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contents
Vol.29 まだ伊丹堂にいるのです号(99.5.25-99.6.30)

■知の巨人たち(99.5.25)
■内側からわかる!(99.5.27)
■竹田青嗣「プラトン入門」(99.5.31)
■「週刊金曜日」(99.6.4)
■「学校保健のひろば」(99.6.11)
■加藤典洋「日本の無思想」(99.6.21)
■ありがとう、セツ先生(99.6.26)
■柳美里さんの「表現の自由」について(99.6.28)

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Vol.29
知の巨人たち(99.5.25)

NHKのETVで「20世紀 知の巨人たち」という番組をやってて、「〜たち」というわりには「ニーチェ」と「ハイデガー」だけなんだけど、ともかくその番組の「解説」役として哲学者の竹田青嗣さんが出てて、ちょうどこの前「怒りの構造」のところでで竹田さんについて書いたところだったんで、私もチラっと見たんだけど、やっぱりそこんところを言ってましたね。

ようするに人間の内なる「真善美」の感覚?っていうか。ニーチェは道徳批判というふうによく言われているけど、ようするにキリスト教道徳のように「自分の外側」に立てられた道徳がダメなのであって、自分の内側から感じるものとしての「ルール」を大事にしていかなくてはならない、という点で共通するのだ、ということらしい。

私的にはこれで納得するところが多いが、たまたまウチのリンク集から「西研ホームページ」にリンクを書き込んでいたけど、この「西研ホームページ」には「竹田青嗣ホームページ」が併設されていて、そこに竹田さんの「プラトンVSニーチェ」という架空対談が掲載されていて、まさにここんところのテーマをまとめている。これも興味のある方はごらんあれ。あと全然知らなかったけど、竹田さんの「プラトン入門」という本がちくま新書から出てるんですね。

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Vol.29
内側からわかる!(99.5.27)

「オムレット」が出たばかりの頃、「内側からわかる」という表現がちょっと分かりにくいとか問題になったのだが、わりと最近は、よく耳にするようになった気がするけど、気のせいでしょうか。

この前、ちょっと書いた「知の巨人たち」という番組でも竹田青嗣さんが、外部に立てられた道徳ではなくて、「内側から」判断していくということがダイジだ、みたいなことを言ってたし(おぼろげな記憶ですのであしからず)。

それはともかく、「内側」についてちょっと言っておかなくてはと思ったのは、この「内側」が、「心の内と外」という図式にとられると困るなー、ということなんです。これも前にチラっとふれた野矢茂樹さんの「心と他者」という本で、「心の内と外」という考えはイカン!というようなことが書いてあって、それ自体はワタクシ的には納得するのだが、ある意味では「内側」という表現はそういう図式に受け止められやすいかなー、というのが引っかかっていたのだ。

私が「内側」ということで考えているのは、感覚・イメージ・概念・コト、などのようするに「情報」というカタチで存在するようなものの、その「内側」で我々がものをわかっている、ということであって、その「外側」に、それを受けとる「主体」や「自己」があるわけではない、ってことです。

しかしその分かってる「内側」の外に、実体としての世界があるわけではない。端的にこの「わかること」の外部は存在しない。心という場に現れるということ、つまり「わかる」ということが、情報という在り方をするものにとっては「存在する」ということなんであって、そうでない時は「存在していない」(したがって「外部」もない)。もちろんこれはいわば「情報という地平」でのことであって、実際問題として「この世界がある」ことを否定する(観念論?)わけではないんですね。ようするにそれはなんというか「存在性格」が違うということですかね。情報として「心という場に現れる世界」と「実質として在る世界」との違い、というか。

これはそのまんまオートポイエーシスなんかの考え方だと思うけど(オートポイエーシス・システムの外部は存在しない/内部観測者…など)。でもオレ的には、絵で描いた方が、非常にわかりやすいですけどね、オムレット的に(例によって宣伝です)。

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Vol.29
プラトン入門(99.5.31)

