ひるます27号

contents
Vol.27 私って何なんだろうか?号(99.3.10-4.24)

■<意識>とは何だろうか?(99.3.10)
■ポスターが出来た!(99.3.26)
■少年Aと悪(99.3.29....4.24)
■無意識はどこにあるのか?(99.4.1)
■オムレットのアドバンテージ(99.4.5)
■オムレットのディスアドバンテージ(99.4.7)
■テツガクしよう!(99.4.8)
■魚座のみなさん、オムレットを読もう!(99.4.14)
■「ヒステリー的な問い」から「伝承の語り」へ(99.4.24)

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Vol.27
<意識>とは何だろうか?(99.3.10)
下條信輔氏の「<意識>とは何だろうか?」(講談社現代新書)が出てるので、さっそく読んだのだが、脳の来歴という概念を使っていて「なんじゃこれは…?」と思ったのだが、意外にもこれまで読んだ「脳と心」関係の本では、いちばん面白かった(もちろん「オムレット」は除いて!だが)。ようするに「カユイところ」に一番、近づいてるかな?って感じなのだ。
来歴っていうのは、よーするに「オムレット」でいうと「レシピ」ってことだと思う。たとえばある考えや行動が起きたときに、これまでの「科学的な説明」では、脳内の記憶やデータがそれを引き起こしたのだ?というような「原因―結果」の図式で説明するしかなかったのだが、下條氏はそれを「原因」とはせず、ある考えや行動の「背後」にはその考えや行動に至ったさまざなまな「来歴」があるのだ、という言い方をするわけだ。データが原因で引き起こしてるわけではないけど、振り返ってみればそこには必ず「来歴」がある…ということなわけだ。
これって、でも「説明」になってんの?と言えば、実ハ説明になってないんじゃないか?とオレは思うけど、オムレット的?にはなかなか(「カユイところ」に)近づきつつあってヨロシイのではないかと思うわけだ。データから一義的に心が引き起こされるというような「還元主義」への批判は、リング映画版への批評で書いたけど、この「来歴」という概念は、過去が現在において立ち現れるという「時間関係」に注目すれば、中島さんの「心身問題は時間問題である」とも重なってくるだろう。いずれにしても「ブンガク的」な概念ではある。
ぜひとも「オムレット」と読み比べていただいて、感想をお知らせいただきたい。個人的には事例や問題提起などでオムレットで扱ってない部分も多くて、非常に参考になった。

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Vol.27
ポスターが出来た!(99.3.26)
超遅ればせながら、オムレットのポスターができたので、縮小して右に掲示します。発行からもう2ヶ月以上もたつのに、いまさらと思われるかもしれないが、池袋西武のリブロさんなんか、いまだに平積みで置いてくれてて、はっきり言って私は泣いたぞ。ありがとう!
というのは関係ないが、今回は新入学・新社会人に向けたプロモーションの一環ですね、ハイ。このポスターを自分のお店やお家の塀に貼っつけてもいいよっていう殊勝な方がいらっしゃいましたら、どうぞ私までご連絡下さい(A4サイズの小さいものです)。
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Vol.27
少年Aと悪(99.3.29....4.24 改)
例の少年A両親の手記というのが(一部の)世間をにぎわしてるようだけど、まー今までの流れからしてなんかコメントせねばならんのだろーか、という気もするのだが、はっきり言ってこれまで書いてきたことに、なんら付け加えるところもない。付け加えうるとしたら、この両親自体の「人格問題」だけなのだろうが、そんなこといちいちここで言うほどのことでもなく、誰も読みたくもないことだろう。

って考えてたのだが、この前ホームページで調べモノしてたら、「紀伊国屋書店」のホームページで「i feel」というオンラインマガジンをやっていて(またまた「i」かい)、これがオンラインといいつつゴーカ執筆陣で充実しているのだ。さすが紀伊国屋!「顔面考」はじめ売れ筋の本だしてるものね〜。

それはともかく、そのオンラインマガジンに、村瀬学さんがエッセイを書いていて(村瀬さんは言うまでもないと思うが、先日ちらっと紹介した「13歳論」の著者)、それが「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを問題にしていて、おもしろかった。

