盟友論・続盟友論・続々盟友論(1987.1)
フリーペーパー版「HIRUMAS VOL.6」より
●盟友論
盟友とは何か、ということについてはカスタネダが「ドンファン」シリーズの中で言っていた。
いや、正確にはドンファンが言ったのだが、カスタネダを知らない人のために解説しておくと、カスタネダはマイナーな文化人類学者で、あるアメリカインディアンの社会にフィールドワークに入り、その社会でドンファンと呼ばれている呪術師の弟子となり、その呪術を学んでいく、というのが「ドンファン」シリーズなのだけど、なぜいま彼を「マイナー」と言ったかとゆーと、この「ドンファン」シリーズは書店での扱いが文学書になってんの(87年当時のことである)。つまり文化人類学者の書いた小説、という扱いなのね。カスタネダ自身は最後に総括の章なんかつけてるし、一応の学問的な体裁は整えてあって、要するに普通に考えれば、「ドンファン」シリーズとは、文化人類学的ルポルタージュなのだ。が、それが、なぜ小説になってしまうかというと、体裁(スタイル)が学的であっても内容が学的とは認められないってことね。認めない主語は文化人類学者の世界っていう曖昧模糊としたものなんだけどさ。で、彼カスタネダも一人の文化人類学者であり、文化人類学上での仕事としての作品が、自分の所属する世界から拒絶されたわけだから、彼は「マイナー」なのね。
「マイナー」ってそれだけの事でしかないんです。価値概念ではないってことね。マイナーだってことは、別に卑しめられることでも、エライってことでもないんです。マイナーだから好きっていうファン心理は分かりますけど、ね。だってマイナーなものは、あなたの好みをズバリ代表(表現)しているわけだもん。他の誰・彼ではないあなたの表現がそこにある…。まぁ、そこにあるのは、あなたの、じゃない他人の表現なんだけどね。それはあなたを代表している。代表ってのは代理で表現するってことです。でたらめ言うんじゃないってホントよ。
逆にメジャーなものは、あなた以外のずっと多くの人にも「分かる」表現をしている。一種のファンであるあなたは、と勝手に決めてかかってんだけど(再録時の注:ほんと、なんで決めてかかってんだ?…)、メジャーなものを好きな人をバカにしてんだけど、そりゃメジャーなもの「しか」分からなかったら、ホントにバカだけど。ひと(他人)って、それぞれそれなりにマイナーな世界に生きてるもんでさ、それはほとんど、人間って孤独なんだって言ってるよーなもんだけど。孤独なくせに誰でも参加できる世界に入っていくのには抵抗があるんですね。
あるいはメジャーなものという媒介がかったるいんでしょう。と、言うのもメジャーなものというのは常に「直接性」の破壊ということを経過しているから、なんです。なにを言っているのか分かりにくくなってますが、僕らの表現というものは、さしあたって大抵の場合、隣近所のあるいは家族の誰・彼に対する直接的なものです。こーゆうレベルでは表現にメジャーもなにもないです。それは単にローカルなんです。ことはそーゆうローカルな地平を越えていく時に問題になるわけで、いわばインターローカルな場所においてはじめてメジャー・マイナーということが問題になる。
インターローカルな場所では、いわゆる直接な表現(誰・彼に対する表現)というのはないんですが、直接性ってのはあるんですね。その場合の直接性っていうのは「自分には分かる」って事ね。だから直接性の破壊ということを契機として含まない表現においては、分かる他者とは要するに、肥大した自分なのであって、したがって自分以外の人間が明らかに存在しているこの世界においてはマイナーであるしかないのね。
マイナーな表現はだから、肥大した自分にのめり込んで来る人間を待っているしかないんです。逆に言うと「誰にでも分かる」ためには、いったん自分の中に有る直接性を破壊していく必要がある。それを勉強と言います。そういうのも勉強っていうんです。勉強っていうのは内容に関する概念ではなく、方法に関する概念ですから、どーゆう対象に使用してもいいんです。あーあ、こーゆうことが子どもの時に分かっていたら、もっと勉強好きな子になっていただろーに、とお思いでしょうが、まったく同感ですね。どーしてこうーゆう事を教えてくれないんでしょうね。
