
96.11.29
前の項で書いた自民党の予算ぶんどりの件だが、ようやくTVなどでもとりあげられているが、このことについての自民党の議員たちのインタビューを見てさらにあきれたのは、この予算の恣意的な分配を当然のように言っているのが自治大臣でもある男だということだ。「自治」という言葉の意味も分からないような男を「自治」大臣にしているのだよ、わが国の政府は!
橋龍は、行革行革といいながら、問題を「官僚の倫理」の問題にすりかえようとしているが、そもそもの問題は自民党のように予算を恣意的に分配し、そこに利権を発生させてしまう「政治性」ではないか。厚生省の汚職とこの自民党の「予算」にまつわる思惑が同じ根にもとづくことを、いみじくも菅直人は指摘していた(ニュースステーション)。
さらに言えば橋龍と加藤幹事長が「行革」と言うことで今、現実にやろうとしているのは、じつは「予算編成権を官僚からとりあげて政治家のものにする」ということである。これは新聞のとくに解説もされない記事を順を追って読んでいけば分かることである。予算が政治家の独占するものとなった未来の姿がどうなるか、ということは今の自民党の論調を見ていればわかることだろう。こんな「行革」ならもちろん必要もない。一利もない。そしてなにより論理がないのだ。
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96.11.27
あきれた。
今日の読売新聞朝刊だが、まあ昨日から載ってはいたのだが、自民党が「新進党が勝った選挙区の県」への予算配分(補助金)を減らすべきだと、おおっぴらに語り、その方針を「確認した」という記事なのである。
ここに自民党が国家の予算をどう考えているかがあからさまに出てしまっていると思うが、それを通り越してあきれ果ててしまう。こんなことは、どう考えても「ウラでこっそりやる」ということでしかない。それをおおっぴらに「確認」したりするのは、はっきり言って狂っているのではないか。
しかもこの行革が叫ばれている時期にである。ここにあらわになっているのは、予算の立て方になんの論理性もじつはなかったということであり、そのようなコネによる予算配分・ぶんどり合戦は、汚職の温床にもなるということである。
もはやこれは「政治」ではない。やくざである。かつてソ連崩壊後、ロシアは「マフィア経済」と悪口を言われたが、今の日本はまさに「やくざ社会」ではないのか。
はっきり言って選挙結果で予算配分をかえるというのなら、消費税は自民党が勝った県の県民のみが払えばよいということになるではないか。
その自民党のボス、橋龍だが、先日の小泉厚相による「次官の辞表受理」を判断ミスと認めたようである。これは先日オレが書いたとおりで我が意を得たりだが、いまさら橋本がこんなことを言い出すのは、どうせ「自分の身の安全がほぼ大丈夫」という見通しでもついたか・つけたかしたからだろうと、勘ぐらずにはいられない。捨てられた小泉という男が哀れでさえある。 目次へもどる
96.11.26
哲学の話である。
前に永井均氏の「子どもの哲学」を読んだと書いたが、同時期に同じ講談社現代新書から出た渡辺恒夫氏(いわゆるナベツネではない)の「輪廻転生を考える」を読んだ。二人ともに、同じ問い「私はなぜ・いま・ここにいる私なのか」というものから出発している。
渡辺氏の議論は永井氏の議論よりも「私(ひるます)の関心」に近いものがあって、面白く読んだが、そこで主張される「遍在転生説」なるものは、氏がいうほど目新しいものとは感じなかった。私の「師匠?」でもあるモロネ(仮)という人が、すでに私にあきるほど言って聞かせていた話だからだ。同じ様なことを考えてる人がいるのは、うれしいことではある。
しかし、この永井・渡辺の両氏とも、「私」が、「私」であって、なぜ他の誰かではないか?ということが、根本的に問題として感じられているようなのだが、私にとってはこの手の問いは、「なぜ私は私として生きているのか」というように、「生きている」ことそのものへの不思議として感じられる。
他の誰かであったとしても、やっぱりその他の誰かとして生きて、自分を意識するとき「私は私」でしかないと思うからだ。とすると、問題は「なぜ他の誰かではないか?」ということよりも、どの人間であれ、動物であれ「なぜ生きている」ということが、ありうるのか?、「生きている」ことそのものが不思議だということになるではないか。かの二人は「哲学者」だから、哲学的に考えてしまうのかもしれないが、あるいは「生命の発生」がすでに科学的に説明がついた、というような前提にたっているのではないか。私は全然そのことに説明がついたとは思っていないのだが。
ともかく、詳しく書いているヒマはないが、それをマンガで書いたのが、肥留間氏の魔法の本・生命論ブックガイドなのである。先日も紹介した山口實氏の「生命のメタフィジック」がもっとも参考になった。このへんのことはいずれくわしくまとめてみたい。
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96.11.23
いゃー、厚生大臣「小泉氏」だが、とんでもない口先だけのふぬけだったね。
次官の退職願受理は「切腹」に当たり、受理しないで懲戒などすることは「引き回し・獄門」に当たるのだそうだ。(それで小泉氏はいさぎのよい切腹のほうをとったのだという)。
なにをわけのわからない妄言を言っているのかと思うが、このような妄言(現実の対応物をもたない言語)を弄することからして、この人がいままで言ってきた郵政事業の改革というものも、妄言だったわけだと納得した。つまり「どうせ(改革が)実現できるわけはないのだから、実現できないことをただ言っているだけなら、自分の身分は安泰だ」ということだろう。「表ではいろいろ言ってますけど、自民党としては(改革は)やりませんから、(郵政事業改革によって既得権を失う自民党支持者の方々もぜひ)ご安心を」というわけだろう。あまりにもうすっぺらではないか。
