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Vol.34 鬼の涙目号(00.5.27-00.10.3)

■神の国、カオスの国(00.5.27)
■門屋光昭『鬼と鹿と宮沢賢治』(00.7.5)
■小浜逸郎『なぜ人を殺してはいけないのか』(00.7.23)
■ドラマ「一絃の琴」〜文化と孤独(00.9.8)
■こおにさんの「鬼とは何ぞやということ」を読む(00.10.3)

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Vol.34
神の国、カオスの国〜森首相による「釈明会見」(00.5.27)

来るとこまで来ちゃいましたね、「神の国」発言問題。森首相による「釈明会見」は、まさに言語で語ることの意味を無化する村山現象の果てって感じでしょ。
 「神の国」発言問題については、すでにヘッドライン39号に書いてます。
 「村山現象」については、ここここなど参照ください。

「そういうつもりではない」けど、その言葉は撤回も訂正もしない、ということは何なのか。これが公人の発言として通るのであれば、もはや彼は何を語ってもイイのであり、その責任をとる必要もないということになる。ということは、ひいては公約としてナニカを語ってもそれを実行する必要もないということにもなる。公約をそのような意味にとったのは、有権者であり、真意はそういうところにはなかった、と後で言えばいいのだから…。ということを結果的に語っている、したがって、政治家が言葉で語るということの意味そのものを否定していることになる、ということにまったく気づいてないのが、この首相自身はもちろんだが、自民党の幹部連中だ。

亀井氏の「そんなに言うなら言語学者に首相をやらせればいい」は子どもなみの屁理屈で論外。野中氏「言葉の問題はもうおいといて、話し合いをはじめなくては」には、笑ってしまった。言葉の問題がどーでもいいのに、どうやって(何をヨリドコロにして)語り合うことができるのか。議論することの意味を否定するという意味において、以前の「白々しい」発言そのまま。言葉をないがしろにして平然としているという意味では、「説明する義務はない」の青木官房長官も同じで、以上四人は少なくとも、民主主義、つまり議論による公的合意の形成ということを否定する者であり、落選させる以外ないでしょう。

それにしても、言葉がどーでもいいなら、彼らは何によって理解し合ったり意志を伝えたりするのか?といったら、もちろん「以心伝心」テレパシーでってことだろう。これは冗談ではない。青木官房長官は、臨時代理の任命を以心伝心で受けたとほぼ言っているようなものだから。こんどの釈明における「ご理解をいただきたい」の連発もそのたぐいだ。なんのヨリドコロもなしに、ただ(例えば首相は善良な男なのだと?)理解せよ、というものだ。このことは「神の国」発言そのものより、ずっと不気味で危険で問題のあることではないか。

つまり「以心伝心」で気持ちが伝わる者たちの間だけで政治が行われる、ということであり、それにとどまらず、以心伝心で気持ちが伝わらない者を政治的・社会的に排除してもイイという発想にまでつながるものだからだ。それを象徴する事件が、これもまた問題男、中山建設大臣の「逮捕歴のある人とは会わない」発言ね。これはまさに政治の「世間」化ですね。伊丹堂が使う非倫理的なという意味での抽象的な概念ではなくて、むさ苦しくも迫ってきて、暗黙のうちに価値観を押しつけてくる、あの「世間」。それが政治のウラで横行していたのは常識として、それがいまや政治のオモテにまでのさばってきた…。つまりこれは極端に言えば、「民主主義的な法治国家」を否定して、「共同体」に回帰しようってこと。この釈明そのものが「不気味」というのは、このような釈明のコトバ自体が、公共性の精神の否定であり、通りようがないものを公的空間に無理矢理押し通すという意味において「暴力」でしかないからだ。

