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Vol.32 コトの次第と事件の記録号(99.10.25-99.11.26)

■正義の論理〜土屋恵一郎『正義論/自由論』(99.10.25)
■阿部謹也『日本社会で生きるということ』(99.11.1)
■ミイラにならないために・その1〜ミイラ事件考(99.11.17)
■小室直樹『悪の民主主義〜民主主義原論』(99.11.19)
■内田隆三『ミッシェル・フーコー』(99.11.22)

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Vol.32
正義の論理〜土屋恵一郎『正義論/自由論』(99.10.25)

土屋恵一郎さんの『正義論/自由論―無縁社会日本の正義』(岩波書店、21世紀問題群ブックス)というのを図書館で読んだんですが、これが実に気があう(変な感想だけど)。基本的にロールズというアメリカの政治哲学者の理論を解説しつつ現代の日本について考えていくというものだけど、私、このロールズってまったく知らなかった…(これも恥なのかどーなのかも分からない)。この本はホント、分かりやすく書かれてるんだけど、その大元のロールズがもうアメリカの哲学ですから、分かりやすいに決まってるって話もあるでしょーが、その分かりやすさは、悪しき単純化・一般化というものでは全然ない。むしろ根本的な問題の提起になってますんで、これがスゴイと思うわけです。

簡単にいえば、これがまた例の「超越的な観点はない」ってハナシ(ヘッドライン1516号)なんですよね。超越的観点(神)なしに、いかにして「正義」や「倫理」や「公」が可能なのか。前に引き合いに出した「生き方のモード」(大江健三郎の項参照)によって、という「答え」は、いわば実存的な側面からみた答えだけど、ロールズを引き合いに語られているのは、それが可能になる「内的な論理」は何か?、その「ナカミ」は何か?という側面からの考察になる、といえる。

土屋さんによると、ロールズはまず「原初状態」というものを想定する。そこでは人には「無知のヴェール」というものがかけられていて、人は自分のアイデンティティ、所属、価値観、性向といったものについてまったくの無知である。しかし、人はそこではエゴイスティックに、自分に有利になるようふるまう、とする。するとどうなるか?、人はそれぞれ他人との関係の中で「自分が差別されたり、自由を奪われたりする可能性」を排除する、つまり自分がそうされないよう、自ら、他人の自由を認め、差別をしないよう行動する、というのだ。まるで「利己的な遺伝子」みたいな話?、だけど(あるいはヘーゲルの「相互承認」にいたる弁証法を一気につづめた、みたいな?)、土屋さんはイチゴのケーキを切り分けるという例を出していてわかりやすい。五人の人がイチゴのケーキを人よりも大きいのを食べたいと考えている場合、切り分ける人は、自分が人より少なくならないように、なるべく同じ大きさに切り分けようとするだろう…というものだ。

また「原初状態」「無知のヴェール」ということを、土屋さんは「無縁化」といいかえていて、それがこの議論をとっつきやすいものにしている。つまり人はいろいろな世間のしがらみ、さまざまな環境における固有の価値観、共同体の規範といったものにとらわれて生きているわけだけど、社会における正義の実現のためには、いったんそこから「無縁」の場所に身をおくのでなくてはならない、というわけだ。ここで「原初状態」は、たんなる空想的なものではなくて、人が選択すべき理念的な状態となる。それにしてもなぜ人は(そうしなくてもいいにもかかわらず――実際そうしない方が有利という場合はいくらでもあるだろう)そのような選択をするのか?、オレ的にいえば「脱−世間化」しようとするのか。ロールズにはそれに対する「実存的な回答」(つまり「生き方のモード」だとかいうような…)はない。それが現代のような多様な価値観をもつ人々の間で生きる場合の「合理的な選択」といわれるのみだ。だからこそ土屋さんはロールズの政治哲学は、思想ではなく、政治であり、政策だ、というのだろう(実際問題、ケネディ以来のアメリカ民主党の政策綱領なのだそーだ)。

