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Vol.30 ノミのジャンプ号(99.7.4-99.7.29)

■『こころと体の対話』(99.7.4)
■八犬伝をめぐる随想(99.7.7)
■予言者・中井久夫?(99.7.13)
■愛について(99.7.24-99.7.29、00.4.17改)

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Vol.30
『こころと体の対話』(99.7.4)

神庭重信さんの『こころと体の対話』(文春新書)、前に「トンデモじゃないと思うけど…」なんて書いちゃいましたけど、それこそトンデモない失礼しました。

ホント、真摯な態度で貫かれていて、単なる科学主義ではなくて、事実をちゃんと見極めようとする意志が感じられた。理化学系音痴の私には、とうていこの本で語られている個々の事象を把握することはできないが、ぜんたいとして語られていること、とくに「こころを単なる物質の挙動に還元しない」アプローチには納得がいく。

以前、中井久夫が『最終講義』(みすず書房)や『精神科医がものを書くとき2』(広英社)で、多田富雄の免疫学をひいて、免疫のシステムと、心(意識)のシステムは、どちらも自己と非自己を区別しつつ、その「自己」を更新していく「超システム」という意味で、似ている(同型である)というようなことを言ってるのにふれたかもしれないけど、この本でもそれが出てくる。ある意味では、この本で言ってるのは、その両システムが、「共通の物質」をヨリドコロにしている、つまり伝達物質や受容体、細胞などを共有しているところから、心、とくに情動と免疫システムの間に情報の伝達が生じる、ということなんだろうけど、そのように安直に言ってしまわないところが、決してトンデモにはならない、ネチっこさでしょうか。容易に空想してしまうのは、その意識と免疫という二つのシステムの背後には、とうぜんそれをコントロールする第三のシステムがあるはずで、それは「生命のシステム」ってことだろう、ってことだけどね。

とくにいいのは、この本の最後の、医療ぜんたい(つまり医療を含む社会)への提言で、まさによく言ってくれたって感じで頭が下がる。ようするに医療の問題をどーこう考えるには、まず「医師に対する信頼」というのを回復しなくてはならないってこと。そのためには、医者は「科学的な知識」と「経験」そして「親切な心」を持ち、しかもそれを組み合わせて臨床に生かせる技術を持たなくてはならない、と言う。知識だけでもダメ、経験だけでもダメ、親切だけでもダメ、全部なければもちろんダメ。これは、ある意味では医者に哲学者、しかも臨床的な哲学者になれっ、と言っているのに等しい。哲学者と言って語弊があれば、日々、「正義」の実現をめがける者、と言ってもいい(裁判官もまたかくあるべきだろうけど――このへんに関しては前号の柳さんについての記事を参照)。

こういう言葉が絵空事ではなく、僕には少しは現実味がある言葉として聞こえる(最近であう、特に大学病院系の医者たちには、そういう雰囲気・心意気を感じるからだ)。医者は金儲けをするもの、たんに医学的な関心から必要もない実験や手術をしているもの、というニヒリズムが横行するのは、それを「そういうものだ」として許容してしまう「我々」の態度にも責任があるのだろう。これは政治におけるニヒリズムほど「直接的」な責任ではないとしても。

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Vol.30
八犬伝をめぐる随想(99.7.7)

小谷野敦さんの『もてない男』(ちくま新書)を読んでたら、その中にやはり小谷野さんの八犬伝の本『八犬伝綺想』(福武書店)からの引用があって、ずーっと昔(といっても7年前か)、その本を読んだことを思い出したのだが、そこからバァーッと八犬伝の記憶がよみがえってきたので(プルーストか、オレは?)、以下、八犬伝をめぐる随想を書いてみたい。

小谷野さんの引用の箇所は、犬塚信乃が、死んだ恋人の浜路のために「生涯、妻はめとらない」と言いつつ、「妾(めかけ)でがまんしよう」というシーンについての発言。ここは八犬伝の中でもある種、盛り上がる泣かせるシーンなのだが、そこで信乃がそんな「妾でがまん」なんていう身も蓋もない言い方をしているのに対して、小谷野氏が違和感を感じ、このセリフを「嫌らしい」として「批判する」というところだったのだ。ワシはこれを読んだとき、そんな妾がダメなんていう現代の常識から見て、江戸時代の文学を批判するなんて、センスがないっていうか、バカなんじゃないか?と思ったのだが、今回の『もてない男』での記述によると、小谷野氏がそう書いたのは、たんに現代の倫理観という常識からではなくて、(亡くなった恋人)浜路に対しての、いわば「そりゃないだろう」みたいな?思いに基づくものだったことがわかった。つまりロマンティストなのだ。これは江戸は江戸なんだから、と言ってしまう私の冷めた?センスより、はるかにイイ! 失礼しました…。ただし小谷野氏もここで、あのときの発言をちょっと考え直さなくちゃ、とも書いてるので、お互い様ってとこか(ま、向こうさんは知ったこっちゃないでしょうけど…、それにしてもかれこれ7年ぶりの「再会」なので、感慨深いのだった)。