学校の勉強って要するに興味のない対象を押しつける事だからつまんない。僕がまえに美校<セツ>にいたことは書いたけど、そこの校長<セツ>は、デッサンは重視していないなどと言いながら、昇級の試験にデッサンさせてたんですね。デッサンって自分の肉体を機械にして、対象を描写する訓練の事だから、普通の状態とはまっくた別のモノの見方をする必要がある。一般の人は、つまり美術的な訓練を受けていない人は、いわゆる美術的という事ととは、普通の日常的な見方を美術的にデフォルメしていく事なのであって、その場合の「普通の日常的な見方」とは、客観的な見方なのだ、と思いがちなんですが、それが間違っているのは、僕らは普通日常的に客観的な見方なんかしていなってこと。
この学校<セツ>でいちばん最初にやるのは、人の顔を「見たまま」に描くってことなのね。これをやると自分が普段どれほど私的なものの見方をしているかってのが分かる。美術的にデフォルメもなにも、はなっから自分の「認識する身ぶり」客観性とはかけはなれている。つまりその認識は「自分には分かる」という直接性に埋もれているんですが、こーゆう直接性をまるごと認めてしまおうってのが、美学上のプリミティズムというわけ。なーんてタメになるんでしょう。
プリミティズムでうまくやれる人に学校なんて必要ないですが、(我々はそーじゃないので)勉強をはじめます。デッサンですね。デッサンは直接性に埋もれた表現を引き剥がすのです。自分の今までの見方とはまったく違う見方を「手」に強制することによって。そうすることによって「自分の世界が広がる」と彼は言ったんですが、ということはデッサンはある否定的な意味しか持っていないってことになるのではないでしょうか。そうだ、というのが彼の答えです。ふつう入門的な美術の世界ではデッサンをすると絵の構図が良くなるなどという通念があって、なんとなく信じきってたんですけど、考えてみるとそれはなんの根拠もない事ですよね。セツがスゴイのは、デッサンと絵は関係ないとまで言っちゃえることね。デッサンは彫刻(三次元の表現)の技術だって事。それを二次元でやろうってんだから、どだいムリな話なのね。ムリを強制するから、かえって見方を変えるにはちょうどいい。
というわけで、よーやく僕らは直接性という保護膜から抜け出て外界に出てきてしまいました。外界では僕らはまだ他人に通用する言葉をもってません。僕らの表現はまだ自分にしか分からないから、です。そこで誰にでも分かる表現を身につけるという訓練をしなくてはならないのですが、もちろん「誰にでも」なんて事はありえないのであって、分かる人の限界線がひかれる事になりますが、その線に応じてさまざまな世界があるわけで、それが世の中ってものです。
世の中って人と人との組み合わせのことです。昔はこれを「世界は社会的諸関係の総体である」と言いましたが、もはやそーいう言葉では何を言ってんだか分からないですね。世の中が人と人との組み合わせだって事は、世の中は無限のシャッフルだって事よ。広い組み合わせ、狭い組み合わせ、深いの、浅いの、うまくいくの、うまくいかないの、緊張するの、気が置けないの、創造的なの、破壊的なの、などなど。うまくいかない時は「組み合わせ」を変えればいいんです。別に僕はうまくいかないとこは別れなさいなんて言ってないですよ、念のため。うまくいかない二人に子どもができたらうまくいったという「子はかすがい」というバカげた話だってあるんですが、これだって一種の組み合わせの変更でしょ。親と縁を切るわけじゃないけど、とりうえずは家を出るとか。家を出て別の世界を経験するのだって、組み合わせの変更。それは逃げじゃないかって声も聞こえてきそうですが、世の中に「逃げ」というのはたったひとつしかないんです。それは何かっていうと、組み合わせをやめることね。純粋に自分だけの世界にはいっゃうこと。それ以外なら、たとえ分析医としか関係がなくても「組み合わせ」の中に自分を見つけようとしている努力を認めるべきだろう。たぶん彼は「逃げて」はいないのだ。