今回さらに問題なのは、森首相のこういう(暴力的)モードが、「宗教的なもの」と結びついて出てきているということだろう。私とて「宗教的なもの」を否定するわけでなく、ある意味では「生命の驚異」やら「文化」ということの重要性をいってきた(例えば「ネイティブ・マインド」について)。しかしそれは彼のいう「宗教やればいーじゃーん」なんてものではないし、むしろそういうものを否定するものだ。「いかに宗教にならずに意味や文化を生きるか」というギリギリの思考の中で「宗教的なもの」(というより森岡さんに従って「宗教性」と言っているが)に出会えるか、それが問題だということはしつこくも言ってきた。しかし「宗教やればいーじゃーん」というのは、安直なまでにそれ自体が「宗教」なのだ。つまり森首相が、釈明の語りによってあらわにしてしまっているのは、彼の語る「宗教的なもの」とは、ようするに「以心伝心」で分かり合えるもの、つまり共同体を成り立たしめるものの別名だ、ということなのだ(「世間教」とでも言うか?)。もちろんどんな低レベルの宗教であろうと、彼の個人的信念ならそれもよかろう、個人として言うなら別に問題はない。しかし彼は首相として語っているのだ。そうであれば、そのような「宗教」は、「以心伝心」で分かり合えぬ者(共同体の、というより、彼らにとっての「身内」の部外者)を排除する暴力を補完するものでしかないだろう。「天皇」などという明示的な(分かりやすい)表徴のウラに、そういう暴力的な宗教が忍び込んでいるということに注意すべきだろう。

問題は、宗教的であれなんであれ個人としての「実存」の問題にあるのではない(逆に真摯に「実存」を賭けて?宗教をやってる者にとっては、このような宗教をめぐる発言は、とんでもない冒涜なハズだが、なぜ宗教家は黙っているのか。そもそも「宗教家」などではなかったってコトなのか。たぶんそうなんでしょう)。それは例えば仮に森首相が本当に善良な男であって、そのような「暴力による排除」など考えてもなかったとしても、そんなことは関係がないということだ。国家がそのようなスタンスを取ることそのものが問題なのだ。森首相は、そのような宗教を背景にした共同体的なものと手を切るところに民主主義国家が成立するというコトが全く分かっていないのであり、それだけでも公人として失格なのだ。

その「宗教的なもの」の押しつけだけではなく、教育勅語うんぬんの問題でも一貫しているのが、この人の「上から押しつける」という姿勢、「押しつければ人をそのように変えられる」という発想だろう。それだけなら彼にだけ当てはまることでもない(たとえば「心の教育」「心のケア」などと安直に言って、マニュアルやプログラムによって「心」を教育・ケアできるなどという発想全般にそれは言える)。しかし彼の場合は非常に特別にナニかが欠落している、という感じを受ける。つまり教育する、ということは、自らがその教育の手本となるような存在となる、ということが当たり前のことだと思うが、彼の場合は、自分のことはまったく棚に上げ、人に宗教をすすめ、子ども達に教育をすすめようというのだ。しかし当の本人が責任感もナニもない姿をさらけ出しながら、人に道を説くとは、まさに「クレタ人のウソ」のごときパラドックス、あるいは「愛してるよ」と言いながら子どもを虐待するダブルバインドの母親か。それが彼の受けたという(主張する)「戦後教育」の成果だと言えばただの皮肉だけど、それは逆に「伝承」ということの大事さを考えせてくれる反面教師ではある。伝承とは、自らがそう成ることによって、人が自ら(内側から)そう成る、ということを伝えるプロセスだ。教育勅語のようなものを繰り返し暗唱させてれば身に付くというものではない。

いずれにせよ、このような首相の「釈明」を認める(つまり公的な文言として通用させることに同意する)のであれば、日本という「国家」は、神の国ならざる「カオスの国」となることは確かだろう。

「神の国」発言問題についてはさらに、これに続く「国体発言」も含めヘッドライン41号に書いてます。

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Vol.34
門屋光昭『鬼と鹿と宮沢賢治』(00.7.5)

