雑誌ロゴ

contents
Extra Edition#1 ひるますのショキロン(初期エッセイ論文集)

むか〜し書いた文章が出てきたんで、デジタル化してみました(そんなヒマはないはずなのに…つい夢中になっちゃうのよね、こういうことって…)。

■贈答論・続贈答論・続々贈答論(1986.11)
フリーペーパー版「HIRUMAS VOL.5」より

■盟友論・続盟友論・続々盟友論(1987.1)
フリーペーパー版「HIRUMAS VOL.6」より

■さらば盟友論(1987.2)
フリーペーパー版「HIRUMAS VOL.7」より

■思考のフィットネス/アイ・ガッタ・シュンギク(1987.7)
フリーペーパー版「HIRUMAS VOL.8」より

■夢見る力〜知のソフトウェア(93.2.22)
フリーペーパー版「HIRUMAS VOL.13」より

バックナンバー総目次トップページ(最新情報)
感想・ご意見をお知らせください。 info@hirumas.com (C)HIRUMAS 2000

 

初期論集
贈答論・続贈答論・続々贈答論(1986.11)
フリーペーパー版「HIRUMAS VOL.5」より

●贈答論

まあお歳暮の季節だからってわけでもないんだけど、「贈り物」についてはなします。僕は贈り物が好きなのね。貰うよりもあげんのが。なんて言うと、すぐに「オレにもくれ」なんて言い出すバカがいるからヤなんだけど。もちろん僕だって嫌いな人に贈り物なんかしません。贈り物は好きな人にするんです。でも僕の場合、その「好き」は特に気があるとか、お付き合いしたいとかいうんではまったくなくて、まあ普通に気があう、と一緒にいて気分が好い、とかその程度の事で、贈り物をしたくなるほど「好き」なわけ。要するに普通の友達なら誰かれかまわず、贈り物をしたくなるのだが、もちろんそれは金銭的な余裕のある場合にかぎる。

というわけでこうして見てみると、僕はまず好きな人というものがあって、その人に贈り物をしよう、というような思考はもっていなくて、まず「あれこれ」のモノがあり、そのモノに出会ったときに、これは誰に贈りたい、これは彼に贈りたい、というような思考をしているらしい。らしい、というのは今改めて反省してみると、オレってそーなんだなぁと思うからで、実際はいつもそんなふうに他人のことばかり考えているわけではもちろんないからだ。にもかかわらず、明らかに自分にはそーいう性向があり、つまり他人にご奉仕してしまうという農奴的な性格があるということを、発見してしまった今はただただ自分が恐ろしい。よく今までだまされずに生きてきたものではあるなぁ、なーんてのは大袈裟だけど。考えてみたら、いや、考えるまでもなく、この新聞(注:フリーペーパーのこと)自体がご奉仕品であり、ほとんど他人に対するおせっかいにまでなりつつあるのだが、そんな僕の(新聞発行という)行為すら特異なものではないほどに、僕の実生活がすでに奉仕=贈り物にみちあふれていたのである。深夜の電話身の上相談に延々とつきあったりというところまで来ると、もおほとんど僕は菩薩だと自分で思っちゃうね。ただし好き嫌いの激しい、ね。

追記:インターネットでみーんなが「無料のご奉仕として」情報発信をやる今となっては、なにいってんだって感じですけどね(0.3.23)

●続贈答論

さて、僕が菩薩であるか、農奴であるかは、ま、どっちでもいいけど、そういうのもきちんと、能力として認知してもらいたいよね。贈り物はモノを介したコミュニケーション能力であり、身の上相談は思考を介したそれなのだから、というようなムズカシ話は次回にまわすとして、僕がこーいうことを言うのは、贈り物はモノで他人の心を釣るものだからイカンというようなシニカルな考えも世の中にはあるからなのだ。

これを持論にしていながら平然と贈り物を貰ってしまうというすてきな人物が、僕のかよっていた美術学校の校長(セツ)だったのだが(注:セツについてはこちらを参照)、僕も相手はそういうつもりで贈り物をくれるのかもしれないと思うので、贈り物を貰うのがあまり好きになれなかったのである。しかし僕は僕なのである。僕はモノ、とどのつまりはそのモノの金額、によって他人をどーこうしようなんてほど、せこくはないから、モノの価値ではなくて、モノの楽しさをその個人と結びつけるような贈り物をする楽しみというものを持ってもいいのである。こういう楽しみを持つことが出来ない人を、僕は不幸だと思うのだった。

世の中には色々なモノがあって、それは自分ひとりの精神と肉体では楽しみ切れない。他人の精神と肉体を使って楽しむ(なんかヤらしい言い方だけど)ってこともこの世にはあるのである。というわけで贈り物とはそういう楽しみであるのだから、贈り物をするということは、他人を知るという認識的な行為なのだ。

つまり贈り物をする、ということはえらい努力が要るってことなんだけど、で、もちろんそんなことを言われるまでもなく、みなさん贈り物で頭を悩ましたのは一度や二度ではありますまい。しかし世の中の不幸というもののほとんどは、僕の見るところでは「悩み方をしらない」、しらなすぎる、という所にあるのであって、この場合も不幸は間違った悩み方にあるわけですね。というわけで話はすでに「贈り物のアドバイス」というところに入っているわけです。で、何が間違っているかというと、ゆうまでもなく、あなたが贈り物のモノを他人(という個人の精神と肉体)に結びつけずに、世間とか常識とかいう抽象的なものや、その贈り物によって自分がどう思われるか、などといった自意識に結びつけてきたからです。

はっきり言ってあなたなんかどーでもいいんです。問題はその人と贈り物のモノの具体的関係でしかないんですから。あなたはその関係に奉仕する縁の下の力持ちに徹しなくてはならないんです。ところであなたは今までの生涯でそんな役を引き受けたことが一度でもあるでしょうか。ケチに贈り物ができないってのは、実際、金額の問題ではなくて、こーゆう他人とモノとの関係に仕えるっていう精神の問題なのね。

つまらないものでもあの人がくれたのだから嬉しいなんて事は、この世にはないんです。そういう事があるときはたいてい「つまんない」って事が「面白い」と同義語だってたりする場合で、そうではなくって本当につまらないどころか、じゃまなだけって時に、そんなふうに嬉しがる奴がいたら、それは既にモノを介した認識としての贈り物というレベルを越えて、他人の心の占有権というおどろおどろしい領域に踏み込んでいるんです。そういうところに落ちつきたい人はどうぞご勝手に。贈り物ってもっとさらりとしたものであってほしい。

さて、世の中に「じゃまなだけだけど好きな人がくれたのだから嬉しい」なんて事はない、としたら有るのは「好きな人がくれたものだけど、じゃまなだけで困ったものだ」ということです。悲しいことですが、こーゆう事は、こーゆう事だけはあるんですよね。しかしこーゆう失敗を恐れて常識という抽象や、自意識という貧困に閉じこもってはいけない。それが失敗だった、ということは、あなたがまだその他人の精神と肉体を使って楽しんでいない、ということでしかないのです。まだあなたはその他人を知らない、って事ですね。だから本当は贈り物をするにはまだ早すぎただけです。今後に期待します。

●続々贈答論−贈答は芸術だ!

今回のタイトルは「贈答は芸術だ」ですが、結論は「芸術は贈答だ」ということです。。贈答はどう逆立ちしたって芸術にはなりえないのですから、このタイトルは間違っているのですが、まぁよろしく。ってわけで、芸術です。贈答について前に説明しました。で、芸術とはそのような意味での贈答なのである、ということを主張しようってんですから、まず芸術とは何なのか、という事をはっきり決めておかなくてはなりません。芸術とは何か!なんてんですから、すごいです。ほとんどタダの新聞(この文章を掲載したフリーペーパーのこと)が扱うには荷が重すぎるってものです。

芸術とは何かっていう共通認識は未だにないんですが、何でないかっつーと、芸術の内容まで含めてそれが何かってことを規定しようとするから、色々と意見が割れちゃうのね。そういう内容を括弧に入れて見れば、つまり現象学的にっていうんですが、芸術とはなんらかの「身ぶり」による認識であり、その「身ぶり」の軌跡でしかない。その意味で芸術は世界を理解する「仕方」なのであって、学問と別のものではない。ところで、僕がこーゆうと「それでは芸術のの創造性が捉えられていない」などと言い出す奴がいるだろうが、そーいう人はかえってゲージュツをおとしめているのに気づいていない。つまりそういう奴の頭の中には一方に客観的な現実があり、一方にそれを受けとめる人間精神の世界があり、という例の二元論があるわけだが、そーゆう人は芸術をそのせまっくるしい領域の中に閉じこめて「自由だ」などというわけである。

ところでそーゆう客観的な世界などというものは存在しない。それはある一時代の科学(学問)が創造したものでしかない。科学だってクリエイトしているのである。学問と同じく世界の理解の仕方である芸術がクリエイトしていないはずないってくらいのものである。しかも同じく理解の仕方として芸術は、人間精神の内部でのみ自由であるのではなく、むしろ理解すると同時に世界を産出するような、そーいう認識である。つまりよく芸術を自己表現であるという言い方をするが、その場合の表現が、既に確固として存在する「自己」を表現するのではなく、その表現こそが逆に「自己」を形成するものであるように、ここで世界を理解する認識とは、すでに確固として存在している世界を芸術的に表現するのではまったくなく、その認識において世界を創造するような認識である、ということだ。

そういうものを「認識」と呼ぶことに意味があるかというと、あんの。そう呼んだ方が、便利だってことね。便利だって事は役に立つってこと。何かを考えるってのは、それを役に立たせるって事ね。役に立たないことを考えたっていいじゃないか、ってのもあるけど、それは役に立つって事の内容・領域・世界が狭いだけの事で、そういう世界を拡大していけば、「役に立たないことを考えたっていいじゃないか」っていう言い方そのものが意味がなくなってしまう。だから役に立つように考える、って事は思考の基準として採用していい。

では話を戻して、それを認識と呼ぶことはどう役に立つのか。それを認識と呼ぶことによって、人間の日常的行為と創造とを一元的に捉える事が出来る。そのように捉えるならば、創造的な行為は人間に接ぎ木的に付け足されたものではなくして、人が日々、常に−既に行っているところの、なんらかの微分なのだ、という事だ。という事がわかれば、今度はでは自分の身体の身ぶりのどこをどう「微分」していけばいいのか、身体とその身体に向かっていく対象の観察へと移行することになり、こういう「理解」は創造の方法論として充分役立っているわけである。

ちなみに日常的な思考や(非日常的な)創造を一次的な「認識」過程と呼ぶならば、それについてのこのような理解はメタ認識と呼ぶことが出来る。むろんここでは理想化して話を進めているので、実際は身体的な認識と、メタ認識がゴッチャになって、曖昧なカタチで僕らは「分かった」っと思っている。だがこのように考えるならば、人間の行動・思考は多層的な認識過程として(一元的に)捉える事が出来る。

