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Vol.33 文化果つるところ世間あり号(99.12.6-00.3.14)

■「音羽事件」について(99.12.6)
■大澤真幸「責任論」を読む(99.12.24)
■北山耕平『ネイティブ・マインド』〜生命と文化(00.1.24)
■柄谷行人『倫理21』を読む(00.3.14)

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Vol.33
「音羽事件」について(99.12.6)

お受験事件…というよりもその後の報道で「お受験」事件ではないことになったので、「音羽事件」とでも言っておくことにするが、これについてはすでにトップページの「走り書き」に書いていた(99.11.26)。ここにそれを再録しておきます(以下再録)。

…こういう事件を「社会問題」化するような言説はごまんと出てくるだろうから、私として言うこともないのだが、あまり言われないことだけ言っておくと、「国立大学付属幼稚園」っていったいナニ?ってことだ。いったいぜんたい、どーいう「存在理由」があるんだかさっぱり分からん。有名私立大学付属、なら分かる。ようするに学閥という共同体(ゲマインデ)を強固にし維持していくためのマシーンとして、あるわけでしょ。しかし実態はともかくとして、国立大でそんな共同体形成(階級化)が行われてはまずいでしょう。その存在理由、分かる人がいらっしゃったら是非教えていただきたいものだ(もちろん教育実習の場の確保のため、なんて答えはナシよ)。

…と言ったものの、ホントはそれだけのものかもしれない。容疑者は「相手の子が受験に受かったことは知らなかった」と言ってるらしいし。私大系におけるゲマインデ形成という社会的機能がないということは、逆に言えばそれが殺人の動機となりうるだけのリアリティもないのだということを示しているのかもしれない。(99.12.6付記)

ニュースだかワイドショーだか見てたら、近所の主婦が「この辺はお受験のために引っ越してきた人が多いから、変な人はいないと思います」と言ってた。…それ自体ヘンだっつーの! もう一個ついでに言わせてもらえば、「僧りょの妻」って何だよ!ってのもある。矛盾概念だよね(もしこの僧りょが浄土真宗なら矛盾ではないだろーけど)。これはナニを今さら…って話ではありますけどね。

よーするに、ここに登場するアイテムってことごとく「どっかヘン」なんだけど、基本的にヘンだと本人は思ってないし、部外者からしても、あの「定説」ほどにはヘンではないという「閾」の内にある、そんな「おかしさ」なのだ。そういう「世界」で起きた事件だっていうここと、ワシらもまた似たよーな「へんな」世界で生きてるってことでもある。そういう「おかしさ」を前提にしてみると、自首した容疑者の「長い間の積み重ねの中で起きたことで言葉では捉えられない」という言葉は、まさに「言えてる」とも思える。ほとんどすべての事件がまさにそういうものだろうが、そういうふうに「言葉で」語った人ってあまりいなかったんじゃないだろーか。ま、いくら「言えて」ても、遅かりしってことだけどね。

ちなみにワタクシも音羽に4年間住んでいたので、この事件は別な意味で気になるのだ。今はどーか知らないが、当時は文京区とは名ばかりの文化果つる地でしたねー。なにやらマスコミではここがあたかも文化的レベルが高い、教育熱心な土地柄であるかのごとくに報道しているけど、これはマトモには受けとりがたい。たぶん実態は「お受験のために引っ越してきた人が多い」というだけのことと、もっと大ざっぱに広い範囲をとればたしかに「文教地区」ではある、という程度のことでしょう。

私が住んでた頃は、講談社(たけしの事件で知ってると思うけど、この音羽通りに面して大塚警察署の隣にある)の雑誌の編集後記にもよく音羽の地を嘆く記述があって(「音羽砂漠」なんてよく書いてた)、同感同感、と思ったものだった。ろくな食い物屋がない、とくに夜はまったくない、というのがその理由だったが、さらに重大なことは本屋がない(他にも光文社など出版社があるのにねー)。レコード屋もなく、レンタルビデオ屋もない(今は知らないけど)。目白台(音羽の西側にある台地、こっちはホントの高級住宅地)に住んでいた友達は、「音羽の谷」と呼んでさげすんでいたが、ここはまさに都会の谷間、都会の真ん中にぽっかりできた「郊外」って感じ。西側の目白台が高級住宅地で、東側の茗荷谷方面がホントの「文教」地区(お茶大があるのもこっち)、その谷間の音羽通りには大塚警察署やそーいった出版社の他は、新しくできたマンションだけがズラーっと並ぶ。そのマンションの裏には、古〜い木造家屋、長屋がならぶ区域が残っていて、オレはその木造アパートに住んでたのね。空襲で焼け残ったとかいう民家の二階を改造したアパートで、近所はホントに古い家ばっかり。ようするに、本来の音羽ってのは、そういう寂れた焼け残りの住宅街であって、そこに新しいマンション群がもともとの土地柄とは無関係にのっかってる。そういう「ヴァーチャル」な空間で、「文化」とは縁もゆかりもない「教育熱」を中心とした「世間」が出来てたってことですか…。

付記:けっこう週刊誌などでも「音羽事件」という書き方をしているようだ。やはりマスコミも無意識に「音羽」という土地になにか大きな意味があることを感じてはいるのだろうか。

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Vol.33
大澤真幸「責任論」を読む(99.12.24)