今回の収賄疑惑について言えば、さまざまな対応について「まだ発覚したばかりでなにもはっきりしていないのだから、対応についてはこれから考える」といっておきながら、受理については24時間で決定してしまっているのだ。この「受理」のみがなぜ特異的に迅速に対応されねばならなかったのか、その理由をはっきりさせろと言いたいわけだ。まあ「(はやく決着をつけて災いが自分の身にまで及ばないようにするという意味での)自己保身」のためとは言えないだろうから、「判断ミス」としか言えない状況にあるわけで、だったら早いところその「ミス」を認めてあやまったほうがいい。受理したら懲戒免職にできないなんて知らなかった、とか言って。その方が傷は浅いのではないだろうか。当然国会ではこの点も追求されることになるだろうが、それこそ自分が「ひきまわし」にならないようにされたい。
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96.11.22
あの「生命のメタフィジックス」の山口實先生の最新情報。
私が知らなかっただけなのだが、「宣伝会議」という雑誌に「ユング心理学からみた気質論」を中心とした「ミネルバの森の哲学教室」のシリーズが、連載されていたらしい。で、近々これが単行本にまとめられるらしい(伝聞)。
この「ミネルバシリーズ」は大著「生命のメタフィジックス」の内容を、わかりやすい問答形式に書き直したもので、すでに前半部分の「生命の本質」についての部分が単行本化されている(TBSブリタニカ)。
その続編として後半の「ユング気質論」の部分がすでに連載を終え、発行の準備をされているらしいのだ。発行そのものはまだ先のようだが、元本の「生命のメタフィジックス」にすでに書かれていることであるので、そちらもぜひお読みいただきたい。ユング気質論と言っても、山口氏の「生命哲学」に裏打ちされた、オリジナルな議論で、人間についての「発見的な知識」にあふれている上に、自分が「よく」生きる上でも実際的に役に立つこと請け合いである。そこが単に話題で終わってしまう「血液型・星座」などとは違うのだ。
私はさっそく連載された「宣伝会議」のバックナンバーをチェックした。ひるますホームページを読みに来ていただいている方はユングファンも多いと聞くので、ぜひなんらかのかたちで読んでいただきたいものだ。
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96.11.19
なぜ書けないか?といいつつ、毎日書いてるが、本命の「月刊ひるます」が止まっている。ついでに売れない雑誌G-U次号のオレの執筆分もすすんでいない。考えると不思議だが、現在新刊本として発行されている人文系の本の大部分が、雑誌に掲載されたものの寄せ集めだ。つまり「ほとんどたいていの執筆者」は、受注産業化しているということだ。ほとんどの執筆者が「受注」がなかったら書かなかっただろう文章を、本にしているというのも不思議なものだ。
というのは、もちろん皮肉だが、しかしここには、「人は受注がなければなかなか書けないものである」という真実もあるのだろう。
なんで受注がないと書けないのかということを自分なりに考えてみると、結局「自分でひとつのことを語ろうとすると、そのひとつのことは自分を取り巻くあらゆる事柄につながって、広がっていってしまうために、厖大なものになってしまう」からだろう。そしてそんなものにとりかかってしまったら、へたすると一生かかってしまうかもしれない。というわけで、テーマなり分量なりの限定が必要になるわけだが、そういうものを自分で立てて管理するということができない「弱い」人たちは、「受注」にその限定を求めてしまうのだろう。
ほんとうに「受注」でない思考とは、結局はそれぞれの人の「哲学体系」ということになるのかもしれない。
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96.11.18
エイズにひきつづき、厚生省の収賄事件がいきなり発覚したが、ここで何が問題かをはっきりしておくべきだろう。収賄によって便宜をはかったということが、悪いと人はいう。しかし、そもそもの問題は「ここには便宜によって供与されるような国家の金(予算・補助金)がある」ということなのだ。「ある」ということは、いずれは誰かにそれが供与される、ということでもあるのである。いずれは供与されるべき「金」を便宜によって独占した、ということが贈賄側の「罪」になる。たいていの建設汚職や談合はこの「金」の分配をめぐる問題なのだ。
ようするに「国」の発注する仕事で食ってる人たちが多数存在するわけで、今回の老人施設などは、なんと資金の94パーセントまで国と自治体の補助金だと言う(TBSニュース23)。そんなに金が出るなら、実行者(業者)は、それこそ誰でもよかったということになる。誰でもいいなら便宜を図った人に回すというのはあたりまえの流れだろう。しかしそれは、実態としては、ほとんど「国の事業そのもの」である。いつのまに日本は社会主義国家になったのか?(明治政府はそもそも国家社会主義だという話もある)。逆に言えば、社会主義の国はすごい「汚職」だらけだったろうな、ということでもある。
というわけで、事業の主体は誰でもいい(実態としては国である)というような状況がすでにある、ということがそもそも問題なのではないか。そんなことであれば、国はすべての事業をくじ引きで発注するしか「公正さ」を発揮できなくなるではないか。
もちろん実態はそんなもんではなく、とくに贈収賄として問題にされるものではなくとも、特定の「コネ」によって国の事業を占有し、国の金で食っている人は、ごまんといるのである。自分の才覚と資金と体力でまじめに働いている人は知らないかもしれないが。
いわゆる「出入り業者」の「既得権」というものが生じていて、入札という発想すらないところがほとんどではないだろうか。その厖大な金の流れにくらべたら、収賄事件などはたいしたことではない。もちろん収賄事件そのものは徹底的に叩いていただきたいが、そのことによって終わってはならない。問題は分配システムそのものの検証だ。分配というか、そもそも予算として使うことが必要なのかどうかも含めて。だいたい「汚職」につながるということは、その仕事を分配してもらうことで、その「わいろ」をこえる「利潤」が当て込まれているからこそ、「わいろ」を送ってもなおかつ贈賄側は儲かるということである。当たり前だが。ということは、それだけ「税金」がむだに分配されているということであり、その場合「わいろ」は明らかに税金ではないか。そこがほんとうの問題だろう。