さて芸術の話だった。芸術の話題になるとなぜか口調まで堅苦しくなるってしまうが、ここまで注意深く呼んできた人は、僕が「芸術はたいしたものではない」と言っているのに気づいたろうと思う。それは要するに内容において優れた芸術が存在する、という事があるだけであって、芸術という一つのジャンルが、ある他の表現(認識)のジャンルに対して特権的な優位を持っているのではないっていう単に当たり前の事を言っただけなんだけどね。人間の行動を表現として一元的にとらえる、っていうのは「内容」を無視してかかるというのではなくして、「内容」を括弧に入れる(判断を留保する)ということだったんですから。

つまり、このような認識とは、さっきメタ認識と呼んでおいたものだが、芸術と他の表現=認識ジャンルとの間には決定的な差異が存在しない(要するにたいした違いがない)のに、そういう一次的な認識過程と、このメタ認識との間には決定的な差異が存在しているように見える。すなわち一次的な過程が身ぶり(その中には言葉も含むが)によって世界を成形しつつ捉えるのに対して、メタ認識は(言葉を特権的に使用することによって)そのような認識について認識することであり、さらにはそれ自体も一つの認識過程ではあるのだから、メタ認識についてのメタメタ認識でもありうる、という自己言及的な性格があるわけね。この差異(一時過程としての認識と自己言及的なメタ認識との差異)をとりあえず認識論的な差異とでも呼んでおこう。

じゃあ、こう分けることは役に立つかという事を考えてみよう(どーも話がややこしくなっちゃってすいませんが)。考えみるっていうのは、考えたことはあっても考えるという事がどーいう事なのかは考えた事がない人には意外だろーが、差異を際だたせて見る、ってことなのね。とりあえず。で、差異を際だたす為には何かを引き合いに出してくればいーのね。ここで引き合いに出してみるのは、いわゆる芸術を理解するという事と、先のメタ認識との違いね。それはどちらも何らかの芸術に「ついての」認識ということでは共通している。まず先行する認識過程の結果としての「作品」が呈示され、それに「ついて」認識することとして共通しているわけだ。が、この二つは全く違うのだった。すでに言ったようにメタ認識ってのは、内容を括弧に入れてるんです。しかし内容を括弧に入れちゃった「芸術の理解」なんてものがあるんでしょうか。いま、ここで僕が「げーじゅつとはこーいうものだっ」と言い切ったからといって、僕は芸術が分かったといえるんでしょうか。もちろん言えないんですね。はっきり言って、僕はげーじゅつなんてわかんないですね。でも芸術が何かってのは歴然と分かってしまえるんです。

じゃあね、僕に対して「おまえの言ってんのは芸術ではない」という人の芸術に対する理解、つまり芸術が「分かる」ってのはどういう事なのでしょうか。それはメタ認識でなければ、一次過程としての認識だってことですよね。つまりそこにある作品の内容に沿って認識しなおすってことです。分かるっていうのは作品の意味を一つに限定してしまうのではなく、その作品の「そこ」で実行(パフォーム)された認識を、あなた自身がなぞるように認識し直すこと、ではないでしょうか。ようするに「そこ」ではあなた自身が作品を生成するんです。そんなおーげさな!と言われるかもしれませんが、そーゆう大袈裟な事をあなたはやってるんだからたいしたものです!

だいたい、人間の目って生まれた時はただの光しか見えないんだよ、それをモノという一つの形あるものとしてとらえるためには「訓練」が要るの。あらゆる身体的認識は「訓練」の結果なんです。そういう子供時代の訓練の記憶は忘れられることになっているんですけどね。とにかくあなた自身は身体的な訓練の上にあぐらをかいている、というようなことを、よーく考えてみるべきでしょう。として見れば、芸術その他の表現の理解とは、それを(あるいはそれをもとにして、それをネタにして)あなたの身体が認識を実行(パフォーム)することだ、という僕の言い方は全然大袈裟ではないでしょう。あなたがそーしてるんですから。

したがって芸術の理解とは、作品の意味の解釈(意味への翻訳)ではなくして、認識の実行なんですね。これに対してメタ認識のほうは、非身体的な理解として、身体の修練を必要としない認識だったわけ。このメタ認識は、これまで作品の意味を解釈する(限定する)という間違った使用をされてきましたが、近頃ではそう薄っぺらなものはなくて、メタ認識も繊細さと重層性をそなえもってきた感じではあります。こないだアーティスト志望のFくんと芸術について会話したんですが、彼は自分の絵がポストモダンの思想の影響で変わってきてるなんて言ってました(注:86年のハナシです)。「思想」によって影響されるなんていったら、ひと昔前ならクサイ人生論を思い浮かべたものですが、いまやポストモダンで、この「思想」はメタ認識を素朴かつ粗野な観念論の領域から引き出して、一次過程の多様なレベルに繊細に踏み込んでいますから、そういう「思想」に影響される、というのも分からないではないですね(尊敬もしないけど)。

こいうしてみて分かるのは、一次過程とメタとを分けて考えるのは、なにもその二つを分裂させて、固定化しようなどと言うのではなくて、それぞれの役割をはっきりさせることによって、僕ら自身の表現に役立てよう、と、これしかないです。要するに後はスピードの問題なんです。認識が表現として形つくられていくメタが実行されつつある認識の多様の中に入っていく、メタ認識をすぐさま自分の身体に送り返していく、そのスピードの。

さて、話はいよいよ贈り物です。おまたせ。実際ここまではすでに前号、前前号(フリーペーパーのNo.3、4のこと)に書いたことの蒸し返しなんです。ここまで僕は主に「芸術」という言葉を使ってきましたが、芸術ってのは、ファインアートのことです。ファインアートってなんでしょうか。ファインアートって「芸」の微分なんです。つまり「芸」ってのが一般的・普遍的なんであって、芸術(ファインアート)は、その「芸」の役割のある側面を際だたせるべくパフォームしているって事です。ある側面ってなんでしょう。ファインってくらいだから、際だたされているのは「純粋さ」なのね。それじゃ何も言ったことにならないのは承知で言ってるんだけどね。純粋さってのがなんらかの幻想だとしても、純粋だと言うからには「不純なもの」があったわけで、不純なものと名指されたのは「芸」ですね。

「芸」のどこが不純なんですか。芸って客に迎合するから不純なんです。大衆というお客はあれ・これの偏向的な好みをもってますし、だいたい面白ければいいんですから、そーゆうのにあわせていては「技術」の進歩の妨げになります。というわけでファインアートは純粋な鑑賞者を相手にすることにしたわけです。そーゆう観客も実際は何らかの趣味を持った特定の人々ではあったわけですが、ともかく現代芸術は鑑賞者への具体的な関係を純化しているわけです。といってももちろん、それは切り捨てられているわけではない。鑑賞者への具体的な関係は、表現の記号関係の中に埋め込まれている、あるいは置き換えられているのだ。つまり、さっきは芸術を認識過程として捉えたのだが、認識というのは身ぶりによる記号形成ないしは記号連結として既に対他関係を備えている。認識はコミュニケーションだ、ということです。認識する事とそれを他人に伝えるということの間には原理的な切断線が存在しない。という原理に基づいて芸の純化ないし微分としての芸術が可能になる。ということに別に問題はない。芸術はそのように純化しているし、それに付いていく「純化された」観客たちも立派に存在しているからだ。ファインアートは思う存分行けるところまで行ってください。別に応援はしませんけど。

さてまたここで、こーゆう認識が何の役に立つかを考えてみよう。こう考えることは、表現の対他関係を掘り起こすのに役立つってことだったわけ。それを掘り起こしたところで、僕らはファインアートをモデルケースにして思考するのを終わりにしよう。ファインアートをモデルにした思考はあの「自己表現」というひとりよがりの世界へ陥りやすい。かといって対他性を重んずるということは、あの「正確で分かりやすい表現」というつまんない世界に落ちついてしまうことになりかねない。僕はメタ認識のレベルにおいては原則的に「誰にでも分かる」という事を心がけるべきだと考える(その意味での対他性を公共性と言い換えることもできる)が、ここで問題にしてたいのは一次過程の表現のレベルでの対他性なのね。それがむき出しに問題になるのはポップの領域でのこと。

人間って欲張りですから、身体を使わないメタ認識だけでは満足できないんです。それは認識が肉体の快楽と奥深いところで結びついているって事でもあるんですが、それはここでは立ち入りません。ともあれ、人が作品をつくり、それを愛好するというのはそーゆう事です。それをつくる人は人間の認識と快楽の関係に奉仕するんです。これが、一次過程のレベルでの対他性ということです。表現する人は他人に自分の主張とか考えを伝えるのではない。ポップにおいて問題なのはそのようなメッセージ性ではない。そうではなくてポップは他者の認識に身体を与えて快楽に結びつける、ということを自分自身の認識の実行(パフォーマンス)において行うという非常に高度な認識なのね。これはえらい大変なことなんですよ。だからポップはふつうの芸術以上に特殊な技能と才能を必要とするんです。それは他人を見るってことですね。芸術をやりたいなら記号関係だけを見ていればいいんです(はっきり言って)が、ポップをやるにその背後にいる具体的な個人まで見通さなくてはならないんです。

芸術が他者を純化し抽象化するとしたら、ポップはそれを普遍化し具体化するものなんです。この違いが分からないあなたはまだ他人が分からないでいるんです。高速度で変化していく他人の精神と肉体を絶えず取り逃がさずにいるのにどれほどの努力が必要か、ということを考えてもみてください。とゆーわけで長々と書いて参りましたが、すでに前項をお読みの方はポップと「贈り物」がまったく同じものであることに気づかれたと思います。ところでいまやポップは僕らにとっての芸術にほかなりません。なわけで、結論。芸術は贈答だ。

この号の目次へもどるバックナンバー総目次トップページ(最新情報)
感想・ご意見をお知らせください。 info@hirumas.com (C)HIRUMAS 2000

初期論集
盟友論・続盟友論・続々盟友論(1987.1)
フリーペーパー版「HIRUMAS VOL.6」より

●盟友論

盟友とは何か、ということについてはカスタネダが「ドンファン」シリーズの中で言っていた。

いや、正確にはドンファンが言ったのだが、カスタネダを知らない人のために解説しておくと、カスタネダはマイナーな文化人類学者で、あるアメリカインディアンの社会にフィールドワークに入り、その社会でドンファンと呼ばれている呪術師の弟子となり、その呪術を学んでいく、というのが「ドンファン」シリーズなのだけど、なぜいま彼を「マイナー」と言ったかとゆーと、この「ドンファン」シリーズは書店での扱いが文学書になってんの(87年当時のことである)。つまり文化人類学者の書いた小説、という扱いなのね。カスタネダ自身は最後に総括の章なんかつけてるし、一応の学問的な体裁は整えてあって、要するに普通に考えれば、「ドンファン」シリーズとは、文化人類学的ルポルタージュなのだ。が、それが、なぜ小説になってしまうかというと、体裁(スタイル)が学的であっても内容が学的とは認められないってことね。認めない主語は文化人類学者の世界っていう曖昧模糊としたものなんだけどさ。で、彼カスタネダも一人の文化人類学者であり、文化人類学上での仕事としての作品が、自分の所属する世界から拒絶されたわけだから、彼は「マイナー」なのね。

