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正義の論理〜土屋恵一郎『正義論/自由論』(99.10.25)
土屋恵一郎さんの『正義論/自由論―無縁社会日本の正義』(岩波書店、21世紀問題群ブックス)というのを図書館で読んだんですが、これが実に気があう(変な感想だけど)。基本的にロールズというアメリカの政治哲学者の理論を解説しつつ現代の日本について考えていくというものだけど、私、このロールズってまったく知らなかった…(これも恥なのかどーなのかも分からない)。この本はホント、分かりやすく書かれてるんだけど、その大元のロールズがもうアメリカの哲学ですから、分かりやすいに決まってるって話もあるでしょーが、その分かりやすさは、悪しき単純化・一般化というものでは全然ない。むしろ根本的な問題の提起になってますんで、これがスゴイと思うわけです。
簡単にいえば、これがまた例の「超越的な観点はない」ってハナシ(ヘッドライン15・16号)なんですよね。超越的観点(神)なしに、いかにして「正義」や「倫理」や「公」が可能なのか。前に引き合いに出した「生き方のモード」(大江健三郎の項参照)によって、という「答え」は、いわば実存的な側面からみた答えだけど、ロールズを引き合いに語られているのは、それが可能になる「内的な論理」は何か?、その「ナカミ」は何か?という側面からの考察になる、といえる。
土屋さんによると、ロールズはまず「原初状態」というものを想定する。そこでは人には「無知のヴェール」というものがかけられていて、人は自分のアイデンティティ、所属、価値観、性向といったものについてまったくの無知である。しかし、人はそこではエゴイスティックに、自分に有利になるようふるまう、とする。するとどうなるか?、人はそれぞれ他人との関係の中で「自分が差別されたり、自由を奪われたりする可能性」を排除する、つまり自分がそうされないよう、自ら、他人の自由を認め、差別をしないよう行動する、というのだ。まるで「利己的な遺伝子」みたいな話?、だけど(あるいはヘーゲルの「相互承認」にいたる弁証法を一気につづめた、みたいな?)、土屋さんはイチゴのケーキを切り分けるという例を出していてわかりやすい。五人の人がイチゴのケーキを人よりも大きいのを食べたいと考えている場合、切り分ける人は、自分が人より少なくならないように、なるべく同じ大きさに切り分けようとするだろう…というものだ。
また「原初状態」「無知のヴェール」ということを、土屋さんは「無縁化」といいかえていて、それがこの議論をとっつきやすいものにしている。つまり人はいろいろな世間のしがらみ、さまざまな環境における固有の価値観、共同体の規範といったものにとらわれて生きているわけだけど、社会における正義の実現のためには、いったんそこから「無縁」の場所に身をおくのでなくてはならない、というわけだ。ここで「原初状態」は、たんなる空想的なものではなくて、人が選択すべき理念的な状態となる。それにしてもなぜ人は(そうしなくてもいいにもかかわらず――実際そうしない方が有利という場合はいくらでもあるだろう)そのような選択をするのか?、オレ的にいえば「脱−世間化」しようとするのか。ロールズにはそれに対する「実存的な回答」(つまり「生き方のモード」だとかいうような…)はない。それが現代のような多様な価値観をもつ人々の間で生きる場合の「合理的な選択」といわれるのみだ。だからこそ土屋さんはロールズの政治哲学は、思想ではなく、政治であり、政策だ、というのだろう(実際問題、ケネディ以来のアメリカ民主党の政策綱領なのだそーだ)。
しかしこの合理的な選択、という「見切り」は非常に重要なものだ。第一に、例の「超越的な視点」との関係で言えば、「神の前での平等」とか「神によって与えられた人権」という「神話的な説明」にたよることなく、「自由と平等」を語ることができるからだ。つまり、社会はその都度その都度つぎつぎに創出される「条件の連鎖」だが、そこで人は自分がもっとも有利になるための合理的な選択として(「無縁化」を選択して)、自ら「自由と平等」の状態を創り出していく、というのだ。もちろんそれだけでは、たんにその場で自分が有利になればいいという消極的・受動的なものにとどまる可能性もある。しかしここでロールズ/土屋氏は「他者への配慮」というキーワードをもちだしてくる。つまりその都度の「条件」を構成すべく現れる他者というのは、実ハまったく「不確定な」ものだ。あらかじめ「超越的な視点」から他者についての完全な知識を得ることはできないからだ。したがって自分が有利になるためには、当然、条件としての他者をより知ろうという努力がなされなくてはならない。ここで「エゴイズムが他者への配慮に反転する」というんだね。ここらへんの「脱―世間」から、ヨリ拡大された「他者への配慮」ということは、『オムレット』でいえば「他者の自覚」から「社会そのものの共有」にいたる論理(143頁)とまったく同じですねー(『オムレット』の場合は、「無縁化」を前提にするのではなくて、明言はしてませんが「自己実現が可能だということから来る信頼感・ゆとり感」を前提とする…ということになるでしょうか)。