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96.11.16
いじめについて書いたのだが、ハンパなことは書けないな、と思い、いろいろ「いじめ関連本」を読んでいる。手始めは「少年ジャンプ」が作った「いじめリポート」(集英社)だが、これを読んでたら(いじめの)あまりのひどさに腹が立ち、電車の中で涙が出てきてしまった(それはほとんど教師への怒りだ。生徒に罪はないというわけではないが、システムを改革する以前に、このシステムでなんとかできないか、という前提にたてば、教師があまりに無能か怠慢か無責任かそのすべてであるかということにしかならないからだ)。
こんな認識不足の人間がいじめについて書くのもおこがましいのだが、最近、いじめられた子が親にそのことを話せない、というのを、「プライド」や「いじめる子」への気遣いであるというような説明があるようなので、ひとこと言っておきたい。
そのことを話せない、としたら、単純に「言語がない」のだ。いじめられてる空間といじめられてない家の空間とはまったく別の時空間であり、そこで形成されてる「自己」というか「人格」というかもまた別のものだろう。二つの時空がそれほど格差がない場合は、二つの自己を統一的に把握することになんの障害もないが、このように「いじめられる」時空とそうでない時空との間での格差は、それこそ天地の差であるから、それを統一的に把握することはそもそも無理があるし、その一方の体験を他方の空間に「言語的に把握して持ち込む」こと自体、たいへんな精神的エネルギーを要する作業であろうことは想像できる。
ま、想像にすぎないのだが、なんでそんな想像が出来るかというと、オレがいなか(岩手)に電話したり帰郷したときは当然、ズーズー弁でしゃべるのだが、その時空での体験をこちら(東京)で誰かに伝えようとすると、いちいちその体験を標準語で把握し直し(体験し直し)その結果としてやっと言葉にしてしゃべることができるという、えらいたいへんな作業を要しているからである。
ようするにその場という現実にあわせてというか、ながされ、受動的に自己が決められているから、こんなことになっているのである。「現実を凌駕する言葉を得た者を大人というのです」とは、今度の京極の新作の中にあることばで、私がいちばん気に入ったものだが、そんなにも「言語の獲得」とは難しいものなのだ。自然に言語が身に付いていて、多様なレベルの現実もつねに語りうるのだなどと思いこんでると、そのうちえらいしっぺ返しを受けることになるだろう。
こどもは当然、そういう「異なるレベルにある現実を踏み越えていくことば」を持ち得ない(それゆえに子どもなのだ)から、大人がそれをくみとってやれよ、というのが結論だ。言葉にならない言葉、自然なしぐさの中にある表現を読み取っていく力も、大人は身につけなくてはならないのだ。
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96.11.15
ご招待券が手には入ったので、ネヴィルブラザーズのライブに行ってきたのだが、元気というか、いまだに溢れるパワーで圧倒された。ネヴィルは、ファンク、リズム&ブルース、レゲエ、ロックが融合したというか、バラバラにそれぞれ楽しめるというか、ニューオリンズのローカルバンドにして、世界的なボーカリストのアーロンとやはり世界的なトップレベルにあるサックス奏者のチャールズを擁する世界的なバンドでもあるというへんなバンド。
この前来たときも冬だったらしいが、どうせなら真夏に来てガっとビールを飲んで盛り上がり、このうっとうしい沈滞状況を吹き飛ばしていただきたいところである。
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96.11.14
昨日の項目で書いた橋本治の「ぼくらの・・」シリーズだが、「家」とは戦前までの社会的組織であり、つまり「社会」そのものであったが、すでにそれは制度としてはない、にもかかわらず、現在の「家」が、同じ「家」という言葉を使うために、同じものであるかのような錯覚を生んでいるという指摘があって、非常におもしろかった。
では現在の「家」とはなんなのか、と言えば、じつはまだ何の規定もないもので、橋本治は「いえ」は「ようするに帰ればホッとするところであればいい」と言っているのだが、まさにその通りだろう。制度としてこれからどうなるか、ということはさておいて、親子・夫婦の関係を中心にした(それ以外の関係も含めて)「家」的なつながりの機能は、「ホッとする場所になること」ということでよいのだろう。
家族の一員である子どもが社会とかかわるような局面で、「しつけ」が、成員である大人が社会とかかわる局面で「しごと」が、生じてくるだけであって、それ自身は「いえ」の機能ではない。「いえ」そのものが教育機関であったり、仕事のための生産機関であったりしようとするところに、そもそも錯誤があり、いろんな無理が生まれる。
「東大卒の父・金属バットで息子を殺す」というニュースに思うのは、この父は家を「ホッとする場所」にしようというよりは、やはり「教育」しようと必死だったのだろうということだ。それまでの対策や、殺し方に、そういう悲しいまでの「いっしょうけんめいさ」が感じられるのだ。
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96.11.13
橋本治の「貧乏は正しい!」シリーズ(小学館)の「ぼくらの資本論」と「ぼくらの未来計画」を読んだので、もうほとんど資本主義と日本の経済システムというものが、すべて分かってしまった。もう何でもオレに聞いてくれって感じだが、もちろん橋本治の本を読んでいただければよいのではあった。
これを読んで思い知らされるのは、けっきょく世の中のシステムってのは、そこそこ「いいもの」で、問題は当事者であるひとりひとりの意識の問題だってこと。当人の意識がどうにもならないかぎり、システムをどうかえたって、何もかわらない。あたりまえのことだが、ついついシステムや「上司」などのせいにしてしまうほどに、私達は「世の中」のしくみやなりたちを知らなすぎるのではないだろうか。