この「問い」が問題になったのは、まず大江健三郎がそういう問いを問うてはいけない、と言ったのがはじまりらしいのだが、それに対して永井均が「これがニーチェだ」という講談社現代新書の中で反対して、ようするにこれは「哲学的な」問いなのだから、問うてはいけないなどということはないのであって、「その結果として自分がどうなってもいいという覚悟の上でどうしてもやらなくてはならない、というのであればやるしかない」という「本当の答え」を書いた、という流れがあった(それにしても、永井氏は「哲学とは答えではなくて問題設定だ」なんて言いつつ、なんでそこで「答え」を書いてへーきなんだろうか?しかも「本当の」答えとは…)。

その上で、村瀬氏は、やはり問題の立て方がおかしいのではないか、としている。たとえば少年Aは相手を「人」だとは思っていなかったのではないか、というわけだ。集団リンチでも「豚を殺せ」とか言うように、相手を「人」とは思っていないというのだ。だから、この「問い」は実状を問題にする問いにはなっていない、問いは言い換えられなくてはならない、というのが村瀬氏の問題提起なのだ。

これは非常に面白いのだが、そう言うのであれば、相手を「人」と思っていたかどうか、ということより、そもそもその少年にせよ、リンチをする人にせよ、「いけないこと」、「悪いこと」という感覚が実際にあったのかどうかが問題だと、オレは思う。相手を人と思わなかったとしても、一方で「人間という動物」を殺すのだという客観的な事実の把握ができなくなっていたとは考えられないからだ。いずれにしても、「実状」としての殺人者は、哲学的にせよ、法的にせよ、そのような「言語で立てられた問い」の外部にいることは間違いないわけで、そう言う意味では結論的には村瀬氏のいうように、この問いは言い換えねばならないということになるだろう。しかしそんな甘っちょろい言い方でいいのか?

よーするに「なぜ人を殺してはいけないのか?」というのは、ヒステリー的な問いなのだ。もっと言えば「ゴネ」としての問いでしかないってことだ。そういう問いの外部にいる殺人者であれば、そのような「問い」を問うまでもなく、殺しているだろう。そのように問うということは、その問うている人間が、とりあえず実際は殺す気がなく、しかも殺してはいけないということは「知って」いる者だということになる(なぜ?という問いに対する「答え」を明示的に分かっていようがいまいが関係なく)。その上で、誰かに対してそのように問うのは、問うことによって相手にゆさぶりをかけ(相手が「殺してもいい」というハズがないと分かっているから…そう言ったとたんにその相手には「責任」が生じてしまうということを見越した上で)、結果的には自分を甘やかしてもらい、精神的には優位に立ちたい、という「ゴネ得」をえたいわけなのだ。ヒステリー(的な身振り)とは「依存しつつ拒否する」身振りなのだ(?斎藤環)というが、そのように問うこと自体が依存であり(本当に殺りたきゃ、問う前に殺れ)、どんなに誠実に答えてみたところで、彼の内実にはそもそも関係がない(ようするにどんな答えであろうと「殺してはいけない」というコトを納得したくないのだから)という意味で、まさに「拒否」のための問いでもあるわけだ。

というわけで、結局めぐりめぐって、大江健三郎の答えがいちばん正しいってことになるじゃん。そんな「問い」は断ち切るしかないってところに。ちなみにこの「問い」は、筑紫哲哉のニュース23でも問題になり、この問いをつきつけられた作家の柳美里さんが、それを契機に「ゴールドラッシュ」を書いたってのは有名なオハナシ(柳サンはその答えとして「他者からの承認」が必要なんだってのを持ち出した。これについては、偶然にも「13歳」について書いたときにコメントして置いた)。

紀伊国屋のオンラインマガジンのアドレスは以下のとおり。
http://www.kinokuniya.co.jp/05f/d_01/index.html

[後記]この文章を書いた後、某所での討議を通じて、明らかなマチガイの部分があったことが分かったので、訂正してあります。また最後の「大江健三郎の答えがいちばん正しい」についても考えを変えたので、続き(99.4.24の項)を書きました。

