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愛について(99.7.24-99.7.29、00.4.17改)
このHPでたびたび紹介している『紀伊国屋書店HP』のオンラインマガジン『i feel』のリレーエッセイだけど(以前は、村瀬学氏の回を紹介)、今回は精神科医の滝川一廣氏が書いている(滝川氏は『家庭の中の子ども 学校の中の子ども』(岩波書店)という本の著者)。
で、このエッセイの中で、滝川氏は松本清張原作の『疑惑』という映画(桃井かおりと岩下志摩ねぇさんが出てたやつね)を例にして、弁護士や精神科医、カウンセラーなどが、クライエントの「ために」いろいろ手をつくそうとしても、カンジンのクライエント自身が、そのことにまったく協力的にならない、「知ったこっちゃない」という態度をとる、というモンダイを取り上げているのだ。滝川氏は、クライエントにとっては、そういう外部の?状況を整えてもらうことよりも、まずは「じぶんが好かれること」「愛されること」がモンダイなのではないか?というようなことを言っていて、それはよく分かる。いわゆる「承認」の問題(オレは「愛」の問題だと思うけど)ともリンクするし、この前とりあげた加藤典洋さんの「べしみ」や「イノセント」の問題ともリンクするだろう。ようするにまわりの人が「仕事として」クライエントの「ために」やることは、すべて「外部の論理」の世界に属することであって、根元的な「ワタクシ」は、それに対して「否」と言って(というか「否」とさえ言わずに口をとざす(べしみ)ことで「否」を伝えて)それに属することそのものを拒否する。ではどうやってそこに入っていくのか、と言えば、まずは「愛されること」という体験を通じて、(他者を)「愛し返す」ということで、その世界へと入っていけるのではないか…。『オムレット』133ページに言う「基本的信頼感」とは、このこと。
ということで、以下愛について考えてみたが、振り返ってみると、そもそも「愛とは何か?」ということを書いていない。これについては、ちょうどジャコウネズミさんの「小脳論」に面白いことが書いてあった(ちなみにこの「小脳論」近々、どーんとブレイクすると思いますので、皆様、ご覧になって置いてください…オレの「予言」か?)。
ジャコウネズミさんによると(「小脳論」の「All you need is love」 )、「必要なものを求めるのは愛ではない。必要でないものを求めてこそ愛」だと言う。愛とは必要でないどころか「不都合なもの」「不完全なもの」を、にもかかわらず受け入れることだ、というのだ。まさにそれが愛でしょう! しかしそうするとよく「無条件の愛」なんて言う(以下でも使ってる)けど、逆に「条件付きの愛」なんていうのは形容矛盾というか、そもそも愛ではないってことになる。もちろんそれでいいのではないか!ってことである。最近のベストセラー小谷野敦氏の『もてない男』(ちくま新書)、最終章でもそのような「愛」のカタチが描かれていた。これもぜひご覧いただきたい。(追記:さらに言えば、愛とはそのように「受け入れると」と同時に、そのように受け入れることによって実ハ「自分を(その対象や事態の元に)捧出す」ということだ、ということも明記しておく必要があるだろう。)
「小脳論」でもよく問題にしているけど、「やりたいこととは何か」とか「人はなぜ自分がやりたいことをやれないのか?」という議論があって、それに関連して考えていたのだけど、そうすると、やりたいことができない、というより、やりたいと思つつやらずにすごしてるのだとしたら、そのやりたいコトや、そのコトが属している「外部の世界」、そのコトを成り立たせている「他者性」(これは具体的な他人ではない)に対する「愛が欠如している」のではないか、と思ったのだ。とうぜんそこには「やりたい」だけではすまない苦労や障害、そして責任が多々あるわけだけど、それをも含めて、そのコトそのものを引き受けようという「愛」ですよね。
その上で、この滝川さんのエッセイを読んで思うのは、自分の中からそういう「愛」が発動するためには、まずじぶんが充分に「愛されている」必要があるのではないか?ってことなのだ。前に「承認」じゃダメで、「愛」なんだって話を柳美里さんを引いて書いたけど、その含意は、少なくとも柳さんの言っている「承認」は、自分のやりたいコトにおいて承認されるという論理になっていて、つまりその人がそのコトができる、ないし、なんらかの才能がある、ということが「条件」になってしまう、わけだけど、私が言うのは、そういう「条件」抜きで、いわば存在そのものをまるごと認められるような、そういう承認でなくてはダメで、それは「愛」だろう、ということなのだ。
というのは、まず、そもそもここで問題にしているのは、そういう「条件」が立ち現れるような外側の世界にそもそもなぜ入っていくのか?ということだからして、論理的に言っても、「条件」が先立つことはおかしいってことになる。