「マイナー」ってそれだけの事でしかないんです。価値概念ではないってことね。マイナーだってことは、別に卑しめられることでも、エライってことでもないんです。マイナーだから好きっていうファン心理は分かりますけど、ね。だってマイナーなものは、あなたの好みをズバリ代表(表現)しているわけだもん。他の誰・彼ではないあなたの表現がそこにある…。まぁ、そこにあるのは、あなたの、じゃない他人の表現なんだけどね。それはあなたを代表している。代表ってのは代理で表現するってことです。でたらめ言うんじゃないってホントよ。

逆にメジャーなものは、あなた以外のずっと多くの人にも「分かる」表現をしている。一種のファンであるあなたは、と勝手に決めてかかってんだけど(再録時の注:ほんと、なんで決めてかかってんだ?…)、メジャーなものを好きな人をバカにしてんだけど、そりゃメジャーなもの「しか」分からなかったら、ホントにバカだけど。ひと(他人)って、それぞれそれなりにマイナーな世界に生きてるもんでさ、それはほとんど、人間って孤独なんだって言ってるよーなもんだけど。孤独なくせに誰でも参加できる世界に入っていくのには抵抗があるんですね。

あるいはメジャーなものという媒介がかったるいんでしょう。と、言うのもメジャーなものというのは常に「直接性」の破壊ということを経過しているから、なんです。なにを言っているのか分かりにくくなってますが、僕らの表現というものは、さしあたって大抵の場合、隣近所のあるいは家族の誰・彼に対する直接的なものです。こーゆうレベルでは表現にメジャーもなにもないです。それは単にローカルなんです。ことはそーゆうローカルな地平を越えていく時に問題になるわけで、いわばインターローカルな場所においてはじめてメジャー・マイナーということが問題になる。

インターローカルな場所では、いわゆる直接な表現(誰・彼に対する表現)というのはないんですが、直接性ってのはあるんですね。その場合の直接性っていうのは「自分には分かる」って事ね。だから直接性の破壊ということを契機として含まない表現においては、分かる他者とは要するに、肥大した自分なのであって、したがって自分以外の人間が明らかに存在しているこの世界においてはマイナーであるしかないのね。

マイナーな表現はだから、肥大した自分にのめり込んで来る人間を待っているしかないんです。逆に言うと「誰にでも分かる」ためには、いったん自分の中に有る直接性を破壊していく必要がある。それを勉強と言います。そういうのも勉強っていうんです。勉強っていうのは内容に関する概念ではなく、方法に関する概念ですから、どーゆう対象に使用してもいいんです。あーあ、こーゆうことが子どもの時に分かっていたら、もっと勉強好きな子になっていただろーに、とお思いでしょうが、まったく同感ですね。どーしてこうーゆう事を教えてくれないんでしょうね。

学校の勉強って要するに興味のない対象を押しつける事だからつまんない。僕がまえに美校<セツ>にいたことは書いたけど、そこの校長<セツ>は、デッサンは重視していないなどと言いながら、昇級の試験にデッサンさせてたんですね。デッサンって自分の肉体を機械にして、対象を描写する訓練の事だから、普通の状態とはまっくた別のモノの見方をする必要がある。一般の人は、つまり美術的な訓練を受けていない人は、いわゆる美術的という事ととは、普通の日常的な見方を美術的にデフォルメしていく事なのであって、その場合の「普通の日常的な見方」とは、客観的な見方なのだ、と思いがちなんですが、それが間違っているのは、僕らは普通日常的に客観的な見方なんかしていなってこと。

この学校<セツ>でいちばん最初にやるのは、人の顔を「見たまま」に描くってことなのね。これをやると自分が普段どれほど私的なものの見方をしているかってのが分かる。美術的にデフォルメもなにも、はなっから自分の「認識する身ぶり」客観性とはかけはなれている。つまりその認識は「自分には分かる」という直接性に埋もれているんですが、こーゆう直接性をまるごと認めてしまおうってのが、美学上のプリミティズムというわけ。なーんてタメになるんでしょう。

プリミティズムでうまくやれる人に学校なんて必要ないですが、(我々はそーじゃないので)勉強をはじめます。デッサンですね。デッサンは直接性に埋もれた表現を引き剥がすのです。自分の今までの見方とはまったく違う見方を「手」に強制することによって。そうすることによって「自分の世界が広がる」と彼は言ったんですが、ということはデッサンはある否定的な意味しか持っていないってことになるのではないでしょうか。そうだ、というのが彼の答えです。ふつう入門的な美術の世界ではデッサンをすると絵の構図が良くなるなどという通念があって、なんとなく信じきってたんですけど、考えてみるとそれはなんの根拠もない事ですよね。セツがスゴイのは、デッサンと絵は関係ないとまで言っちゃえることね。デッサンは彫刻(三次元の表現)の技術だって事。それを二次元でやろうってんだから、どだいムリな話なのね。ムリを強制するから、かえって見方を変えるにはちょうどいい。

というわけで、よーやく僕らは直接性という保護膜から抜け出て外界に出てきてしまいました。外界では僕らはまだ他人に通用する言葉をもってません。僕らの表現はまだ自分にしか分からないから、です。そこで誰にでも分かる表現を身につけるという訓練をしなくてはならないのですが、もちろん「誰にでも」なんて事はありえないのであって、分かる人の限界線がひかれる事になりますが、その線に応じてさまざまな世界があるわけで、それが世の中ってものです。

世の中って人と人との組み合わせのことです。昔はこれを「世界は社会的諸関係の総体である」と言いましたが、もはやそーいう言葉では何を言ってんだか分からないですね。世の中が人と人との組み合わせだって事は、世の中は無限のシャッフルだって事よ。広い組み合わせ、狭い組み合わせ、深いの、浅いの、うまくいくの、うまくいかないの、緊張するの、気が置けないの、創造的なの、破壊的なの、などなど。うまくいかない時は「組み合わせ」を変えればいいんです。別に僕はうまくいかないとこは別れなさいなんて言ってないですよ、念のため。うまくいかない二人に子どもができたらうまくいったという「子はかすがい」というバカげた話だってあるんですが、これだって一種の組み合わせの変更でしょ。親と縁を切るわけじゃないけど、とりうえずは家を出るとか。家を出て別の世界を経験するのだって、組み合わせの変更。それは逃げじゃないかって声も聞こえてきそうですが、世の中に「逃げ」というのはたったひとつしかないんです。それは何かっていうと、組み合わせをやめることね。純粋に自分だけの世界にはいっゃうこと。それ以外なら、たとえ分析医としか関係がなくても「組み合わせ」の中に自分を見つけようとしている努力を認めるべきだろう。たぶん彼は「逃げて」はいないのだ。

というわけで、まずもって勉強の始まりは「直接性」の破壊でしたが、次はそういうふうに引き剥がされてきた表現を人と人との組み合わせである「世の中」において見ることであり、そうして獲得した自分を再び破壊し世の中に提出していくというフィードバックの繰り返し、なのだ。

さて、とんでもない話になってしまいましたが、マイナーな文化人類学者の話でした。彼は文化人類学という世界に通用する言葉を身につけ、つまり学者としてひとりだちして、その世界に自分のフィールドワークをレポートしたんですけど、その「内容」は誰もが認められるものではなかった。その内容は「文化人類学者」には分からなかったって事。「ドン・ファン」シリーズは文学にでもして出版しておけばいいってことになったんです。このままなら彼はただのマイナー学者です。が、彼は別な世界でメジャーな時の人になってしまいます。彼はドラッグ文化の精神的・思想的な支柱にまつりあげられてしまうんです。「ドン・ファン」はまず、ドラッグによって世界の見方を変えるというようにドラッグを肯定していたからです。

●続盟友論

文化人類学っていう学問もヘンな学問で、何がヘンかっつーと、まず文化人類学ってなんなのか知らない人もいると思うので説明しとくと、文化人類学ってのは前近代的な民族の社会構造とか文化の特徴などを実際に「現地」に取材してまとめるという文化なのだが、そのような研究がなんの役に立つかというとそれがよく分からない。ようするにそれは「すばらしい世界旅行」と別のものではないのね。珍しいものが世界にはこんなにありますよ!って言ってんのね。

文化人類学がやった事ってのは、それまでの人間についての学問が、つまり哲学・心理学といったものが、西ヨーロッパ及び北アメリカという限られた地域の歴史と文化を前提として成り立っていたのに対して、非西欧的な文化圏の人間の精神についても考えなくてはならない、という方針を打ち出したことね。そこまで来たら次は当然文化・精神上の相対性理論なんだけど、そーゆうふうに思えるのもあなたが日本人の証拠よ。相対性理論ってのは十年前までは分からないものだったんだけど、今は誰でも知っているものです。つまりそれは「やつらにはやつらの神がある」ってことなんです。中心は一つではないってことですね。ところが文化人類学なんてややこしい学問を考え出したのは西洋人ですから、そうはいかないんですね。中心はオレら西洋人なんです。

人間って西洋人のことなんです。それ以外は「人類」なんですね。だから通常の人類学ってのは動物学の延長線上にあったわけ。ところがその動物学上の人類である彼ら未開人の人々もなんかオレらの文化と似たようなものを持ってんじゃないの、というわけで人間以外の「人類」たちの文化を考える学問ってのが出てきたわけ。非西洋ってのが歴然と存在を主張し始めたので、それについて考えてあげなくちゃいけない。って、それはいいんですけど、その場合の前提は「彼ら」は間違っているってことなんです。「やつらの神は間違っている」ってことね。

相対性理論に立つなら「神はある」でもいいんです。逆説的ですが。ところが文化人類学は西洋人の西洋人による西洋人を基準とした思考方法ですから、キリスト教の神以外に「神があって」はいけないんです。だからフィールドワークに入った文化人類学者は、その土地の神を信じる・信じないということは別にして、彼らの文化的、宗教的、精神的生活の構造(なりたち)を調査する。ようするにそこで問題なのは、彼らの宗教の実体的内容ではなくして、記号的関係にすぎません。つまり神の内実(というものがあったとしての話ですけど)ではなくて、それが一種の記号として原住民の生活の中でどーゆう働きをしているか、って事が問題なわけよ。とゆうわけで、構造主義と記号論が抱き合わせで流行したわけですね。なーんだとお思いでしょうが、そういうことです。