しかしこの合理的な選択、という「見切り」は非常に重要なものだ。第一に、例の「超越的な視点」との関係で言えば、「神の前での平等」とか「神によって与えられた人権」という「神話的な説明」にたよることなく、「自由と平等」を語ることができるからだ。つまり、社会はその都度その都度つぎつぎに創出される「条件の連鎖」だが、そこで人は自分がもっとも有利になるための合理的な選択として(「無縁化」を選択して)、自ら「自由と平等」の状態を創り出していく、というのだ。もちろんそれだけでは、たんにその場で自分が有利になればいいという消極的・受動的なものにとどまる可能性もある。しかしここでロールズ/土屋氏は「他者への配慮」というキーワードをもちだしてくる。つまりその都度の「条件」を構成すべく現れる他者というのは、実ハまったく「不確定な」ものだ。あらかじめ「超越的な視点」から他者についての完全な知識を得ることはできないからだ。したがって自分が有利になるためには、当然、条件としての他者をより知ろうという努力がなされなくてはならない。ここで「エゴイズムが他者への配慮に反転する」というんだね。ここらへんの「脱―世間」から、ヨリ拡大された「他者への配慮」ということは、『オムレット』でいえば「他者の自覚」から「社会そのものの共有」にいたる論理(143頁)とまったく同じですねー(『オムレット』の場合は、「無縁化」を前提にするのではなくて、明言はしてませんが「自己実現が可能だということから来る信頼感・ゆとり感」を前提とする…ということになるでしょうか)。

そして第二に、このように「非―超越的に」自由と平等の原理を導くことができれば、それを実現するための「正義」もまた、なんらかの「超越的な根拠」によらずして語ることができるってことでしょう。それを土屋さんは、アフォーマティブ・アクション(差別撤廃のための法による積極行動)やクレオール主義、オウムなど宗教との関連といった事例をあげて説明してますが、ようするになんら「共同体的規範」を絶対化することなしに、多様な価値観をもつ人々、グループが、それぞれに対して寛容であり、共生しうるような「ルール」を創り出していけるというわけだ。それがようするに政治的な「リベラリズム」だということになる。ここでダイジなのは、どのような立場・主義主張・思想信条も「特権化」されてはならないってこと。といっても単なる相対主義ではなくて、これは限りなく「自由」を容認すべきということと、しかしその基盤(インフラ)としての「自由を創出していく場」としての社会は絶対的に防衛しなくてはならないっていうバランスの問題でしょう(なんかオレ流の言い方になってますが)。これは伊丹堂の「公共性の精神」のナカミ「いかなるかかわりといえども社会的ひろがりを持ってしまうという空間的な関係と、その行為が将来に及ぼす影響という時間的な関係を、ともに最大限考慮することによって、出来る限り個人の自由と、社会的公平性を実現していこう、という精神」にもまったく一致する。

伊丹堂の場合(つまり私の場合)、この「ナカミ」は、直感的に導かれたものなわけだけど、ロールズ流に「原初状態」「無知のヴェール」(無縁化)ということから「論理的に」導出できる、ということはオモシロイと思う。だからってロールズが「科学」だというわけではなくて、くりかえすが「無縁化」は、しなくてはならない理由はないわけで、その一点で、ロールズもまた「精神」について語っているのだということが言えるだろう。そういう意味で、この「正義の論理」はナカミの側面について語っているのであって、「生き方のモード」といった「実存(あるいは動機づけ)」の側面からの論理と補完し会わなくてはならないとも思う。

そういう面において、土屋さんの「無縁社会日本」という捉え方には非常に不満が残る。たしかに中世日本における「連歌」の世界が、無縁化によって「公」の場所に転換したということはあるのかもしれないけれど、現在の社会における「無縁化」は、やはりなし崩し的崩壊という面が大きすぎる。無縁化さえすれば、自動的に「正義の論理」にまで至るというわけではない。土屋さんがモデルと考える「連歌」の世界においても、単に無縁化されているのではなく、土屋さんが重視するように「合わせ」という「ルール」が彼らを結びつけているのだ。これを一般化していえば、人と人との具体的というか地縁・血縁・社縁的な結合による共同性(世間)ではなく、コトそのもの(連歌・学問・スポーツなど文化内容そのもの)を媒介とした結合のみが「脱―世間的」結合を可能にする、というべきなのではないだろうか(ちなみに多くの「学会」がダメになるのは、コトそのものの結合によらずして、人間関係を軸とする世間に化してしまうからでしょう)。そういった「公」を語る場所をめざしている、いい例が「于論茶 のページ」の掲示板だ。この場所を体験することをおすすめします。