この前話題にした竹田青嗣さん「プラトン入門」(ちくま新書)、さっそく読んだのだが、これはスゴイ。もうはっきり言って、人に教えたくない。人に教えたくない本というのは2、3年に1冊あるだろうか、そんな中でもとびっきりに人に教えたくない本である(しかし、こう書くとオレってすごいケツの穴の小さい奴みたいだけど、本当にそうなんです)。それにしてもプラトンと言えば、例の洞窟のヒユで、洞窟から抜け出て「真実」を見た哲学者は、そのまま洞窟の外で暮らすのではなく、もう一回洞窟に戻って、みんなに外の世界がどうなっているか、教えるわけだから、「プラトン入門」を読んで「すげぇ」と思ったオレがそれを「教えたくない」なんて言っちゃいけないんだろーな。

この本のすごさっていうのは、これまで「イデア論」によって「真理」の代表みたいに捉えられ、ヨーロッパ中心主義の悪の総大将みたいに捉えられていたプラトン像を180度、転換してしまうところにある。もちろんそれだけだったら、哲学になんの義理立てする必要もないオレや、ここの読者にとって、なんの意味もないのだけれど、それを通じて、竹田さんのエロス論(生の哲学みたいなもの)が語られ、知や社会、そして恋愛!についての「ものの見方」が、見事に切り開けていくというところがすごいのだ。まさにカバーに書いてあるように「目からウロコ」なのだ。

ちょっとだけまとめてみると、プラトンのいう「イデア論」は、「あの世(彼岸)」に、観念そのもの、みたいな真実の世界がある、ということではなくて、人間は普遍的な知(誰にとっても妥当する「ほんとう」らしさ?)を求めてしまう、ということだというのだ。その根底には、「価値あることを求めようとする」人間の本性がある。すべてのイデアの大元に「善のイデア」があるというのは、そういうことなのだ、というわけだ。何が「善」なのか?何が「真」なのか?は決まってはいないが、ともかく人は(自分にとって)価値あることをめがけて生きる。生きるとはそれを「普遍化」していくプロセスなのだ、ということになる。ここには「この世(此岸)」を否定するプラトニズムの片鱗もない。生の肯定を語る「生の哲学者プラトン」が現れてしまうわけだ。で、そこを軸足にしてみると、社会や文化、生き方の問題についての見方が非常に「開けて」くるということなのだ。

(ちなみにここらへんの考えは、我が「オムレット」の「意味と情熱」という項目とぴったりリンクしていて、ワタクシ的にはそこが面白かった。でも今までのように「オムレットで言えば〜ってことじゃん」という感じではなくて、さらに広がっていく見方って感じで、感服するとともに、早く「オムレット」の続きを描きたいと、思った次第です。)

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Vol.29
「週刊金曜日」(99.6.4)

なんとあの「週刊金曜日」の「金曜日の本箱」という書評コーナーで、「オムレット」が紹介されてます(6月4日号)。オムレットの紹介は短いものですが、なんといっても人目にふれるところに出していただけるのは、うれしい限りです。みなさまもゼヒゼヒ、「週刊金曜日」をごらんください。

追記:しっかし、オレもさんざん筑紫サン(「週刊金曜日」の編集委員でもある)に批判めいたことを書いておいて、よっく言うよな〜って、感じだけどね。

学校保健のひろば(99.6.11)

先週の「週刊金曜日」にひきつづき、「学校保健のひろば」No.14(1999夏号、大修館書店刊)の書評コーナーで、オムレットをとりあげていただきました。
今回は(雑誌媒体では初めて)ぐっと濃い書評として書いていただいており、ほんとうにうれしい、感謝感謝です。

この雑誌は保健体育・養護教員向けの教育関係雑誌なので、あまり目につかないところにあるかとも思いますが、(すでに「オムレット」を知っている人にとっても)この「書評」自体が面白いかと思いますので、本当はここに全文引用させていただきたいくらいですけど、とりあえずはぜひぜひ書店でご覧ください。

ちなみに、ぜーんぜん関係ないんだけど、うわさによると、北海道では「オムレット」の評判がいいらしい(笑)。

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Vol.29
加藤典洋「日本の無思想」(99.6.21)