門屋光昭さんといえば、わが北上市の鬼の館(やかた)館長として、「鬼」をテーマにしたテレビ番組等で、マスメディアに露出する機会も多くなってきましたが、民俗学者としてはまだ一般の方には知られていないでしょう(小松和彦さんとか赤坂典雄さんとかに比べればってことですが…)。かくいう私も門屋さんに注目しだしたのは、ヘッドライン28号でふれた折りだから、わりと最近の話。そんなわけで、門屋さんの一般向け本を心待ちにし始めていたところに、それを見越したかのごとくに、この『鬼と鹿と宮沢賢治』(集英社新書)が出てくれました。大感謝です。

この本、民俗学というよりタイトルどおり「宮沢賢治論」ですが、「宮沢賢治論」というと私としてはあまり興味が湧かないけど(宮沢賢治そのものは興味があるが)、これは非常に面白い。ヘッドライン42号にも「衝撃的にスゴイ」と書いておいたけど、スゴイ本です(その「衝撃」っていうのは個人的な事情もあって、誰もがそこまで感じるかは別問題だけど…)。

というより、これを宮沢賢治論というジャンルにしちゃうと面白くないとオレは思うのだけど、どうだろうか。この本の画期的なところは、ようするに東北、とくに岩手県の中でもイーハトーブと賢治によって描かれる地域の文化を「血肉のものにしている」存在として賢治をとらえ、その「血肉となってる」文化を民俗学的アプローチで解明することで、逆に賢治の本質に迫ろう、というところにある。

その、どこが「画期的」なのか、といえば、普通は、賢治の「本質」を考えるといったら、地方的、ローカルな要素はできるだけ外して、「普遍的に」つまり、どのような文化圏においても共通しているという意味での、人間的な精神、とでもいったものを抽出して捉えることを指すだろう。門屋さんのは、それとはまったく逆。しかも逆の道をいくことで、そのような抽出された「本質」(なるものがあるとして)を補完するようなエピソード集めに終始しようというのではなく、そういう道からも「本質」にたどり着けるのだ、という発想がイイ。

門屋さんは、そういう道を行ってもいいのだ、ということを先輩からのアドバイスから受け取ったという。それは(やはり本質にせまるアプローチというのは、ローカルな文化を超えた普遍的なものを考えるというのが常道だけど)「せっかく岩手を永住の地と定めたのだから、そこにこだわって、そこから普遍性を探ってみたらどうか」というものだったという。つまり血肉となっているローカルな文化にこだわることで、普遍的なものを見いだしうる、ということだ。ということは、これってオレが「臨場哲学」31号で言ってる「岩手県的無意識」ってことと同じじゃーないですか! というより、オレがそこで言いかけてハッキリとは言えなかったことを、門屋さんは言ってくれてるのだ。そこに普遍性はあるのだ、と。

門屋さんは、その血肉となったローカルな文化にこだわることで「普遍的なもの」を捉えようという方法を、(民俗学的なアプローチではあるけど)民俗学的な詮索をしようというものではない、と言う。それは「外科医が薄皮を一枚一枚はぐように、慎重に検証して」いくもの、とされているが、その微妙さが私にはよく分かる。民俗学的な「事実」をあげつらって、それを「本質」だ、などという「種明かし」みたいなゲームをやろうというわけではないということだろう(賢治に関してそれをやろうとしたのが、そういえば『宮沢賢治殺人事件』っていう推理小説ではないドキュメント本があったっけ…)。つまり賢治をローカルな文化によって「説明」しようというのではない。しかしだからと言って、逆に賢治を通してローカルな文化を語ろうというのでもないだろう。ようするに、宮沢賢治という人を通して、ローカルな文化を血肉とした(岩手県的無意識を背景とした)、ある一つの「文化の創出」ということを、まるごと捉えよう、ということではないだろうか。

蛇足:ちなみに門屋さんはこのような自分の手法を「イーハトーブ・ふぉくろあ」と命名しているようだけど、それだと賢治についてという限定的なものになっちゃうから、より「普遍的」に、オレなら「表現文化探偵」というところだね(笑)。