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Vol.27
無意識はどこにあるのか?(99.4.1)
小浜逸郎さんの「無意識はどこにあるのか」(洋泉社)という本が、オムレット出るちょっと前から気になっていたのだけど、なんとなしに後回しにしていて、最近になってよーやく読んだのだが、これが面白い。面白すぎる、といっても、例によって最近は何でも「オムレット」との比較検討で面白いわけで、他の人はどう読むのかよく分からないのだが、ともかく、私的には、「あっ、これはオムレットと同じ事をいっている」って感じなのだ。小浜さんには全然違う!と叱られるかもしれないが、とにかく、そういう感想なのだ。

ちなみに「オムレット」自体には、ほとんど「無意識」という概念は登場しない。小浜氏はこの本で、たんねんにフロイトの「抑圧」概念(さらにはその抑圧によって変形されるような、なんらかのエネルギー体といった「実体」概念)を批判しているわけだが、これについては、まったく同感で、私も機会があったらやりたいと思っていた。しかし、「オムレット」でそういう批判をやったないのは、仮にそうすると、そもそもフロイトの「無意識」概念とは何かという「説明」から入らねばならず、「心とは何か」というコトそのものに興味がある人にとって、(「ガクモン」の解説という)関係のないまわり道をすることになってしまうという配慮から、「無意識」概念にはまったくふれない、という「心の本」にはありえない「はなれわざ」を仕掛けたという次第なのであった(えー?そういうことだったの?と思うかもしれないが、そーいうことなのだ)。

小浜氏は、フロイト的無意識を批判しつつ、「忘れていることの積極性」、日常的な生のありかた、という意味での「無意識」を提唱しているが、オムレット的には、これが何にあたるかと考えると、よーするに「イメージ」ということでしょう。あまりオムレットでちゃんと説明しているわけではないのだが、イメージといっても、たんに「モノとしてのイメージ」ではでなく、コトとしてのイメージというか。つまり、なんらかの文脈でコトのイメージを組み立てつつ、そこに「リアル」を感じてはいるが、あえてそれを「言語」として、メイカクな「意識」のもとにとらえてはいない状態、といえば、かなり近いのではないだろうか。そこには小浜氏のいう「身体性」「他者性」「時間性」の三つが同時に把握されているわけでもある。

同じ…といっててもしょうがないが、むしろ聞きたいのは、世の精神分析の人たちってこの小浜さんの本をどう読んでいるのか?ってことだよね。やっぱ無視されてるんだろうか。精神科医がこの本にコメントしたのを聞いたことがない。ご存じの方がいらっしゃいましたら、ぜひお知らせ下さい。

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Vol.27
オムレットのアドバンテージ(99.4.5)
(この項、はっきり言って言い過ぎ。もうヤケクソだ〜って感じ?)

しつこくもオムレットの宣伝ですが、さいきんいただいた感想に、「オムレットを読んでいたおかげで(他の難しい本が)読みやすかった」というのがあった。

これはまさに我が意を得たりって感じで、よくぞ言ってくれたと感激してしまった。つまり、私もつねづね、オムレットを読むと他の本が分かりやすくなるはずだと思っていたのだ。これは難しい本よりオムレットが「優れている」という意味ではぜんぜんないわけで、それ自体なかなか説明しづらいことでもある。

単純に言ってしまえば、「難しい本」は専門的に高度な理屈の中に入ってしまうために、問題が何かが見えにくくなってしまうのに対して、オムレットは、高度な事は言ってないが、問題を全体的な枠組み、イメージとして示しているからでしょう。この「枠組み」が見えているかどーかが、テクニカルな議論を難しいと感じるか、ああ分かると感じるかの境目だと思うわけだ。いくら難しい議論でも、オムレットで全体の枠組みがとらえられていれば、これは全体の中でのどの部分だ、と「見切る」ことができるのだ。

こーゆう全体の枠組みをパラダイムっていうわけだけど、はっきり言って、こういう新しい枠組みをどーんとひとつのイメージで提出したのは「オムレット」が世界初?とまでは言わないけど、少なくとも私は他に知らない。そういう意味で、この前つくったポスターに「知のパラダイム革命か?」と書いたのは、あながち冗談ではないのだ。ただし、パラダイム革命を「オレが」やったなどと言ったら、単にビョーキの人なんであって、そうじゃなくて、オムレットっていうのは、すでに人々がそう思い始めているコトを、あるイメージのカタチとして示し、また「こういうことだよね?」と訴えかけているものなのだ。