私にとって「日本の無思想」とは、「村山首相によって、日本の現実はすべて冗談になった」、これにつきるが、この本を読むと、村山という事件は単に「結果」であることがわかる。ここで取り上げられているのは、「ホンネとタテマエ」という、あまりに馴染んでしまった考え方だが、その人の「ホンネ」を問題にするにせよ、「タテマエ」を問題にするにせよ、「ホンネとタテマエ」という二重の現実を認めた時点で、あらゆる思想的な表現はそもそも「無意味」になる。「ホンネとタテマエ」は入れ替え可能で、そうである以上、本質的な意見の対立や議論などが起きるはずもない。「現実」がどーとでも言えるものである以上、そこに思想は成立しない。日本の無思想さ、が正にここに現れるのだ。

問題はなぜそのようなことが可能になっているのか?、二重の現実が認められてしまう「空間」とは何なのか?というのが、著者の最初の問いだが、これに対する回答は、日本人の現実に対する「ニヒリズム」だということになる。よーするに「どっちでもいい」ということなのだ。じゃいつから「どーでもよく」なったかというと、戦争による徹底的な敗北によって、だろうというのが、加藤氏の言わんとするところだろう。

「ホンネとタテマエ」というと、あまりになじみ深くて「古来からある日本的な考え方」であるかに思いこんでいるが、これが戦後、しかも70年代以降使われはじめた「新語」であることを暴き出していく加藤氏の追求は、松本清張のサスペンスみたいに面白い。というか怖い。いままで信じていた「自分」というものが、いかにマインドコントロールされた「結果」にすぎないか、ということを突きつけられるようなものなのだ。あるいは、自分が実はサイボーグだったことが分かるというSFの感覚に近いかもしれない。

しかし戦後からであるにせよ、そもそも日本という空間では「現実」の意味あいが失われていたとすれば、村山って何だったの?ということになるが、加藤さんの論に強引につなげて言えば、村山氏の場合、「ホンネとタテマエ」という区別すらなくなって、現実をなし崩しのカオスにたたきこんだ、ということになるだろうか(実際、村山氏の発言も行動も、なにがホンネでなにがタテマエなのか、もはやその区別すら出来ないものであった)。真空総理小渕がその延長線上に現れるのは、もはやなるべくしてというか、驚きすらない。そこでは彼がどんな無意味な発言をしようと、もはや「問題」にされることすらないのだ(本来であれば、一国の「代表」が、自分には何の意見もないのだ、という類の発言をしたということは、それでもって「不信任」にされていいような発言だろう)。

加藤さんの問題は、そのような状況の中では「言葉が意味を失ってしまう」すなわち「言葉の死」という状況を見据えた上で、ではいかにして「意味」――それは生きる意味につながっている――を回復するか?、いかにして「思想」を語りうるか、というところにある。そこで言葉が意味を持つ空間、「公共空間」を考え直すという問題から、ハンナ・アーレントなどを引いて「公と私」の問題をつきつめていくわけだが、このへんの考えも非常に共感した。「公」を「私」とは切り離されたものではなくて、私情(私利私欲)の上に(オレ的には、「内側から」)築き上げられなくてはならない、ということだからだ。この私情(オレ的には「ワクワク」っていうか?)なしに、そこから切り離された「公」は、いわば「嘘」なのだということになり、それにのっかっただけの論理は「弱い」と、加藤氏は言う。

そして結論としては「私情」の上に「公」をつくり出すことができれば、言葉が意味を持つ空間、思想が意味をもつ空間も作り出せる、ということになるのだが、その実現に向けて、加藤さんはこれまで言ってたようなことと一見逆のようなことを言っていて、実はそれがまた面白いのだ。加藤さんは「べしみ」という能の面の例を引いて、これは「中央の神」に対して「無言で抵抗する」神の姿なんだそうだけど、この無言で、というのがポイントで、もしも言葉で反抗したとしたら、それは「中央の神」の持っている言葉の世界、つまりその権力に屈服することになる、というのだ。私はたびたびここでも言ってるように岩手出身なのだが、あーオレを含めて東北の人があまりしゃべらないのは、この屈服を意識しているからなのか、などと妙に納得してしまった。

