立して「分からない」コトに立ち向かい、説得的に事実を構築しようとはしなかった、ということである。

とにもかくにも大澤さん的に、他者性を捉える限り、この地点は見えなくなってしまう、ということを指摘しておきたい(と、ゆうか、反面教師的に、この大澤さんの本を読むことによって、僕の中で「他者性」についての考えがクッキリとしたので、感謝してマス)。

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