というわけで、まだご覧になってない方は、以上のような効能がありますので、騙されたと思って、ご覧下さい。

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Vol.27
オムレットのディスアドバンテージ(99.4.7)
どーも前項(99.4.5)は、言い過ぎというか、自画自賛、贔屓のひきたおしが過ぎたので、フォローしておこう。

故意に隠してるわけではないのだが、私信としては「オムレット」へ批判的なものもたしかにいただいてます。ただまとまったものがないので(難しい、というだけとか)あえてそれについて書いてないわけです(「難解」さについては、以前にまとめて書いたけど)。私としては、いろいろ言ってもらえると(批判的に)それについて議論も盛り上がるし、次のネタにもなるし、大歓迎なので、ぜひお送りいただきたいわけです。
とゆーわけで、オムレツ感想文も募集しています(ってゆうか、もともと募集しているのです)。ウェブ掲載可とつけてお送り下さい。

それはそれとして、私なりにオムレットのいたらぬ点を考えてみると(難解かどーかは別にして)、前項に書いたことと矛盾するようだけれども、その提出しているという「全体的な問いのイメージ」なるもんが、あまりにも「これしかない!」というような書き方になっていて、ある意味で制度的というか、押しつけっぽくなっているというところでしょうか。
カンジンなコトは、その問いをつかってそれぞれの人がそれぞれのコトバで、「自分の頭で考える」(おー、久々に出るこのフレーズ)ことでしかないんだけど、そういうふうに「開かれて」いくための「開き」が足りないんじゃないかってことです。肥留間氏のまくし立てるしゃべり口調が「うざってー」という話(笑)は、よくあるんですけど、口調だけではなくて、その背後には、そういう「開き」が足りないという問題があるとは思ってます。

それは問題意識の当事者である「オムレットくん」を、つねにアヤコちゃんの背後にいる「聞き役」に限定してしまって、議論の中には登場しないようなカタチにしてしまったという単なる設定上のミスともからんでるんでしょう(設定ミスにして逃げるなよー)。この設定からくる問題は、オムレットの問いがちょっと浮き世離れしすぎて、「いま」の切実な問題、ヴィヴィッドな問題にはあまり具体的にコミットできていないってことでしょうが、これはゼッタイ続編でやるからねー。

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Vol.27
テツガクしよう!(99.4.8)

「テツガクしましょ、…」なつかしや、山田邦子の歌である(「ひょうきん族」で歌っていた)。

この前、つらつらとネットを巡っていたら、森岡正博さんの「生命学ホームページ」で、「 現代において哲学するとはどのようなことなのか」という論文を掲載していて(今発売されている「哲学」という雑誌にも掲載しているのだけれど)、これが痛快で、拍手喝采してしまった。内容的には、日本哲学会という学会の内部でその学会のあり方を批判する、という強烈なもの。学会批判というと、ワシらにはなんのかかわりもないよーな気がするかもしれないが、問題は「哲学」というところにある。ゴーインに単純にまとめてしまうと、哲学というのは、それぞれの人がそれぞれ自分の頭で真剣に考えて現代のさまざまな「問題」に答えていくことなのに、学会がやってるのは、過去の哲学者と呼ばれた人たちがどう考えていたか?という文献学・解釈学ばかりではないか、というものだ。

はたから見るときわめて当たり前のことだけど、学会の内部でこういうことが言われたということは、「いまさら」というよりは、「やっとこういうコトを言える人がでてきたか」というヨロコビの方が大きい。それは私も「哲学科をドロップアウトした学生」として、そういう世界(学会)とささいな関わりがあったからだろう。それでも現在は「学会」というものがどーなろうと、知ったことじゃないので、基本的にはこの「学会批判」が、学会にとってどーいう意味をもつのか?というようなことは、別にどーでもいいことなのだ。

私が「痛快」なのは、その「批判」を通して、森岡さんが、現代において生きる我々が直面する「切実な問題」を考えることが、哲学なのだ、という立場を鮮明に打ち出していることだ。いぜん「哲学は病気か?」という文章で、哲学は役にたたないから病気だ、という言い方を「二流だ」と言って批判したが、森岡さんのように自分の頭で考えることとして哲学に意味があるとする立場にまで、ふみこめなかった。日和ったというより、やはり「哲学」の外部にいる者として、「哲学」そのものをそこまで持ち上げてやる必要もないってことだったのだ。よーするに「哲学」というスタイルを取る・取らないにかかわらず、関心事にかかわるときに人は、切実な問題に対して自分の頭でとりくむことになるのだっていう立場だったわけだ。