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96.11.10
雑誌G-Uの最新号が売れていない。というと、買っていただいた人には申し訳ないが、私の家には在庫がごっそりとある。売れない理由はさまざまあると思うが、はっきりいって、なんかメジャーな雑誌のうすっぺらなコピーのような印象がある。「ただ、ひたすらに」作ったというパワーも心意気も感じられないのだ。(ただしオレ自身は自分の掲載したマンガと文章に関して手を抜いたつもりはまったくないし、他の参加してくれた人たちだって、そうではあるのだろう。雑誌全体としてみた時のことである。)これだったら、オレのマンガの単行本をつくればよかったくらいだが、まさにそうなのではないだろうか。
けっきょくこの雑誌のテーマは「個人の表現」なのだが、このテーマのあいまいさ(ようするになんでも個人の表現になってしまうこと)によって、雑誌そのものがなにをしようとしているのか分からないところへ行ってしまったことが原因だろう。
わたしが意図しているのは「自分が存在していることの意味」と、この世界(社会、世の中、物理的な宇宙)の成り立ちを、ともに「神秘的な観念の中」ではなくて、具体的な「表現」(行為)の中で「知りたい」ということである。
すべての表現は「自己=世界」を知るという行為である。が、すべての行為が結果としてそのような「知」になっているとは限らない。結果としてくだらない表現はあり、また単に売りたいという表現もある。とすれぱ分かり切ったことだが、問題の焦点は「表現」ではなく、「知」であり、「知としての表現」あるいは「表現としての知」である。
なにも言っていないような「表現」につきあっているヒマはもうないのだ。ということで、以上、反省でした。目次へもどる
96.11.09
前の項で中井久夫のいじめ論が「仏教」誌に載っていることを告知したが、ここで私じしんのいじめ論を書いておきたい。
いじめは「目的意識」のない場所に発生する。
厳密にいうと、実体的な(現実感をもちうる)共通の目標が失われた場所に発生するというべきだろうか。軍隊のいじめも実際に敵と戦っている最中にはできないだろう(そういえば映画「プラトーン」では、敵との激戦のさなかに味方同士が殺しあうという場面があったが、そういうこともあるのかもしれないが、これはいじめというレベルではないだろう)。とすると学校でのいじめは、受験戦争による非人間的教育の結果ではなく、むしろ学問することの不徹底さ(学校が学問するにはあまりにヒマであること)から来るのではないか。
もちろんこれはブラックに語っているのだが、学問することがイコール受験戦争だというのは、あまりにイメージが貧困だ。なぜ学校は学問することのヨロコビを伝える場所ではないのか。それがそもそもおかしい。
学問することを喜ぶ場所である、と学校を規定してしまえば、すなわちそこにいることの目的をはっきりと生徒や教師に「意識」させれば、おのずからそこでどうすることがよいかということも、はっきりと意識され、いじめによって何かを主張することが変だと言うこともはっきりと意識されるはずではないか。しかし、学校は、そのような場所だと自己規定したこともなく、あいまいなままの現状では「いじめられる方も悪い」という主に主婦層の人々が思いつきそうなバカな論理の横行を許すだろう。
学問する、だけでなく共同生活などを学ぶところだ、と言いたいのであれば、学校とは別の組織を同時につくって子どもを通わせればよいのではないか。たとえば月曜・火曜・水曜は「学問所」へ。木曜は、アウトドアスクールへ。金曜はボランティア活動へ。など。しかもそれぞれの場によって、クラス編成はまったく変える。
あくまで学問を喜ぶ場所として「学問所」はある。それが将来のための(学歴としての)道具にされた場合、目前の学問の意味あいは急速に喪失して、学問するという行動自体が無意味になり、ニヒリスティックな人間をつくりだす。これがいじめの温床だ。学問を喜ぶという態度を教え込むことは、ひょっとするとその場しのぎの受験に逆効果だという意味で、主婦層などに反対されて出来ないのだとバカな教師は言い訳するかもしれないが、実態は学問を喜ぶということを「知っている」教師がいないことがもっとも大きな原因ではあろう。しかしもし子供達に「学問のヨロコビ」を教えることが出来るなら、それは結果的には日本の「国力」の増大となることはまちがいないのだから、このことは日本の自由主義経済にとっても合目的的なのである。よいことづくめなうえに、法律を変える必要すらないのだから、教師がやらずにいるのは、たんなる怠慢だろう。そんなことだから「大企業に就職できないから教師になったおちこぼれ」として生徒にさえバカにされてしまうのだ。
目的を喪失して、身内の人間関係などに「問題」を発見してはそれを槍玉にあげ、真の問題解決を回避して「内向き」になってしまうのは、日本の企業や政治にもよく見られることで、とくに珍しいことではない。いじめ「問題」はそういう意味もふくめて私(たち)にとっても切実な問題なのである。
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96.11.07
たびたびお伝えしている中井久夫だが、毎日新聞の毎日出版文化賞を受賞した。
対象となったのは、みすず書房から出ている「家族の深淵」だというのが、くやしい。(私がからんでいる、というか、強くオススメしているのは、広英社の「精神科医がものを書くとき」)
「家族の深淵」は、表題作がとにかくモノスゴイという感じのエッセイ。ほとんど小説的な臨場感?にあふれ、へたなミステリーなどよせつけない。とにかく一度読んでいただきたい。
また雑誌の「仏教」の「いじめ」特集号がでたが、これにも中井氏は「いじめとは何か」という論を書いている。やはりみすず書房からのエッセイ「記憶の肖像」のなかですでに、いじめについて論じたものがあったと記憶するが、いじめ問題の根本にせまる「考え方の基本」になる論だ。
ところで、帰りの書店で驚いたのだが、京極の新作が出ているではないか。池袋のブックセンターリブロでは、京極のサイン会があるという。いそげ!