 『オムレット』キャラクターによる架空対話で構成しています。
 キャラクターについての説明は、こちらのページをご覧下さい

獏迦瀬: 大澤真幸さんの「責任論」(『論座』1月号)が話題になってますねー。
伊丹堂: あ、そう。
獏迦瀬: 「新しい責任概念の構築をめざす」って読売の批評にも出てましたよ。
伊丹堂: あ、そう。
獏迦瀬: なんですか、気が乗らない返事しちゃって。読んでないんですか。
伊丹堂: 読んだよ。たしかに「責任」についての問題提起や話題提供って意味あいは評価するべきじゃが、ワシなんかの関心からすると、いまいちピンボケで内容がないって感じじゃったね。
獏迦瀬: ええっ…。
伊丹堂: なにビビッとるんじゃ、言ってるワシの方がよっぽどビビるわい。
獏迦瀬: そういえばすでにひるますさんが『戦後の思想空間』についての書評でけっこう無鉄砲な批判をしていたんでした…。
伊丹堂: まっ結局は、それと同じことなんじゃがね。つまり今回も大澤さんは「第三者の審級」つまり超越的な他者の不在ということを問題にするんだけど、そういう問題の立て方じたいに問題があるんじゃないかの。ある共同体の中で規範やルールがキチッとしているかどーかは、それが各人にとって「共有」されているかどーかの問題であって、超越的な他者なるものがメイカクなカタチで存在しているかどーかの問題じゃないじゃろ。そんなものが確固として存在している(かに見える)のは、キリスト教社会や天皇主義下の日本みたいな、どっちかっていったら、特殊な社会だけじゃろ。
獏迦瀬: あ、天皇…。
伊丹堂: それはともかくとして、この論文では、社会的な状況として責任を確定しにくくなっているって問題と、それぞれの人が責任を回避したりそもそも感じなくなっているという内面的というかワシ的に言えば実存的な問題が、ごっちゃになってるじゃろ。故意にごっちゃにしてるのかもしれんが。
獏迦瀬: それは…あえて個人と社会を区分けしないっていう考え方なんじゃないですか。社会システム論的っていうか。
伊丹堂: いや、個人と全体という問題じゃないんじゃが…。単に社会的な状況の分析と、個人や社会が文化として持ってる内面的なというか、思想的な「ナカミ」の問題の違いっていうことなんじゃがね。それがごっちゃになるから、必要以上にハナシがややこしくなるのじゃ。たとえば社会的な状況として責任の確定が難しくなっているということであれば、第三者の審級うんぬんというよりは大澤さん自身が『戦後の思想空間』で言ってる「資本の論理」で説明したほうがスッキリする。
獏迦瀬: 資本主義がイカンっていうよーな話ですか?
伊丹堂: それはマルクス主義だろ。そーじゃなくて、伝統的な社会では、階級やらなんやらの社会的な関係が固定したものだったけど、資本主義ではそうではなくて、ある時点での関係が、その後の時点では変化している、少なくとも変化する可能性がある。そういう「時間的な変化」を折りこんで(前提にして)社会が成り立っている。つまり固定的な関係ではないから不安定だけど、そういう変化を前提にしているわけだから、いわば時間的には安定した社会をなしている、それが資本の論理なんだってことじゃね。
獏迦瀬: で、その資本の論理がなんなんですか。
伊丹堂: つまり社会的関係が時間的に変化していくわけじゃから、ある時点での行為は、当然、それに先行する変化の結果としての状況において行われとるわけじゃ。ということはその行為の原因とか責任を追及しようとすると、その状況をつくりだした原因にまでさかのぼらなくてはならなくなり、そこにさかのぼったとしても、さらにそれをつくり出した原因があるかもしれない…ってことになって、キリがない。
獏迦瀬: よーするに社会がフクザツになったんだ、と…。
伊丹堂: ちゅーこっちゃ。じゃから責任が確定しにくい、という状況は、いわば「当たり前」の状態ってことじゃな。それを前提にしてみれば、大澤さんが言ってる「帰責ゲーム」ということもまた別様に見えるはずじゃ。つまり大澤さんは、責任を確定しようとする行為が実は責任のなすりつけあいになってるという状況をそう表現しているわけじゃが、原理的に責任が確定しにくいものであるような状況で、いきなりそんなことを言ってもしょうがないじゃろ。むしろ、意見を交換したり実際に裁判で争ったりという手続きをすることで、責任についての「合意」を形成していくという積極的な意味あいがそこにはあるはずじゃ。よーするにゲームはゲームでも「言語ゲーム」といったほうが近い。
獏迦瀬: ヴィトゲンシュタインですか。
伊丹堂: 言語を使おうと使うまいと実ハかまわないんじゃが、よーするにコミュニケーションによってリアルを確定し共有していく手続きじゃな。逆に言えばコミュニケーションによってしかリアルは確定できないってことでもある。このへんは『オムレット』第4章と同じことじゃね。責任も「ひとりよがり」では、「普遍的なもの」にはならないわけじゃな。むしろ、権力者や声のでかい人に一方的に責任を押しつけられることがないって意味で、この「責任の不確定性」と言語ゲームによる確定手続きは、それこそ「自由な社会」の基本そのものなんじゃ。
獏迦瀬: でも大澤さんが言うように「帰責ゲーム」になってる状況はたしかにあるんじゃないですかねー。
伊丹堂: そうじゃよ。じゃからこそ、それを「第三者の審級」の不在とか社会システムの不備の「せい」にしてはいかのよ。そこにこそ実存の、つまり内面の問題があるわけじゃろう。外側からいかに責任を「確定」されようと、それを身にしみて感じることがないという人はいる。それは今にはじまったことではない。人格障害というのは、本当にそれを「感じない」人々のことじゃが、普通の人でも、自分の罪を「リアルなこと」として共有していながら、それを自分に対してごまかすことで、直視せずに身にしみないようにする、ということは往々にしてあることじゃ。じゃが、そうすることもできるのに、あえてそうするのではなくて、我がコトとして引き受ける、その心的な動きこそが、責任であり倫理ってもんじゃろ。それが「不発化」しているというのであれば、よーするに個人においては、倫理や実存といった問題がすたれているってだけのことだし、個人をそのように倫理的にさせるのは「文化の伝承」でしかないんじゃから、全体というレベルでみれば、よーするに文化が崩壊しているってことなんじゃ。そこを言わなきゃ、しょーがないじゃろ。
獏迦瀬: ホーカイですか…。でも大澤さんも「責任のもう一つの可能性」としてそういう実存的な問題を提起しているんじゃないんですか。
伊丹堂: 内容的にはそーなっとるが、そうハッキリ言わないところが問題じゃ。倫理や実存の問題はハッキリそうと言わないと、とたんにアイマイなおしゃべりになってしまうぞ。たとえば大澤さんは「<同一性>へのコミットメントを潜り抜けていなくては、偶有性の自覚は、責任へと転じえない」と言ってるがその肝心なコミットの問題については何も語っていない。コミットしなくてもいいのにも「かかわらず」そこにコミットする、ひいては責任を引き受ける、ということが倫理のツボである以上、そこについて語らなければ、倫理については何も語っていないに等しい。ワシが最初に「内容がない」と言ったのはそこのところじゃ。
獏迦瀬: はあ…。ところで大澤さんのいう「根元的偶有性」というのは、伊丹堂さんのいう「個体としての生命」に近いような気もしますが…。
伊丹堂: そーじゃね。『オムレット』への質問に答えるってコーナーでも言ったが、ようするに人が倫理的行為をしたり、倫理的に責任を引き受けたりする時の「ヨリドコロ」としての論理ないし、仕掛けという意味あいは同じじゃね。ただワシとしては、「個体としての生命」といった「生命論」的アプローチの方が説得性があると思うよ。つまり「個体としての生命」が<同一性>の基体であり、それゆえに「個体」が責任を引き受けるしかないが、「生命」としての本質上それは他の生命体との交換可能性の上にある、そこにこそ「個体としての生命」が、全体としての生命、ひいては地球環境の全体について配慮する根拠とでもいうべきものがある。愛や共感ってものの根源ってことじゃね。それが「倫理」のおおもとだってハナシじゃな。(倫理への生命論的アプローチについては次項、『ネイティブ・マインド』についてを参照ください。)
いずれにしても人は、そーいった「論理」や理屈を通してはじめて「倫理的」になる、というわけではないんじゃから、「倫理」のヨリドコロとなる「論理」を打ち立てるこが「倫理を打ち立てる」ことではないわけじゃ。つまり、人がいかにして倫理的であり得るかという「実践」の問題ではないわけじゃな。ちょうどひるますが、土屋恵一郎さんの『正義論/自由論』について書いてたことと同じことじゃね。ロールズの「無知のヴェール」(土屋さんの言う「無縁化の論理」)が、倫理的行為の内的論理を表明しているが、なにゆえ、そうしなくてもいいにも「かかわらず」そのように「無縁化」して倫理的行為をなすのか?といった実践問題については語っていない、という…。
獏迦瀬: 大澤さんが最後に書いてる「若干の提案」は、おおむね納得できるものでしたけど、結論がそんなに大きくかわらないというのは、その「内的論理」は大きく違ってはいないから、なんでしょーねぇ。
伊丹堂: まっとうに生きてりゃ、何が正しくて何がまちがってるか、なんてことは、だいたい一致してくるもんじゃろ。そういう意味では文化や「精神」は、とことん崩壊しきったってところまでは行ってないってことじゃな。