いずれにしても、「無縁化」による正義論は、正義の「ナカミの論理」なのだと割り切り、やはり「教育」によって人がそこに向かって動機付けられることがダイジなのだと言っておこう。「教育」というとうさんくさく聞こえるが、ようするに土屋さんも例としてあげているような、インターネットでの「公」をめぐる議論、そして実際の市民的な運動などに接触すること、そういったことをふくめてすべてが「教育」なのだろうと思う。土屋さん自身、「無縁の再組織化」と語っているが、そのことである。個人の実存にフォーカスすれば、それが「生き方のモード」の再組織化ということになるだろう。

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Vol.32
阿部謹也『日本社会で生きるということ』(99.11.1)

阿部謹也さんの『日本社会で生きるということ』(朝日新聞社)は面白いですねー。これは阿部さんがずーっとこだわって書き続けている「世間論」の講演ヴァージョン。その「世間論」にはほとんど同感、というより私がこのウェブで「世間がどーの」とか語ってるハナシは、基本的には阿部さんの議論を土台にしたものです(古いところでは『「教養」とは何か』の書評があります)。

若干ニュアンスの違いとして、阿部さんが「世間」にいちおうの「公共的、倫理的」性格をみて肯定的に語るのに対して、私はその「非倫理的、疎外的」な否定面をみる、ということでょうか。これが矛盾でも何でもなく(少なくとも私の中では)両立するのは、これが社会全体を眺望する視点からみるか、行為する当事者の意識からみるかの違いでしかないからですね。つまり「世間的な規範」といっても、社会全体の中では、公的なものとしての社会をなりたたせるものとして働いている。かりに「世間」がまったくもって「非倫理的」なものだったら、そもそも社会、というかこの世の中そのものがまったく崩壊しているハズだ。しかしそこで行為している当事者に注目してみれば、この人は「倫理的に行動しているのか?」といえば、まったくそうではなくて「受動的に」周りにあわせているだけだ、ということになる。その違いってことです(それゆえ、伊丹堂の「公共性」に関するハナシの中では、「世間」をヒトが「非倫理的に行動する」際の、ただしそれによって社会の安定はたもたれる「ヨリドコロ」である、と定義したのでした)。

そーであるなら、人が受動的に世間を生きるとしても、もちろんそれでもいいわけですが(圧倒的にそれでイイ場合が多いでしょう)、それに対してなんでオレがとやかく言うかといえば、よーするに、社会全体をどうしていくかというレベルの問題に対しては、もはや「世間」的な対応ではどうしようもないし、一方で、「世間」がいまやなしくずしに壊れつつある(中でも地縁的な関係は崩れている…オウムを呼んで活性化するしかないほどに?)、ということから来ている。つまりマクロでもミクロでも「世間」では次第にうまくいかなくなっていくってことです。そこでどうするか?ですよね。基本的には社会的な「個人」をそれこそ「創り出して」いく以外ないと思いますが…(逆に、世間的な倫理が崩れたところに、一気に倫理的な「中心」を打ち立てて、社会を統合しよう、というのが「ファシズム」なわけで、そういう動きにも注意しなくてはならないでしょう)。

ミネルバのフクロウは…のたとえではないですが、「世間」がくずれようとしてきたまさにその時に、阿部「世間論」がようやく人々の関心のまととなる…というのは、歴史の宿命なのかもしれません。だからこそ「世間」論は、今こそ重要なポイントなのだし、阿部さんの議論をもっといろんな人が引き継いでいかなきゃないんじゃないかと思ってます。この議論を共有することで、「公」や「正義」をめぐる問題で、もっとハナシが通じて、風通しがよくなるように思うんだけどね。