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96.11.04
やっとエヴァンゲリオンを見始めたが、アニメというとじつは私は十年以上前のことになるが、劇場公開された「イデオン」を見過ごした、という悔恨があった。
「イデオン」というのは、たぶん「ガンダム」の直後の同じスタッフによる作品だと思うのだが(登場人物がそっくり。ガンダムの出演者達が、かつらをかぶって演じているのでは?とさえ思わせる)、オレはTVの放映中に何度かみていて非常に興味をひかれ、その総集編が劇場公開されたのも知っていたのだが、たまたま行きそびれていたのだった。ちなみに私はオヤジくさい松竹映画を見にいったときに観た「ガンダム」の予告編で、「ガンダム」に打ちのめされ、「ガンダム」系列だけはアニメを観るようになったはぐれものである。
というわけで、「イデオン」劇場版をみていないことは、ずっと気になっていたのだが、こんど「エヴァンゲリオン」を観るついでにやっと観ようと思ったのは、「イデ」も「エヴァ」も、どちらも独自の生命というかシステムを持っていて、なかなか操縦者のコントロールには従わないロボットだという共通点があるせいだろうか。また作品を彩る「神話的な」仕掛けにもどこか共通したものがある。どっちも「オン」という接尾語がついているし。
ということはさておいて、オレが言いたいのは、この「イデオン」のストーリィ、とくにラストはどうしても許せんということだ。これってオウムではないか。つまり現実を「悪しきもの」とみなした上で、すべてを破壊し(みずからハルマゲドンを引き起こそうという発想)、現実とは別の(レベルの)世界に別の論理の世界をつくりあげようというものなのだ。
オウムだから許せん、のではなくて、この許せん(エンタテインメントとしても面白くなく、納得できない)構想は、オウム的だ、というのが本意なのだが、ひょっとしてアニメ界ではこんなこと(イデ=オウム)は常識なのかもしれない。詳しい方のご意見を待つ。
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96.10.30
オウム警官いわゆる「巡査長」の供述の話題が流されているが、日テレの「きょうの出来事」によると、上九の明け渡しを目前に、なんと五百名の信者がサティアンに終結してなんらかの儀式をしているという。どうでもいいことのように思われるが、日テレ以外ではまったく報道していないのではないか。
たしかに「事件性」はないから、いわゆる「公正な報道」という建て前においては報道の対象にならないのかもしれない。しかし破防法がいいか悪いかは別として、その調査対象になっている団体の構成員が五百名も集まっているというのは、ものすごい「事件性」ではないかと思う。
これを見る限りでは日テレ以外のTV局では、誰かが「破防法」に指定してくれたり、警察が発表するなどしてくれないと、自分の考えでオウムとはどのような集団なのかということを判断できないということなのだろう。(ようするに「巡査長」の報道にすべてあらわれているように、たんなる「警察情報の垂れ流し」であり、ひいては自分たちの言葉や判断についての「無責任さ」なのである。)
それで思い出すのは、ちょっと前、TBS局員の書いた「坂本ビデオ事件」についての記事をみたが、あまりのばかばかしさにあぜんとした。ようするにTVの報道というのは、新聞の報道とはことなり、なんの基礎もないところから、娯楽番組のついでに流すものとしてはじまったのであり、報道に対する姿勢(哲学)もノウハウも実はないのだ、だからこんなビデオ問題がおきても不思議はない、というものなのだ。あまりになさけないではないか。
私としては、すでに彼らが保護され過ぎているがゆえに、プロフェッショナルになり得ないのではないかということを指摘しておいたので、むしろ我が意を得たりだが、ほんとうにこんなことでいいんだろうか。
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96.10.26
転向し続ける私だが、超整理手帳をすてた。
超整理手帳はその考え方が非常に気に入って、去年の発売時に手に入らなかったので、ついに自作してしまったほどのファンだったのだが、その後はアスキー製の製品版を使っていたのだが、ここ半年ほどはまったく使わなくなってしまっていた。
気に入っていたのはA4サイズの紙がリフィルとして使えるという「互換性」だったのだが、けっきょく鞄や書類袋(例の超整理袋でもいいが)を持ち歩くようにすると、いちいち手帳にA4サイズの紙を折り畳んでいれておくということに、なんの意味もなくなり、ひいてはA4サイズの紙を折り畳んだ状態の、つまりやたら馬鹿でかいスケジュール表を持ち歩くことにも意味がなくなってしまったのだった。互換性のために使いやすさを犠牲にするというのは、本末転倒である。
だいたい広げると50センチはありそうな?スケジュール表にかくほどのスケジュールは私にはない。一週間はやたらはやく過ぎてしまう。逐一書き出せばそれくらいの予定はあるのかもしれないが、それは仕事をむしろ止めてしまうだろう。
しかもどうも「ふにゃふにゃして」安定感がなく、書きにくい。この書きにくさは「システム手帳」でまんなかのリングがじゃまだったことを上回る。つまり史上最大に書きにくい手帳なのである。
でかさはスケジュール表としての欠点であり、ふにゃふにゃはメモ帳としての欠点だ。
もともと私はメモ魔で、メモ帳にドンドン書き込んで、日記以上のものになり、むしろ作品に近いものになってしまう。システム手帳はこのようなメモの使い方にはとてもあっていたが、結局、再利用がしにくく、書きつけたものが無駄になるということで、パソコンが手にはいると、ほとんど使わなくなっていた。
しかし、パソコンというのは、すでに「思考されたこと」を編集したり整理したりするのには、非常に有効だが、ゼロから「それに向かって」思考するものではない。これは人の好みや育ちや現在の環境にもよるのだろうが、私にはそうだ。むかし一番最初に買ったシャープの、一行10文字しか表示がないワープロは、ぼくにとっては「思考の道具」だった。その前に向かうと「本番の思考」がするするとはじまったものだ。それよりだんぜん表示のひろいワープロなりマックなりで、どうしてそういう「本番の思考」という感覚がおきないのかはなぞだが、それぞれの人にとっての本番の思考を起こす「道具」はちがうのだろう。私の場合のシャープのワープロはいま、また手に入ったとしてももちろんもはや「道具」にはなりようがない。その時、その瞬間にそうなったというだけのものだからだ。