といっても屁理屈っぽいから、具体的に考えてみると、もしもその「条件」のもとで、その人が挫折しちゃった場合、その人はもう別なことはできないってことになっちゃう。そうならないのは(さしあたってたいていは、たくさんの痛みは伴いつつも、そうはならないのだが)、実ハそういう「条件」によって、自分が存在していたわけじゃーなかったってことでしょう。逆に言うと、サマザマな「条件」として立ち現れる世界の背後に、何者でもないとしても「存在価値」を持つ自分、という存在があるからでしょう。それが成り立つのは、自分が「無条件に愛される」という体験を通して、自分がそのような愛の対象として、そのような「価値」あるものとして把握される(というより、充分に「身にしみて分かる」)からだろう。それが「自分を愛せる」状態ってことでもあろう。
(もちろん、実際問題としては、何らかの「条件」のもとで「承認」され、その「承認」を与えた外部の世界や具体的な他人に対して「信頼」を抱いて、その世界に対してさらに自己を投入していく、というような関係がその都度その都度、作られては壊され、壊されては作られ、というように複雑化し、その編み目の中で人は生きていくってことなんだろうけど、ここではそういうことがそもそも可能になるような「基盤」のことを言っているわけです。)
このような愛の体験によって、人が「愛し返す」ことができるようになるとして、それは何故か?といえば、そこに論理はないのだろう。人がある何かを愛してしまったとしたら、それは「宿命」としか言えないものだろう。「自分を愛せる」ことができているとき、人はもう「自分を愛す」という「行為」はしなくなる、というのが一つの前提だ。そこから「愛」が始まる(追記:むしろ「愛」が行為となるときには、自分は守られるべき対象ではなく、犠牲に捧げられるべきものになる)。
もちろん「自分を愛せる」ようになった我々でさえ(つまり普通に安定した人格を持ってるって程度の意味だが)、日々、何かに躓き、不安に怯えたりはする。しかしさしあたってたいていはその「愛せる」という態勢が消失したりすることはない。これは「身体化」されたある態勢、としか言えないものなのだ。このことは逆の場合を考えればわかる。いわゆるアダルトチルドレン、愛されなかったという思いを常に抱き続けている人に、「自分自身を愛しなさい」とコトバでいくら説得しても、彼なり彼女が「自分を愛し」はじめることはない、ということだ。ようするに「愛された」経験は、身体化し、状態となった、ある態勢として出来上がるような何かだ。それは誰かを愛しているという行為そのものではなくて、「愛しうる可能性にある」ということなのだ。
しかし、人がそのような「愛しうる可能性」にあることの重要さ(単に条件において「承認」されているのではなく)は、さらに次の点でカンジンなことなのだ。
それは、「条件としての世界」の方が、実ハ間違っている、という場合も多々ある、ということだろう。極端に言えば、戦争がそうだ。もしも「条件」によって承認されることでしか、人が世界に関わることができないとすれば、人はその「条件」を成り立たせている世界に、反対することができない。しかし自己の「存在価値」という居場所があれば、人はいつでも「あれ・これ」の条件の世界から身を引いて、それを検討することが可能となる。「精神」や「倫理」(伊丹堂の発言や「倫理について」を参照)への関わりも、この境涯においてこそ可能になるのだろう(愛がなくて、たんに自分がダイジ、ってだけであれば、外部の世界に異議を申し立てるのではなくて、自分が逃避すればいいだけのことになる。そうではなくて、むしろその状況に身を捧げていくということは、世界に対して愛し返すって意味での「愛」があるからこそ可能になるのだ)。つまり、愛は「精神」のふるさと、なのだ。
その上で、ダイジなのは、ではいかにして「愛」を伝えていくか?ということだろう。それはまさに「伝承」という問題である。これは当たり前だが、無条件に愛する、という行為を通して伝えていく以外ない。その中でも、もちろん親の愛はダイジだ。それは「虐待」などがモンダイガイだという意味でダイジなのだ。しかし親子の愛は、結局は(それだけでは)血縁という「条件」へ縛り付けてしまうがごとき、閉鎖性、エゴイスティックな面も持っているのだ。それをいわば「普遍的なもの」に広げていくのは、やはり「文化」の仕事だろう。
あるいは子どもや家族がいない人は、それでは「無条件の愛」とは関係ないのかといえば、そうではない、ということでもある。今の問題につなげて言えば、それぞれの人が「自分のやりたいこと」に無条件の愛をささげ、その姿を後に続く人に見せてやる、ということが、それだろう。「愛される」という経験は、自分が「世界を愛し返していく」方法を自然に教えてくれるものではないからだ。誰かがそれを身をもって示してくれなくてはならない。それはこれまでは「天才」と呼ばれる人がやってくれたことだった。たとえば手塚治虫、黒澤明、フェリーニ、アインシュタイン、…。しかし、これからは、基本的に「そういう仕事」でなければ、人の魅力を惹きつけないということになるだろう。「そこそこのこと」であれば、誰でもできるようになったからだ。
そこからして逆に、本当にカンジンなことは、自分の「愛」が、エゴイスティックなものになっていないか、「条件付き」のものになっていないか(それは愛ではない、恋着とでもいうことにするか)、を考えるということになるだろう。家族に対する愛、コトガラそのものに対する愛、精神に対する愛、…いずれにおいても。
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