というわけで、まずもって勉強の始まりは「直接性」の破壊でしたが、次はそういうふうに引き剥がされてきた表現を人と人との組み合わせである「世の中」において見ることであり、そうして獲得した自分を再び破壊し世の中に提出していくというフィードバックの繰り返し、なのだ。
さて、とんでもない話になってしまいましたが、マイナーな文化人類学者の話でした。彼は文化人類学という世界に通用する言葉を身につけ、つまり学者としてひとりだちして、その世界に自分のフィールドワークをレポートしたんですけど、その「内容」は誰もが認められるものではなかった。その内容は「文化人類学者」には分からなかったって事。「ドン・ファン」シリーズは文学にでもして出版しておけばいいってことになったんです。このままなら彼はただのマイナー学者です。が、彼は別な世界でメジャーな時の人になってしまいます。彼はドラッグ文化の精神的・思想的な支柱にまつりあげられてしまうんです。「ドン・ファン」はまず、ドラッグによって世界の見方を変えるというようにドラッグを肯定していたからです。
●続盟友論
文化人類学っていう学問もヘンな学問で、何がヘンかっつーと、まず文化人類学ってなんなのか知らない人もいると思うので説明しとくと、文化人類学ってのは前近代的な民族の社会構造とか文化の特徴などを実際に「現地」に取材してまとめるという文化なのだが、そのような研究がなんの役に立つかというとそれがよく分からない。ようするにそれは「すばらしい世界旅行」と別のものではないのね。珍しいものが世界にはこんなにありますよ!って言ってんのね。
文化人類学がやった事ってのは、それまでの人間についての学問が、つまり哲学・心理学といったものが、西ヨーロッパ及び北アメリカという限られた地域の歴史と文化を前提として成り立っていたのに対して、非西欧的な文化圏の人間の精神についても考えなくてはならない、という方針を打ち出したことね。そこまで来たら次は当然文化・精神上の相対性理論なんだけど、そーゆうふうに思えるのもあなたが日本人の証拠よ。相対性理論ってのは十年前までは分からないものだったんだけど、今は誰でも知っているものです。つまりそれは「やつらにはやつらの神がある」ってことなんです。中心は一つではないってことですね。ところが文化人類学なんてややこしい学問を考え出したのは西洋人ですから、そうはいかないんですね。中心はオレら西洋人なんです。
人間って西洋人のことなんです。それ以外は「人類」なんですね。だから通常の人類学ってのは動物学の延長線上にあったわけ。ところがその動物学上の人類である彼ら未開人の人々もなんかオレらの文化と似たようなものを持ってんじゃないの、というわけで人間以外の「人類」たちの文化を考える学問ってのが出てきたわけ。非西洋ってのが歴然と存在を主張し始めたので、それについて考えてあげなくちゃいけない。って、それはいいんですけど、その場合の前提は「彼ら」は間違っているってことなんです。「やつらの神は間違っている」ってことね。
相対性理論に立つなら「神はある」でもいいんです。逆説的ですが。ところが文化人類学は西洋人の西洋人による西洋人を基準とした思考方法ですから、キリスト教の神以外に「神があって」はいけないんです。だからフィールドワークに入った文化人類学者は、その土地の神を信じる・信じないということは別にして、彼らの文化的、宗教的、精神的生活の構造(なりたち)を調査する。ようするにそこで問題なのは、彼らの宗教の実体的内容ではなくして、記号的関係にすぎません。つまり神の内実(というものがあったとしての話ですけど)ではなくて、それが一種の記号として原住民の生活の中でどーゆう働きをしているか、って事が問題なわけよ。とゆうわけで、構造主義と記号論が抱き合わせで流行したわけですね。なーんだとお思いでしょうが、そういうことです。