システム手帳ももはやそうで、そこに入っていけるものではないだろう。システム手帳のリフィルを入れ替えたり、整理して保存しうるという思想がもはやじゃまなのだ。そういう部分は全面的にパソコンにさせたほうがよい。リフィルでの整理・編集がしうるということは、整理が(パソコンでの整理とあわせて)二重化してしまうということであって、もはや欠点ですらある。このさいメモは徹底的に整理できない・編集できないという原始的なかたちになるのが一番よい。それが書きやすく、入って行きやすく、そこで「本番の思考」がおきやすければ、最高だろう。
ということで、気に入ったメモ帳が一冊あって、それにかんたんなカレンダー型のスケジュール表がついていて、電話メモを書くページがあればなおいいと、思っていたが、まさにぴったりなものがあった。それが「能率手帳ポケット・メモ重視型」というやつだ。びっしりと分厚いメモがついていて、このメモの厚さがうれしい。一瞬「もし一年で使いきってしまったら」という不安があった(システム手帳的なリフィルの入れ替えというあり方にならされてしまっているから)のだが、考えてみればこれだけの厚さを「メモ」したとしたら、それは「メモ」をなんら発展させずに終わったということにすぎないだろうとも思える。メモから発展した本番の作業をちゃんとしてれば、メモだけをこんなに書くような暇はないだろうということだ。そういう「限度」をきちんと押さえたつくりすら、この手帳から感じられる。
まだちょっと早いが、手帳買い換えの時期がやってくる。ぜひ参考にしていただきたい。
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96.10.25
告知
11月2、3、4日の3日間、武蔵野はらっぱ祭りが開催されます。
はらっぱコンサート(梶田イフ出演!)の他、フリーマーケット、ワークショップ、パフォーマンスなど内容充実。場所は「都立武蔵野公園内くじら山原っぱ」(中央線武蔵小金井駅南口下車・徒歩20分、自動車試験場ウラ)
雨天決行、入場無料、手伝いカンパ歓迎です。
なお車での来場はご遠慮下さい。
以上、告知でしたが、まえまえからG-Uのからみで紹介している「ひょうたんから高麗」イベントも来月下旬の開催がきまっているとのこと。くわしくはまたここでお知らせしますので、よろしく。
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96.10.24
ついに中井久夫の「精神科医がものを書くとき」の第二巻が完成した。
店頭に並ぶのはたぶん来週末ぐらいになると思う。待ち遠しいという方はぜひ書店にご予約いただきたい。全国の丸善・紀ノ国屋、旭屋、リブロなどでは早く入ると思います。
新発売を記念して、これまでの中井久夫関連のページを完全にリニューアルし「広英社ホームページ」としたので、ぜひご覧いただきたい。まぁ多少ともオフィシャルな性格のページとなるので、はっきり言ってつまりませんが(笑)。
しかしこんど出る第二巻は内容が濃い。濃すぎて売れないのではないかと心配なほどである。まずは中井久夫が分裂病の病因について考えてきたことをまとめた「分裂病の病因のついての私見」がある。「分裂病と人類」(東大出版会)でも書かれている例の「微分回路的認識」の話が、サリヴァンの分裂病論やドパミン仮説などと連接されて論じられており、はじめて中井的な「分裂病概論」をまとめて眺望することができる。なんといっても「概論」がきらいな人であるから、こういう論文はありがたい。
逆にまったくの一般人にむけてかかれた医学・ケア的な文章から、文学の香り高いエッセイもあるし、なんとギリシャ現代詩についての40ページあまりの解説もはいっている。震災についての報告も入っている。これはみすず書房から出た「1995神戸」と「昨日のごとく」の中間に位置するもの。やはり緊急事態における人間の責任ある行動とヒロイックな決断と状況を把握ある力の絶妙なバランスを感じさせ、日々のくらしでも範としたいものだと思わせる。
というわけで、ほんとうに詰め込めるだけ詰め込んだという感じだが、本として出来上がってみると、やっぱりひとりの「中井」という人のオーラのせいかと思うが、まとまった、とても美しい本と感じた。
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96.10.23
講談社現代新書の「<子ども>のための哲学」(永井均)がおもしろかった。
というか、このひとのもつ<哲学>の問いそのものは、わたし自身の<哲学>(そんなものがあるとしてだが)とは、関心のありかが違うので、面白く読んだわけではないのだが、その議論をとおして、そういうふうにそれぞれの人によって、問題の関心のありかは違うし、それでいいのだ、ということがよくわかり、非常に「ほっとする」ものがあった。
つまり「なんで自分は存在するのか」というより「なんで自分は<じぶん>であって、<ほかの誰かではないのか>」といった「子どもじみた問い」をもつことは、異常でも何でもないということがひとつ。
そして逆にえらいことでもなんでもない、ということがひとつ。
そういうことは、自分では納得しているつもりだったが、きちんと声を大にしてこういうことを言われたのは、はじめてだというそういうさわやかさであった。
なんか<哲学する>ことは、えらいことでもなんでもなく、「そういう疑問をもってしまった人が、それをすることでやっと、そういう疑問を持たない人と同じスタートラインにたてる」というような程度のものだという割り切りは特に重要で、思考することの「健全性」を保証するものだ。
ぼくだって、「哲学」を専攻するという時には、なにか「有意義な」理由がなければならないという強迫感にとらわれていた。
必要以上の「有意義性」の強調は、結局はオウム的な精神世界・宗教の「ありがたさ」というものにつながってしまうだろう。「考える」ことが、人よりえらくなることであり、人を精神的に支配することであるというような、オウムにみられる短絡性は、ぼくらの中の「哲学すること」の中にすでに潜んでいるものと同質のものかもしれないからだ。
というわけで、僕自身の「子どもの哲学」を、健全につきつめていきたいという、また新たな企画が自分の中にうまれ、楽しくなってしまった。
しかし「子ども」だけに執着しているわけにもいかないので、お読みになるかたには、同時に西研の「ヘーゲル・大人のなりかた」(NHKブックス)の併読もおすすめしたい。