ちなみに、思いおこすと当時、私は世の中の八犬伝論に、非常に不満を持っていて、その一連の流れの中で、小谷野氏の論も批判的にとらえたのだと思う(だから買ったことすら忘れていたのだろう)。とくにワシがダメと思ったのは桜井進という人の『江戸の無意識』(講談社、たぶん現代新書か?)という本の中の八犬伝論で、ようするに単に前近代はイカン、遅れている、ということを言っているのだった。小谷野氏の先の箇所も、そういう主張に読もうとすれば読める、というよりも、まさにそういう「主張」としてハマっちゃうところがあったわけだ。

八犬伝論で、私が判断材料にするのは、まずはなんといっても八犬伝後半の評価、これにつきる。たいていの人はこの後半をつまらない、という。特に前近代がダメ、と言ってる人は、必ずこの後半を否定するのだ。ようするに後半はストーリーとして面白くないので、実はあまり読んでないのではないか?ってのもあるけど、基本的に近代人好みの「心理的葛藤」というもの(といっても「妾でがまん」という程度に前近代的葛藤だったりするのだ)が、前半には濃厚にただよっているのに、後半になるとたんなる活劇、単なる勧善懲悪、単なる妖怪魔物物語、になってしまうということからだろう。しかし、私はここを「面白い」と思えなければ、八犬伝という作品そのものの「意味」がなくなってしまう、と思っている。もちろん、製作過程の失敗において、出来上がった作品が「面白くなく」なることはありうるので、結果として「面白くない」というのは、なんらかまわないが、それを上にあげたような作品そのものに内在する結構の「面白くなさ」にあるとしては、ならない、ということなのだ。よーするに必然的に「そーゆうもの」である作品を、「そーゆうもの」だから面白くない、と言ってはいけない、ってことである。

しかし私は、それ以上に重要な転換点が、この前半―後半にはあると思っている。誰もそれを書かないので、ここに書いちゃおう。

それは後半は「犬江親兵衛段階」だってことである。以下、以前書いたメモをもとに構成してみる。

犬江親兵衛段階とは何か。「八犬伝」をずうっと読んでくると、犬江親兵衛の登場のあたりで話ががらっと変わるわけである。これまでの話というのは悪い奴ばっかりいる世の中で、いじめられてきた七人の犬士が、ともかく合流しようという(あまり積極的とは言えない)目的のために、何年もだらだらと旅をするという話だったが、いきなり犬江親兵衛の登場によってユートピア建設とでも言う「目的」がもたらされる。この「目的」というのがダイジだと思うわけだ。つまりここまでの目的は、とりあえずイイ大学に入る、とりあえず就職してみる、ということに比定されるようなレベルのものだろう。君たちが、八犬士ということは分かった。だが、君たちは里見家に就職して、その先いったい何をするの?ということが何もないのだ。実はなくはないのだが、そのようなモラトリアム的な心理(のみ)を評価しようとする「近代的な」視点からはその「目的」が見えないようになっているわけだ。それが犬江親兵衛の登場によって、クッキリと打ち出されることになるわけである。

さらに面白いのは、この犬江親兵衛段階である後半になると急激に、「悪」の個性(毒性?)が薄められていくのだ(と、多くの論者が指摘する)。それによってもまた後半はつまらないのだ、といううことが言われるわけだが、これは、いってみれば「悪は絶対的なもの」「自分にはどうしようもないもの」というペシミスティックかつナイーブな世界観から、まったく別の、自分自身に自信を持って、そこから世界を冷静に見つめる、という世界観へと移行したのだ、というふうに捉えることが出来る。