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Vol.33
北山耕平『ネイティブ・マインド』〜生命と文化(00.1.24)

このサイトをずっとごらんの方はごぞんじでしょうが、インディアン居留地からの立ち退きに対するロングウオークをここでも紹介してきましたが、ワタシ自身は忙しさにまぎれて、結局参加できませんでした。参加できないかわりと言ってはなんだけど、北山耕平さんの『ネイティブ・マインド』って本(地湧社)をあい間に、それこそ「歩きながら」読んでました。

この本はもちろん、インディアンの「文化」を紹介するものだけど、縄文を含めて、アボリジニ、エスキモー、インディアンなどを、太平洋を囲むひとつの共通する文化、ネイティブ・モンゴロイドの文化としてとらえているところが面白い。いや漠然と同じよーなものとしてみんな意識はしていると思うんだけど、宗教―文化論的に、共通のパターンというか、内容というか、意味というか、として捉えようとする本って、ありそうでなかったんじゃないだろうか。結局ワタシの関心は、インディアンという民族とは何かというような他人事としての話、個々の民族の習俗のディテールはどのよーになっているのかというようなところにはなくて、僕ら自身の「文化の質的転換」にある。そういう意味で、この本が、特定のインディアンの、ではなくて、ネイティブな人々の「文化の質」そのものとして描き出している「ナカミ」は、非常に普遍的なもので、ワタシたちの「文化」を考える上でも役に立つのではないか?と、思うわけだ。

それが「普遍的な」ものだと言える、その最重要点、カナメのカナメは、次の点だろう。北山さんはネイティブ・モンゴロイドの文化/宗教(それは一体となっている)を考える中で、「あえて宗教というよりも、私は「生命の探求」と呼びたい」と言っているが、まさにそれだ。私自身、いかに宗教にならずに「生きることの意味」ということを考えるか、という中で「生命論」に行き着く、ということがあった(「個人の表現の発信」森岡正博さんの『宗教なき時代を生きるために』へのコメントなど。そして生命論へのブックガイドG・U掲載の「肥留間氏の魔法の本」生命論篇などで表明しているように、それは主に、大いに山口實さんの『生命のメタフィジック』によって導かれたものだった。さらには、『オムレット』も「生命論」だと言える、ということはここに書いておいた)。今ここにおいて、ある文化−様式が「普遍的」でありうる要件は、各人を思考停止の状態におくことなく、しかも豊かな意味を生きることを可能にしうるかどーかだと言えるだろうが、「生命論」こそがそれに応えうるものだと、常々考えていたところだった。

しかし生命論から出発したのでは、それはあくまでリクツなのであって、様々な問題に対処して思考するにはいいとしても、それをもって「文化」の創造を語るには弱い面がある。なんといっても「文化とは長い年月をかけて培われる」ものだからだ。そこにネイティブ・モンゴロイドの文化/宗教が、参考になるという意味あいがある。それは宗教的な意味での探究(いまや森岡さんにならってそれを「宗教性」と呼ぼう)でありながら、狭い意味での宗教的共同体に担われるのではなくて、全体としての社会がそれを担っている、そういう「文化」としてのあり方がそこにあるからだ。

