「ヒステリー的な問い」から「伝承の語り」へ(99.4.24)
前に書いた「少年Aと悪」で、「なぜ人を殺してはいけないのか?」について書いたけど、それについて某所でちょっと議論があり、そこで考えたことがあるので、以下にまとめておきます(つまり私だけの考えというよりは、いろいろとインスパイアされたことで考えたことなわけだが、ともかく文責は私にあります)。
まず大江健三郎氏のように「問いを断ち切る」しかないのではないか?と結論を書いたけど、これは正確には、前に書いた意味での「ヒステリー的な問い」に対しては、という限定をつけなくてはならないってこと。
つまり、「いけない」ということが身にしみて?分かっている大人や少年に対しては、断ち切るしかないということであって、まだ何も身にしみてない子どもに対しては、単に拒絶的に対応するのではなく、いろんな「たとえ」や「教訓」を使って「答え」てやるのがいいに決まっている。「バチがあたるから」でもいい。これは永井氏のいうような意味での「哲学的な厳密さ」とはまったく関係なく、とにもかくにもそれが「いけない」ってことを身にしみさせることが(結果的に)できればいいわけだ。で、そういうことがまったくなかったらそもそも文化ってものが成り立たないってことなんでもある。
ということを思ったのは、この「問い」について識者にアンケートして回答を特集した雑誌があり、その中に中井久夫氏(精神科医)の「それはひとつの宇宙を消し去ることだからです」というステキな「答え」がある、ということをある方より教えていただいたからだった。
この答えは、たしかに魅力的ではあるが、永井氏的な意味での哲学的な厳密さという流れからすると答えになっていない(続きを読めばわかりますが、別に中井を批判しているのではないのです)。つまりそれに対して「じゃ、なんで宇宙を消し去っちゃいけないの?」という問いが生じてしまい、それに答えるには、結局、宇宙にはかけがえのない価値があるから、という論理をとるしかない。とするとこの「答え」は、人命には価値がある、あるいは生命には価値がある、ということを言い換えているにすぎない。論理的には「価値があるものは価値がある」という定式に還元されるというか、よーするに同じ事を繰り返して言ってることになるわけだ。
しかしここから分かるのは、どんなものであれ「論理的な言葉」が、それを聞く者にとって「答え」であるためには、あらかじめ人命なり生命なり宇宙なりが、かけがえのない価値を持つという価値観が共有されていなくてはならないわけで、その共有という前提を、哲学者は懐疑し、ヒステリー者?は拒否する(そして「子ども」はその価値が単に「身にしみていない」のだ)。
と、考えてみると哲学者のやろうしていること(というより、それが哲学的な問いとして立てられた場合に、その答えとして求められているもの――ただしここで言う「哲学」とは、あくまで論理的な緻密さにこだわろうとするある種の傾向のことであって、私が「テツガクしよう」というときの「テツガク」とは同じではないが――)とは、価値中立的な論理によって、一気に!価値共有の状況を創り出す、という、まさにアクロバティックなことなのであって、そんなことできるわけないってことは明らかではないだろうか。
価値観の共有は、ようするに広い意味での文化、文明の「伝承」という行為によってはじめて可能になることなのだ。で、「伝承」という行為は、あくまで(哲学的な)問いの外部にある。つまり、きわめて当たり前のことだが、人は哲学的に正しい答えなり、論理的に厳密な答えを納得して初めて文化を受け入れるわけではなくて、あらかじめ日々の行為において、いわば「カラダで」それを受け入れているわけである。
と、考えてみると、こんどはその「伝承」、つまり日常的なかかわりあいの中に、そういう問いが紛れ込んできてもおかしくはない。それを排除する理由はなにもないわけである。そこにいわゆる「素朴な疑問」として、子どもがそういう問いを問うということが出てくるわけだ(情報化社会だからしょうがない)。とすれば、そういう問いを排除することなく、かといってオタク的哲学的緻密さ(永井氏?)にねじ曲げるでもなく、「伝承的な語り」として多くの文例を持っていることは、いいことなのだ(ちなみにその文例が、ユダヤ教みたいに「汝殺すなかれ」しかないとしたら、その文化は「伝承」のレベルでは相対的に貧困だといえる。逆に先の中井氏のような言葉をたくさん持っている文化は豊かだ、と言えるだろう)。
結論。そういう意味では、この問いへの答えは単に「断ち切る」べきなのではなく、これからも様々な「伝承」として語られるべきことなのだろう(いまや、子どもに対してではなく、大人に対しても「伝承」が必要になっているということが、問題なのだが)。
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