このような「目的」の設定と、世界に対する客観的な視点の獲得、これは私にとっては「青年」の世界観から「大人」の世界観への転換に見える。

犬江親兵衛段階は下らないと言っている人は、このような「大人的」世界がキライなのだろうか。というよりも、むしろ前半の「青年」の世界観に対して、犬江親兵衛段階を「子ども」的というか、「お子さま」的世界観と見下すことで、否定しようというのだろう。しかし私には、このような「青年」の話を経てきた後に、ここでぽんと世界観が転換するところがなんとも爽快という感じだった。決して単なる子ども帰りではないのだ。

それは「なにをつまんないことで悩んでたんだ」という感じとでもいう、世界の広がりの感覚というか。それは橋本治のいうような「強くなっていい」ということかもしれない。何も怯えることはないのである。たしかに世界の冷たさというものはあるのかもしれないが、それは自分という「個」の世界を押しつぶす程のものではない、と告げているようでもある。それはまたここで設定される「目的」ともリンクしていて、世にはびこる「不正」は正すことが出来るのだ、ということでもあり、それはひいては「世」つまり「社会」というもの、そのものの価値の肯定でもある、ということなのだ。

一本の長編小説という体裁の中で、そのような世界観の転換が行われている例というのは、ひょっとしてこの八犬伝以外にないのではないだろうか? そういう意味でこの八犬伝後半=犬江親兵衛段階は、ブンガク史的にも、非常に重要なのではないか?、と言いたいわけだ。

それにしても信乃だ、親兵衛だなんて言っても、知らない人にはなんのことかわからない。しかし八犬伝なんて全部読んだ人はほとんどいないと思うが、それでも一応話題にできたり、気にかかったりするのは、すべてかつてNHKで放映された坂本九語りによる人形劇「新・八犬伝」があったおかげである(私と同世代の小谷野氏も当然のごとくにこの人形劇にコメントしていて、うれしくなった)。この人形劇にあらためて感謝を捧げたい。

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Vol.30
予言者・中井久夫?(99.7.13)

7の月だから、ってわけでもないけど、「中央公論」8月号を読んでて、フト、中井久夫の予言!を思い出したので、ちょっと書いておこう。

元ネタは広英社(「オムレット」の版元)の、『精神科医がものを書くとき1』に載ってる「引き返せない道―近未来の変化」って文章。これ、1988年に産業労働調査所ってとこからの依頼で近未来についての予測を書いたもの、つまり十年以上前に書かれたものなんだけど、これがなんというか、ズバリ的中って感じ。

まず「中央公論」8月号の苅谷剛彦さんの文章(「学力の危機と教育改革」)が何言ってるかっていうと、全体的な学力の低下が問題になっていく中、その背後で起きているのは、いわゆる受験エリートの出身階級が、極端に「恵まれた階級」に偏りつつある、ということなのね。つまり新たな階級形成が実は行われているのに、いま表面的に学校の自由化・民営化などというと、それが結果的には(ありていにいって)金持ちだけを利することになる、ひいては階級差の拡大につながってしまうってことなのだ。

このことを中井予言ではすでに11年前に言ってて

 階級相互の距離が増大する。新しい最上流階級は相互に縁組みを重ね、社会を
 陰から支配する(フランスの二百家族のごときもの)。階級の維持は教育によ
 って正当化される一方、税制や利益への接近度などによって保証され、限度を
 超えた階級上昇はいろいろな障害(たとえば直接間接の教育経費)によって不
 可能となる。中流階級は残存するが、国民総中流の神話は消滅する。…

フランスの二百家族のごときものって何なのか、謎だが…、ま、言ってることは、だいたいそのまんまって感じでしょ。

当然バブル崩壊の予測も書かれているけど、予言としてはさらにさかのぼって82年の『分裂病と人類』(東大出版会)の中の執着気質論の中にすでに見られる。ここではさらに突っ込んで、崩壊後の社会のあり様をすでに捉えているところがスゴイです。「終身雇用の衰退、企業買収、技術革新などの論理的帰結」として、これまで社会人の基本的な徳目であった「勤勉、集団との一体化、責任感過剰、謙譲」といったものがすたれ、かわって「変身」(かわり身の早さ)、「自己主張」「多能」などがもてはやされることになる。社会的風潮としてはさらに「精神病は増加せず、むしろ軽症化に向かうが、犯罪、スリルの愛好が増大する」として、事例をあげるまでもないと思うけど、身にしみますねぇ…。さらにさらに、