それはともかく加藤氏はこの「語らないこと」にも「権利」があるのではないか、という。つまりどのような公共性であれ、そこには原初的な権力が潜んでいるのだから、まずもってそこに参加しなくてはならない(屈服しなくてはならない)ということが「先立つ」ならば、そこには根元的な「私」の否定が先立つことになってしまうからだろう(そうであれば、それを「権利」という「法」的な言葉で語るのはちょっと違う感じがする。よーするに「存在価値」ってことなんだろうけど)。

ではそういう「権利」があるにもかかわらず、人はある公共性の中に入っていき、自分自身でもその公共性を創り出して生きていく。それはなぜか? そこのところは、この本では尻切れトンボになってて、説明はあまりない。オレもなんだよーっと思ったのだが、その後、図書館で調べていたら、加藤氏の「戦後を戦後以後、考える」(岩波ブックレット)という小冊子があって、そこにちょっと違うカタチで(イノセントであることと、社会的であることの対立というカタチ)、ふれられていた。これでナルホド、とある意味で納得がいったが、ようするに自分にとって社会や公共性はあくまで「外」なるものであって、それに対しては根元的に責任というものはないけれども、それを「引き受けること」(宿命を受け入れること)が、生きるということだから、ということになるのだろう。そしてそれができる根拠は、社会や公共性の中で、ではなくて、そこに入る以前のイノセントな「自分」が承認されている、というところにあるのだ(存在価値)。

というわけで、「日本の無思想」は、この岩波の「戦後を戦後以後、考える」と併せてご覧になることをオススメします(昔からの加藤ファンにはまったく蛇足な話ですけど…)。そしてまたこの最後のところは我が「オムレット」の「第5章 心と世界を繋ぐもの」とも重なる話なので、ここもご覧いただけると幸いデス。

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Vol.29
ありがとう、セツ先生(99.6.26)

セツ、こと長沢節先生が亡くなった。
イラストレーターにして映画評論家でもあり、そして「セツ・モード・セミナー」の校長でもある。そして私は2年ほどセツの夜間部美術科にごやっかいになりました。セツは私にとって唯一ホントの意味で「先生」と呼べる方でした。セツ先生の方ではぜんぜん記憶にないと思いますが…。
セツ先生は、絵とは何か、美とは何かということを(ほんとうに頭でしか分かっていなかった私に)まるごとの体験として「理解」させてくれたと思います。いわゆるセツ出身者でも、そういう人って多いんじゃないだろうか。私なんかほとんど「センス」ってものがなかったので、絵の品評会でセツに「うわっ!キタナイ!誰だ、これ描いたの!」なんて言われてしまいましたが、先生にそう言わしめたことは、私にはイイ体験として残っているわけです。
なんでも千葉の大原の毎年恒例の写生会での事故が原因だったそうだが、いかにもセツらしい最期で、泣けてくる。あの素敵な魂にして「病」による死は似合わない。役者が舞台で亡くなるというより、さらにさらに、セツらしい生きざまって感じだ。この大原っていう土地は、セツが南仏の風景に似ているといって毎年写生会を行っているんだけど、なんでこんな梅雨どきにやるんだよ〜っと、当時不満だったんだけど、あれから10うん年、いまだにこの時期にやってたんですね。
きっとセツもまたアートの天使となり、我らにインスピレーションを与え続けてくれることでしょう。

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Vol.29
柳美里さんの「表現の自由」について(99.6.28-99.6.30)

柳美里さんの裁判がちょっと話題になってたけど、私に言わせると(あんまり物議をかもしたくないので、伊丹堂のオヤジにでも言ってほしいところだけど)、もう話にならないって感じ。

なにが話にならないかっていうと、裁判の結果に対して「表現の自由」を持ち出して、しかも「私小説」というジャンルそのものの問題にしてしまっているところだ。ワイセツ裁判なら、ジャンルそのものの存続の当否が問われているということが言えるだろうが、今回のは私小説というジャンルが問題にされているわけでも、表現の自由というそもそもの権利が問題にされているわけでもない。その自由な権利の上で表現されたものが、結果としてある個人を傷つけてしまったかどーか、という「事実」が問題にされているわけでしょ。そしてその「事実」は許されるのか?と。