それを単なる方法論ではなく、実際にみごとに実演してくれてるのが、第一章の「鹿踊り」をめぐる考察だ(まさに「はじまりは鹿踊り」から?)。ここでは、「鹿踊りのはじまり」という賢治の童話で、賢治が「鹿踊りのほんたうの精神」を語ったという、その意味をめぐる考察が紹介されていておもしろい。分かりやすいのは、現行の鹿踊りが「ほんとうの精神」を失って(つまり堕落して)いるから、それに代わって賢治が「ほんとうの精神」を童話として語ったという説。わかりやすい、というより分かりやすすぎてあきれるが、現行の鹿踊りが「ほんとうの精神」を失っていないことなど、それを一度見ればそれこそ、すぐわかる。そのような「分かりやすい」理屈がでてくるには、それなりのやはりローカルな背景があることを門屋さんは丁寧に説明していて、やさしいなぁ。

しかし、賢治がとらえた「ほんたうの精神」とは、ニセモノに対するホンモノってことではなく、そこ(民俗芸能)で表現されているコトの中核となるナニカを、別様なコト(童話)によって表現してみた、ということだろう。門屋さんは、そういったことを次のように表現している。
「結局、賢治は好きで好きでたまらない鹿踊りを一瞬のうちにとらえることに成功した。自分がとらえた鹿踊りの精神はこれだよと、すすきの苔の野で嘉十と鹿との美しい交流を通して描いてみせた。」
翻訳、あるいは郵便、と喩えればヨリ近いのかもしれない。ただしそれは機械的な移し替え(トランスフォーム)ということではまったくなくて、そこに中核的な「ホントの真実」とでもいうべきものが、再創造されているかどうか、ということが問題なのだ。「ほんたうの精神」、つまり「本質」とは何か、という哲学的議論でも、これはあるのだ。そしてそれこそが、先に示されていた、決してローカルなものを剥ぎ取って抽出するということではとらえられない、血肉となった文化にこだわることによってみえてくる「普遍性」ということでもあるのだろう。

この本では、鹿踊り以外にも、鬼、法華信仰、隠し念仏、民間伝承といったトピックを通して、賢治の文化創出を描き出そうとしている。とくに佐々木喜善との親交を通じて描かれる「民間伝承」との関わりに興味を引かれる。またこのうち第4章で語られる「隠し念仏」のみは、賢治が「血肉」としえなかった、賢治にとっても「外部」である「文化」として対抗的に描き出されている。これがまた私には非常に興味がある(実ハ、逆にオレにとってはそれが非常に身近に、まさに「無意識」として存在していたからだ)。こういったさまざまな細目については、これから「岩手県的無意識」を考えていく中で、折に触れて紹介していきたいと思ってます。

追記:この「隠し念仏」については、門屋さんの単著がありますが、未見。『隠し念仏』(東京堂出版)。

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Vol.34
小浜逸郎『なぜ人を殺してはいけないのか』(00.7.23)

これタイトルは「なぜ人を〜」だけど、実際にはそれに限定した本ではなくて、「人はなんのために生きるか」「自殺は許されないのか」「愛するとはどういうことか」「不倫は悪か」「なぜ人を殺してはいけないのか」など10の「倫理的な問題」に著者が正面切って答える、という新書とは思えない超豪華な力作。といっても逆に色んなテーマを無秩序・無作為に選んで心の向くままに答えるというような隠居の仕事みたいなもんでは全然なくて、キチンと一本のスジが通った本になっているから、またスゴイ。

ところで、そのテーマに正面切って答えると言っても、これは単純に問いに対して解答を出すというものではなく、そのような「問い」の起源と系譜を明らかにし、「問い」を新たに立て直すという形をとっている。というと難しそうだが、ようするにその、ここで最初に立てられた問いが、一見普遍的な、永遠の哲学的な問いのように見えつつ、実ハ「そもそもそんなによく考えられたうまい問いではない」ということを暴露していく、ということになる。典型的なのは、タイトルになった「なぜ人を殺してはいけないのか」の問いだ。これについては、いぜん、永井均さんなどの一連のこの問いをめぐる動きに対して、私も小浜さんと同様、この問いの無効性を書いておいたのでご参照のホド(ウェブマガジン27号)。