というわけで、もうおわかりでしょう。カスタネダがマイナーな文化人類学者であり、かつメジャーな教祖的存在となっていくわけが。カスタネダはインディアンのドラッグ文化に触れてその「内実」に入っちゃうのね。ドラッグという神の世界に。だいたい、ドラッグの記号関係なんて調べてもしょうがないでしょ。ドラッグはやるっきゃないんです。そしてさらに「文化人類学者」たちにとって危険なのは、未開の文化はその土地にしかないものですけど、ドラッグは自分の足下にもあるってことですね。しかもドン・ファンのドラッグは逃避的なものではなくて積極的な「生き方」としての文化なんです。そっちの文化に入っちゃえば、今度はそのドン・ファンの文化が基準ですから、いままでのように西洋の方から「見下す」ということは出来ないんです。人間の文化が、たかが「人類」の文化に飲み込まれてしまう危機なんです。
ところがこれは一方のドラッグ文化の人たちからみれば、救世主の出現にも思えるってのは、自分らのやってるドラッグの「道」を示してくれるからね。ドラッグやってたって「道」を求めてんです。というか道を求めてドラッグやってたんでしょ。いまこの目的も何もない、ただ流されているような暮らし、そうではないものがどこかにあるはずだ、と思って覗いて見るわけでしょ。いや、ただ快楽を求めてんだって言うかもしれないれけど、生きる目的に快楽をおいちゃいけねーのかって言えば、なこととはないわけで、「もう人間やめちゃおう」と言ってもいいんです。人類の文化はもっと奥が深いものだったんですから。さてここでようやく書き出しにつながるわけですね。ドン・ファンが盟友についてどう言ってたかってことに。
ドン・ファンの教えというのは、ところで、宗教ではないのね。ドラッグを使って神秘的な体験をさせて入信させるってインチキ宗教は多々あるらしいけど、ドン・ファンの場合、ドラッグはあくまでも「知る」ための手段でしかないのね。「知る」ってなんなんでしょうか。「知る」って「出来る」ってことなんですね。ある情報について知っているということが現代では知っているということになるんですが、現代は情報がモノの形をとらずに、いわば中空に浮いているように「存在」しているのであって、そういう情報を「知る」ということは、言葉としての意味を失っているんだよね、はっきり言って。というわけで今や意味ある「知」とは、その本来の意味である「出来る」ということなのね。出来ない事は、はっきり知らないんだと言うことにしよう。
そこで、何も知らないってことは、何も出来ないってことになるわけですから、生きていくには「知ら」なくてはならないんです。ところで「知る」ってことにもいろいろなレベルがあります。さっきの言葉でいうと、知るということが通用する様々の「世の中」がある、ということですね。狭い世の中でだけ通用する「知」、もっと広い世の中に通用する「知」、といった次第で、ま、普通のことが普通に出来ているうちは、「知」なんて関係ないと思って生きていられるわけではありますね。
もっと言っておくと、きちんとモノゴトをできる人は、「知者」のような顔はしていないものなんですね。本当に知っている人(出来る人)と、人が出来ることに「ついて」知っている人(情報を引き出す人)とは違うんです。というわけでドン・ファンもその社会の中では目立たない存在なんです。呪術という生きていくための技術は、一般の世の中には隠されているんですね。カスタネダがドン・ファンの弟子になったのは、ほんの偶然だったのね。
さて、呪術の修行ですけど、これはようするに「知る」ための方法ですから、ドラッグを使用するといっても、それによって快楽にひたるのではなくして、ドラッグによって普通ではない状態に入り、その状態で普通では知ることができないことを知るわけ。それは単にドラッグを使えば知ることができる、なんてもんじゃなくて、「技術」(実際に身体を使って出来る事)なんですから、指導してくれる人が必要になります。指導なしでドラッグするのは危険なんです。ゲーゲー吐くくらいはまだいい。意識失ったまま帰らぬ人になったりね。導師(グル)がいれば、ドラッグやってもいいんです。でも日本にはもちろんそーゆう人はいませんから、ま、やめといたほうがいいんです。私も一介の合法主義者ですから「ドラッグのススメ」なんかしません。じゃ、僕らは永遠にドン・ファンの教えに近づくこともできないのか、とゆーと、んな事もないよ。というのが、この「盟友論」のテーマなんですねぇ。