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96.10.22
ということで、選挙がらみの話も一段落なのだが、政治のはなしはしたくないという人も多いかとおもうので(というのもあの投票率の低さはそういうことだと思うから)それについて一言。
基本的に全共闘世代以降、私のちょい下(30過ぎ)までは、政治に関心がないことが「高尚だ」という感覚があるのではないか。投票へ行く芸術家などありえない、というような感覚。ロックのアーティストが投票所へいったらもうロックでないという感覚。投票へ一度もいったことがないことを自慢する「思想家」。その思想家とは吉本隆明氏のことだが、彼の影響もでかいと思う。市民社会的なものになんらポジティブな価値をみとめない(みとめたくない)という姿勢、それは最近のオウム本にまで引きずられていっているわけだが、そこに彼の思想の破綻をみる。(書評参照のこと)
また幾人かのその世代の人に感じられる「管理」や「教育」への忌避感のようなものも、その感覚に近いものがあるだろう。ようするに「公共的な価値」へのネガティブな感覚である。しかし教育ということを考えれば、よく分かると思うが、だれも教育しなかったらどうなるのか。自然な育て方がよいのだ、と教育忌避者はいうかもしれないが、オレはどうせ教育されるのなら、もっともっといろんな教えてほしいことがいっぱいあった、と思う。そのほうが、より自分が自由に、もっといろいろな可能性を試せただろうと思うからだ。もちろん今からでもおそくはないこともあるが、やはり遅きに失したということのほうが多い。そういう意味では教育の不足、とくに可能性に関する情報の不足を憂うことはあっても、教育が過度であって迷惑したということはない。
要するに教育ということに対して忌避感を持つ人は「教育」ということに持つイメージが貧困なだけなのだ。政治を含めた公共的な価値についても同様なことが言えるのではないか。公共的なものが、原理的に自分を疎外するもの(自分に絶対的に対立するもの)とする見方が貧困なのだ。公共的な価値は、むしろ自分の自由と可能性を拡大するものと考えた方が、よっぽど世界が広がるではないか。
このへんのことは、以前紹介した西研氏の「ヘーゲル・大人のなりかた」という本でもとりあげていて、非常に共感した。ヘーゲルはそういう自己の自由をこの現実の中でいかに「つぶされずに」実現していくかを考え抜いた人だ、という。ただしヘーゲルの時代は、自分の実現がそく国家の実現であるというように、国家が生きることの目的になってしまっていたが、いまはそんなことを言っても誰もまともにうけとりはしない。しかし人間が生きる目的の「すべて」ではないにしても、公共的な価値の実現は、限定された部分であっても、きわめて重要な「ひとつ」の価値だ、ということだ。こういうことをぼくは今はあたりまえのことだと思うのだが、そこからみたときに、公共性への忌避感は、たんにムード的な、軽薄なものにしか見えない。実際に軽薄なだけの存在というものはあり、許せるわけだが、それを高尚な思想であるかに見せている人々たちは許せない。そういう方々にはとっとと、隠遁していっていただき、およそ「社会」(電脳社会を含む)にいっさい顔をだしていただきたくない。
96.10.21
選挙もおわり「社さ」惨敗に思うのは、なんて人がいい人たちなのだろう、ということだ。
自民の復活に手を貸して、ただ使い捨てられて、しかも自民に文句の一つもいわず、自民が過半数とれないとなるとすぐに、連立の維持が最優先とかいう甘言にのせられ、また連立に参加するという。人がいいにもほどがある。(その後、社民は連立に参加しないということになったようだが、あいかわらず与党だという自己意識の上に立って行動することはたしかなようだ・・・後日記)
ほんとうに自民が、連立が大事と思うならば「連立政府」として選挙をすべきだというのが、正論ではないか。はっきり言って「社さ」自体にはなにも選挙をしなくてはならない理由がないのだから、負けるのも当たり前といえば当たり前なのであった。
にもかかわらず選挙をおこなったのはいわば自民のエゴだ。「社さ」は自民に文句のひとつも言っていいところだと思うのだが、なぜ何もいわないのか。あんまり人がよすぎるというものは気持ち悪いものである。(注:自民のエゴ選挙だから、棄権してもよいという話ではぜんぜんない。自・社・さという三者の間では、自民のエゴだということであって、新進・民主・共産との関係においてはまた別な意義もあるわけである。念のため)
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96.10.15
さっき日テレのニュースを見てたら、田中まきこが「比例区」に「重複立候補」しているのに、自分では知らなかった(小選挙区だけに立候補していると思っていた)というのをやっていて、笑ってしまった。新聞も読んでいないらしい。
ということはさておき、選挙が近づいてワクワクしている。なんか世の中では「大勢はきまった」みたいなことも言われているが、どこの選挙区で誰がどうなったかということだけでなく、惜敗率がどうだというのがからんで、また敗者復活もあるなんていうのは、考えただけでもゲームとしておもしろいではないか。
しかも結果次第でどのような政権ができるのかも不確定であり、それは逆に選挙によって現実を変更しうるという可能性が、それぞれの人の手元にあるということだ。つまり誰もがカードをもっていて、社会の現実を操作する(ハンドリングする)可能性をもっているということなのだ。この感覚は一度細川政権の時にあじわったものだが、それを停止させてしまったのは、羽田内閣での解散をびびった小沢氏であり、首相の座に血迷った村山氏であった。それがやっと行使できるのだから、3年間のもやもやを一気にぶつけたいところだ。
しかしこれに水をさそうとしているのが、またバカなマスコミどもである。「政策の違いがわからない」などとなにかまじめぶったことを言っているが、それをはっきりさせるのが自分たちの役目ではないか。政党や政治家が言ったことをそのままたれながすのが、自分たちの仕事だなどといまだに思っているのか。だいたい「公約」でもって選挙の争点と考えるのがおかしいのだ。公約なんて空論でもよいのだから、そんなものを比較するから問題が見えなくなるのだ。選挙は昔で言えば「恩賞論功」ではないか。これまでその政治家や政党がどれだけのことをしてきたか、それを綿密に「評定する」、それこそ公共的な報道機関の仕事ではないか。その上でそれをよしとするか、未知数にかけるのか、それが有権者の判断に委ねられればいいのではないか。