しかし、「哲学」の側からみれば、それで済むはずはない。哲学というスタイルをとることが大前提である以上、それは絶対に、自分の頭で考えたことが、多少なりとも内容として含まれなければおかしい。そういう意味で、哲学を病気とか、オタク的なテクニカルな議論ではなく、「自分の頭で考えること」とする森岡さんの論理こそ、まっとうなものだ。というより、そうでなければ、「哲学」として発言することの責任を回避していることにすらなるだろう。

森岡さんのこの論文はウェブでも読めるので、ぜひ、ご覧いただきたい。ちなみに書店で「哲学」誌をみたら、2000円くらいする高〜い本なのであった。

ちなみに、ぐうぜんだがこの「哲学は病気か?」という文章の中で、私は森岡さんにふれているが、その後とどこおってしまってました。すいません、いずれ…(いずれって言っちゃいけないんだよなー)。あと「オムレット」のポスターに洒落で「こころ学」って使ったんだけど、これ森岡さんの「生命学」からのパクリです。失礼しました。

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Vol.27
魚座のみなさん、オムレットを読もう!(99.4.14)

発売中の「ダ・ヴィンチ」5月号に、「オムレット」が載ってるというので、よーく調べてみたら、ありました。なんと「星占いコーナー」に…。

星占い

「ダ・ヴィンチ」はいちおうチェックしてるのだが、とりあげられるとしたら編集部が選んでる「注目本100」のコーナーくらいしかないだろうと思って、そこしか見ていなかったのだ(結局そこには載ってなかったわけだ、とほほ)。で、今月の「ダ・ヴィンチ」といえば、そーいえば「芥川賞をとらせたいマンガ」って特集だったはずじゃない? 「…ってことは、オレに芥川賞を!?!」なーんてことは思うハズもないが、とりあえず急ぎ書店へ向かったわけだ。で、星占い、ときて笑っちゃったわけです。

もちろん星占いと来て、ガクっと来なかったといえばウソになるが、ほんと、この占いを書いてるマギーさんには大感謝しています。なんといっても添えられているキーワードがイイではないか。

 キーワード:原点。物事の基本や大元に注目すると、
       目からウロコが落ちそう。

とあるじゃーないですか。つまり曲解すると「オムレット」を読むことは「基本や大元」に注目することであり、結果として「目からウロコが落ちる」ってことになる。すごい。ぜひ魚座の人にかぎらず、お読みいただければ幸いです。

ところで私が笑っちゃったのは、また別の意味あいがある。前にどこかで書いたかもしれないけど(ツインピークスの記事でした)、「オムレット」のキャラクターというか設定は、ほとんど私が以前に描いた「肥留間氏の魔法の本」というマンガから持ってきているのだが、なんとこの「肥留間氏…」というマンガ、「星占い」のマンガなのである(ずーっと前に作った「あらすじ」がこのウェブにもありますので、ご覧下さい)。「オムレット」がはじめてメジャーなメディアで取り上げられるというときに、よりによって「星占い」とは、これも何かの運命なんですかね、マギー先生?!

 

蛇足だが、この「芥川賞をとらせたいマンガ」ってちょっと変。だって「芥川賞」って単に「新人賞」でしょ、それなのにここでノミネートしているマンガって大御所の作品とか、いわゆる名作ばっかりじゃないの。編集部の意図が、偉いマンガを表彰したいっていうことだというのは分かるけど、「芥川賞」って言葉を使うのは失礼っていうか、根本的に勘違いしてるんじゃないかと思うわけだ。むしろ「ノーベル賞」っていうべきところじゃないだろうか。どーでもいい事ですけど。

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「ヒステリー的な問い」から「伝承の語り」へ(99.4.24)

前に書いた「少年Aと悪」で、「なぜ人を殺してはいけないのか?」について書いたけど、それについて某所でちょっと議論があり、そこで考えたことがあるので、以下にまとめておきます(つまり私だけの考えというよりは、いろいろとインスパイアされたことで考えたことなわけだが、ともかく文責は私にあります)。