 「普遍的労働者」の消滅。異能を持たない平凡な人がなるとされる一般的職業
 「サラリーマン」「労働者」が、意識としても、おそらく実体としても消滅す
 るだろうし現に消滅しつつある。その帰結として、「ふつうの人」が暮らしに
 くくなる一時期が現れる(こういう時期は歴史上何度か現れた。ルネサンス、
 明治維新前後など)。

とあって、これなんかは、やはり「中央公論」で橋本治さんが書いている「天使のウインク」というエッセイ(ヘッドラインの7月12日参照)の中の「不景気になって”人並み”が成り立ちにくくなって、営々たる努力が当たり前になって、やっと才能にとっては当たり前の時代が来る」というところにまさに対応するでしょう。件のドラマ『彼女たちの時代』(フジ)を見てても分かるように、とくに何をしたいということがないフツーの人にとって社会がキツく、逆にこれまでオタクと呼ばれていたような人にとっては、自分が何をやりたいかが分かっているだけに、生きるのがラクという時代がすでに到来しちゃっているのだ。

一方、企業の側の論理としても、「異能者」という言い方が、実はキーワードになっているのだ(これあまり知られていないかもしれないけど、マーケティング関係の本ではフツーに出てきます)。もはや、「異能者」を活用しなくては、企業は生き残っていけない、という言い方がごくごく普通になされている…。

そういうことを踏まえて、中井氏は、日本が全体としては衰退期に向かう、としていて、そういう時代には、

 ほどほどに幸福な準定常社会を実現し維持しうるか否かという、見栄えのしな
 い課題を持続する必要がある。

としている。オレなんかは、ここは「終わりなき日常を生きろ」の宮台真司の、思想家としての出現を予言したものと読めますけど、これって深読み?

さらに中井氏は「課題」として

 制御しうる限り、その傾向を徹底させないよう歯止めを掛けることである(阻
 止は不可能)。

と基本方針を打ち出す。これは「社会主義革命」のような社会の根本的改造、人為的(脳化的?)改造が、即、社会の破綻へとつながるということを念頭に置いた、スルドイ視点だと思う(いわばこれこそ本当の意味での「まったり革命」なんだろーなぁ。中井氏こそ元祖「まったり」なのかも…)。この過程の中で、中井氏は

 指導層の自己規律、自己抑制がこれからこそ問われると思う

としているが、振り返ってみれば、まさにこの衰退期の歴史は、「指導者層の不祥事の歴史」といってもいいくらいで、こういう点でも中井予言はまさに裏目のカタチで当たっちゃったって感じがする。最後に中井氏はこの衰退期にこそ、福祉がダイジだとして、

 賃金、雇用、福祉というが最終的には「暮らしやすさ」「生きやすさ」であり、
 「公平感」「開かれた社会にある感覚」である。

と述べている。考えてみると、僕は、この言葉にすごく影響を受けていて、「それでもやはり、社会というものを信じていこう」あるいは「最低限、社会というものをそのように作っていこう」と考える際の、最後のヨリドコロとなっている。いい言葉だと思う。

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愛について(99.7.24-99.7.29、00.4.17改)

このHPでたびたび紹介している『紀伊国屋書店HP』のオンラインマガジン『i feel』のリレーエッセイだけど(以前は、村瀬学氏の回を紹介)、今回は精神科医の滝川一廣氏が書いている(滝川氏は『家庭の中の子ども 学校の中の子ども』(岩波書店)という本の著者)。

で、このエッセイの中で、滝川氏は松本清張原作の『疑惑』という映画(桃井かおりと岩下志摩ねぇさんが出てたやつね)を例にして、弁護士や精神科医、カウンセラーなどが、クライエントの「ために」いろいろ手をつくそうとしても、カンジンのクライエント自身が、そのことにまったく協力的にならない、「知ったこっちゃない」という態度をとる、というモンダイを取り上げているのだ。滝川氏は、クライエントにとっては、そういう外部の?状況を整えてもらうことよりも、まずは「じぶんが好かれること」「愛されること」がモンダイなのではないか?というようなことを言っていて、それはよく分かる。いわゆる「承認」の問題(オレは「愛」の問題だと思うけど)ともリンクするし、この前とりあげた加藤典洋さんの「べしみ」や「イノセント」の問題ともリンクするだろう。ようするにまわりの人が「仕事として」クライエントの「ために」やることは、すべて「外部の論理」の世界に属することであって、根元的な「ワタクシ」は、それに対して「否」と言って(というか「否」とさえ言わずに口をとざす(べしみ)ことで「否」を伝えて)それに属することそのものを拒否する。ではどうやってそこに入っていくのか、と言えば、まずは「愛されること」という体験を通じて、(他者を)「愛し返す」ということで、その世界へと入っていけるのではないか…。『オムレット』133ページに言う「基本的信頼感」とは、このこと。