この本は、それ以外にもヨーロッパの十二世紀に「人格」や「愛」が誕生したという話、やはり十二世紀に「聖と俗」のパラダイム転換があったというような話がわかりやすく語られていて、おもしろい。他の、たとえば『世間論序説(ヨーロッパ中世の愛と人格)』などの本だと、歴史的な専門的な話がたくさん出てくるので、一気には把握しがたいところもある(というか、私には難しかったってだけのハナシですけど…)。逆にこの講演集だと何回も同じよーな話題がでてくるので、飽きちゃうヒトがいるかもしれないけど、ワタシ的にはこの繰り返しは身にしみて分かっていくという上では非常によかった。ナマで講演を聴きたくなる方です。

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Vol.32
ミイラにならないために・その1〜ミイラ事件考(99.11.17)

それにしてもこの事件が世の関心をひいてるのは、ミイラという猟奇性より、あの人たちのまったく正常なそぶりで超異常なコトを語る、その違和感の強烈さ(挑発性)、コレでしょう。ジョーユウ出所を前にしてジョーユウがウイルス化して蔓延しはじめたかのごとく感じられるところだ。

それにしても面白い(「死人」が出てるのに不謹慎ですいません)のは、その「異常さ」のナカミだ。これを彼らは「宗教」ではなくて「科学だ」とこだわる。通常の感覚からすれば「そんなの科学じゃねーよ!」とくるところだろうが、一概にそう言い切ってもしまえないところにこのことの面白さ?があるとワタシは思ってるのだ。むしろ彼らこそ「科学主義」の果てにいるというか…(あくまで現時点でマスコミを経過して得られる内容についてのことだけど)。もちろん彼らを支持する、なーんて話では全然ないですよ。

たとえば、ミイラが生きてる、という主張は、脳死をめぐる議論でさんざん問題にされた「生と死の境界は科学的に確定できるのか?」という議論の延長上にある。もちろんあそこまでミイラ化したものを「生きている」ということは常識外だが、生死の境界が科学的には確定し得ないならば、あそこまで行っちゃったものでも「絶対的に」死と呼ぶことはできない、ということは(それだけなら)道理がとおっている。むしろこのような議論は、トンデモの世界ではなく、科学者・たとえば養老孟司さんなどが、その著書で(死体が腐敗していく絵巻物などを例示して)繰り返し語っていることである。もちろん彼らの思想的背景に養老さんがいる(オウムにおける中沢氏のように)というようなことを言いたいわけではない(養老さんの場合、そこに自然のプロセスそのものとしての「死」を見ているわけで、方向が180度逆ではある)。しかしここにはモノの見方のパラダイムの共通性がある。それは「科学主義」というものの見方だろう。ワタシ的には「科学」とはある種のアートであり「生き方」のことだが、「科学主義」とは、その科学によって得られた「知」を「非倫理的に」信仰することである。

アートと科学については池田清彦さんの『科学とオカルト』について、倫理―非倫理については、伊丹堂の「倫理」についてなど参照ください…別にそこに私の「定説」が書いてある、わけじゃないですよ(笑)。

科学によって「生死の境界」を確定できないのは、ようするに「個体としての生命」が、それ自体としては科学の対象とはならないからだ。「個体としての生命」ではない部分としての生命、つまり臓器レベル、細胞レベル、さらには細菌レベル(細菌レベルのどこからどこまでを自己であり他者でありと分類することは不可能)であれば、常識的な「死」の後でも、生きているということはある。つまり完全な死(消滅)の状態に至るどの時点で「個体としての生命」が消失するか?ということを確定的に言うためには、その「個体としての生命」なるものを対象として捉えている必要があるが、それはほとんど「霊」を科学の対象とするがごときものでしょう。科学においては、ようするに通常の「死」が、不可逆的な過程であるということをもって「個体の死」としているわけだ(件の「グル」が「回復するハズだった」といっていることに注意)。