まず大江健三郎氏のように「問いを断ち切る」しかないのではないか?と結論を書いたけど、これは正確には、前に書いた意味での「ヒステリー的な問い」に対しては、という限定をつけなくてはならないってこと。
つまり、「いけない」ということが身にしみて?分かっている大人や少年に対しては、断ち切るしかないということであって、まだ何も身にしみてない子どもに対しては、単に拒絶的に対応するのではなく、いろんな「たとえ」や「教訓」を使って「答え」てやるのがいいに決まっている。「バチがあたるから」でもいい。これは永井氏のいうような意味での「哲学的な厳密さ」とはまったく関係なく、とにもかくにもそれが「いけない」ってことを身にしみさせることが(結果的に)できればいいわけだ。で、そういうことがまったくなかったらそもそも文化ってものが成り立たないってことなんでもある。

ということを思ったのは、この「問い」について識者にアンケートして回答を特集した雑誌があり、その中に中井久夫氏(精神科医)の「それはひとつの宇宙を消し去ることだからです」というステキな「答え」がある、ということをある方より教えていただいたからだった。

この答えは、たしかに魅力的ではあるが、永井氏的な意味での哲学的な厳密さという流れからすると答えになっていない(続きを読めばわかりますが、別に中井を批判しているのではないのです)。つまりそれに対して「じゃ、なんで宇宙を消し去っちゃいけないの?」という問いが生じてしまい、それに答えるには、結局、宇宙にはかけがえのない価値があるから、という論理をとるしかない。とするとこの「答え」は、人命には価値がある、あるいは生命には価値がある、ということを言い換えているにすぎない。論理的には「価値があるものは価値がある」という定式に還元されるというか、よーするに同じ事を繰り返して言ってることになるわけだ。

しかしここから分かるのは、どんなものであれ「論理的な言葉」が、それを聞く者にとって「答え」であるためには、あらかじめ人命なり生命なり宇宙なりが、かけがえのない価値を持つという価値観が共有されていなくてはならないわけで、その共有という前提を、哲学者は懐疑し、ヒステリー者?は拒否する(そして「子ども」はその価値が単に「身にしみていない」のだ)。

と、考えてみると哲学者のやろうしていること(というより、それが哲学的な問いとして立てられた場合に、その答えとして求められているもの――ただしここで言う「哲学」とは、あくまで論理的な緻密さにこだわろうとするある種の傾向のことであって、私が「テツガクしよう」というときの「テツガク」とは同じではないが――)とは、価値中立的な論理によって、一気に!価値共有の状況を創り出す、という、まさにアクロバティックなことなのであって、そんなことできるわけないってことは明らかではないだろうか。

価値観の共有は、ようするに広い意味での文化、文明の「伝承」という行為によってはじめて可能になることなのだ。で、「伝承」という行為は、あくまで(哲学的な)問いの外部にある。つまり、きわめて当たり前のことだが、人は哲学的に正しい答えなり、論理的に厳密な答えを納得して初めて文化を受け入れるわけではなくて、あらかじめ日々の行為において、いわば「カラダで」それを受け入れているわけである。

と、考えてみると、こんどはその「伝承」、つまり日常的なかかわりあいの中に、そういう問いが紛れ込んできてもおかしくはない。それを排除する理由はなにもないわけである。そこにいわゆる「素朴な疑問」として、子どもがそういう問いを問うということが出てくるわけだ(情報化社会だからしょうがない)。とすれば、そういう問いを排除することなく、かといってオタク的哲学的緻密さ(永井氏?)にねじ曲げるでもなく、「伝承的な語り」として多くの文例を持っていることは、いいことなのだ(ちなみにその文例が、ユダヤ教みたいに「汝殺すなかれ」しかないとしたら、その文化は「伝承」のレベルでは相対的に貧困だといえる。逆に先の中井氏のような言葉をたくさん持っている文化は豊かだ、と言えるだろう)。

結論。そういう意味では、この問いへの答えは単に「断ち切る」べきなのではなく、これからも様々な「伝承」として語られるべきことなのだろう(いまや、子どもに対してではなく、大人に対しても「伝承」が必要になっているということが、問題なのだが)。

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