北山さんのあげるネイティブ・モンゴロイドの文化/宗教の特徴の第一点は、神秘な力、見えざる力、グレイトスピリットに対する信仰だが、これは「生命」の驚異に対する敬いであって、「宗教」ではない。ここで「宗教」ではないということの意味あいは、「信仰」の対象を我々の外部の、超越的なモノ(神)にはおかない、ということだろう(大江健三郎「生き方のモード」についても参照)。グレイトスピリットはたしかに「超越的」と言えば「超越的」かもしれないが、それは我々の生命や魂と無関係に存在するナニカではない。むりやり言っておけば「内在的超越」だろう。しかもそれは単に個人的に孤立して意識されるのではなく、常に共同の、というよりさらには、人類にとって共通のものとして感じられている。つまりそれは「精神」(共有された生命のコト的な発現:by伊丹堂)そのものであり、まさに正しくも「スピリット」と呼ばれているのだ。

そしてそれと関わるが、北山さんのあげるネイティブ・モンゴロイドの文化/宗教の特徴の第二点は、すべては相互依存の関係にある(円環)という認識だ。これも単にシステム論とかエコロジー的に(外側から観察されたものとして)相互にかかわりあっているというのではない、というところがダイジだろう。まず「すべて、一切」が相互依存にあるってことは、自分の存在そのものも、その円環の中ではじめてあるということ。そして、その円環の根底には「生命」がある。その「生命」によってはじめて一切が成り立つ(ありうる)といっても、「生命」は、神のようにここから無関係に(超越して)あるわけではない。内在的、というか、オートポイエーシス的というか、ようするに「内側からの力」としての生命が、この(自分自身をも含めた)「円環」を創出している、という認識なのだ。

そういったことを踏まえてカンジンなことは、彼らの「文化」が、こういった生命論的直観を単なる「知識」としてではなく、「生き方」の実践として、まさに「生きるプロセス」の中で実行していくものだ、ということだろう。ネイティブ・モンゴロイドの「信仰」や「道徳・倫理」は、その生き方のヨリドコロとなる「様式」を文化として今に残していてくれているのだ(ここで言う「様式」ってのは、イイ意味での「様式」であり、用法については内田隆三さんの『ミッシェル・フーコー』へのコメントなどを参照のこと)。以下そのポイントとなるものを列記しておこう。

「祈り」の大切さ、これは、ようするにそのような一切を成り立たしめている「生命」の「驚異」を常に自覚し、それに感謝することであろう。大局的に言えば、物質文明にとらわれず、常に「精神的な生き方」を意識するということだろう。「精神的」な高さをめがける生活であり、ワタシ的な意味での「倫理的生活」(伊丹堂の倫理についての注参照)、シュタイナー的に言う「霊的生活」ということになるか。「霊的」というと抹香臭いが、ようするに「霊」とは「自覚された生命そのもの」ではないか?

体験的に言えば、「祈り」は、それによって、自分の周りで起きるモノゴトを常に「内側から捉える」訓練でもある。それが出来ていれば、多少のことには不安や恐怖にとらわれず、冷静に対処するということができるようになるものである。これはある意味では一切はヴァーチャルなのだ、一切はフィクションなのだという観方に近いものでもあるが、単に「突き放す」のではないところがミソだろう。ワタシもまたそのようなフィクショナルでバーチャルな関係を切実なもの、そして幸いなるものとして受けとめ、ともにそれこそ「相互依存の」関係を生きているということに対する自覚をもたらすものなのだ。

ここからして「尊敬」という態度もまた出てくる。これはたとえば、どのような信仰を持つ人も敬いなさい、ということだが、どのように意見が対立する人であろうと、その人の生命としての歴史、来歴、相互的な関係の中で、その人の「現在」があるのである、ということを「内側から」観ずるならば、まず様々な意見の違いの前に、根元的な「尊敬」があってしかるべきだ、ということだろう。これはさらにマクロな文化―社会システムとしてみれば、「多様性」を容認する文化―社会、ということにもなるだろう。

さらに相互依存という直観からは、全体としての「バランス」を重視する、という態度が導かれるだろう。そして個人としては、その都度その都度の行為(自然および他人への関わり)において、その都度「自分の責任を引き受ける」という態度を呼び起こすものとなるだろう。それが例えば狩りにおいて、獲物を殺すときに「その獣に対して「自分はなぜこのようなことをするのか」そして「自分はこの行動に対する責任をすべて引き受ける覚悟である」旨をはっきりと言葉にし、声に出して語りかけなくてはならない」という倫理的=美学的様式として伝えられていることの意味あいってものだろう。

このような責任という態度は、単に外側から世界を相互依存という相でとらえるだけでは出てこない。もちろん大澤真幸さんの言うように、それを根源的な偶有性として捉えても、それを結局は静観的に見ている限りはでてこないわけで、大澤さん自身が指摘するように、それが責任に転化するためには「<同一性>へのコミットメントを潜り抜け」る必要がある。ネイティブ・モンゴロイドの文化/宗教においてそれを担保するものは何か?といえば、ここまでの話で明らかなように、その相互依存を「内側から」捉えるということであり、それが「生命」そのもの(グレイトスピリット)と根源的につながっているという直観でしょう。それを端的に表しているのが、「自分(たち)は、世界の中心にいる」という考え方だ。

自分が中心というと、ジコチューみたいで何か良からぬことのように思われるかもしけないが、そうではない。ようするに生命によってこの世界が成り立っているということは、生命とは現象学的に言えば「そこで世界が開ける場」だということだが、しかしその世界がどこで開けているかといえば、結局は個人個人、それぞれ、個体としての生命という場においてなのだ。これが「自分だけが存在する」という独我論ではないのは、いうまでもない。他者も存在し、全体も存在する(しかも円環として)が、その上で、この世界というのは、まずは「自分がかかわらないことには何も始まらない」のだ。ようするに「実存のかけがえのなさ」って奴である。この実存の問題を身にしみる以外に、「責任」ということ(自分を引き受けること)が成り立たない、ということは、これまでもしつこく言ってきたことだった。それを可能にしているのは、「愛」ということだろうと思うが、おらくはネイティブの文化/宗教においては、グレイトスピリットからの愛としてそれが受け継がれているのだろう。