そして第二に、このように「非―超越的に」自由と平等の原理を導くことができれば、それを実現するための「正義」もまた、なんらかの「超越的な根拠」によらずして語ることができるってことでしょう。それを土屋さんは、アフォーマティブ・アクション(差別撤廃のための法による積極行動)やクレオール主義、オウムなど宗教との関連といった事例をあげて説明してますが、ようするになんら「共同体的規範」を絶対化することなしに、多様な価値観をもつ人々、グループが、それぞれに対して寛容であり、共生しうるような「ルール」を創り出していけるというわけだ。それがようするに政治的な「リベラリズム」だということになる。ここでダイジなのは、どのような立場・主義主張・思想信条も「特権化」されてはならないってこと。といっても単なる相対主義ではなくて、これは限りなく「自由」を容認すべきということと、しかしその基盤(インフラ)としての「自由を創出していく場」としての社会は絶対的に防衛しなくてはならないっていうバランスの問題でしょう(なんかオレ流の言い方になってますが)。これは伊丹堂の「公共性の精神」のナカミ、「いかなるかかわりといえども社会的ひろがりを持ってしまうという空間的な関係と、その行為が将来に及ぼす影響という時間的な関係を、ともに最大限考慮することによって、出来る限り個人の自由と、社会的公平性を実現していこう、という精神」にもまったく一致する。
伊丹堂の場合(つまり私の場合)、この「ナカミ」は、直感的に導かれたものなわけだけど、ロールズ流に「原初状態」「無知のヴェール」(無縁化)ということから「論理的に」導出できる、ということはオモシロイと思う。だからってロールズが「科学」だというわけではなくて、くりかえすが「無縁化」は、しなくてはならない理由はないわけで、その一点で、ロールズもまた「精神」について語っているのだということが言えるだろう。そういう意味で、この「正義の論理」はナカミの側面について語っているのであって、「生き方のモード」といった「実存(あるいは動機づけ)」の側面からの論理と補完し会わなくてはならないとも思う。
そういう面において、土屋さんの「無縁社会日本」という捉え方には非常に不満が残る。たしかに中世日本における「連歌」の世界が、無縁化によって「公」の場所に転換したということはあるのかもしれないけれど、現在の社会における「無縁化」は、やはりなし崩し的崩壊という面が大きすぎる。無縁化さえすれば、自動的に「正義の論理」にまで至るというわけではない。土屋さんがモデルと考える「連歌」の世界においても、単に無縁化されているのではなく、土屋さんが重視するように「合わせ」という「ルール」が彼らを結びつけているのだ。これを一般化していえば、人と人との具体的というか地縁・血縁・社縁的な結合による共同性(世間)ではなく、コトそのもの(連歌・学問・スポーツなど文化内容そのもの)を媒介とした結合のみが「脱―世間的」結合を可能にする、というべきなのではないだろうか(ちなみに多くの「学会」がダメになるのは、コトそのものの結合によらずして、人間関係を軸とする世間に化してしまうからでしょう)。そういった「公」を語る場所をめざしている、いい例が「于論茶 のページ」の掲示板だ。この場所を体験することをおすすめします。
いずれにしても、「無縁化」による正義論は、正義の「ナカミの論理」なのだと割り切り、やはり「教育」によって人がそこに向かって動機付けられることがダイジなのだと言っておこう。「教育」というとうさんくさく聞こえるが、ようするに土屋さんも例としてあげているような、インターネットでの「公」をめぐる議論、そして実際の市民的な運動などに接触すること、そういったことをふくめてすべてが「教育」なのだろうと思う。土屋さん自身、「無縁の再組織化」と語っているが、そのことである。個人の実存にフォーカスすれば、それが「生き方のモード」の再組織化ということになるだろう。
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