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はじまりの鹿踊り〜岩手の民俗芸能(99.9.3)
ある意味では、この岩手の民俗芸能というのも、私にとっては上に書いた意味での「岩手県的無意識」かもしれない。今回の帰省で、何年ぶりかでそのスゴサを再確認させられたが、それは実はよく知っていて、自分の中にしっかりと収まっている…というごときものでもあるからだ。ただ、それだけなら書くほどのことはないんだけど、そこには、一地方の民俗芸能ということを越えた、ある種の文化的な「普遍性」があるようにも思えるので、ここで紹介したいわけだ。
そのスゴサをもった「郷土芸能」は、「鹿踊り」という岩手特有の舞踏なのだ。これは実は、「花巻」というちょっと私の暮らしていた場所とは違う地域に伝わるものなんだけど、私の暮らしていた「北上」というところは、お盆近くに「みちのく芸能まつり」という岩手や近隣県の民俗芸能を一堂に集めるというイベントが開催され、この鹿踊りも、いつも間近に見ていたわけだ。そして今回の帰省は、このイベントの開催にあわせたものだったので、本当に久しぶり(10なん年ぶりか)で、このまつり、そして「鹿踊り」を見ることができ、それを「再発見」したという次第なのだった(ちなみに私の地元の「北上」という地域では、「鬼剣舞」という踊りがメインで、これが私の「鬼」への関心につながっているが、それはまた別の話である)。
この「鹿踊り」、「ししおどり」と読むのだけど、ようするに鹿を模した仮面・装束で、背中に2本の2、3メートルくらいの細長い竹の棒に白い紙切れを無数に結びつけた巨大な「御幣」みたいなものを背負い、太鼓をかかえて、それを叩きながら、踊るというもの。この太鼓のビートがすさまじく、これだけでもはっきり言ってロックだけど、それにあわせて踊るその踊りがすさまじいのだ。パッと見には、ゆったりとした踊りにみえるけど、ホントにそのビートに乗っていて、左右へと小刻みに移動する動きが、実は中空を翔るように動いているのがわかる。言っとくけど、この仮面と装束だけでもそうとう大きなもので、さらにその長い「御幣」を背負ってるんだから、相当な重さだと思うけど、まさに生きている鹿のように、軽やかな動きなんだね。で、この中空のステップが基本で、しばらく押さえた感じで、演技が続くわけだけど、次第にその動きが大きくなって、それが大きなうねりのようになっていくのだ。通常は8人くらいのチームで円陣を組んで、その中の一人がメインになって、例の巨大御幣を前屈みに地面にバシバシ打ちつけるなどの派手な踊りをするんだけど、この陣形が一体となって、うねり踊る様は、もうなんというか、その陶酔に引き込まれると言うか、別世界へきてしまったような感じですねぇ。
ちなみに、たまたま図書館でみつけた西角井正大さんの『民俗芸能』(ぎょうせい)って本によると(この本に鹿踊りの写真がバッチリ載ってるので、興味のある方は図書館などでご覧ください)例の御幣は、風になびく秋のススキを表しているという説もあるそうですが、どう考えてもあれは「角」に見える。角は本当に鹿の角を模した具象的なものが、仮面についてるから、角が2種類もあるのはヘンと思うかもしれないけど、こっちは具象ではなくて、目に見えない、角のつくり出す軌跡というか、風の動きを現しているって感じです。いわば、角のアウラというか。だからもっと正確には、それは角というモノではなくて、その動きによって、その場に風をつくり出し、その風が踊りと一体となって、全体としての躍動をつくり出していく…、その道具、つまりコトとしてのあり方なんでしょう。
いずれにしても、このビートと躍動的な踊り、その全体によってつくり出される「別世界」ってのが、理屈で言えば、ようするに「アニミズム」的世界ですよね。つまり動物(ここでは鹿)たちの「生命」への賛歌、といえば近代人たる我々にもわかりやすい。この世界に登場してくるのは、動物霊、といってしまうと「うしろの百太郎」チックでどーもイケないけど、やはりたんに現に生きている「鹿」ではなくて、なんというか精霊と化したもの、というか、神格化されたなにかですよね。
前出の『民俗芸能』という本では、鹿踊りは、いわゆる獅子舞のひとつにいちおう「分類」されている。私も子どものころから、なんでシカ踊りじゃなくてシシ踊りなんだ?と不思議に思ったけど、この本によると、「しし」という言葉は、そもそも「肉」という意味の言葉で(これは普通に使うよね、太りじしとか…)、イノシシやカモシカ、熊をふくめた山の四つ足動物一般をさして言うようになったという(たしかにATOKで、「しし」と打つと何個目か「獣」と出てくる)。さらにこの本では、獅子舞というジャンル自体、獅子(ライオン)をモチーフにしたいわゆる獅子舞よりは、鹿踊りのようにアニミズム的世界をモチーフにしたもの(ようするに狩猟民の動物との交歓)の方が、より原型的なものだとしていて、その姿勢には感心した次第。だったら、ジャンルは「シシ踊り」で、「鹿踊り」と「獅子舞」が要素、という区分の方がわかりやすい、と言ったら大きなお世話ですが…。ちなみに私は、獅子舞というのは、なんかバリ島のバロンとか、アジア・中国の外来文化とのつながりの方が強い気もするし、獅子の魔除け的要素というのを四角井さんも指摘してるけど、ということはやはり風水的というか、共同体的な空間・都市的な空間がきっちりと確定してしまったあとの世界のものって感じで、アニミズムとしての「シシ踊り」とはあまり関係ないような気もするんだけど。ともかく獅子舞はさておいて、シシ踊りというものが、ある種、縄文的な?日本の文化の古層にまでさかのぼるものだということは、確かでしょう。そういえば、『もののけ姫』の「シシ神」って、これとつながってるわけか…とヘンに納得してしまった。