というわけで、もうおわかりでしょう。カスタネダがマイナーな文化人類学者であり、かつメジャーな教祖的存在となっていくわけが。カスタネダはインディアンのドラッグ文化に触れてその「内実」に入っちゃうのね。ドラッグという神の世界に。だいたい、ドラッグの記号関係なんて調べてもしょうがないでしょ。ドラッグはやるっきゃないんです。そしてさらに「文化人類学者」たちにとって危険なのは、未開の文化はその土地にしかないものですけど、ドラッグは自分の足下にもあるってことですね。しかもドン・ファンのドラッグは逃避的なものではなくて積極的な「生き方」としての文化なんです。そっちの文化に入っちゃえば、今度はそのドン・ファンの文化が基準ですから、いままでのように西洋の方から「見下す」ということは出来ないんです。人間の文化が、たかが「人類」の文化に飲み込まれてしまう危機なんです。

ところがこれは一方のドラッグ文化の人たちからみれば、救世主の出現にも思えるってのは、自分らのやってるドラッグの「道」を示してくれるからね。ドラッグやってたって「道」を求めてんです。というか道を求めてドラッグやってたんでしょ。いまこの目的も何もない、ただ流されているような暮らし、そうではないものがどこかにあるはずだ、と思って覗いて見るわけでしょ。いや、ただ快楽を求めてんだって言うかもしれないれけど、生きる目的に快楽をおいちゃいけねーのかって言えば、なこととはないわけで、「もう人間やめちゃおう」と言ってもいいんです。人類の文化はもっと奥が深いものだったんですから。さてここでようやく書き出しにつながるわけですね。ドン・ファンが盟友についてどう言ってたかってことに。

ドン・ファンの教えというのは、ところで、宗教ではないのね。ドラッグを使って神秘的な体験をさせて入信させるってインチキ宗教は多々あるらしいけど、ドン・ファンの場合、ドラッグはあくまでも「知る」ための手段でしかないのね。「知る」ってなんなんでしょうか。「知る」って「出来る」ってことなんですね。ある情報について知っているということが現代では知っているということになるんですが、現代は情報がモノの形をとらずに、いわば中空に浮いているように「存在」しているのであって、そういう情報を「知る」ということは、言葉としての意味を失っているんだよね、はっきり言って。というわけで今や意味ある「知」とは、その本来の意味である「出来る」ということなのね。出来ない事は、はっきり知らないんだと言うことにしよう。

そこで、何も知らないってことは、何も出来ないってことになるわけですから、生きていくには「知ら」なくてはならないんです。ところで「知る」ってことにもいろいろなレベルがあります。さっきの言葉でいうと、知るということが通用する様々の「世の中」がある、ということですね。狭い世の中でだけ通用する「知」、もっと広い世の中に通用する「知」、といった次第で、ま、普通のことが普通に出来ているうちは、「知」なんて関係ないと思って生きていられるわけではありますね。

もっと言っておくと、きちんとモノゴトをできる人は、「知者」のような顔はしていないものなんですね。本当に知っている人(出来る人)と、人が出来ることに「ついて」知っている人(情報を引き出す人)とは違うんです。というわけでドン・ファンもその社会の中では目立たない存在なんです。呪術という生きていくための技術は、一般の世の中には隠されているんですね。カスタネダがドン・ファンの弟子になったのは、ほんの偶然だったのね。

さて、呪術の修行ですけど、これはようするに「知る」ための方法ですから、ドラッグを使用するといっても、それによって快楽にひたるのではなくして、ドラッグによって普通ではない状態に入り、その状態で普通では知ることができないことを知るわけ。それは単にドラッグを使えば知ることができる、なんてもんじゃなくて、「技術」(実際に身体を使って出来る事)なんですから、指導してくれる人が必要になります。指導なしでドラッグするのは危険なんです。ゲーゲー吐くくらいはまだいい。意識失ったまま帰らぬ人になったりね。導師(グル)がいれば、ドラッグやってもいいんです。でも日本にはもちろんそーゆう人はいませんから、ま、やめといたほうがいいんです。私も一介の合法主義者ですから「ドラッグのススメ」なんかしません。じゃ、僕らは永遠にドン・ファンの教えに近づくこともできないのか、とゆーと、んな事もないよ。というのが、この「盟友論」のテーマなんですねぇ。

ドン・ファンはさまざまなドラッグを使ってカスタネダを導いていくんですけど、その際に、その時使うドラッグをその性質に応じて「擬人化」して呼ぶのね。ある種のドラッグは「師」であり、あるものは精霊、悪魔、そしてあるものが「盟友」と呼ばれる。

さて盟友と呼ばれるドラッグの性質とはどーゆうものか。

「盟友は人がだれも啓発できないものをお前に見せ、理解させてくれるだろう」というのだ。そして盟友の力とはあくまでも補助に過ぎないものなのだ。つまりそれは「ふつう人には見えない」ものを見せてくれる力なのね。ところがドン・ファンは、それは補助なのだということをえらく強調するのね。で、実地訓練が進んでいくと、ドラッグを使わずに「見る」という段階に入っていくのね。だから肝心なことは「見る」って事。

「見る」ってなんなんでしょう。さっきからなんなんでしょうばっかで、すいませんが。さっき僕らが普通日常的に見る仕方について、ぐーぜんにではありましたけど話題にしました。僕らは極私的に「見て」いるのでした。でもそーゆう僕らの極私性があらわになってしまうのは、その個人的な「見方」をそのまま「腕の動き」に変換すればこそ、なのでした。普通日常的に僕らがこれほど個人的でありながら、なおたいして問題を生じない、というのは何故なんでしょうか。なぜならば、僕らが通常、「見る」という能力にたいして重きをおいていない、という事に尽きるのではないでしょうか。「見る前に飛べ」という言葉がありますけど、むろんこの言葉は観念より行動だという一昔前のテーゼなんですけど、その主張については「おっしゃるとーりで」というしかありませんけど、ここでは飛ぶというのは行動だが「見る」というのは行動以前だということになっているのが気になります。ドン・ファンによれば「見る」っていうのは行動、しかも高度な技術を必要とする行為です。

というわけで僕らは「飛ぶ前に見る」ということからはじめなくちゃならないんですね。なんといっても僕らは「見る前に分かる」ということばかりして「見る」ということをおこたって来たんですから。言葉や観念で「分かる」という事が、僕らが「見る」技術を蔑ろにしたまま、個人的な「見方」のまどろみの中にいるということを忘れさせていたわけ。くどいようだけど、ドラッグは客観的な見方を変容して幻覚を見せるのではなく、「分かる」という観念の作用を静止して個人的な「見方」を覚醒する、のね。覚醒剤ってのはそーゆう事。

●続々盟友論

というわけで、僕らはさしあたってたいていの事は「見ないで」すましてるわけね。それを今、観念の働きというふうに説明したけど、そー言っちゃあんまりおおざっぱなところもあんのね。「観念」には「観念」のいいとこ(力)もあるのよ。だから「見ない」ですますのは(もっとちょっとレベルの違う問題だから)「環境」の力、と言ったほうがいいのかも。

環境の力という事で、「見る」能力と関係あるのは、テレビね。別にテレビがよくないっていう話ではないけど、テレビ的に「見る」能力が限定されてしまうのは仕方がない。(以下中略:よーするに解像度二百本程度の画像で、物事が「分かる」という世界にならされているということ。これに対してハイビジョンはモノのリアリティの表現力が画期的に高まると考えられるが、結局はハードウェアを変えれば、「見る」ということが、どーにかなるというという問題であればそれは「慣れ」の問題でしかないんだから、たいしたことではない…)

で、(修業すればいいってことになるけど)どーやって「ヤク」なしで訓練するのか ってことです。あ、ちがった。「ヤク」なしじゃなくて、「グル」なしで、でした。つい願望がでてしまいました。グルがないのはどーしようもないです。はっきり言って。グルが本当に必要な時は向こうの方からやってくることになってるそうです(カスタネダが偶然にドン・ファンに出会ったことを思い出してください)から、まご安心を。それまでは自己流に「見る」訓練をしてください。グルなしでやっていいんですか?いいんです。「ヤク」使わなきゃ。「見る」ってことに関しては「ヤク」使わなきゃ何したっていいんです。

では「ヤク」なしでどーやって訓練するんでしょう(今度はこれでいいのね)。とりあえずは自分で「見る」しかないんですが、ムキになって見ようとしても、嫌なものしか見えてきませんから、やめといた方がいいです。それよりは「盟友」を探すことです。盟友とはドラッグの力を擬人化して表現したものでしたが、生身の人間にも盟友っているんです。生身の「師」はまずいないですけど。生身の盟友って人間の潜在的な解像力(見る力)が一万本以上あるってのが、自分の身体で分かっちゃってる人のこと。そーゆう人をそばにおいとくと、ほんとに色々なことを見せてくれるんですね。そして僕も自分で「見る」ように努力するようになるんですね。

僕は異常なほどに観察力がなかったんですが、ここ二、三年の間に数人の盟友たちと出会い、飛躍的に観察力がついてしまいました。そーゆう事ってあるんです。だから僕は普通の友達はもちろん大切にしますけど、こーゆう盟友たちを大事にしてるんです。盟友だなんて大袈裟な、てめぇに観察力がなさすぎたってだけの話じゃないか、って、ま、そーなんですけどね。でも観察力がないおかげて、いい盟友と出会えたし、「知る」とか「見る」ということが、どーゆう事なのか、普通に観察力があるやつよりずっとよく「分かった」しね。やっぱ盟友には感謝するよ。

ところで「盟友」ってのは、そもそもは擬人化の表現だったんですが、ということは「盟友」は関係概念だということです。関係概念ってなんでしょう。関係概念ってのは実体概念じゃないってことね。盟友という実体が(そのものが)存在するわけではないってことです。盟友はモノではないんです。盟友ってのはある関係の中でだけ、その都度その都度の瞬間に存在するんです。ある人が盟友だとしても、それは限られた瞬間の事なんです。僕にとって盟友である人があなたにとっても盟友であるとは限らない、ってことです。というわけでドン・ファンも言ってます。「盟友は世界中にたくさんある」が、彼は「そのうちのほんの二つと親しんでいるだけだ」と。その人にはその人の性格に応じた「盟友」がある、ということね。

というわけで、盟友は関係の表現なんです。盟友とつきあうって事は関係とつきあうってことだから、難しいんです。僕が盟友を大事にするって言ったのは、そーゆうことなんですね。とすれば、それは人と付き合う難しさと一緒なんだけどサ(本当は)。でも普通の人とつきあうのにさんな風に「難しく」は考えないでしょ。結局盟友ったって普通の人なんです。でもあなたがその人に「盟友」を見つけなかったら、その人が盟友である瞬間は過ぎ去ってしまうんです。だから目を凝らしてよっく見る必要があるんですけど、な事したら、普通の人であるその人は何事かと思うでしょうね。というわけで「難しさ」は分かっていただけたと思いますが、ではどーすればいいんでしょうか。