それにしても我々は「科学主義」に基づいて生きてるわけでもなく、「科学主義」によって社会を形成しているのでもない。我々は一つの文化として、とりあえずは心臓死を、そして部分的には脳死を、「人の死」として社会的に取り決めているのだ(法をヨリドコロとしつつも、それは単に法的な取り決めということではなく、「文化」としての取り決めだということ)。それは「人の死」というものが、ある種のヴァーチャルなものである、ということである。ヴァーチャルといっても非現実ということでない。我々はその「死」を「死」として受け入れることで、気持ちを切り替えたり、また経済的レベルでの手続きをしたりというカタチでそれを「リアル」に捉える。それが「文化」的機能ということだろう。

別に彼らを擁護するわけではないが(強調しておきますが、まったく、ない!)、ある意味では脳死において、ほとんど生きているとしか見えない人を死者として取り扱うことにしてしまったことへの、反作用、「陰画」としてこの事件はあるという面もある。カンジンなことは、そのバーチャルな境界上のどこに「死」を見いだすか、ということは、個人的にであれば、まったく「自由」なのであり、彼らがミイラを生きているということは、「それ自体」ではなんら問題ではないということなのだ(だいたいミイラが生きてる、ということぐらいだったら、高野山の坊さんたちだって空海のミイラが生きてるって言ってるじゃん)。我々が、大切な人の「死」の後で、その姿に接して「まだ生きている」と感じる事と、それは大差ないのだ(もちろん我々は、死を死として受けとめる「文化」に生きており、それはモノスゴイ「大差」なんだが、この文脈においては、ということである)。普通、そのように感じるのはその死に顔に現れる情感と記憶のなせるわざだろう。しかし彼らは、そういったいわば「人間的な」もの(普通の意味での宗教も含む)を介して死者の「生」をリアルに感じているのではなくて、「科学主義的」な、しかもかなり(というより異常なまでに)偏った「定説」などという「知」を媒介にしてリアルを感じている。それは不幸であり、哀れだということだが、しかしそれは「それ自体」で責められることではない、ということなのだ。それはタワゴトを語る自由は誰にでもある、というレベルのことである。

彼らの言動に挑発的なものを人々が感じ、マスコミが大騒ぎする理由は、ようするに死を決定する我々の「文化」があからさまに踏みにじられている、というところにある。しかも彼らは「科学主義」を全面に打ち出しており、彼らを批判すべき我々の内側で、この文化と科学主義との整合がうまくついていないだけに、なおさらその態度にイライラさせられる、ということだろう。先日の「ズームイン朝」で、評論家の宮崎哲弥さんが、「彼らは生と死の境界を曖昧にすることで、人々を不安に陥れようとしている」と語っていた。まさにそうなのだが、「生と死の境界」は、彼らが曖昧にしているのではなく、曖昧なのであり、ただ彼らはそれを増幅しているにすぎない、といってもいい。繰り返すがこれは「擁護」のために言うのではない。こういうことで、本当になにが問題なのか?をはっきりさせることが必要だと思うわけだ。現時点でいえば問題はミイラ化した男性を「故意に」死に至らしめてしまった可能性、これと、その後の死体放置の法的責任の問題、これに絞られるべきでしょう。もしも彼らの「文化」を踏みにじる「思想そのもの」を「問題」にしたいのであれば、自分が「文化」の側に立ってある種の私的領域に踏み込んでいこうとしているのだ、ということを十分に自覚しておかなくてはならないだろう(そういう態度そのものはもちろん対抗上、あっていいが)。「オウム新法」成立のおりもおりであり、このような「異様なもの」に対する情動的な反感に流されては、問題を見誤り、結果的には足をすくわれることにもなるだろう。

追記:それにしても「グル」の登場で、すべてが「ギャグ」になったかのごとくにも感じられるので、このように語る必要すらないのかもしれない。いや、しかし、あの松本チズオだって、我々はギャグと思っていたのだから、やはり言っておく必要はあるのだろう。

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Vol.32
小室直樹『悪の民主主義〜民主主義原論』(99.11.19)