分かりやすく言えば、銃の所持や使用が認められている社会で、結果としてそれを使って人を傷つけておいて、そのコトを責められているのに、それに対して銃の使用の自由がおかされる!と言って「反論」しているようなもんでしょ。すご〜い悪いたとえだけど。まー、たまたま知り合いに高名な写真家がいて、その人にプライベート写真撮られて、自分としてはそれが公表されたらイヤ(すご〜い、恥ずかしいシーンなのだ)なのに、公表されてしまったという例なら近い。その場合だって写真家の「表現の自由」がなににもまして最優先されるなんてことになったら、とんでもないことでしょ。こういう場合なら、即座に「肖像権」うんぬんを持ち出して、「表現の自由」に対して裁判上で闘うということが考えられるけど、小説のモデルの場合はそれに相当するような「権利」が即座には思いつかない。そこらへんが「表現の自由」を平気で語らせる前提でもあるわけだけど、まあいつも言ってるようにそもそも法律とはヴァーチャルなものなわけであって、「権利」などというものがそのものとして存在するわけではない。裁判(司法)というのはそういう法的なコトバ/ヨリドコロを使って、実際の社会的な関係において、公平性を実現するということでしょう(逆に言えば、司法が、法のコトバを実体とみなして、それをあがめたてまつって、法と現実を逐語的に照らし合わせていく、というキカイ的な行為であってはならないってことでしょう)。そういう意味では、非常にいい判決だったのではないか、と思う。

ようするに「表現するのは自由」。だから柳さんは「書いた」。そのことは誰にも責められないはず。しかし結果としてはある人を傷つけてしまった。しかもそれは裁判で認定される程度に「リアル」なものだった。だから柳さんは出版差し止め命令を受けた。そーゆうプロセス(流れ)としてこれを見れば、ここの中のどこでも「表現の自由」なんてものがおかされていないことは明らかだ。誰もこの裁判の結果を盾にして「私小説そのものを禁止しよう」などとは言ってないからだ。

だから私も柳さんが書いたことが悪い、とは言わない。そんなことは知ったことではないのだ。判決後の会見で判決に対して反論してしまった、その「発言」だけが問題なのだ。結局「表現の自由」ということを柳さん的に使うなら、何を書いたっていい、というよりは、書いたことに責任をとる必要がないってことになるじゃない。これが「自由のはきちがえ」でなくてなんなのか? しかもここで「私小説」というジャンル、そしてそこにつきまとう「芸術性」という「権威」を持ち出して、実際に傷ついたというある個人を否定しにかかる、というのがもうなんとも見下げた根性だと思うのだ。自分はそういう「権威」をまとった特別な人間だから、他人のキモチを否定しようがどーしようがかまわない、ってことだろうか。じっさい私生活ではそーいうことが平気でできる「芸術家」ってのは多いだろうけど、これは「作品」、しかも「柳美里の作品」ということで(よかれ悪しかれ)もう「公的な」ものになってるわけだからね。まずは自分が「権力者」なんだってことを今一度自覚すべきでしょう。

柳さんという人には、私もなんどもHPで「批判めいた」ことを言っているが(少年A供述書についてや、「承認」という問題についてで)、柳さんの小説って一度も読んだことがない。でも私は新聞雑誌に掲載された(公的な)発言に対してどーこう言う場合に、その人の以前の作品や著作を読む必要はない、という立場なので、こーいってるわけだ。それは宮台氏やオウムについても同じだけど。ただ柳さんの場合、そのコメントからして類推するに、その小説作品は、人が傷ついた・傷つけられたという心的外傷の問題を巡るもののようなので、いわば「傷ついた・傷つけられた問題」の専門家が、このように人を傷つけたという結果に無頓着で、あまっさえ「権力者」として立ち向かう図はいったいなんなのか?と疑問に思ったわけだ。これは読者にとっても「幻滅」なんじゃないんだろうか。読者の方の意見を聞きたいもんです。

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