実存と責任、とくると何やらキツイものであるように感じられるが、そうでもない。山口實さんも『生命のメタフィジック』で、生命の直観が「存在価値」(自分が何をやったとかではなくて、まずは存在することだけで価値があるという感覚)をもたらすものであり、それによって多くの心理的問題が解決することを語っている。ネイティブの文化においても、この「世界の中心にある」感覚は、自己肯定感によって精神的な豊かさをもたらすものとなっているのだ。

このような自己肯定、存在価値の実感があってはじめて、ひとは世の中で「自律的」に生きることが出来るだろう。これは「教育」の問題でもある。インディアンの文化/宗教が、けっして「宗教」ではないのは、以上のような「精神」にかかわる問題を決して「マインドコントロール」として伝えるものではないところにはもハッキリと現れているといえるだろう。「ネイティブな人たちは伝統的に「地獄」とか「罰」といったコンセプトが人間を宗教的にさせるとは考えないできた。彼らが感謝や祈りを捧げるのは、あくまでそうしたいからか、そうする必要があるからかのどちらかであり、そうすることではじめて自分たちの生活の連続性を保ってきたのである。」教育はこれまでのような「型にはめる」ものから、自発性を育むものにしていかなくてはならない、ということは、大方のコンセンサスを得つつあると思うが、インディアンの文化は、その際に、その文化の持つ「様式」への自発的な参入をうながす必要があること、そしてそのための魅力的な伝承の数々というものを教えてくれるものだと思う。

その意味で北山さんが「笑い」という一章を立て、「ユーモアもまた聖なるものの一部である」と語っていることは、非常に重要だ。インディアンは無口だと思われているが、実ハそうではない、と北山さんは言う。無口だというのは、まさに加藤典洋さんの言う「べしみ」問題か(赤坂憲雄さんの『東北学』に参加されてるので、後で分かったけど、加藤さんも「トーホグ」なんですねー)。それはともかく、現在のような抑圧的な境遇にあっても、彼らのユーモアが決してひねくれたもの、ルサンチマンからの笑い、でないところはスゴイ。北山さんはプライドがあるからこそ、としているが、これもまた例の「自己肯定」からくるものと言ってもいいだろう。逆に考えると結構身にしみることだが、実感的には抑圧もされていないのに「ひねくれた」、嫉妬からくる下卑た笑いしか笑えないってのは何なんだろうか…ってことだよね(誰のこととは言わんが)。

ユーモアはゆとりがなくては生まれないし、それによってこそゆとりが作られるという循環的なもの、つまり創造的なものなのだ。そして結局のところ、ユーモアとは人々を気持ち良くさせるものである。北山さんはネイティブのの宗教がもともと「いかに気分をゆったりとさせてこの生命の道の上を旅するかを、最も重要な眼目として取り扱うものだった…」と言う。まさにそこにこそ、倫理的でありながら、なおかつ「シリアスにはなりすぎない」そんな生き方の見本があるのではないだろうか。「ひるまず笑って…」行きたいものである。

もちろんそれでは気が済まない、という「マジメ」な人もいるだろう。これもまた「宿命」か。そういう人にはシャーマン、メディスンマンという道があることを北山さんも付記している。我々にとってもっとも身近なメディスンマンと言えば「ドン・ファン」だが、これにハマった人も多いだろう。北山さんが第3章としてそれについても語っているが、結局のところ、ネイティブな文化においてはアラユル人が「精神」との接触において生きているのであって、シャーマンと言えども「特別な」ものではない、ということだ。もちろんその「文化・社会」の中では特別な位置を持つことになるわけだが、我々の文化の質的転換を考える上では、ここであまり深入りする必要はない、と言えるだろう。「すべての人がシャーマンになれるわけでも、またそうなる必要もないのである。与えられた力を引き受けて、そのことによって自分の一族の者のために使えるキャパシティを持った者だけが、一人前のシャーマンになれるのである。」これもまた、一般的に「我々のすべてが異能者になれるわけでも、またそうなる必要もないのだ」と言いかえれば、「文化の質的転換」というテーマにとっても、示唆を与えるものになるだろう。

追記:…と読んでいてオヤッと気づいた人もいるだろうが、これらのポイントの多くが『小脳論/お気楽論』の説く生き方に一致する!のだ。っていうか、オレが『小脳論』のフィルターをもってしてこれを書いてるから、そーいうふうにピックアップされるって面もあるわけだけど。いずれにしても『小脳論』のジャコウネズミさんの洞察力に脱帽するところです。

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Vol.33
柄谷行人『倫理21』を読む(00.3.14)