とりあえず身の回りの人たちを「普通の人」だと思うのを止めるんです。周りにいる人は、実は何かとんでもない能力を隠しているんだと思ってください。なにをSFじみた事いって…とお思いでしょうが、この「つもりになる」って事が密教的な修行においてはもっとも肝心なんです。そーすれば少しは他人を見る目ができるでしょう。そしていよいよ盟友を見つけたというところで、盟友とのお付き合いが始まるわけで、それからがまた大変なんですが、それからのことはまた、あなたがそーなった時にご指導するとして今回はこれまで。ま、がんばってください。

この号の目次へもどるバックナンバー総目次トップページ(最新情報)
感想・ご意見をお知らせください。 info@hirumas.com (C)HIRUMAS 2000

初期論集
さらば盟友論(1987.2)
フリーペーパー版「HIRUMAS VOL.7」より

前号(盟友論・続盟友論・続々盟友論)はなかなか反応があって、いろいろな場所で「ぼくの書いたこと」について突っ込んだ話になる。いちばん困ったのは「盟友って何?」という疑問で、あれだけ長々と書いていながら、僕は「盟友」そのものについて何も言ってなかったんだってのを思い知らされた。

(…中略…)その後、いろいろな場所で考えてはいたんだけど、うまくまとまらなかったのね。それがこの前、横尾忠則展を観にいったのがきっかけで、横尾忠則の本を借りて読んだら、突然、考えがまとまったのね。それは『インドへ』という旅行記であり、瞑想的なエッセイでもある本。それは僕のインドに対する考えをかなり変えちゃったんだけど、そのことはここではあまり関係がないので省略する。考えがまとまったっていうのは、そもそもなんで盟友なのかってことの「意味」。

前回、僕は盟友をある意味での道具としてしか書いてなくて、盟友を使って「見る」力を身につけることの「意味」については全くふれていない。たぶんあのころ、僕は観察するってことに夢中になって、逆に自分の(未熟な、しかし今までがほとんどゼロだったのだから、そこからみれば拡大した)観察力に振り回されていたのだろう。だから意味とか目的というものをすっとばしていたんだけど、その前提もなしにいきなり盟友を道具として使う方法論を聞かされても、その意味が分からないっていうのは当然のことだったと思う。

盟友が普通の友達ではまったくないのは、盟友によって僕らの意識が開放され、観察力が拡大するその瞬間だけの事なんだけど、そーゆう意味での「盟友」ってのは本来ドラッグの特殊な作用のことだってのは前に言ったとーり。その作用を人格化して「盟友」と呼ぶネーミングが異常に気に入って、実在する友人たちにこじつけようとしたところに既に混乱がある。実在する友人たちの方に夢中で本来の意味を忘れていたようだ。こーいうのを「ドラッグにおぼれる」というのかもしれない。

というわけで僕が補足的に説明すべき事は、はっきりした。それは本来の「盟友」のもつ意味なのね。

横尾忠則はニューヨークでのドラッグ体験からインドへ行くことになる経過を書いていて、その中で明確にドラッグによる瞑想が意識の拡大・開放によって、精神(こころ)の自由を獲得する事とされている。そしてここでもドラッグはその「きっかけ」にすぎず、最終的にはドラッグなしで魂を開放された状態に持っていく。じゃあなんで魂が開放されなきゃならないんだっていう機械的な質問ってのが当然でてくるわけだけど、精神の開放って最終的には輪廻(転生)を止めるっていう目的があるのね。じゃあ霊魂が転生しないってのはどーゆう事なのか。転生しないってのは要するに「解脱」するって事でしょう(注:おー、出た出た。これ以下の文章があるために、この文章自体がいままで「封印」されてきたのか?しかし、よく読んでいただければ、それほどヘンなことは言ってないハズ)。

解脱っていうのは読んで字のごとく、輪廻の輪から解き放たれて抜けて脱するってことでしょ。悟りを開いた人をブッダというんだけど、ブッダって言葉の意味は「生まれ変わりから自由になった人」というのね。生まれ変わりから自由になった人がエライっていう事が成り立つためには、二つの前提があって、ひとつは魂は不滅だということ、もうひとつは転生が「苦」の原因だってことね。ところでブッダっていうのは歴史上はゴーダマシッタールダのことなんだけど、彼は生きている内にそーゆうことに気づいてしまったので、そーゆうこと(法=ダルマ)を世の人に教え広めたのね。それが仏教だっていうのは言うまでもないんだけど、じゃあ彼は本当にブッダなのかっていうのが当然あると思うね。まぁそれは誰にも確かめようがないわけね。確かめようがないから、ブッダの説いた法は一つでも仏教の宗派はあれだけ多様になってしまう。でもその「法」は正しい。これが前提ね。そーじゃなかったら仏教じゃない。信仰はなくてもいいんです、仏教って。法が正しいという前提さえ信じるなら。というわけで(仏教徒の中でも)信仰のある人々はどうにかして解脱しようと考えたわけで、よーするに後は方法論の問題なのね。こんな事、仏教の人に言ったら怒られるんだけど、なんでかっつーと、仏教の人自身はそーゆうふうには多分考えてないから。法も信仰も人生観も政治もゴッチャになっているのが宗教界の現状なんですね。

解脱することをもっとも明確に方法論として捉えたのは「密教」なんです。普通の仏教で修行を積むというと、一般社会の常識的な良いことをするということが、どーしても関わってくるんですが、密教の修行はそーゆう世間体とはなんの関係もない善悪の彼岸です。良いことをしたってしょうがない(注:むしろ悪いことをしたのがオウム…しかしこれ、まだ87年の文章)。密教の修行は自分の意識と無意識を極限まで明確にし、それを意識的に操作することに熟達するってことでしかないですから、良いことをしてみたってそれは世間の常識に埋もれているだけ「でも」できることですから、なんの修行(技術的な上達)にもならないんです。そのように「心」を自由にする事ができるようになって初めて「死」が恐くなくなるんです。心が意のままになれば、死んだときにカルマ(業と訳しますが、惰性とか慣性というくらいの意味ですね。よーするに魂はクセを持っているってこと)によって転生してしまうのを防いでブッダになることが出来るってぐらいの単純な理屈なんです。

じゃ「ゆうれい」ってのは転生しないんだからブッダじゃないか、なんて屁理屈はとーらないんですが。どうして通らないか考えてみたことがあるでしょうか。答えは「ゆうれい」の心が自由ではない、つまり意のままになっていない、ということですね。(幽霊が実在するかどーかは置いといて)幽霊の心はなんらかの思念に縛り付けられていて固定されているんです。思念は物体ではないんですが、ゆうれい状態は心が思念に執着することによって一種の物体的状態を作り出しているといっていい。さらにいうと「ゆうれい」は思念という肉体に転生している(ってのはウソだけど話を分かりやすくするために)といってもいいわけで、「ゆうれい」はブッダにはなれない。

そこらへんが西洋人には分からないところで、思考が物体になっているという状態は西洋にはないんです。西洋には精神と肉体(物体)の二種類しかない。精神というのは、英語ではスピリットですけど、ドイツ語ではガイストです。ガイストなんてもろ幽霊(ゴースト)じゃないですか。ヨーロッパ大陸の哲学は、精神という実体と肉体という実体をはじめっから分けて考えますから、はじめっから肉体とは独立して存在する精神と、肉体を離れてさまよっている幽霊が、同じ単語で表現されるのも論理的ななりゆきとしては当然のことではありますけどね。そーいえばポルターガイストなんてのもあったけど、これ「騒ぐ霊」なんて訳してるけど、騒ぎ立てる精神なんて訳したら、俺じゃん。ま、それは冗談だけど。

というわけで精神を実体化してとらえると、幽霊になっちゃうんです。なんでかっていうと、精神は実体では(まだ)ないからですね。精神を実体だと思いこんでいるのは「意識」でしかないからです。精神って意識を含んだ人間機械の背後にある「無」なんです。ある、と思いこんだとたんに、機械の部品に堕してしまうもの…。その精神を自在に操るようになれることが、密教的な修業の目標なんです。それは言葉を換えて言うなら、本当の意味での精神の実体化だといえる。

つまり「意識」が分析して精神を実体だと主張するのではなく、自分が訓練によって精神に「なる」という意味での実体化。こーゆう考え方ってのは、精神的な事に関しては机上で反省するという方法論しかもたない西欧にはないんですね。ちなみに日本でも死んだ人を仏様なんて言いますけど、とんでもない話ではありまするというわけで、西洋の方では昔っから、そーゆう考えが根づいているって証拠には、死ねば肉体から離れて自由になれると考えて(修業もしないで)自殺しちゃったソクラテスなんてバカもいたわけです。いまごろ苦労してんじゃないの、ソクラテスなんて。自殺したってただ転生するだけなんだよ。

しかも自殺は人間にしかできないことだけど、修業もやっぱり人間にしかできない事なのね。密教の輪廻観では心はありとあらゆるものを輪廻しているんだけど、その中には神様ってのもあるの。神っていってもキリスト教のような創造神ではなくて、そこら辺りにうじゃうじゃいるような神様ね。インドも多神教だから。で、神様に生まれたらしあわせだろうなぁーって思うだろう。でもそーじゃないんだっていうのが密教で、なんでかっつーと、神様なんかなったら修業できないじゃん。修業できなきゃ、解脱できないんだもん。神様になってぬくぬくと寝て暮らして何千年もたってから、その報いで芋虫かなんかになっちゃったらイヤじゃない。神は死んだってのはニーチェのセリフですけど、神様だって死ぬんです。死んだら輪廻しちゃうんです。だから修業するんです。そして修業は人間だけに与えられた特権なんです。それを放棄したからソクラテスはバカなんです。動物が可哀想なのはバカだからじゃなく、虐待されるからでもなく、修業ができないからなんです。

というわけで人間に生まれたのはこのうえない幸運、ありがたいこと、希有なこと、なわけで、「感謝」して生きようって話もでてきますが、こまった事に、そーゆう人たちって本当に感謝ばっかりしてんのね。お日様を見ては「ありがたや、ありがたや」とかね。本当に感謝してんなら、さっさと修業すればいいんです。僕はしませんよ、だって仏教徒じゃないもん(追記:オウムでもないし!)。つまり僕の目的はブッダになるなんていう超然的なものではないし、そんなおこがましいことは考えていないっていう謙遜ではなくて、単に世俗的な人間ですから。