小室直樹さんの『悪の民主主義〜民主主義原論』読みました。『天皇の原理』『資本主義原論』『日本人のための経済原論』と続けて読んできたわけだけど、これが一応の集大成って感じですか。『資本主義原論』で日本には資本主義はない、というのと対をなして、この本では日本に民主主義はない、と小室さんはいう。そもそも小室さんによれば、「資本主義と近代法と近代的民主主義は三位一体」なのだから、これは同じコトを別の側面から言っていることになるわけだけど、この側面(民主主義)にはこの側面としての固有の論理がある。

ちなみに『資本主義原論』についてはウェブマガジン31号(精神について)、『日本人のための経済原論』についてはヘッドライン17号(官僚制について)で、それぞれふれてますので、そちらもご覧下さい。『天皇の原理』についてはコメントしてませんが、「天皇論」というよりは、ほとんどキリスト教宗教哲学、宗教社会学的な内容であり、本書でふれている「予定説」の詳説として読まれるといいと思います。

カンジンなところは、民主主義というのは「完成されたシステム」ではなくて、日々の実行によってはじめて作られるものだ、というところだろう。言い換えれば、民主主義とは、そこにのっかってしまえば、自動的に自由・平等が保証されるというレールなのではなくて、それぞれの社会参加者が、それぞれその理念を実現しようという過程(プロセス)においてしか実現されない。こういったコトは、私自身、ここまでのところで色々書いてきた中でかなり身にしみて分かってきたことなので、非常に共感するところだ(もちろん『オムレット』もそうだが、このウェブでいえば、伊丹堂の精神をめぐる問題、柳美里さんの表現の自由問題、正義の問題など)。

しかしいかにしてその「実現」は可能なのか? 小室さんは、ここで「予定説」対「因果論」という対立を示す。予定説についてはむしろ『天皇の原理』が詳しく書いていたが、ようするに救済されるかどうかというのは神が予め決定(つまり予定)しているのであって、人間が善行を行ったかどうか、修行したかどうかとは関係がない、というアレだ。これに対して修行すれば救われる、というのが因果論。予定説が身にしみてない我々は、もし決まっているのであれば、別になにもしなくてもそーなるんだから、なにもする必要ないじゃん、というニヒリズムにとらわれるが、小室氏によれば、西欧人においてはそうではなく、むしろそれは神が決めた以上、必ず実現する、という確信のようなものであり、その目的を実現するための行為に彼らを駆り立てる。これはワシらがよくごく普通に「西欧人は目的論的」というのに近いが、小室氏の「予定説」という捉え方は、そういう生やさしいものではないものを彼らが持っていることを強調する。これがロックの「自由・平等」という思想と結びつくことによって、民主主義を日々実現していくエトス(行動様式、つまり生き方のモード)が形成されたとするわけだ。

ではロックの「自由・平等」とは何か? これは「働く自由」であり、「契約の平等」だという。働く自由というと、なんか職業選択の自由みたいな感じでセコイ話に聞こえるが、これは根本的にはこの世において「財」を創り出していくことの自由、のこととされているから、ようするに「創造する自由」と言った方がいいでしょう(『オムレット』的にいえばコトの創造の自由)。そしてこれを為すにあたっての契約に差別があってはならないってのが「平等」ということ。身分や血縁・地縁によって不公平があってはならないということになる。そしてカンジンなことは、これが実際には現実的なものではない、ということだ。

小室さんは、ぐっと一歩踏み込んで、これを「擬制(フィクション)」だ、という。しかし擬制だから、ウソだとか、意味がないということではない。むしろ「擬制で結構、それを実現するコトが民主主義だ」というところに、発想の逆転がある。これは日頃から「法はヴァーチャル、しかしそれはダイジ」と言ってるオレには、まったく共感するところだが、まさにここが最重要点だろう。小室さんは教育の事例をあげているが、人間は平等だから平等に取り扱わなくてはならない、とするのが、日本的民主主義教育。これは「平等だから」なになにする、という因果論的発想。これに対して、人間の能力も環境も現実には不平等だが、それぞれが平等に実現できるようにしていかなくてはならない、とするのが(ホントの)民主主義教育。予定の実現という発想と言うことになる。

