教育之事(99.2.27)
きのうついつい見るのを忘れてしまったのだが、筑紫哲哉の「NEWS23」の新聞欄の見出しが「メディアを疑え」とかいうもので、よーするにどこぞの外国の教育では、マスメディアを信用するなっていう教育をきちんとしている、というネタらしいのだ。オウムのビデオ事件のTBSが、そういうネタをやるのも嫌みだが、この「マスメディアを信用するな」というのは、なかなか「よい教育」ではないかと思ったわけだ。
番組自体は見ていないので、なんともいえないのだが、ちょうど河上亮一さんの「学校崩壊」(草思社)を読んでたら、学校が機能しなくなってくる(先生の権威がなくなってくる)のは、地域社会という「世間」が解体してくることとウラハラになってるって話があって、それを一つの「情報ネットワーク」と考えてみると、地域社会という情報のネットワークが解体して、マスメディアという情報ネットワークが、学校にも家庭にも「侵入」し、それに征服されちゃったってことになるだろう。
逆に妙木浩之さんの「心理経済学のすすめ」(新書館)では、そのような情報ネットワークの侵入によって、子ども達は「情報処理能力が高まる」などの利点もあるのだとして、それを「評価」している。それも一理あるのだろう。しかし当たり前だが、マスメディア的な情報ネットワークが身の回りにあるだけで、子どもが自律的にその中でうまく生きていけるようになるわけではない。だいぶ前に「コミュニケーション」について書いたときにも引用したが、マスメディア=情報の集団的処理に参加しているだけなら、なんら「自分で考える」必要がないのであり、栗本にいわせれば「近代は思考停止を好む」のだ。そういう意味で、マスメディア的な情報ネットワークに可能性を見いだしたりするのは、甘すぎるのであり、まだ「マスメディアを信用するな」と言った方が「イイ」のではないか?ということなのだ。
それにしても肝心なことは、「信用するな」というのが、単なるアナーキーなもの、否定的なもの、懐古的なものであっては、しょうがないってことなのだ。当たり前だが、問題なのは個々の情報を信用するかどーかということではなくて、その背後にある「価値観の体系」みたいなものだろう。教育がしなくてはならないのは、「信用しない」根拠、というか、バアイによっては信用してもイイわけだから、よーするに自分で考えることを、ちゃんと教えるってことなのだ。単に信用するなというだけでなく、そこまでやるってことなら、確かに「イイ」でしょ。それができるためには、教える側に、マスメディアによる集団的情報処理に対抗するだけの「哲学」がなければならないし、あったとしても実際に自律的な人間を生み出すということはタイヘンに違いないけれども。
よーするに理屈としてはとりとめもない「でかすぎる話」なわけだが、今回の「脳死」に関するバカ騒ぎを見ていると、ついつい「信用するな」という声を大にしていいたくなってしまうわけだ。今回のことについて言えば、なんの「速報性」もないこと。すでに「法律」で決まったことであり、実行されることによってなんら急激な事態の変化がもたらされるわけでもない。粛々と見守ればいいわけで、議論したければ、別のところでするべきだろう。一日も早い「メディアのゆるやかな死」を願う次第である。
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