でも僕は仏教的な前提で修業はしませんが、それに似たことはしている、と思うのね。それは自分の意識と無意識を明確にしていこうという事。それが僕の生き方として確かだと思えるのは、それがあれ・これの思想や主義や宗教に「入門」したり、同調したりというような看板の問題ではなくて、自分が「からだ」と思考を使って実際にやってみるという「技術」の問題だからなのね。技術の問題だから、信仰をスッとばして、密教的修業に関心を持つってこともありうることなのね。でも最初に言ったように修業には目的(意味)がないと、「技術」に振り回されるってことにもなるんですね。それは導師がいないって事でもあるんだけどね。じゃあ導師がいればどーにかなるのかって言えば、またそうも思えないですから、当分僕の前にはグルは洗われてくれそうにないですね。グルは本当にその人が望まなければ現れないことになってるんです。僕はいまグルが現れてもその人についていけないでしょう。えっそんなの当たり前だって? そりゃそーだ。

でも当たり前じゃない人もいるんですよ。僕が今まで出会ってきた人たちの多くは「思想的」な人だったけど、「哲学的」な人ってのはまた別で、やはり「哲学」というだけあって、彼らの問題ってのは、この前紹介した哲学の根本問題に行き着くのね。つまり精神と肉体の問題。この問題はそのままこの世とあの世の問題でもある。つまり精神を実体としてとらえる人にとっては、精神の問題とは「あの世」の問題なのね。精神の自由を実現するのは「あの世」でのことだ、という考え方。こーゆう考え方を普通は「宗教的な」考え方といいますが、僕は宗教というのはまた別に考えていますので、僕はこーゆうのを哲学的な見方における一方の態度、と考えます。一方、というのは、精神と肉体とという二つの実体のうち精神を採る、という意味です。さっきのソクラテスはここに入るわけね。

僕はソクラテスは知らないけど、そーゆう立場の人ってのは知ってるんです。僕が高校生の頃って校内暴力ってまだなかったんです(追記:「いじめ」も「ひきこもり」もねーよ!)。家庭内暴力ってのはちょっとはやりかけてたけど。その前には「シラケ」ってのがあったんですけど、それもちょっと違うなって気分だったのね。じゃ、なにがあったかっていうと、「自殺」が流行ってたんです(追記:逆にそれって「今」じゃん。時代は巡る…)。自殺なんてまぁ、いつでもあるものだけど、なこと言ったら、暴力も非行もいつでもあるところにはあるわけで、流行るってのは、「現象」としてのその言葉とか観念が話題になるってことなのね。ウチの高校なんて自殺した奴なんか一人もいないんだから。なんでそー言い切れるかっていうと、「ゆうれい談」がひとつもなかったもん。

で、自殺したやつもいないのに、マジメな話っていうと、もう自殺のことしかないってなもんで、暗いでしょ。でも僕はそーゆうのってイマイチのれなくって、僕の関心と言えばカクメイとかマルクスとかそーいうものだったのだ(いったい俺は何歳なんだ)。そもそもそこからして普通ではないのだが、自殺の話題にのってる奴ら対して僕がコンプレックス(ここでは劣等感って意味)を懐かざるを得ないのは、彼らに対して僕の方が「現実的」にすぎる、というものだったのだ。いや、もっとも現実的なのは、きちんと受験勉強をしている人々なのだが、そーゆうのは枠の外、という恐るべき観念的な生活に明け暮れているのであった。

というわけで、「革命」が「自殺」に劣等感を懐いてしまうのはなぜか、というと、いうまでもなく、「自殺」の人は「精神」をとり、「革命」の人は「肉体」をとっているのであって、精神と肉体というあの哲学的な対立では、言うまでもなく「精神」がエライ、とゆーことになっているからなのね。それは考えるまでもない前提だったのだ。

「自殺」の人たちは、「自殺は人間の最後の自由だ」と言って醒めた目で世の中を見据えていたが、そーゆうのが、もっとも「精神的」で、知的であるかのよーに思えたのだ。それがインテリの証明だったのだ(しつこいよーだが、いったいいつの話だ)。もちろん本人たちが知的に振る舞うためにそーいう「哲学」に浸ってたとは言わないが、この雑誌(フリーペーパー版HIRUMASのこと)にも副題に「インテリジェント」なんて掲げるほど、「知的」という言葉にヨワイ主筆としては、そーゆう「知的」な事に反発してしまうわけですね。だから僕が「革命」の方に行ったというわけではないけど。ともかくもう直感で奴らの知的なんてウソっぱちに決まってる、だっていま「自殺」だなんて言って深刻ぶってる奴らって、ちょっと前までただのバカな運動部員だったりしたわけじゃない? なんてモロ差別意識をむき出しにして、事あるごとに論争するという僕の青春時代であったのだった。

と、思わず回顧にふけってしまいましたが、よーするに問題は精神の自由だ。いまとなっては、自殺による自由というのが、いかに「知」からほど遠いか、はっきりしているが、ま、僕も当時は五十歩百歩だったんだから、いまさら彼らに言え事はないんだけど。よーするにお互い精神を問題にしながら何も考えてなかったってことね(あーあ、恥ずかしい。なんで今さらこんな過去の恥をさらさなくてはならないのだろーか。追記:しかも今度はネットにまで…)。

そこにあるのは「思考」ではなく「図式」なのね。あらかじめ精神と身体という対立の図式があり、そのどちらを根拠にするか、という選択が自分からではなくて、外部から迫られている。自分が(たとえば精神と肉体を)差異付け、その瞬間に自分が精神になるというような「選択」であり「生成」である行動を「思考」と呼ぼう。そのような行為としての思考がここにはないのだ。いいかえると、反省という「静的」な分析しかここにはない。「図式」の上で精神と肉体のどちらを選ぼうと、いずれにしてもそれは「哲学的」な態度でしかない。そういうものをニーチェは背世界的な態度っていうんだけど、ほんと、あの歳で僕らはすでに隠居したジジイだった。それにしてもどーしてそうまで若くして「哲学」的な態度に足を引かれてしまったのかというと、その図式があまりに分かりやすかったからだろう。つまり図式の上で考えた方が「楽」なのだ。僕に言わせればそれは考えですらないのだが。

ところでまた最近、僕は別のタイプの哲学者に出会っている。彼はやはり「あの世」に自由を求めていたが、その原型をソクラテスではなく、ゴーダマシッタルダに求めていた。つまりいままで説明した輪廻からの解脱という事である。しかし、いま「グル」もいないこの日本でそのような修業を行うのはほとんど不可能だ。かといって安易に仏教の諸派に入信するわけにもいかんだろう。そーゆう中で彼はどうやって精神の自由を勝ち得ようというのか。彼との対話の中で僕がつかんだのは、結局、解脱による自由と言っても、それを「あの世」に求めるかぎり、僕らは常にあの図式に突き当たってしまうのではないか、ということだ。

すなわち、せっかく自由になるための現実へのステップを踏み出しながら、それを哲学的図式が蝕んでいる。精神の自由が「あの世」に転化されることによって、現実とは関係ないことになってしまう。行動が反省に引き戻される。結局そーゆう図式は言葉の真の意味でのコンプレックスなのね。身体と精神のコンプレックス。本当の意味で精神が自由になるなら、そういうコンプレックスからも自由にならなくちゃないでしょ。あ、分かった。コンプレックスってのも身体なんだよ。思考が物体になったものなんだよ。とゆーふうに考えていくと、輪廻からの解脱っていうことの図式的でない理解、つまり「あの世」に自由を求めるのではない理解、ってのが出来るじゃない。

あのさ、輪廻って比喩なんだよ。僕らはいま・ここでひとつの一生だけを生きてるけど、それはただひとつの現実なんじゃなく、さまざまに解釈できる現実だよ。たとえば、僕らがとてもひどい病気で苦しんでいるとき、僕らはこの現実で病気をしていると同時に、前世や来世で地獄の責めにあっている、そういう現実も生きてるって言える。逆にぼーっとしてまどろんているときは、神々の時間を生きていると言える。それほど極端でなくても、まるで「自分のでない」人生を同時に生きるということがある。それを時間系列に変換して表現すれば、あの輪廻になるし、それを共時的に表現すれば、現実とは「重層的なリアリティ」であるってことになる。それは通時的に見るか、共時的に見るか、どちらか一方を採らなくてはならないって事じゃないのね。どちらがより根源的かという事じゃない。精神と肉体という図式を離れるなら、輪廻というのは、実際に魂がさまざまな肉体をへめぐる事だけである必要はなく、精神の不自由さを表現しているとも考えられるわけじゃない。不自由な思考を「身体」として表現してもいいように。

僕らはいま・ここで多層的に折り重なったさまざまの身体、すなわち不自由さ、不可避性といった「身体性」の中を、まるで輪廻するようにへめぐっている。だから解脱っていうのも「あの世」にあると同時にいまここに重なり合ってある、って考えた方がいいんじゃないだろうか。輪廻という宗教的前提なしにでも。少なくとも僕らがいまここで、ドラッグレス・トリップに出ていくのに、何らかの理由が要るとしたら、以上の意味で「身体」を離脱し、自由になるため、としか言えないんじゃないだろうか。

本当はそんなふうに「比喩」だよ、としか言えないのは、僕の弱さなのかもしれないけど、まぁいいや。この程度の事を言っただけでも、僕のことをうさんくさい奴(追記:つまりオウム)と思う奴は思うんだし、前にも言ったけど、思いこみってのも修業の大事な要素だしね。密教の修業って、ほとんど思いこみなんです。自分が動物になったと思いこんだり(これは畜生道に墜ちたっていうことの表現なのね)、何万年もの地獄の責め苦を受けているつもりになったり。そーゆう瞑想によって現実の重層的リアリティを掘り起こすのね。

前回言った「見る」ことが、修業につながるっていうのは、結局のところ、人は身体的な図式を受け入れることによって見ないで済ましているのだから、「見る」ことによってその図式を突き崩せば、それが「思考すること」につながるからなのね。盟友ってのは、図式とは異なる回路でモノを見ているのね。そして僕らにそういう回路を垣間見せてくれる人々なのね。

この号の目次へもどるバックナンバー総目次トップページ(最新情報)
感想・ご意見をお知らせください。 info@hirumas.com (C)HIRUMAS 2000

初期論集
思考のフィットネス/アイガッタ・シュンギク(1987.7)
フリーペーパー版「HIRUMAS VOL.8」より

●思考のフィットネス

この二、三年、会ったことはないけど、手紙や電話で連絡があって付き合いが続いているという友人が多い。僕自身が忙しい、忙しいといって人を遠ざけてしまっているその不精を、まわりの人たちが手紙や電話でフォローしてくれるわけだから、これは嬉しい。もっとも僕もこのよーな「雑誌」(フリーペーパー版「HIRUMAS」のこと)を勝手に送りつけたりしてコミュニケーションをはかっているわけだが。というわけで、この日はそーゆう友人の一人が電話をしてきて、前号の僕の「さらば盟友論」に批判をしてきた。この「さらば盟友論」というのはどーいう内容だったかというと、もう忘れられていると思うけど、輪廻転生の話をしたのだった。で、彼はこれはまでの僕の書いて来たことは「分からない」からよかったが、今回の輪廻転生の話は分かりすぎてつまらない、というのだった。