ドン・ファンはさまざまなドラッグを使ってカスタネダを導いていくんですけど、その際に、その時使うドラッグをその性質に応じて「擬人化」して呼ぶのね。ある種のドラッグは「師」であり、あるものは精霊、悪魔、そしてあるものが「盟友」と呼ばれる。
さて盟友と呼ばれるドラッグの性質とはどーゆうものか。
「盟友は人がだれも啓発できないものをお前に見せ、理解させてくれるだろう」というのだ。そして盟友の力とはあくまでも補助に過ぎないものなのだ。つまりそれは「ふつう人には見えない」ものを見せてくれる力なのね。ところがドン・ファンは、それは補助なのだということをえらく強調するのね。で、実地訓練が進んでいくと、ドラッグを使わずに「見る」という段階に入っていくのね。だから肝心なことは「見る」って事。
「見る」ってなんなんでしょう。さっきからなんなんでしょうばっかで、すいませんが。さっき僕らが普通日常的に見る仕方について、ぐーぜんにではありましたけど話題にしました。僕らは極私的に「見て」いるのでした。でもそーゆう僕らの極私性があらわになってしまうのは、その個人的な「見方」をそのまま「腕の動き」に変換すればこそ、なのでした。普通日常的に僕らがこれほど個人的でありながら、なおたいして問題を生じない、というのは何故なんでしょうか。なぜならば、僕らが通常、「見る」という能力にたいして重きをおいていない、という事に尽きるのではないでしょうか。「見る前に飛べ」という言葉がありますけど、むろんこの言葉は観念より行動だという一昔前のテーゼなんですけど、その主張については「おっしゃるとーりで」というしかありませんけど、ここでは飛ぶというのは行動だが「見る」というのは行動以前だということになっているのが気になります。ドン・ファンによれば「見る」っていうのは行動、しかも高度な技術を必要とする行為です。
というわけで僕らは「飛ぶ前に見る」ということからはじめなくちゃならないんですね。なんといっても僕らは「見る前に分かる」ということばかりして「見る」ということをおこたって来たんですから。言葉や観念で「分かる」という事が、僕らが「見る」技術を蔑ろにしたまま、個人的な「見方」のまどろみの中にいるということを忘れさせていたわけ。くどいようだけど、ドラッグは客観的な見方を変容して幻覚を見せるのではなく、「分かる」という観念の作用を静止して個人的な「見方」を覚醒する、のね。覚醒剤ってのはそーゆう事。
●続々盟友論
というわけで、僕らはさしあたってたいていの事は「見ないで」すましてるわけね。それを今、観念の働きというふうに説明したけど、そー言っちゃあんまりおおざっぱなところもあんのね。「観念」には「観念」のいいとこ(力)もあるのよ。だから「見ない」ですますのは(もっとちょっとレベルの違う問題だから)「環境」の力、と言ったほうがいいのかも。
環境の力という事で、「見る」能力と関係あるのは、テレビね。別にテレビがよくないっていう話ではないけど、テレビ的に「見る」能力が限定されてしまうのは仕方がない。(以下中略:よーするに解像度二百本程度の画像で、物事が「分かる」という世界にならされているということ。これに対してハイビジョンはモノのリアリティの表現力が画期的に高まると考えられるが、結局はハードウェアを変えれば、「見る」ということが、どーにかなるというという問題であればそれは「慣れ」の問題でしかないんだから、たいしたことではない…)
で、(修業すればいいってことになるけど)どーやって「ヤク」なしで訓練するのか