 『オムレット』キャラクターによる架空対話で構成しています。
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獏迦瀬:柄谷さんの『倫理21』(平凡社)評判いいようですねー。
伊丹堂:そのようじゃな。
獏迦瀬:ひるますさんも「早くも今年のベスト10」とか言ってましたね。
伊丹堂:アレは二枚舌じゃからな(笑)。で、お前さんは読んだのかい?
獏迦瀬:もちろんですよ。ボクもひじょーに面白いとは思いました。なんか上の大澤真幸さんの「責任論」についての話と完全にリンクしてる感じでしたね。
伊丹堂:そりゃコトが「倫理」を巡るものである以上、リンクするのは当然といえば当然ってことになるけどね。ワシ的には倫理や責任は「形而上学的なもの」とメイカクに打ち出したって点がなんといっても我が意を得たりじゃな。
獏迦瀬:上で言っていた「社会的な状況として責任を確定しにくくなっている問題と、それぞれの人の内面的・実存的な問題」の区別がハッキリ打ち出されてるってことですかね。
伊丹堂:ちゅーこっちゃね。それさえハッキリすれば後はなくてもいい、と言ってもいいくらいじゃ。
獏迦瀬:なくてもいいってとこが妙に強調されてる気がしますケド…。
伊丹堂:まっそう勘ぐるでない。言葉のアヤじゃ。しかしワシゃホント、その点に関して、よー言ってくれたと感心してるんじゃ。
獏迦瀬:そうですか…。でもそこがクッキリしたぶん、他のところが分かりにくくなっているという面もあるように思うんですが。
伊丹堂:オッ言うねぇ。
獏迦瀬:てゆーか、今までのこのサイトでの倫理をめぐる話を踏まえればとーぜん出てくるギモンがあるわけですよ。たとえば柄谷さんは「自由であれ」という命令に従って行動し、自分を自由な主体である「かのように」みなしたときにはじめて「倫理」的に責任を問うことが出来るとしていますが、いったい全体どうして人がそういう命令に従ったり、そのような「主体」とみなしうるのかってことが何も説明されてないように思うんですが…。
伊丹堂:わはは。当然そこを言うだろうと思ったぞ。というかこれまでの流れからすれば、当然ワシがそこを言ってもおかしくはないってことじゃな?
獏迦瀬:そーですよ。
伊丹堂:ところがこの柄谷さんの論に関して言えばそーいう問いはいちおう問題外というか、そういう問いを免除されてるといってもいい。
獏迦瀬:そんなぁ…。
伊丹堂:というのは、柄谷さんが言ってるのは、ともかくそういう風に自由という義務に従い、自由な主体とみなして責任を引き受けるということを「倫理」と呼ぼう、ということに他ならないからじゃ。ようするに「定義」の問題なんじゃよ、これは。だから「どうしてそうしうるのか?」という「説明」は不要というのが当然で、それを他の「理由」によって説明したらむしろそれが「倫理」についての定義でもなんでもなくなる…、そういう「論理構成」になっとるわけじゃよ。
獏迦瀬:なんか身も蓋もない説明ですが…。
伊丹堂:じゃが、そこをハッキリさせることで風通しのいい議論が可能になる。ただし柄谷さんは言ってないけど、この「倫理」についての定義は、あくまで「我々にとって」のものだということをハッキリさせとかんとな。ようするに超越論的観点というか、分析的(カント的に言えば「批判」的か)に観察する視点からすれば「倫理」とというものは、そういうふうに定義できる、ということじゃ。それと同時に、その対として「当事意識にとって」という観点があるってわけじゃ。
獏迦瀬:あ、その区別は前にもチラッと出てきましたね。おおもとはヘーゲルですか?
伊丹堂:まぁそんなことはどーでもいい。「人がいかにして倫理的でありうるか?」という問いは、この当の本人というレベルの問題なんだね。逆に言えば、そういう定義がハッキリしていなくては、ナニが倫理的でナニがそーでないかも実ハ言えないということになる。そういう意味で議論が風通しがよくなる、といったワケよ。
獏迦瀬:ナルホド、というか、まだイマイチよく分かりませんが…。結局、そういう定義どおりの倫理的行為ってのは、現実には「ない」んだってことになるんでしょうか。
伊丹堂:ちゅーこっちゃ。たとえばその当人がいかに「倫理的」に行為したとしても、その本人のアタマの中で実際に柄谷さんが言うような「定義」どおりのコトが起きている必要はないわけじゃ。というのはこの「定義」はカントが「発見したコト」なわけじゃろ。しかしカントがそんなコトを発見する以前に倫理的な人がいなかったハズがない。「自由であれ」なんていう哲学的なコトバを知らなくたって充分「倫理的」だった人はこの歴史の中で数多くいたわけだし、むしろそんな哲学的コトバを知らない人の方がよっぽど倫理的だなんてことはおうおうにしてあるわけじゃ。
獏迦瀬:屁理屈っぽいですが、意味は分かりました(笑)。でもその「定義」がカントによって「発見されたコト」だということは、それは他にも言いようがあるってことになるんじゃないでしょうか。
伊丹堂:そーじゃよ。ロールズの「無知のヴェール」(土屋恵一郎『正義論/自由論』について参照)でも同様な内容が語られているし、柄谷さん自身も例えば「自由であれ」という義務は、サルトルの「自由の刑に処されている」でも同じと言っているように、これはサマザマに言いかえ可能だってことじゃろ。
獏迦瀬:つまり前に言ってた「内的論理」の問題ってことですか。
伊丹堂:よーするに「倫理的」というコトのエッセンスがどう表現されているかの問題ってこっちゃな。たとえば「自由であれという義務」は、ある行動や思考をする際に、それが「共同体の規範にのっとって」とか「実際問題としてそうするよりしょうがない」「そうした方が身体的な快感を得られる」というようなメイカクに外部的な理由によって、つまり「他律」によって、なされるのではない、というエッセンスを表現したものと考えていいわけじゃ。
獏迦瀬:共同体的な規範にのっとったものは「倫理」ではない、柄谷さん的に言えば、それは「道徳」だ、という分類は痛快でしたね。
伊丹堂:ワシ的に言えば、世間は「非―倫理的」行為のヨリドコロ、というところじゃな。ついでに言えば、なんらかの明示的な意味での「第三者の審級」にしたがってなされる行為は、すべて「倫理」ではないってことになる。これについてはくどいのでもう繰り返さないがな。