彼の「世の中」の安定性の一つの要素として「なんか分からない事を言う僕」というのが組み込まれていたらしいのだ。そういうふうに批判されても僕は何か間違いを指摘されているわけではなくて、それはたんに彼の世の中の安定性の問題でしかないので、僕にはなんと答えていいのか分からなかった。

分かりすぎてつまらないというのがどーゆう事なのか、これを読んでいる人には分からないだろーから、解説しておくと、輪廻転生というのは要するに彼の専門領域なのであって、そういう事には彼はもおうんざりしているのだ。そういう話題は退屈なのである。で、知識人や思想家というものは、行き詰まってくるとたいてい、そーゆう方向に走るものだというのだった。そーゆう方向というのは、つまりオカルトの世界である。そーななってしまったものはもお「読むに値しない」から、この「HIRUMAS」ももお読まなくてもよくなった!と言うのだった。

ということを聞きながら、僕は、そうか、そういうこともあるのだろうな、などと意味もなく納得していたが、というのも「輪廻転生の話」なんかすると、そーゆうふうに思われるだろうなーというのは予測していたからでもある。しかしやはり「わかった、わかった、もーいい」と言われて、自分の書いたものが読むに値しないと言われてそのことを納得するわけにはいかない。かといって、これは読む価値があるのだ!と押しつけるつもりもないのだが…。

つまり「なんなのだ?」というと、結局は分かって欲しいのである。僕の書いたことを、「輪廻転生」という箱に入れたり、書店の「精神世界コーナー」に置いたりするのではないよーにして、分かって欲しいのだ。そーゆう事を僕は書いたつもりだった。だが、ここで既に読まれてしまったものを「そーではない」などと言ってもしょうがない。僕に出来るのはその続きを書くくらいのことだろう。続きというのは常にあるのだ。

輪廻転生ということがうさんくさいのであれば、それを全部フィットネスという言葉で置き換えてもいい。ただ、そーした場合に問題なのは、輪廻転生する精神は意味を持っているが、フィットネスする身体は意味を持たないということだ。フィットネスだって意味がある、と主張する人もいるだろう、だがそれは意味ではないのだ。意味がない、というのは、他者につながっていない、ということだ。つまり身体の各部位を鍛える事は、単に自分の器官の作動の問題でしかないが、精神の各部位を鍛えるということは常に「他者性」が介在するのだ。思考のフィットネス、認識のフィットネスが、たんに嫌みな人間をつくるとしたら、それはそこに他者性が欠落するからである。だから精神が自由になっていく、というのは逆説的ではあるが、それだけ多くの他者性を身につけるということでもある。思考とは、その都度その都度の判断なのだが、それは同時に他者への表現でもあるからだ

しかし、ここではそれを念頭に置いた上で(括弧にくくって)思考のフィットネスの技術論を追求してみよう(ただしこれを追求しすぎると、思考の技術だけが目的化し自走して、他人に嫌われることは請けあいである)。フィットネスの特徴は他人は関係ないということであるが、思想史上、もっても他人が関係ないということで徹底したのは実存主義というものだった。じゃ実存主義とフィットネスは関係あるかというと、もちろんないのだ。実存主義には技術論がないからだ。実存主義というのは人間のその都度その都度の決断というものを非常に重視するわりには、そのための技術論が欠落しており、そのぶんを私小説的、時代的な気分がフォローしている、いや、していた。こーゆうものを僕は思考とは呼ばない。

僕は先回りして思考のフィットネスを批判しているが、それもそれが思考と呼ばれるに値すればこそであって、思考以前は問題外だ。というわけで○○主義というよーなものに、思考はないのだが、○○主義と呼ばれた人がちゃんと思考している、ということはまた別の問題である。ハイデガーなどもその一人で、彼はこんな事を言っている。

「(我々にとって)思考とは、差異としての差異である」

というよーなことを、いきなり言われても何のことか分からない。我々にとっての思考があるなら、我々ではない人にとっての思考もある。要するにそれは思考ではない、と言いたいわけだが、我々ではない人というのは、ここではヘーゲルのことだ。「ヘーゲルにとって思考とは、差異と差異との同一性である」つまり、ヘーゲルの思考(その都度その都度の差異づけ、および決断)は、ある根本的な同一性によって支えられている、ということなのだ。根本的な同一性の別名を「神」という。つまりあらゆる思考は神に捧げられているし、逆にすべての判断は神の意志でもある。というキリスト教的な世界観の中での思考ということである。

これを関係ないことだなどと思わないでほしい。僕らは、こーゆう同一性に似たものに取り囲まれている。僕はそれを「図式」と呼んだ。図式というのは、たとえば「精神と肉体」というような、固定された認識(差異づけ)の形式のことだ。精神と身体は別々に存在するモノではないから、それを分けて考えるというのは、ある特定の判断なのだが、ふつう僕らはそれを(特定の判断ではなくて不特定の前提として)受け入れている。そういう前提の下での思考は差異付けているようで実ハ同一性(図式)に回帰しているのだ。

では「差異としての差異」とはなにか。同一性に回帰しない思考とは、特定の判断のことであるが、この判断にはそのことがつねに明記されている。そういうふうな、つねに自分の判断を特定のものと見ることによって、じつは自分の中に埋もれている「図式」をむき出しにするわけである。そして取り除くべきは取り除き、活かすものは活かす、ということをするのが、思考のフィットネスなのだ。

ところで活かすものは活かす、と言っても、そこで行われているのは、特定の差異づけなのだから、むしろ思考のフィットネスとは、図式と無関係(図式からの自由)になることだとまで言っていいのかもしれない。

そうまで思考と図式は異なるものなのだ。たとえば思考とは現実の断念だが、図式とは現実の排除なのだ、と言える。こうもありえただろう、ということが図式の上では「事実」に取り違えられやすい。かくもありえた歴史とか、期待される人間だとか、本来の自然といったものは、すべて図式の上での抽象なのだが、そういった図式によって考えているとき、僕らは現実を排除している事になる。だが、図式ではない思考に置いては、かくもあり得たこと、というのは、実際に自分がそのように選択し、判断し、実現しなくては、事実とはならないのだ。だから思考はそれとはまた別の選択によって生じただろう現実を断念しているわけだ。だが思考は排除はしていない。排除というのは現に存在しているものを無視することなのだが、別の選択によって生じただろう現実というのはまだ存在していないのだから。

では、まとめ。思考とは(僕らにとって)図式(排除)の排除として断念であり、別にありえた現実の断念である。これが思考のフィットネスの行き着く先である。思考の意味という事はまた別の話となる。

●アイ・ガッタ・シュンギク

前回「思考のフィットネス」はそうとう分かりにくかったと思うが、ようするにそれは思考のトレーニングにすぎない、ということなのだ。それはまだ本番の試合に臨んではいないのだ。試合というのは「相手」という他者がいて、その相手との間で自分の意味(喩えて言えば勝ち負けということ)を決定する作業なのだ。だから思考もやがては試合に出ていくことになる。それが思考の意味ということなのだ。

だがここではより一般的にいって、「意味」とは他者との間に成り立つものだ、ということを言っておきたい。一人でも意味がある、という人はたぶん何も考えていない。だからそーゆう人はちっとも怖くない。単に一人でいる、というのはまた別な問題なのだが、一人でも意味がある、というのはたくさんの他人と、その他人にコミュニケートすることに意味を見いだしている自分の大部分を排除しているわけである。すでに見たように排除とは図式のなせるわざであった。図式というのはその人の根底に横たわっている安心の元のよーなものであるから、その「私―他人」という図式を崩さずにいれば、他人のことは何も考えなくてもいいわけである。かといって「私」といっても、それは図式的に抽象されたものでしかないから、これもまたとくに考えなくてはならないよーな内容もないので、結局この人はなにも考えてはいないのだ、という結論が出てくるわけだ。内容がない、というのはそーゆう事だ。

内容というのは、非―排除的なものであって、逆に内容があって、あまりに多様な内容を収束できないままに引きずっていると、普通はヘンな人と呼ばれることになる。ヘンな人は、考える人ではないが、内容の充実のために考える必要に迫られてはいる。しかし考えるのが上手ではない人、そういう人を僕は盟友と呼ぼう。だが、という事は僕はなんなのだろうか、僕は盟友との間になんらかの意味を見いだそうとしているわけではなくて、盟友を自分の思考のフィットネスのために利用しているだけではないのか。盟友の非―排除的な思考回路を自分の図式的思考の破壊のために使役すること…。

というような反省をせまったのは、内田春菊の『ユー・ガッタ・シュンギク』という単行本に収録されているマンガだったのだ。白状してしまうと、僕が盟友のモデルとして考えるのは、春菊のマンガに出てくるようなヘンな女の子たちであった。そーゆう女の子たちは「一人で意味がある」というような図式的思考はしないのであるが、意識が充実しているので、こちらに自分の意味を押しつけてくるということもなく、そーゆう点で、非―意味生成的である。そーゆう付き合い方は心地好いものでもあった。しかしおそらく盟友自身にとっては、それはどーでもいい、という事だったろう。女の子たちの方で僕に意味を求めているのでもなんでもないからだ。それでうまくいけば、別に問題はない。非―意味生成的な付き合いがまかりとおるなら、なにもいうべきことはない。

盟友自身というのはしかし、単にまだうまく考えることができないだけ、という否定的側面も持っているので、そーうまくはいかない。それは春菊のマンガのいくつかの中でヘンな意識の女の子が不幸な状況に追い込まれていく、といった事にも表れている。だったら非―意味生成的な付き合いをまかり通そう!といった「意味」が頭を持ち上げてくるのである。

ところでなぜヘンな意識の女の子たちは不幸な状況に陥るのであろーか。いうまでもなく世間というものが非―排除的な思考を排除しているからである。そもそも世間というものは、公式的見解としての社会が排除した所のものを回収するゴミ処理施設のようなものであるが、排除したものを回収すべきシステムが、それ以上に排除的なのである。なぜそーなのか、という事に答えはないのだが、世間というものは非―実体的なものであるから、もちろんそーじゃなくてもいいじゃないか、という関係は育てることができる。そういう実在的な関係を「世の中」と呼ぼう。

だが今は「世の中」ではなくて、世間という事が問題なのだった。世間というのはようするに共同的な排除であるから、非―排除的に思考している子どもはすべてそこから排除されるのが論理的な帰結というものである。いまそれに理由はないのだ、と言ったのは、「非―排除的思考が世間の存立および維持を脅かすから」その様な思考を排除するのだといったような、なにか実体的な機能主義にとられてはならないからである。じっさい、(女の)子たちの非―排除的思考に世間というものを実体的に突き崩していく力などないのである。そしておそらく世の中のこと、世間のこと、というものは、このような権力とそれに対抗するものといってマルクス主義的図式によって理解されるべきではないのだ。