ということでフト思い出したのが、先日の朝日新聞での「ニッポン現場紀行」という記事(10月22日)。「ヒトゲノム解析センター・西垣通さんと行く」というテーマだったんだけど、その西垣さんはこのサイトでもよく言及している『こころの情報学』の著者。ヒトゲノムセンターは、遺伝子情報を解析している研究所で、そこを見学していろいろ考える、という趣向の記事。ここで西垣さんは「遺伝子の解明は別の大きな問題も突きつけます。人間は生まれたときから均質ではないということを明らかにしてしまうのです。…近代社会では、人間は均質であることが暗黙の前提です。…人を区別しないというパラダイムが崩れ、教育や労働のあり方が変わる可能性がある。人間観を変える技術だと言う点に目を向けなければいけない」と書いてます。しかし、このように小室的に「民主主義の原理」を押さえてみれば、それはむしろ、「人間が均質であることを前提」にはしない文化であり、思想だ、ということになる。遺伝子に関する知によってだけではなく、単に生活する実感として、多くの人がこの「均質」という前提の崩壊を感じているのが、現在ではないだろうか。それだけに、いまこそこの「民主主義」を捉え直すことが必要なのだ、と思う。教育だけで西欧におけるようなエートス(生き方のモード)を創り出すことはできないだろうが、まずは民主主義がそのようなものであることを「知る」ということから始めて行くしかないのだろう。

この本はそれ以外にも、議会制度というものの歴史につっこんだ考察がなされていて、面白く読めます。ぜひご覧ください。

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Vol.32
内田隆三『ミッシェル・フーコー』(99.11.22)

内田隆三さんの『ミッシェル・フーコー』(講談社現代新書)けど、これがなんとも意外や意外というか、またもやシンクロというか、不思議な気分になってしまった。つまり、フーコーといったら、パノプティコンつまり一望監視施設、権力批判、「主体」の解体、ポストモダン、って感じで、オレにとってはすべてを否定するようなイメージしかなかったので、あまり近付かないようにしてたのだけど、この本によると晩年にはまったく逆のポジティブな思考を展開してるんですね。しかもそれは変節したというのではなくて、前段の権力批判があくまでも後段のポジティブな意味での「自己」の思想のための前哨になってるというところがスゴイと思うところです(つまり人の「思考すること」のねばり強さというものを思い知らされるというか…)。

「フーコーはほとんどその生涯をかけて、このような「主体」の自己同一性を系譜学的に解体したといえよう。だがそれでは、われわれは自己との道徳的な関係つまり自己の実践とその倫理的な可能性をどのように考えていけばよいのか。…そこで、フーコーは「主体」の問題を、普遍的な規範の形式としてではなく、能力あるひとびとが自己を鍛え、ある高さを求めて行う「生の様式」として考察する。古代ギリシアやローマにおいて、ある種の「自由人」が理想とした生の様式には、明らかに近代の主体とは異なる自己との関係があった。古代道徳に見られる、その「生の様式」は自己の厳しい統制にもとづく自己の錬成であり、美学的=倫理的な主体化の様式であった。」(序章)

高さの問題、生の様式(つまり生き方のモード!)、倫理的、…など、なんかこれまでここで言ってきた言葉が1セットになってまとめられてる感じですよね。しかしフーコーがこう言ってるというのが、あらためて面白いのは、私が倫理的なあり方とかについて語るときに、「西欧においては」そのような倫理的な主体化が個人において成立しているのだという「理想」をついつい念頭においてしまうのだけど、実ハそーじゃないってことですよね。少なくともフランス人は、そーじゃない(笑)。そうだったら、あらためてフーコーが「問題意識」を持つはずがないわけです。