追記:ちなみに柄谷行人『倫理21』に従って、「道徳と倫理」という区別を導入することによって、この問いに対する答えは極めて単純化してしまう。つまり「道徳」(共同体的規範)としては、共同体を成り立たせるルールだから人を殺してはいけないからいけないのであり、「倫理」としては、倫理とは他者を永続的に配慮することによる正しさや責任の遂行なのだからして、そもそも主体的に「殺人者」になることはありえず、ただ緊急避難的に(人命の救助など)結果としての殺人はありうる、ということになるだろう。

「人はなんのために生きるか」という問いでは、人は「〜のために」などと「意識」する以前に「無意識的な、ひそやかな形で…「生きよ、何かをなせ」と命じられ」ているということが明らかにされる。このへん小浜さんの「無意識論」が詳しく語っていたところだ(ようするにそれはオムレット的に言えば、「宿命」ということになる。我田引水ですいません…『オムレット』p.119も参照)。したがって「何のために生きるか」という問いの背後には、いかにして生を充足するかという問題意識(無意識?)がある。そこからして小浜さんは問題を、「自ら納得しうる意味・目的をいかに虚構しうるか」と立て直す。

では「生きる意欲」はどこから来るのか?、ということが次の問い「自殺は許されないのか」で、解明される。これもまた「許す許さない」という道徳的な問いを解体していく中で、人に意欲を与え、自殺させないようにしているのは何かという問いに立て直されていく。それは「人間が人間同士つながった世界を無意識的に感じ取りながら生きているというある確信」である、とされる(またまたオムレット的には「共有された世界に対する基本的信頼」ってことか。『同』p.133)。それにしてもこの指摘は非常に重要だと思う。つまり、法や規則を守るといった「意識」的な局面ではなくて、無意識的な意欲、欲動といったレベルにおいて、そもそも人は「他者」を必要としている、ということだからだ。そのような「共存在」としての人間のあり様が、次の問い「私とは何か」「愛とは何か」で、さらに明確にされていく。

私として非常にインスパイアされるのは、「死刑は廃止するべきか」の問いだ。小浜さんは、死刑廃止論議における「犯罪抑止効果」などの議論を、ようするにテクニカルな議論として退けて、死刑の本質論に迫る。死刑の本質とは何か?「犯罪者の生命を公権力が奪うこと」だ。そしてそれは犯罪被害者の遺恨をはらすため、報復を代行するため、「ではない」ということが決定的に重要だ。そうではなくて、そのような私的な報復そのものを禁止することによって、国家が「超越的な機関」としてふるまうということが大事なのだという。国家の意思とは、「正義を執行してみせる」ことだ、と小浜さんは言う。う〜ん、これ当たり前にしてまっとうなことだけど、なかなかこう言い切れる人はいない(特に団塊の人でこんなこと言うのは小浜さんくらい…と言っては言いすぎだけど)。まさに公共性の精神(正義)を代執行することによってのみ、権力は公権力たりうる(伊丹堂「正義とは?」参照)。しかしそのうえで、本当の問題は、死刑は(そのような公権力が行う)正義と言えるのかどうか、ということだ。