獏迦瀬:柄谷さんもフロイトの超自我と死の欲動というところで、共同体規範の内面化という説を否定してましたが、そこらへんもリンクするところですね。つまり柄谷さんはフロイトのいう「超自我」を道徳的でなくて倫理的なものとみているわけで、これは共感しました。ただそこで「死の欲動」というリクツが必要なのかどーかは疑問でしたが…。
伊丹堂:そう「物語」になっとるからな。人間の攻撃性が内攻して、自分自身を制御する機能になるって話なんだけど、人間が自分自身をコントロールする能力があるってことにそういう「攻撃性」という「起源」を付け加えることが、果たしてイミあるのかってとこだな。ここらへんは「唯物論者」柄谷行人がフィーチャーされてるとこだってことかな。
獏迦瀬:ひるます氏なら「生き方のモード」って言ってすますとこですね。
伊丹堂:アレは楽天家だかならな。それはともかく、話をもどすと、カント=柄谷さんの定義では、次に「主体とみなす」というファクターが出てくる。ここは単に「他律」でない、というだけではなくて、さらに積極的な「決意・決断」というあり様が「倫理的」ということにとって決定的なエッセンスであることを表現したものなわけじゃ。
獏迦瀬:決断なくして倫理なしですか。
伊丹堂:そこらへんの切実さが柄谷さんの論ではあまり伝わってこないけどな。「主体とみなす」というと、なんか、後からでもそうみなせばいいというような、のんびりした感は否めない。それはともかくこのエッセンスにおいてカンジンなことは、単に事実の構造においては主体はないが、実践の局面では主体はあるというような「哲学的」問題ではなくて、結局のところ、ある判断をしたときに、その結果がどーあれ、それをなにか他の事物のせいにしない、というリアルな「心的体験」があるってことじゃろう。「責任」というとなにか抽象的な概念のような気がしてしまうが、ようするに「せいにせずに引き受ける」ってことじゃからな。
獏迦瀬:ヒトのせいにしないってことですよね。
伊丹堂:ちゅーこっちゃ。つまりこれは「他律でない」ということと表裏一体なわけじゃが、あえてそこを言うのは、ここに「(ナニかのせいにすることの)断念」(あるいは「覚悟」)という重要なエッセンスがあるからなんじゃ。
獏迦瀬:そー言っちゃうと、なんかいちかバチかって雰囲気もありますが…。
伊丹堂:うん、そりゃそーじゃが、世の中にはいくらでも「事実に依拠して」とか「共同体の規範」に依拠してということでは「決定」できないことが、ゴロゴロしてるわけじゃろ。それこそ大澤さんが言うように社会的な状況として責任を確定しにくくなっているわけじゃしな。それに現代科学の発展によって「生命科学」の領域でサマザマに「倫理」が問題になっている。典型的なのは脳死の人からの臓器移植の問題だけど、これなんかまさに、脳死を科学的に死とすることは出来ないから「事実に依拠して」決定することもできないし、これまで社会的な通念として持たれていた「心臓死」ではない状況だから「共同体の規範」に依拠することもできない。そこで提供するということを決めるのはまさに「倫理的な決断」でしかないわけじゃ。そして、他人の身体や生命に対して「倫理的な判断」を下す権利など誰にもないんじゃから、それは本人によるしかない。それは一つの極端な例で、自由な選択と責任がともなうような「倫理的な判断」を実ハ、ワシらは日々普段に行ってるわけじゃ。
獏迦瀬:ひるますさんが「臓器移植法改正案に反対」って最近言ってて、ウェブ用のバナーに「本人の倫理的な判断」うんぬんと書いてましたが、そういうことですか(くわしくは移植法関連ページを参照下さい)。
伊丹堂:このページでも引き合いにださせてもらってる生命学の森岡正博さんの始められた運動に賛同してってことじゃな。蛇足じゃが、ここで「倫理的」というのは、別に提供することが「倫理的にみてエライ」ということでは全然ないってことを一言いっとくぞ。柄谷さんもアラユル責任は形而上的だということを言うときに「形而上的ということに特別高邁な意味はない」と言っているが、同じことじゃな。他のなにものにも帰することが出来ない責任を「あえて」この私が引き受ける、それは形而上的というよりヴァーチャルなのじゃが、単なる虚構ではなくて「実存的」なリアリティを持っている…というようなことじゃな。ただし、エラクはないにしてもここでいう「倫理的な判断」は、単なるいちかバチかってことではないし、「自分勝手な決断」でもないってことだけは付け加える必要がある。
獏迦瀬:いわゆる「自己決定」ってやつではないってことですね。「自己決定権」と言ったら倫理的な方向性はナニもないわけで、「売る売らないはアタシの勝手」ってことですからね。その方向性を決定するのがカント=柄谷で言えば「他者を目的(自由な主体)としても扱え」というところですか。
伊丹堂:それが最後のエッセンスじゃな。それにしてもこの「他者」とは何なのか? 誰か特定の他人のため、というんではないし、第三者の審級と言われるような、ようするに共同体の内部的な、明示的な「他者」ではないのも言うまでもない。柄谷さんは公共的合意の外部にいるような他者、死せる他者、いまだ生まれざる他者というような言い方をしているが、結局は「他者そのもの」が問題なのではなく、なんらかのカタチで常に現在のあり様に反論してくるような他者が出現する可能性を常に配慮しつづけること(永続的な配慮?)という「姿勢」そのものを示しているという方がいいんじゃないかの。そういう空間的・時間的な広がりの外側に常に逃れ出ていこうとするような誰でもない他者の「内側から」思考する、というか。
獏迦瀬:倫理的な行為が負う「責任」というのも、特定の誰彼に対するものではなくて、そういう意味での「他者」に負うものだとされてましたね。ところでたしかに「他者を目的(自由な主体)としても扱え」といっても、その「他者」はなんら明示的ではないわけだから、それを想像してみるしかないわけですよね。結果的にひとりよがりな倫理で終わる可能性もあるわけですよね。
伊丹堂:「ひとりよがり問題」ね。「我々にとって」はそのような自由な主体としての他者という方向性は見えているが、当事者にとってはなんらそれはメイカクではない…。