では逆に西欧における「正義」や「公共性」は、いかにして可能なのか?という別な問題が出てくるわけだけど、それは結局、フーコーが「前段」で批判する権力化された主体によって、ということになるんだろうか。とすれば、その実態は、主体の思考に先立って決定されているある「規範」に主体が従属している、ということなハズなので、てことは日本で言う「世間」と同じことになってしまうじゃない。まーたしかに、どんな本でも西欧には公共性や正義があるってことになってるから、その公共性の「質」は高いということはいえるだろうけど、それを実行する倫理的な主体にフォーカスすれば、同じようなモンってことですか?…なんかなし崩しなおハナシですけど、それがこのウェブの特徴でもあるので、ご容赦下さい。それにしても、それくらいのレベルでアタマの中身が「同じ」じゃなかったら、そもそも映画や音楽、小説や演劇などの文化において、「共感」したりできるハズがない…と変な納得の仕方をしてしまうところだ。

でも実際問題としては、もうちょっと社会学的な分析を見てみないとなんともいえないけど(西欧においてはコミュニティ、自治体、大企業などが、社会に対して「公」的な責任を果たすべき「主体」とならなくてはならない、というカタチでの圧力が強くある、ということが一ついえるだろう)、いずれにしても社会的な問題を単に(あらかじめ決定している)普遍的な規範によって解決しているハズもなく、絶対に「社会的な問題解決に向けて倫理的に関わろうとする主体」は、いる、と思いますよ。もし「社会的問題」という方面(ジャンル)においては、「生の様式化」ということを認めない、ということであれば論外だしね(誰とは言わないがそういう思想傾向ってあるんだよね…)。ただそういう人は非常に少ない、ということじゃないだろうか。

フーコーは「すべての人が(そのような意味での生の様式化を)実現することはできない」という(私も「伊丹堂」のところで「スベテの人が倫理的であることはできない」と言ってる)。これは一種のエリート主義に聞こえるかもしれないけど、単なる事実問題としてそうでしょう(もちろん私は、スベテの人がそのように倫理的でありうる「可能性」を否定する者ではないけど、実際問題として、そうしたくない人もいるし、様式化が「技能」の問題である以上、ウラハラに失敗ということが必ずありうるということ。さらには、そのようにはありたくないという「自由」もまたある以上、スベテの人がそうすべきだとも言えない…ぶっちゃけた話が「人生イロイロ」ってことでしょう)。しかし、この本によると、フーコーは、その様式をできるだけ「多様化していく」事がダイジだとしている。これは非常に当然にしてカンジンなポイントですよね。そこに普遍的な「規範」はもはや存在しないんだから、何をもって様式化ができているかどーかも実ハ分からないハズ。ある人の様式化がそれこそ「世間的には」とんでもないグロテスクに写ることだって当然ある(いま現在においてそれはある)。それこそ、それは当人の「内側」からしか分からない問題だ。逆に言えば、出来る限り人間の可能性(選択と自己決定の幅)を多様化し広げていくことなしには、生の様式化なんていっても無意味。規範化と同義になっちゃう(したがってフーコーが「スベテの人が様式化を実現することは不可能」といっても実ハ、不可能かどうかなんて分かりゃしないわけで、多様性ということのウラハラとして、すべての人に実現の可能性があるのだ、ということが託されている、とも考えられる)

いずれにせよ、そういう多様性の展開を可能にするには、その「条件」として、やはり「社会」のあり様を変えて行かなくてはならない。ようするに「出来る限りの個人の自由」を認めつつ、「社会的公平性を実現していく」という認識を共有していくことが必要だ、というところにもどってくる。もちろんここでいう「条件」とは、それをす「れば」、自ずから「生の様式化」とか「倫理化」ということが可能になるというようなものでもない…ということも一応は言っておく必要があるだろう。ようするにそもそも「宿命とのエンカウント」(『孔雀』について)がなくてはコトが始まらないし、一般に言って、個人の努力・格闘のもんだいだろう。しかしこの実現とは本人にとってもまったく行方が分からないという類のものである(宿命的にそのようなものであるしかない)だけに、それがなされていくことに対するコンセンサスを社会的に形成していく必要がある。つまり、個人が個性的に様式化していくことの「価値」と、それが社会に対して負う「責任」をともに認知していくということなのである。

というわけで、この「様式化」という発想を通じて、十なん年目かにして、ようやくフーコーという人に出会えたって感じです。

(追記:小脳論のジャコウネズミさんの指摘により修正―99.11.26 Thanks!)

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