さてそこで、ヘンな女の子たち(盟友たち!)は春菊のマンガの中ではたいていは非―意味生成的なままであり、そしていくつかの中ではいたたまれない不幸に陥るのだが、この「花のOLになりたい!」という皮肉な?タイトルの作品ではがらっと変わって、ヘンな女の子は幸福のただ中にいる。

ヒロインは普通のOLである。が、春菊のマンガの主役を張るくらいだから、この子もどこかヘンなのである。この子のとごがヘンかというと、この子はディスコダンスが異常に好き、なのだ。男の子との「好き」というのは、さしあたってたいていの場合、社会に対して「隠す」という図式性をはじめから持っているのだが、女の子の場合、それがない。あたりまえだ、女の子に社会性などないからだ(追記:別に「差別」してるんじゃないすよ)。しかし、それとはまた別の問題として、好きになるものの「対象性」という問題もあるのだ。男の子の好きになるものというのは、たいてい高度な専門性、限定性を帯びた「モノ」なのであって、それを「好きだ」と表現するのは、そういうモノを蒐集し、やはり限定された仲間の内で、つまりウラの社会で確認する、ということなのだ。しかし女の子は、このヒロインにおけるディスコダンスのように、モノとして切り離されてはおらず、したがってそのモノを媒介にしたウラ社会ともつながっていない。

彼女がディスコダンスを好きなのは、彼女の身体がディスコダンスをついつい踊ってしまうという意味で「好き」なのであり、その身体の作動が常に意識の先をいってしまうという点が(他人から見て)「異常に好き」ということになるのだ。このような非―排除的な思考(ダンスもまた思考なのだ)が、社会に投げ込まれるとどうなるか。というのが、春菊特異のシチュエーションコメディとして設定されるわけである。

で、どうなるか。まかり通ってしまうのだ。彼女は母親にも会社で踊ったりしてはいけないと、言い聞かされているのだが、こーゆう母親の世間を先取りするような注意も、幸福にも裏切られてしまう。なぜそーなったかというと、ポイントが二つあって、ひとつは彼女が「仕事が好き」だということなのだ。この「仕事が好き」ということは、別に先の「ダンスが好き」と矛盾しない。それが矛盾だと思えるのは、ある図式に捕らわれているからである。それは自分対社会という図式である。つまり自分に内容がないぶんを社会に対立させて穴埋めしようという排除的な思考がそれだ。仕事なんてくだらないわ、と言えば、それはカッコいいかもしれないが、やはりそーゆう仕事をさぜるをえずにいる「自分」はもっとくだらないのだ。そーゆう仕事をしている自分を断念して、新しい自分に「なる」というのが(図式ならざる)真の思考というものなのだ。

ふつうのOLというのは、仕事はくだらないという図式を持っている(図式の怖いところは、仕事がキライ、ではなく、くだらない、と言って現実の上ではなく、観念の上で排除を行うというところだ)が、同時に世間の一員としても作動しているので、そのくだらないと思っている仕事のマニュアルだけは頭にたたき込んでいる。しかし「好きこそものの上手なれ」とも言うように、頭で考えて取り繕おうとするOLたちは、OLの仕事が好きな彼女にかなわないのだ。

というわけで、仕事が好きなんていうバカは、計算上手な頭のいい人たちに嫌われることになるのだが、おそろしいことに、そこは本来仕事をする場所であるにもかかわらず、仕事好きな彼女が排除されるのである。とはいえ世間的な排除というのはなんら実体的な効力を持つものでもなく、ようするに陰険なだけのものであるから、彼女は世間がそーゆう関係性のゲームに夢中になっている間に、(その仕事の技能によって)既に「社会的に」認知されていたのである。

ここで彼女はOLたちの頭を飛び越したことになる。しかし、それだけならどーという事もない。仕事が好き、なんてヘンな子ね、ということでしかない。やがて彼女は会社にいるときも踊りたくなって、つい身体が動いてしまうのだが、多かれ少なかれ図式的な思考が、会社という場所と自分の私的な場所との分割に応じて自分の思考そのものをも変容させているのに対して、彼女の非―図式的な思考は、その様な不健全な分割をしないので、会社での身振りをダンスにしてしまうのだ。

これにはウラづけがあって、彼女はディスコのコンテストで優勝するのだが、その場に会社の上司、同僚、母親を呼んで、ダンスという彼女の部分を認知させる。これがウラづけというのは、さっき男の子の好きなモノはウラ社会につながっている、と言ったことにひっかけているわけだが、この場合は、優勝はウラづけにすぎないのであって、あくまでも彼女の非―図式的な思考は好きな場所で好きなことをする、という快楽に向かっているのだ。

ラストで彼女はダンスしながら仕事をするという幸福に浸っている。ウラ社会であれ、オモテの社会であれ、そこで限定された才能を訓育するということは意味生成的な関係を築くということであるが、幸福にも彼女の実現したのは非―意味生成的な関係である。これは二重の意味での認知が偶然にも作用したためであったが、そーゆう偶然を作品に配置した春菊には明確な意図がある。それが非―意味生成的な関係をまかり通そうということである。

すなわち、そこにはいまだかつて示されたことのないようなサンス(意味=方向)が示されたことになる。それは春菊のマンガ自身についても言えることだが、つまりそれまで積極的にストーリィというものを展開してこなかった彼女がはじめて(しかも外挿的にではなく内的必然的に)示したサンスなのだが、それは今はどーでもよい。僕にとって肝心なのは、ただ逃走的に非―意味生成的な関係を求めるだけではなくて、自分からそういう関係を切り開いていく、ということが、なんら間違ったことではないという確証が得られたということなのだ。

というわけで、これまでただ盟友を「見て」いただけの僕は、そうではない、盟友自身もまた幸福になれるような関係をめざしていこう、と思うのだった。

この号の目次へもどるバックナンバー総目次トップページ(最新情報)
感想・ご意見をお知らせください。 info@hirumas.com (C)HIRUMAS 2000

初期論集
夢見る力〜知のソフトウェア(93.2.22)

フリーペーパー版「HIRUMAS VOL.13」より。なお執筆当時はインターネットの「イ」の字もなかったことを改めて付記したい。

・・・・・・・・・・

(前文省略。この「月刊ひるます」は例によって「ワカラン」という反響があったのだが、)論文もソフトのように、実際に人が使ってみて「分かる」というようなものにならないものだろうか?

 それに関して思うのはインタラクティブという事である。インタラクティブってなんだ?というと要するに相互作用的というか、対話型のメディアの総称で、そう言うとムズカシク感じるが、例えばファミコンなんかのケームはすべて、プレーヤーの働きかけがなければ何も進まないという意味で「インタラクティブ」なわけである。つまり従来あったメディアというものは何か「完成された」ものを一方的に受け取る側に流し、受け取る側はそれを「解釈」や「鑑賞」するだけで、それに「介入」する事はできなかったが、インタラクティブなメディアではそもそも「介入」がなければ、何も成立しないという事になる。

 例えばゲームブックというのがある。これは小説なのではあるが、自分でその都度選択をすると「○ページへ進む」などとあって、その順序に読んでいくと、自分だけのストーリーが作られるというものである。要するにシミュレーションゲームの文庫版だが、この小説にはどこにも「完成品」としての作品というものがない。つまりどのような「選択」によって読まれた作品が正しい、という事は言えないのだ。もちろんケームであるから途中で死んで負け、と言うことはあるとしても「小説」としてみれば、それもひとつの作品である。

 また先日TVで、海外のドラマを2つの民放で同時に放送するというのがあった。知っている人もいるだろうが、これは同じストーリーを2つのアングルというか視点でとったものを2つの局で別々に放送し、見る側はリモコン操作によってその時その時の自分が見たい視点によって見る事が出来るようにした、というものである。これはその2本の別々のアングルによる作品がオリジナルだと考えられるかもしれないが、そうではない。なぜならこれこそオリジナルというものを「見る」ことは誰にも出来ないからだ。それは一本一本を別々に見て、「全部見た」というような「量」の問題ではない。そういう見方は無限にある受け取る側の介入のうちのほんの一つの局面にすぎない。つまりここでは作品は完成されたものとしてあるのではなく、個々人にとってのそれぞれの「事実」としてしかない、というほどの内容なのかどうかは見ていないので知らないが、ここに来て、そういうメディアがどんどん増えているように思われる。

 このことが何を意味しているのか、というと、一つにはメディアにおいて絶対的な創造者というものがなくなってしまった、あるいは極めて少なくなってしまったという事があるだろう。手塚治虫以後、と言ってもいいかもしれない。もちろん手塚というのは象徴だが、創造者の絶対性というものがなくなると、受け取る側としては「あそこはちょっと違うんじゃない?」とか「ラストが気に入らない」なんて事を言い始めるわけである。つまりそこではそれぞれの個人がすでに「小さな創造者」として、いわば作品を再創造(リメイキング)しながら受けとっているわけだ。

 例えば佐藤健志という人は『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』という本のなかで、彼の見た作品があまりにも破綻しているため、「作品を破綻させないための二十の法則」というものを掲げているのだが、それはいわば大創造者の消滅に対する嘆きと言ってもいいだろう。しかし破綻がなければ優れた作品になる、というわけでは全くないのであってみれば、彼自身の試みもまた「小さな創造」の一つに留まる。 してみれば、ともかくここで肝心な事は、明らかにメディアにおいて「個体化」という事が進んでいるという事だろう。ようするに単にひとの考えを受け取っているだけではイヤだ、という極めて当り前のことにみんなが気づきはじめているのだ。このことは、すべてのメディアはインタラクティブ化すべきだとか、古典的なメディアはもうおしまいだとかいうような単純な話でもない。

 例えば優れた芸術作品がなにゆえに優れているか、と言えば、それを受け取る側の強い共感、感情的・知的な関与を引き起こすからだろう。こういう状態にある時、人は「これは他人の考えだからイヤだ」とは思わない。なぜか、と言えばそれはある意味では「自分自身の」考えだからである。そしてそれは「まだ自分では気がつかなかった」自分の考えなのだ。矛盾しているように聞こえるだろうが、無意識論的に言えば(ハハ)、そこでは自分の無意識かその作品を「創造(クリエイト)」しているのだ(これに対して作品に共感できずに、このほうがいいのではないかなどと「意識的に」作る事をリメイキングと呼ぼう)。そこには無意識的なインタラクティブな関係が生じている。つまりメディアの仕組みとしてインタラクティブなのではないが、そもそも優れた作品というものは、内容的にインタラクティブな契機というものを持っているのだ。

 結局問題はメディアのジャンルでも形式でもない。ものを作る側と受け取る側という分け方にすら意味はない。いまや誰もが自分自身の「個人的な創造力」、つまり「夢見る力」を問われているのだ。

この号の目次へもどるバックナンバー総目次トップページ(最新情報)
感想・ご意見をお知らせください。 info@hirumas.com (C)HIRUMAS 1997