ということで、以下愛について考えてみたが、振り返ってみると、そもそも「愛とは何か?」ということを書いていない。これについては、ちょうどジャコウネズミさんの「小脳論」に面白いことが書いてあった(ちなみにこの「小脳論」近々、どーんとブレイクすると思いますので、皆様、ご覧になって置いてください…オレの「予言」か?)。

ジャコウネズミさんによると(「小脳論」の「All you need is love」 )、「必要なものを求めるのは愛ではない。必要でないものを求めてこそ愛」だと言う。愛とは必要でないどころか「不都合なもの」「不完全なもの」を、にもかかわらず受け入れることだ、というのだ。まさにそれが愛でしょう! しかしそうするとよく「無条件の愛」なんて言う(以下でも使ってる)けど、逆に「条件付きの愛」なんていうのは形容矛盾というか、そもそも愛ではないってことになる。もちろんそれでいいのではないか!ってことである。最近のベストセラー小谷野敦氏の『もてない男』(ちくま新書)、最終章でもそのような「愛」のカタチが描かれていた。これもぜひご覧いただきたい。(追記:さらに言えば、愛とはそのように「受け入れると」と同時に、そのように受け入れることによって実ハ「自分を(その対象や事態の元に)捧出す」ということだ、ということも明記しておく必要があるだろう。)

「小脳論」でもよく問題にしているけど、「やりたいこととは何か」とか「人はなぜ自分がやりたいことをやれないのか?」という議論があって、それに関連して考えていたのだけど、そうすると、やりたいことができない、というより、やりたいと思つつやらずにすごしてるのだとしたら、そのやりたいコトや、そのコトが属している「外部の世界」、そのコトを成り立たせている「他者性」(これは具体的な他人ではない)に対する「愛が欠如している」のではないか、と思ったのだ。とうぜんそこには「やりたい」だけではすまない苦労や障害、そして責任が多々あるわけだけど、それをも含めて、そのコトそのものを引き受けようという「愛」ですよね。

その上で、この滝川さんのエッセイを読んで思うのは、自分の中からそういう「愛」が発動するためには、まずじぶんが充分に「愛されている」必要があるのではないか?ってことなのだ。前に「承認」じゃダメで、「愛」なんだって話を柳美里さんを引いて書いたけど、その含意は、少なくとも柳さんの言っている「承認」は、自分のやりたいコトにおいて承認されるという論理になっていて、つまりその人がそのコトができる、ないし、なんらかの才能がある、ということが「条件」になってしまう、わけだけど、私が言うのは、そういう「条件」抜きで、いわば存在そのものをまるごと認められるような、そういう承認でなくてはダメで、それは「愛」だろう、ということなのだ。

というのは、まず、そもそもここで問題にしているのは、そういう「条件」が立ち現れるような外側の世界にそもそもなぜ入っていくのか?ということだからして、論理的に言っても、「条件」が先立つことはおかしいってことになる。

といっても屁理屈っぽいから、具体的に考えてみると、もしもその「条件」のもとで、その人が挫折しちゃった場合、その人はもう別なことはできないってことになっちゃう。そうならないのは(さしあたってたいていは、たくさんの痛みは伴いつつも、そうはならないのだが)、実ハそういう「条件」によって、自分が存在していたわけじゃーなかったってことでしょう。逆に言うと、サマザマな「条件」として立ち現れる世界の背後に、何者でもないとしても「存在価値」を持つ自分、という存在があるからでしょう。それが成り立つのは、自分が「無条件に愛される」という体験を通して、自分がそのような愛の対象として、そのような「価値」あるものとして把握される(というより、充分に「身にしみて分かる」)からだろう。それが「自分を愛せる」状態ってことでもあろう。

