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ドラマ「一絃の琴」〜文化と孤独(00.9.8)
「一絃の琴」ってドラマ見てましたか。私は途中から見たんだけど、結構ハマってましたね。土佐に伝わるその名のまんまの弦が一本の琴を巡るお話。明治維新から自由民権運動の頃。田中美里のヒロインが一絃の琴に出会い、それを伝承していく。
トラマの後半はその伝承を巡るある種スボコンドラマじみてきて、それはそれでおもしろかったが、このドラマの面白さの最大のポイントはやはり一絃の琴そのものの特殊な性格にある。
一絃の琴って、単なる音楽芸能じゃない。そもそも人に聞かせるものではなく、「一人で山の中で弾くもの」であり、「自分自身を癒すもの」だというんだね。そんなわけだから、ヒロインがこの琴を教える塾を開くといいだしたときは周りの人達は反対する。だってそんな「独りで自分のために」演ずるなんてもん、普通に考えたら、教えようがない。
それに対して田中美里は、まさにその「一人で、自分自身を癒すために弾くもの」だというコトを伝えたい、というのだ。これはエライ。役に立たない芸術をやってるだけでも世間の風が冷たかっただろう時代にだ(ちなみにこれは現代でも実は全然変わってない)。
これは芸事の伝承というよりは、ほとんど哲学の伝承だ。もちろん芸事より哲学がエライなどということではない。その自分自身へのかかわり方の純粋性というか極限性というか、ようするに極端さという意味でいっている。つまりはカントのいう人に哲学するコトを教えることはできない、というやつである。人がまったくの「個」として自分自身に向き合うあり様、個と向き合うための技芸、それを「伝えよう」というんだからエライというのだ。
では、そんなことは可能なのか、というと不可能。そうカントもいってる。もちろんカントが言ったから、ではなくて(笑)、ようするに人が何によって、何をもって自分への情熱的なまでのかかわりを持つようになるかは、その人の「宿命」の問題(「宿命」についてはこちらも参照)だからだ。つまり実存の問題。人は自分でもそのすべてを把握しえない関係性の中で、「内側から」そのようになっていくのであって、人をある意図のもとに、そのような実存へと変えていくことはできないのだ。
では、このヒロインの伝承という行為は無意味かといったら、もちろんそうではない。むしろそこにしか可能性はないといってもいい。つまり人にできるのは、そのための「場」を作る、ということでしょう。そして「場」がなければ、そもそも何も生まれはしないのだ。
そんなわけで、彼女の物語は、いかにしてその「場」を守り抜くことができるか、というストーリーになるほかはないが、このドラマはちゃーんとそうなっている。彼女が「個」として向き合う技芸を伝承する「場」としてつくった塾を、良家の子女の集まるサロンとして世間的に利用しようとする男たちとの戦い。で、彼女は結局は自らその塾を閉じることによって利用されることを防ぐ。ある意味では消極的というか、撤退という感じの幕ひきに見えるかもしれないが、それに先だって彼女は、この技芸を、それこそ「宿命的に」ひとりの少女に伝承することができていたので、まぁ結果オーライ、それ以上にオトコたちの鼻をあかしたって意味では拍手喝采という結末ではあったのだ。
物語はそこで終わるのだが、その先にこのドラマのテーマがドーンと示される。登場人物たちがそれぞれに、それまで生きてきた時間の流れを振り返りながら、それぞれに抱えた「孤独」を噛みしめる。そういうシーンで終わっていくのね。考えて見りゃ、「一絃の」というタイトルにすでに「孤独」ということは象徴的に織り込み済みで、ラストに至って「孤独」というテーマに気づくのも遅いんだが、というよりも、この技芸が「山の中で自分自身と向き合う」ものだと言うときに、それは「孤独」ということなのだということを身にしみておくべきなのだが、それをアタマでは分かっていても身にしみないのは、あくまでそれが一つの「技芸」「文化技術」、その「伝承」という文脈で語られていたからなのね。
それがいかに「たった独りで自分自身に向き合う」ものであろうと、それが一つの文化技術となってこの世に存在しているということは、ある種の安定感をもたらすわけだ。だいたい「哲学」という身振りでさえ、それが学芸という文化技術に組み込まれていれば、それを「学習する」という立場にいれば、自分が深甚な孤独に襲われるなどということもない(「ソフィーの世界」を語る人はぜんぜん「孤独」そうではない!)。それはともかく、哲学や「一絃の琴」という文化技術において、孤独に向き合うことが伝承しうる(かに見える)ということは、我々が共感しあうことで孤独を癒すことができるからではなくて、逆に徹底的に孤独でしかありえないということをお互いに「内側から分かる」ことができるからだろう(たしか小浜逸郎さんがあるところでそういうことを言っていた)。
そういう意味で、ここで示される「孤独」は、「一絃の琴」という特殊な技芸を通じて語られるものではもはやない。むしろ、すべての文化、人の「世の中」における孤独というものにまで、普遍化されて語られている。ヒロインの姑(彼女のよき理解者であった。彼女の実母がぜんぜん理解しないのと対称的で面白かった)が、最後に言ってる言葉が印象的。この技芸は、その少女に伝承されたから、いつかどこかでまた誰かに伝承されていくだろうが、自分はそれを見ることはないだろう。でもそれでいいのだ、と言うのね。ほんとうにそういうことなのだと思う。文化というのは「個」を通して伝えられ、個の内側からのみ実現されていく。それは共有されたサークルの中でみんなで手をつないで行きましょうというようなものではないのだ。どんな文化の中にあっても人は徹底して孤独であり、それを忘れたら文化は死んじゃうってもんだろう。そして人はそれぞれの生の期間を、なんらかの文化をヨリドコロとして生きる。文化の中における孤独を生きぬく以外にない、それでいいのだ、ということだ。
そしてそれゆえにこそ人は「文化」を大切にしなくてはならないのだろう。それはヒロインが「場」を守ろうとしたことと同じことだ。つまりそれぞれの技芸、学芸、文化技術、といったものは、それぞれにかけがえのないヨリドコロだということであり、それを失っては人は孤独を生きることすらできなくなるからだ。
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