獏迦瀬:そー言えばさっき触れたロールズの「無知のヴェール」についてのコメントでも「他者への配慮」ということが問題になってました。そこでも「超越的な視点なし」でということが強調されてましたよね。仮にその「他者」がメイカクに見えるような視点があればそれが「超越的な視点」なわけですよね。
伊丹堂:そうじゃよ、ただし…。
獏迦瀬:ただし、それは絶対にそこに立つことはできない視点ってことですか。
伊丹堂:じゃから、柄谷さんはアレントの公共的合意を批判してその「外部」の他者を考えなくてはならない、というような言い方をするのだが、それがいったい何によって保証されるのか?というのはハッキリしない。むしろそういう「超越的な視点」を採りうるかのような語りが「ひとりよがり」の暴力を生んだ、という反省にたってアレントは「公共性」を言ってると思うんじゃがね。
獏迦瀬:なんか堂々巡りっていうか、らせんっていうか…。
伊丹堂:というか、アレントの「公共性」をひとつの共同体なり国家の内部での合意として誤読してるだけって気もするけどね。むしろいかに「ひとりよがり」にならずに倫理的な行為を普遍的なものにしていくか、という「手続き」として、公共的合意という考えは重要だと思うけどね。つまりこの合意に参加する人々はたしかに「実態的には」ある共同体なり国家の内部に属する人間かもしれんが、しかしその個人個人は、それぞれにメイカクならざる他者を配慮しつつアイデアを出し合ったり議論をしてそのような合意を形成する、ということも「民主主義」は前提にしているハズじゃろう。柄谷さんは「民主主義」ってことがよく分かってないんじゃないか。
獏迦瀬:いや、それはちょっと…。いずれにしても「他者への永続的な配慮」ですか?、それがダイジだと。
伊丹堂:ちゅーこっちゃな。ちなみにこの意味での「他者」をうま〜く表現したのが、ずーっと以前になるが書評で紹介した若森英樹さんの『裏切りの哲学』じゃないかな。
獏迦瀬:というか、たしかその本がきっかけで「第三者の審級」論を批判するって経緯があったんです。
伊丹堂:そーじゃったかな。ともかくそこで若森さんは「僕のうちの他者、僕そのものでありながらも僕からは無限の距離を隔てた他者」という言い方で表現してたんじゃ。
獏迦瀬:その他者って何なのかと言えば「生命そのもの」なんじゃないか?ってのが、ひるます氏のコメントでした。
伊丹堂:他者としての生命というか。ワシとしては「共有された生命」と言いたいところじゃがね。地球上に現れた生命の全体という程度の意味じゃが、これそのものは誰にとっても明示的ではない。なんらかの局所的な視点(文脈)において、その生命について配慮することでその都度コトとして明らかにされるにすぎない。この配慮によって創造されるコトが、ウラハラに「共有された生命」のコト的発現、すなわち「精神」でもある、というのが、ワシが今まで言っとることの意味なんじゃがね。
獏迦瀬:あ、そーいうコトだったんですか。
伊丹堂:まぁこれは例によって「伝承の語り」(ガクモン的ではない)ってことじゃけどね。ただし、ワシとしてはこのような「精神」でも「公共的合意」でもいいけど、なんらかの媒介を置いておかないと、柄谷さんのいう「構造的な認識」と「倫理的な責任の問題」との乖離があまりに大きいのでは?と思うけどな。
獏迦瀬:そーっすね、柄谷さんの、あるときは「括弧に入れ」て、因果論的な原因を究明したり、またあるときは「括弧をはずし」て、責任を問うという言い方だと、非常に恣意的に解釈しようとすれば、どーにでも解釈できるって感じは否めません。いったい誰がどの立場からその括弧に入れたりハズしたりって作業をするのかがはっきりしないわけです。
伊丹堂:戦争責任や政治責任についての議論はそれ自体は非常にメイカクなんじゃが、それと「形而上的責任」をどうリンクさせているのかという点においてはアイマイだって問題でもあるな。ワシ的に言えば、社会的な現実においては単に人にメーワクをかけた結果を補填するという意味での「償い」ではなく、その人が事実問題として「倫理的に行為したか否か」が問われる、そういう局面がある、ということがこの柄谷さんの論では決定的に欠けている、ということになる。
獏迦瀬:それは今問題になってる警察不祥事なんかにも関係するわけですかね。
伊丹堂:そもそもああいった不祥事、とくに公務員などが、その立場にいることによって当然期待されている「倫理的」行為を実行しなかった(「あえてしようとしなかった」)ことについて「責任」を問えるのは、彼らに対してそのような期待が「合意」されているからじゃろう。そこでは「倫理的であること」がひとつの現実的関係になっているわけじゃ。
獏迦瀬:そのへんは前の質問コーナーのところでもふれてましたね。
伊丹堂:公権力という問題じゃね。それとかかわるのが法律という問題じゃ。カント=柄谷さんの論でも「法」は、人が倫理的に行為することが困難なことを補完するためにある。ワシ的に言えば法は「精神」の辺縁、ということになるわけだけど、カント=柄谷さんの倫理についての「定義」はあまりに「純化」されているので、それを補完しうるような「法」は「国際法」でしかない、ということになっている。しかしワシ的に言えば、国内法といえども単に共同体規範の明文化ではなくて、なんらかの「倫理」の補完(辺縁)としなくては、あまりにも現実から解離したものにならざるをえないんじゃなかろーか。つまり、いきなり純化した形態での「倫理」だけが問題なんじゃなくて、様々なカタチでの「公共性の精神」の発現の段階がありうるってこっちゃな。
獏迦瀬:そうですね、あまりに純化された倫理だけを持ち出されては、「倫理的に生きよう」って気が失せる、ってもんですね。
伊丹堂:まぁそんなとこじゃ。柄谷さんの議論はイチバン最初に言ったように、そういう「純化」によって議論の風通しが良くなる境地を開いたわけだけど、それを現実に適用していくには、いろいろと考える点も多いってことになるかな。とにもかくにも、まだまだこの柄谷さんの本から考えさせられることはたくさんある。おいおいどっかで触れるかもしれんが、今回はここまでにしておこう。噛めば噛むほど味がでる、ほんと、いい本に出会えたってコトじゃ。

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