(もちろん、実際問題としては、何らかの「条件」のもとで「承認」され、その「承認」を与えた外部の世界や具体的な他人に対して「信頼」を抱いて、その世界に対してさらに自己を投入していく、というような関係がその都度その都度、作られては壊され、壊されては作られ、というように複雑化し、その編み目の中で人は生きていくってことなんだろうけど、ここではそういうことがそもそも可能になるような「基盤」のことを言っているわけです。)

このような愛の体験によって、人が「愛し返す」ことができるようになるとして、それは何故か?といえば、そこに論理はないのだろう。人がある何かを愛してしまったとしたら、それは「宿命」としか言えないものだろう。「自分を愛せる」ことができているとき、人はもう「自分を愛す」という「行為」はしなくなる、というのが一つの前提だ。そこから「愛」が始まる(追記:むしろ「愛」が行為となるときには、自分は守られるべき対象ではなく、犠牲に捧げられるべきものになる)。

もちろん「自分を愛せる」ようになった我々でさえ(つまり普通に安定した人格を持ってるって程度の意味だが)、日々、何かに躓き、不安に怯えたりはする。しかしさしあたってたいていはその「愛せる」という態勢が消失したりすることはない。これは「身体化」されたある態勢、としか言えないものなのだ。このことは逆の場合を考えればわかる。いわゆるアダルトチルドレン、愛されなかったという思いを常に抱き続けている人に、「自分自身を愛しなさい」とコトバでいくら説得しても、彼なり彼女が「自分を愛し」はじめることはない、ということだ。ようするに「愛された」経験は、身体化し、状態となった、ある態勢として出来上がるような何かだ。それは誰かを愛しているという行為そのものではなくて、「愛しうる可能性にある」ということなのだ。

しかし、人がそのような「愛しうる可能性」にあることの重要さ(単に条件において「承認」されているのではなく)は、さらに次の点でカンジンなことなのだ。

それは、「条件としての世界」の方が、実ハ間違っている、という場合も多々ある、ということだろう。極端に言えば、戦争がそうだ。もしも「条件」によって承認されることでしか、人が世界に関わることができないとすれば、人はその「条件」を成り立たせている世界に、反対することができない。しかし自己の「存在価値」という居場所があれば、人はいつでも「あれ・これ」の条件の世界から身を引いて、それを検討することが可能となる。「精神」や「倫理」(伊丹堂の発言「倫理について」を参照)への関わりも、この境涯においてこそ可能になるのだろう(愛がなくて、たんに自分がダイジ、ってだけであれば、外部の世界に異議を申し立てるのではなくて、自分が逃避すればいいだけのことになる。そうではなくて、むしろその状況に身を捧げていくということは、世界に対して愛し返すって意味での「愛」があるからこそ可能になるのだ)。つまり、愛は「精神」のふるさと、なのだ。

その上で、ダイジなのは、ではいかにして「愛」を伝えていくか?ということだろう。それはまさに「伝承」という問題である。これは当たり前だが、無条件に愛する、という行為を通して伝えていく以外ない。その中でも、もちろん親の愛はダイジだ。それは「虐待」などがモンダイガイだという意味でダイジなのだ。しかし親子の愛は、結局は(それだけでは)血縁という「条件」へ縛り付けてしまうがごとき、閉鎖性、エゴイスティックな面も持っているのだ。それをいわば「普遍的なもの」に広げていくのは、やはり「文化」の仕事だろう。

あるいは子どもや家族がいない人は、それでは「無条件の愛」とは関係ないのかといえば、そうではない、ということでもある。今の問題につなげて言えば、それぞれの人が「自分のやりたいこと」に無条件の愛をささげ、その姿を後に続く人に見せてやる、ということが、それだろう。「愛される」という経験は、自分が「世界を愛し返していく」方法を自然に教えてくれるものではないからだ。誰かがそれを身をもって示してくれなくてはならない。それはこれまでは「天才」と呼ばれる人がやってくれたことだった。たとえば手塚治虫、黒澤明、フェリーニ、アインシュタイン、…。しかし、これからは、基本的に「そういう仕事」でなければ、人の魅力を惹きつけないということになるだろう。「そこそこのこと」であれば、誰でもできるようになったからだ。

そこからして逆に、本当にカンジンなことは、自分の「愛」が、エゴイスティックなものになっていないか、「条件付き」のものになっていないか(それは愛ではない、恋着とでもいうことにするか)、を考えるということになるだろう。家族に対する愛、コトガラそのものに対する愛、精神に対する愛、…いずれにおいても。

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