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加藤典洋「日本の無思想」(99.6.21)
私にとって「日本の無思想」とは、「村山首相によって、日本の現実はすべて冗談になった」、これにつきるが、この本を読むと、村山という事件は単に「結果」であることがわかる。ここで取り上げられているのは、「ホンネとタテマエ」という、あまりに馴染んでしまった考え方だが、その人の「ホンネ」を問題にするにせよ、「タテマエ」を問題にするにせよ、「ホンネとタテマエ」という二重の現実を認めた時点で、あらゆる思想的な表現はそもそも「無意味」になる。「ホンネとタテマエ」は入れ替え可能で、そうである以上、本質的な意見の対立や議論などが起きるはずもない。「現実」がどーとでも言えるものである以上、そこに思想は成立しない。日本の無思想さ、が正にここに現れるのだ。
問題はなぜそのようなことが可能になっているのか?、二重の現実が認められてしまう「空間」とは何なのか?というのが、著者の最初の問いだが、これに対する回答は、日本人の現実に対する「ニヒリズム」だということになる。よーするに「どっちでもいい」ということなのだ。じゃいつから「どーでもよく」なったかというと、戦争による徹底的な敗北によって、だろうというのが、加藤氏の言わんとするところだろう。
「ホンネとタテマエ」というと、あまりになじみ深くて「古来からある日本的な考え方」であるかに思いこんでいるが、これが戦後、しかも70年代以降使われはじめた「新語」であることを暴き出していく加藤氏の追求は、松本清張のサスペンスみたいに面白い。というか怖い。いままで信じていた「自分」というものが、いかにマインドコントロールされた「結果」にすぎないか、ということを突きつけられるようなものなのだ。あるいは、自分が実はサイボーグだったことが分かるというSFの感覚に近いかもしれない。
しかし戦後からであるにせよ、そもそも日本という空間では「現実」の意味あいが失われていたとすれば、村山って何だったの?ということになるが、加藤さんの論に強引につなげて言えば、村山氏の場合、「ホンネとタテマエ」という区別すらなくなって、現実をなし崩しのカオスにたたきこんだ、ということになるだろうか(実際、村山氏の発言も行動も、なにがホンネでなにがタテマエなのか、もはやその区別すら出来ないものであった)。真空総理小渕がその延長線上に現れるのは、もはやなるべくしてというか、驚きすらない。そこでは彼がどんな無意味な発言をしようと、もはや「問題」にされることすらないのだ(本来であれば、一国の「代表」が、自分には何の意見もないのだ、という類の発言をしたということは、それでもって「不信任」にされていいような発言だろう)。
加藤さんの問題は、そのような状況の中では「言葉が意味を失ってしまう」すなわち「言葉の死」という状況を見据えた上で、ではいかにして「意味」――それは生きる意味につながっている――を回復するか?、いかにして「思想」を語りうるか、というところにある。そこで言葉が意味を持つ空間、「公共空間」を考え直すという問題から、ハンナ・アーレントなどを引いて「公と私」の問題をつきつめていくわけだが、このへんの考えも非常に共感した。「公」を「私」とは切り離されたものではなくて、私情(私利私欲)の上に(オレ的には、「内側から」)築き上げられなくてはならない、ということだからだ。この私情(オレ的には「ワクワク」っていうか?)なしに、そこから切り離された「公」は、いわば「嘘」なのだということになり、それにのっかっただけの論理は「弱い」と、加藤氏は言う。
そして結論としては「私情」の上に「公」をつくり出すことができれば、言葉が意味を持つ空間、思想が意味をもつ空間も作り出せる、ということになるのだが、その実現に向けて、加藤さんはこれまで言ってたようなことと一見逆のようなことを言っていて、実はそれがまた面白いのだ。加藤さんは「べしみ」という能の面の例を引いて、これは「中央の神」に対して「無言で抵抗する」神の姿なんだそうだけど、この無言で、というのがポイントで、もしも言葉で反抗したとしたら、それは「中央の神」の持っている言葉の世界、つまりその権力に屈服することになる、というのだ。私はたびたびここでも言ってるように岩手出身なのだが、あーオレを含めて東北の人があまりしゃべらないのは、この屈服を意識しているからなのか、などと妙に納得してしまった。
それはともかく加藤氏はこの「語らないこと」にも「権利」があるのではないか、という。つまりどのような公共性であれ、そこには原初的な権力が潜んでいるのだから、まずもってそこに参加しなくてはならない(屈服しなくてはならない)ということが「先立つ」ならば、そこには根元的な「私」の否定が先立つことになってしまうからだろう(そうであれば、それを「権利」という「法」的な言葉で語るのはちょっと違う感じがする。よーするに「存在価値」ってことなんだろうけど)。
ではそういう「権利」があるにもかかわらず、人はある公共性の中に入っていき、自分自身でもその公共性を創り出して生きていく。それはなぜか? そこのところは、この本では尻切れトンボになってて、説明はあまりない。オレもなんだよーっと思ったのだが、その後、図書館で調べていたら、加藤氏の「戦後を戦後以後、考える」(岩波ブックレット)という小冊子があって、そこにちょっと違うカタチで(イノセントであることと、社会的であることの対立というカタチ)、ふれられていた。これでナルホド、とある意味で納得がいったが、ようするに自分にとって社会や公共性はあくまで「外」なるものであって、それに対しては根元的に責任というものはないけれども、それを「引き受けること」(宿命を受け入れること)が、生きるということだから、ということになるのだろう。そしてそれができる根拠は、社会や公共性の中で、ではなくて、そこに入る以前のイノセントな「自分」が承認されている、というところにあるのだ(存在価値)。
というわけで、「日本の無思想」は、この岩波の「戦後を戦後以後、考える」と併せてご覧になることをオススメします(昔からの加藤ファンにはまったく蛇足な話ですけど…)。そしてまたこの最後のところは我が「オムレット」の「第5章 心と世界を繋ぐもの」とも重なる話なので、ここもご覧いただけると幸いデス。
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