これに対する小浜さんの「答え」は非常に明確にして説得的だ。つまり死刑が実行されるにせよせれないにせよ、「極刑(死刑)という概念を保持している社会の方が、これを捨て去った社会よりもバランスがよい社会」であり、バランスがよい社会だということは、そこで生きる人々が、「人倫や人間の尊厳といった内面的な秩序をしっかり構成できる、ということを意味する」と。まさに、社会の秩序の維持とは、外側から権力によって秩序を維持することではなくて、まず第一に、そこに生きる人々の「内側から」秩序がつくられること、だろう。その社会への、それこそ基本的な信頼感は、<「公平感」「開かれた社会にある感覚」>によって醸成される(「中井久夫の大予言」参照)。そこに極刑という概念は決定的な役割を果たす(ヨリドコロとなる)と小浜さんは説くわけだ。それは社会が正義の表現の幅を豊かにしておくこと(「とんでもない事象」に対する究極の対応手段をあらかじめ捨て去っておくべきではない、ということ)でもある。この結論には同意しかねる人もいるのではないかと思う(例えば、極刑が死刑ではない形でもありうるのではないか、懲役三百年でもいいのではないか、など)。私は終身刑の設置とともに、「概念として死刑を残す」という考えにはまったく賛成だ。いずれにしても、小浜さんのこの議論によって、公権力と死刑という問題に、明確な見通しがついたということは事実だろう。今後の議論はここを踏まえずには通れないものになると思う。

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Vol.34
ドラマ「一絃の琴」〜文化と孤独(00.9.8)

「一絃の琴」ってドラマ見てましたか。私は途中から見たんだけど、結構ハマってましたね。土佐に伝わるその名のまんまの弦が一本の琴を巡るお話。明治維新から自由民権運動の頃。田中美里のヒロインが一絃の琴に出会い、それを伝承していく。

トラマの後半はその伝承を巡るある種スボコンドラマじみてきて、それはそれでおもしろかったが、このドラマの面白さの最大のポイントはやはり一絃の琴そのものの特殊な性格にある。

一絃の琴って、単なる音楽芸能じゃない。そもそも人に聞かせるものではなく、「一人で山の中で弾くもの」であり、「自分自身を癒すもの」だというんだね。そんなわけだから、ヒロインがこの琴を教える塾を開くといいだしたときは周りの人達は反対する。だってそんな「独りで自分のために」演ずるなんてもん、普通に考えたら、教えようがない。

それに対して田中美里は、まさにその「一人で、自分自身を癒すために弾くもの」だというコトを伝えたい、というのだ。これはエライ。役に立たない芸術をやってるだけでも世間の風が冷たかっただろう時代にだ(ちなみにこれは現代でも実は全然変わってない)。

これは芸事の伝承というよりは、ほとんど哲学の伝承だ。もちろん芸事より哲学がエライなどということではない。その自分自身へのかかわり方の純粋性というか極限性というか、ようするに極端さという意味でいっている。つまりはカントのいう人に哲学するコトを教えることはできない、というやつである。人がまったくの「個」として自分自身に向き合うあり様、個と向き合うための技芸、それを「伝えよう」というんだからエライというのだ。

では、そんなことは可能なのか、というと不可能。そうカントもいってる。もちろんカントが言ったから、ではなくて(笑)、ようするに人が何によって、何をもって自分への情熱的なまでのかかわりを持つようになるかは、その人の「宿命」の問題(「宿命」についてはこちらも参照)だからだ。つまり実存の問題。人は自分でもそのすべてを把握しえない関係性の中で、「内側から」そのようになっていくのであって、人をある意図のもとに、そのような実存へと変えていくことはできないのだ。

では、このヒロインの伝承という行為は無意味かといったら、もちろんそうではない。むしろそこにしか可能性はないといってもいい。つまり人にできるのは、そのための「場」を作る、ということでしょう。そして「場」がなければ、そもそも何も生まれはしないのだ。

そんなわけで、彼女の物語は、いかにしてその「場」を守り抜くことができるか、というストーリーになるほかはないが、このドラマはちゃーんとそうなっている。彼女が「個」として向き合う技芸を伝承する「場」としてつくった塾を、良家の子女の集まるサロンとして世間的に利用しようとする男たちとの戦い。で、彼女は結局は自らその塾を閉じることによって利用されることを防ぐ。ある意味では消極的というか、撤退という感じの幕ひきに見えるかもしれないが、それに先だって彼女は、この技芸を、それこそ「宿命的に」ひとりの少女に伝承することができていたので、まぁ結果オーライ、それ以上にオトコたちの鼻をあかしたって意味では拍手喝采という結末ではあったのだ。