ってことです。あ、ちがった。「ヤク」なしじゃなくて、「グル」なしで、でした。つい願望がでてしまいました。グルがないのはどーしようもないです。はっきり言って。グルが本当に必要な時は向こうの方からやってくることになってるそうです(カスタネダが偶然にドン・ファンに出会ったことを思い出してください)から、まご安心を。それまでは自己流に「見る」訓練をしてください。グルなしでやっていいんですか?いいんです。「ヤク」使わなきゃ。「見る」ってことに関しては「ヤク」使わなきゃ何したっていいんです。
では「ヤク」なしでどーやって訓練するんでしょう(今度はこれでいいのね)。とりあえずは自分で「見る」しかないんですが、ムキになって見ようとしても、嫌なものしか見えてきませんから、やめといた方がいいです。それよりは「盟友」を探すことです。盟友とはドラッグの力を擬人化して表現したものでしたが、生身の人間にも盟友っているんです。生身の「師」はまずいないですけど。生身の盟友って人間の潜在的な解像力(見る力)が一万本以上あるってのが、自分の身体で分かっちゃってる人のこと。そーゆう人をそばにおいとくと、ほんとに色々なことを見せてくれるんですね。そして僕も自分で「見る」ように努力するようになるんですね。
僕は異常なほどに観察力がなかったんですが、ここ二、三年の間に数人の盟友たちと出会い、飛躍的に観察力がついてしまいました。そーゆう事ってあるんです。だから僕は普通の友達はもちろん大切にしますけど、こーゆう盟友たちを大事にしてるんです。盟友だなんて大袈裟な、てめぇに観察力がなさすぎたってだけの話じゃないか、って、ま、そーなんですけどね。でも観察力がないおかげて、いい盟友と出会えたし、「知る」とか「見る」ということが、どーゆう事なのか、普通に観察力があるやつよりずっとよく「分かった」しね。やっぱ盟友には感謝するよ。
ところで「盟友」ってのは、そもそもは擬人化の表現だったんですが、ということは「盟友」は関係概念だということです。関係概念ってなんでしょう。関係概念ってのは実体概念じゃないってことね。盟友という実体が(そのものが)存在するわけではないってことです。盟友はモノではないんです。盟友ってのはある関係の中でだけ、その都度その都度の瞬間に存在するんです。ある人が盟友だとしても、それは限られた瞬間の事なんです。僕にとって盟友である人があなたにとっても盟友であるとは限らない、ってことです。というわけでドン・ファンも言ってます。「盟友は世界中にたくさんある」が、彼は「そのうちのほんの二つと親しんでいるだけだ」と。その人にはその人の性格に応じた「盟友」がある、ということね。
というわけで、盟友は関係の表現なんです。盟友とつきあうって事は関係とつきあうってことだから、難しいんです。僕が盟友を大事にするって言ったのは、そーゆうことなんですね。とすれば、それは人と付き合う難しさと一緒なんだけどサ(本当は)。でも普通の人とつきあうのにさんな風に「難しく」は考えないでしょ。結局盟友ったって普通の人なんです。でもあなたがその人に「盟友」を見つけなかったら、その人が盟友である瞬間は過ぎ去ってしまうんです。だから目を凝らしてよっく見る必要があるんですけど、な事したら、普通の人であるその人は何事かと思うでしょうね。というわけで「難しさ」は分かっていただけたと思いますが、ではどーすればいいんでしょうか。
とりあえず身の回りの人たちを「普通の人」だと思うのを止めるんです。周りにいる人は、実は何かとんでもない能力を隠しているんだと思ってください。なにをSFじみた事いって…とお思いでしょうが、この「つもりになる」って事が密教的な修行においてはもっとも肝心なんです。そーすれば少しは他人を見る目ができるでしょう。そしていよいよ盟友を見つけたというところで、盟友とのお付き合いが始まるわけで、それからがまた大変なんですが、それからのことはまた、あなたがそーなった時にご指導するとして今回はこれまで。ま、がんばってください。
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