というわけで、あらためてこういう芸能によるアニミズム的な世界が思いもかけず身近に存在していたということを「発見」して驚き、それが「岩手県的無意識」として、自分の中の背景になっているということに、ヨロコビを感じるわけだけど(なんか知らないけどザマーミロって言うか?)、重要なことは(そーいうささいな個人的感情ではなくて)、この鹿踊りで描かれる世界が、出だしに書いたように、ある意味では普遍的な「価値」を持つものだということなんです。まぁ、エコロジー的世界観を表現したもの…とまで言ってもいいです(なんか薄っぺらくなっちゃうけど)。さらには、単にそのようなメッセージ性の問題ではなくて、この「ヨリドコロ」としての表現(舞踏そのもの)の完成度の高さ。つまり、この現代においても、そしてどのような場所においても(おそらくは)かなり多くの人が、この踊りに「すっと」入っていける、そういう意味での「完成」がこの踊りにはあるのではないかと思うわけです。踊りに入っていける、ということは、見てる人が、自分の身体を使って(実際には、踊り出すということではないとしても)、その表現する世界を体験できる、ということだから、これは(俺が言うことがホントなら)メディアとして、芸術として、技能として、ものスゴイものだということでしょう。
そんなわけで、つくづく感心するのは、当たり前だけど、この踊りを身につけ、伝承してる男たちだよね。惜しみなく賛辞を送りたい。ちょっと考えただけでも、これだけの太鼓と踊りの技術を身につけ、やりこなすのは容易ではないし、そもそもそれが描こうととする世界(アニミムズム的霊性?)に没入しなければ、とうていその世界を表現することはできないだろう。とすると逆に「いかにして彼らはその没入の契機をもちえたのだろう?」ということを、おせっかいにも考えてしまう。いろいろとほかにやりたいこともあったりしただろうし、いくら「いいもの」とわかっても、実際、それを自分がやるとなったら、なまなかのことではできないだろうから、それこそそこには熱烈なまでの「情熱」や「愛」があるはずだけど、どこでどーして、彼らはそういう愛を持ち得たのだろうか。『オムレット』的には、それは「宿命」ということで説明終わりなんだろうけど、彼らってオレとすごい近所にいたわけでしょ。でも、オレには、それを見る機会はたくさんあっても、そういうことに実際的に絡むような契機はまったくなかった(まぁ、かりにあったとしても、運動神経がまったくダメな私としては決して絡むことはなかったろうれど)。それだけに、そういうことに身を投じて、しかもオレたちを感動させるまでに、それをやりとげてしまう、彼らがエライ!とおもうわけだ。
さらに今回、感動を深めたのは、この帰省の前に読んでた、わがサイトでもちょくちょく紹介している『小脳論』の影響も大きい。踊りはみんな小脳的だろうとも言えるのかも(?)しれないけど、ことさらにこの「鹿踊り」は、小脳的って感じもする。フツーの民俗芸能とは、ノリがぜんぜん違うのだ。それと、『小脳論』の中で、文化と文明の違いについて語ってるところがあって、文明というのは、ようするに巨大建築に象徴されるように、つくられた「モノ」のことで、一方、文化というのは、「聴覚的であり、人間の技能を蓄積」する、すなわち「コト」だという(このへんは栗本慎一郎による定義、「文明とは情報の蓄積がある状態のことであり、文化とはそれをどう使うかというシステムのことである」とも、文脈は違うけど、根本的には一致するでしょう)。もうだいたいモノ(文明)はそろっちゃったから、これからは「文化」がダイジになるんだってことを『小脳論』の著者ジャコウネズミさんは言ってる(これは『オムレット』の120頁、「モノからコトへ」という認識とも一致する)。そして、まさに「鹿踊り」を伝承している奴らって、文化をダイジにしてるわけだね。ひとしきり、鹿踊りを見終わって感動したあと、オレは「勝ったな…」とニヒルに笑ったのだ(笑)けど、何に勝ったかというと、これは「仙台のたなばた」「青森のねぶた祭り」「秋田の竿灯まつり」といういわゆる「東北三大祭り」に勝ったのね。今回、この再発見の舞台となった「みちのく芸能まつり」は、いちおう自称「東北六大祭り」なんて言ってるんだけど、そんなこと誰も知らないんだよね。テレビのニュースでもやらないし。ようするにその「三大」祭りより格下、幕下、というより番外という扱いなんです。でも考えてみれば、この三大祭りって、ようするに「モノ」つまり物質文明でしょ。今年は不況ということもあって、とくに仙台のたなばたは最悪だったらしいけど、これってようするに商店街が金かけて、いかにでかい飾りをつくるかってだけの話だったってことなのだ。どこにも技芸としての文化なんてない。ねぶたは「参加」する祭りとしては結構いいセンいってると思うけど、ようするに山車という見せ物をいかに豪勢につくるかという物質文明。竿灯はちょっとは技巧が要りそうだけど、よーするにやじろべぇの原理じゃん(ごめん、秋田の人!)。よーするに、わが町びいきで言ってるだけなんだけど、技芸としての「文化」そのものを称揚するような祭りはウチの「みちのく芸能まつり」ただ一つなんですよ。
というわけで、ぜひ、来年は岩手においでください(「みちのく芸能まつり」は、8月のはじめにあります)。
<民俗芸能関係リンク>は、「東北系HP」に移転しました。
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