物語はそこで終わるのだが、その先にこのドラマのテーマがドーンと示される。登場人物たちがそれぞれに、それまで生きてきた時間の流れを振り返りながら、それぞれに抱えた「孤独」を噛みしめる。そういうシーンで終わっていくのね。考えて見りゃ、「一絃の」というタイトルにすでに「孤独」ということは象徴的に織り込み済みで、ラストに至って「孤独」というテーマに気づくのも遅いんだが、というよりも、この技芸が「山の中で自分自身と向き合う」ものだと言うときに、それは「孤独」ということなのだということを身にしみておくべきなのだが、それをアタマでは分かっていても身にしみないのは、あくまでそれが一つの「技芸」「文化技術」、その「伝承」という文脈で語られていたからなのね。

それがいかに「たった独りで自分自身に向き合う」ものであろうと、それが一つの文化技術となってこの世に存在しているということは、ある種の安定感をもたらすわけだ。だいたい「哲学」という身振りでさえ、それが学芸という文化技術に組み込まれていれば、それを「学習する」という立場にいれば、自分が深甚な孤独に襲われるなどということもない(「ソフィーの世界」を語る人はぜんぜん「孤独」そうではない!)。それはともかく、哲学や「一絃の琴」という文化技術において、孤独に向き合うことが伝承しうる(かに見える)ということは、我々が共感しあうことで孤独を癒すことができるからではなくて、逆に徹底的に孤独でしかありえないということをお互いに「内側から分かる」ことができるからだろう(たしか小浜逸郎さんがあるところでそういうことを言っていた)。

そういう意味で、ここで示される「孤独」は、「一絃の琴」という特殊な技芸を通じて語られるものではもはやない。むしろ、すべての文化、人の「世の中」における孤独というものにまで、普遍化されて語られている。ヒロインの姑(彼女のよき理解者であった。彼女の実母がぜんぜん理解しないのと対称的で面白かった)が、最後に言ってる言葉が印象的。この技芸は、その少女に伝承されたから、いつかどこかでまた誰かに伝承されていくだろうが、自分はそれを見ることはないだろう。でもそれでいいのだ、と言うのね。ほんとうにそういうことなのだと思う。文化というのは「個」を通して伝えられ、個の内側からのみ実現されていく。それは共有されたサークルの中でみんなで手をつないで行きましょうというようなものではないのだ。どんな文化の中にあっても人は徹底して孤独であり、それを忘れたら文化は死んじゃうってもんだろう。そして人はそれぞれの生の期間を、なんらかの文化をヨリドコロとして生きる。文化の中における孤独を生きぬく以外にない、それでいいのだ、ということだ。

そしてそれゆえにこそ人は「文化」を大切にしなくてはならないのだろう。それはヒロインが「場」を守ろうとしたことと同じことだ。つまりそれぞれの技芸、学芸、文化技術、といったものは、それぞれにかけがえのないヨリドコロだということであり、それを失っては人は孤独を生きることすらできなくなるからだ。

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こおにさんの「鬼とは何ぞやということ」を読む〜「鬼の倫理学」へ(00.10.3)

毎度、東北や鬼情報でお世話になってます「こおに」さんが、「鬼とは何ぞやということ」というなんとも画期的にして発見的!な<鬼>論を書いてます。
○おにさんこちら
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/6892/


こおにさんの提示する<鬼>概念の新しさは何か、というと、これまで多くの人が「鬼とは何か」という問いにたいして、鬼とはAなり、鬼とはBなり、というように、ある意味で「実体」概念でもって答えようとしてきたわけだけど、こおにさんは、鬼を「関係」概念として捉えているところにある。つまり「人と人とのかかわり方の問題」として、示しているのだ。これはコペルニクス的転回であって、非常に大きな拡がりを持つものだと感じる(蛇足ながら、私の「鬼を巡る随想」も、実体概念でやってます(笑))。

こおにさんがこの論で主に問題にしているのは、蝦夷・山人・漂泊者などのような共同体にとっての外部の存在(異人)が「鬼」として排除される構造なのだが、その際「鬼」という概念があらかじめあって、それが「排除」の際に利用されるのではなく、むしろその「排除」という行為(かかわり方)とウラハラのものとして「鬼」という概念がつくり出されている、と捉えているところが卓見だ。そのように捉えることによって明らかになるのは、鬼とは何かというよりも、むしろ「鬼という概念を生み出してしまう日本という文化」といったものの特殊性だ。

たまたま先日、図書館で島田荘司さんの『龍臥亭事件』を立ち読んでたら、その後書きに、「八墓村」でお馴染みの「津山三十人殺し」(山岸涼子さんのマンガ「負の暗示」も傑作。ヘッドライン17号参照)について触れているところがあって、この事件が「日本人の鬼忌避感情によって歪んで捉えられている」というようなことが書かれてあった。これは「鬼」ということを考えているとなるほどと肯けるものだが、こうして見てくると、それを「鬼忌避」と表現するよりむしろ、「鬼」という概念自体が「忌避」という「かかわり方」をすでにしてウラハラに含んでいるのだということになるだろう。いずれにしても、そのようなかかわり方が「日本人」に特有の何かなのだということを島田氏も考えているわけだ。

そのような「日本という文化」の特性とは、ようするに共同体的なものへと一元化し(ウラハラに異質な「もの」を排除し)、個人の判断ではなくて共同体の規範によって行動する文化、というものだろう。つまり「世間」であり「神の国」というコトバに象徴されるあり方だ。これがそのままでいいはずもないが、それに対抗する「文化の質的転換」については、たとえばヘッドライン22号で私も書いてるのでご参照のほど(赤坂憲雄さんについてのコメントの項)。

ところで、こおにさんの捉える「かかわり方」としての「鬼」概念が面白いのは、そのような「排除」といった文化的位相の問題を読み解けると同時に、「鬼」のもう一つの側面をも同時に説明することができるという点にある。それは、他人を鬼として排除する、というのではなくて、むしろ自分自身が「鬼」となって行為する(ナニゴトかを為す)という側面だ。最近広告でよく見かける本に『上司が鬼とならねば部下は動かず』というのがあるが(笑)、まさに「鬼」の倫理的−実存的位相とでもいうべきものがあるわけだ。「鬼」が倫理的というと奇妙に思われるかもしれないが、柄谷行人『倫理21』によれば、倫理的ということは、通常の共同体規範(善悪)とは無関係なものである(つまり脱−世間的なものである)から、むしろ「鬼」は倫理を語る概念としてふさわしい。

鬼に文化的位相と倫理(実存)的位相の二面があることは、たとえば門屋光昭さんの『鬼と鹿と宮沢賢治』においても、賢治にとっての二つの鬼、つまり「鬼とされたエミシ」と「心の中の鬼(修羅)」として描かれている。この「心の中の鬼」が、倫理(実存)としての鬼というあり様を表していると思うが、通常はこの二つはただ無関係に並べ立てられているように思われる。しかし、こおにさんの「かかわり方」としての「鬼」概念を使うならば、前者は「他者へのかかわり方」としての鬼であり、後者は「自分自身へのかかわり方」としての鬼として、ともに共通の「関係概念」の下で捉えることができるのだ(ただし前者が「日本という文化」というものに強く結びついているのに対して、後者はそうではない、例えば「自律的な個人」というような、まったく逆の位相的な特徴を持つわけだが)。そしてそこにこそ、他者から押しつけられるときは「負」の表徴でありながら、自ら引き受ける時には、まったき「正」のイメージでもって我らを鼓舞するするという、鬼概念の「豊かさ」があるように思われる。

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