ともかくマスコミや思想家は、自分が発言する場所があるということにあぐらをかいて、選挙そのものに対してニヒリスティックなスタンスをとってそれですませているところがある。いつも「国民がバカだ」と言えばそれで自分たちは「すっきり」できるからだろう。しかしオレはそんなバカな次元には生きたくない。それで意地でもこの「選挙」を肯定的にとらえたいのだ。
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96.10.14
雑誌の付録でマックのシステムをアップグレードしたのだが、とくに問題はないものの、メモリが1メガくらい多くくっているのが気になる。インターネットへの接続方法が変わるのが心配であったが、これもあっけなくつながってしまった。ただしConfigPPPでは一度回線を切ってしまうと次に再起動しないとモデムが反応しないという不具合があった。これはFreePPPにかえることで解決する。まぁたいして速度の向上も実感できないし、だまされたような気分ではある。ただし仕事場の8500の場合はかなり違いを実感できる。
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96.10.13
古い話で恐縮だが、ワウワウで映画「アウトブレイク」を見たのだ。ウィルスによる感染症がある町をおそい、それを軍が封鎖して「危機管理」をするが、それがなぜか軍上層部の陰謀と結びついて行き過ぎてしまう、そんな話で、映画はヒューマニズム的な立場から、その行き過ぎに「対抗する」人物(ダスティン・ホフマン)をヒロイックに描く。しかし、見ているこっちは、そういう行き過ぎへの批判以前に日本ではここまでの危機管理がそもそもできないのではないかということが気になる。
O-157でさえ意志によってではなく結果として止まっているだけなのは、いまだにそれがくりかえされていることからもわかる。危機管理の無能さは、村山政権下での阪神大震災対応に皮肉にも象徴されたように、管理社会的なもの、国家的なもの、公共的なものへの国民レベルでの無意識的な「忌避感」が助長してきたものである。「アウトブレイク」という映画はそういう危機管理的なものへのアレルギーに訴えるようなバカな作品ではなかったので、見ていて爽快なのであった。
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96.10.6
最近転向しまくっている。
1 時代に逆行してタバコをまた吸い始めた。
なんと十年ぶりである。ダイエット?にはなるようだ。犬の散歩の間ひまのなので吸い出したのがきっかけなのだが、犬の散歩をしているとほんとうに吸殻の多さが目に付く。ちなみに私はフィルムケースをもって歩いてそれに殻を入れている。吸殻というとなんか聞こえがいい?が、ようするにフィルターであり、水に溶けないものである。嫌煙は時と場合によるだろうが、ポイ捨てはどこでもよくないのだ。
2 本を買うようにした。
いぜんここで図書館で買ってくれるので新刊本は買わないと書いたが、なぜか最近の新刊本はやたらおもしろく、そんなものではおっつかないばかりか、なかなか図書館も買ってはくれなくなっているのだった。それにしてもこんなに本がおもしろい時代ってそんなにはなかったたんじゃないだろうか。というよりもインターネットで読んだ本について書いたり批評したりして表現を公開できるということが、読むという行為を面白くさせているのか。それもあるが、そういう時代的な雰囲気を書き手・出版社の側も感じて、相乗的に面白くなっているのか。
いずれにしても読み手であるすべての人の「表現可能性」が、なにか面白い世界をつくり出していくことに間違いはないだろう。
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96.10.4
昨日の帰りに大手書店によったらエヴァが売り切れだとかいう声が聞こえてきた。私は午前中に「いやいや」買っていたのだが、電車の中で読んでたらなんと、オレがこのページでプッシュしている中井久夫の「精神科医がものを書くとき」の書評が載っているではないか。しかもカラーで目次にまで載ってる。そのうえ評の内容も好意的というか、中井氏の特質をよく分かっている方の言で胸落ちるものがあった。すなわち「書くこと」によって「現実の問題の多くが」抜け落ちてしまうことを覚悟しつつ、しかし書く(思考する)ことをあきらめない、思考のタフネスを中井氏の思索の中に学ぶ、というもの。
「楽をしてはいけない」なんて書いてあるが、まさに精神的な問題を語りつつ、けっして「神秘主義」や「癒し主義(?)」に走らない中井氏の思考こそ、専門外の我々が中井を「読む」ことの意味なのだけれど、私はこのエヴァを発行しているサンマーク出版というのは、逆に「楽な思考」を押し進めるやからだと勝手にきめつけていたので、その雑誌のしかも創刊号で中井氏がとりあげられることは、非常に意外だったのだ。
しかし雑誌の内容は脳内革命への批判的な部分もきちんととりあげており、これまでの一方的な・閉鎖的なオカルト・ヒーリング雑誌とはおもむきが違うようだ。ともあれ、私も「決めつけはいけない」ということを思い知らされた一撃だった。
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96.9.25
また更新があいてしまった。家族の結婚式があったり、あとインターネット易占をはじめたところかなりの申し込みがあり、その対応にかなり時間がかかってしまったということもあった。しかし私にとっては非常に勉強になっているので、申し込んでくれたみなさんにはあらためてここでお礼申し上げます。というわけで、まだ申し込んでない方、ひるますのトップページにいかずに直接ここに来ているために「それなに?」と思ってらっしゃる方、どんどんメールをください。
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96.9.13
例によって政局の話だが、政党の資金についてのニュースなどをみると、ようするに例の「新党まるごと」をつくろうとした人々は、「政党助成金」をまるごと新党に引き継ぎたいということが最大の動機だったのだなと納得してしまう。
その後「鳩山新党」の方はいきなりカンナオト氏の構想の中に飲み込まれてしまったカタチになったが、結果的には非常に理想的なかたちになっているのではないだろうか。私は鳩山氏のその後の言動に全然説得性がなく幻滅してしまったのだが、そういう説得性もないところに突然あらわれすべてをもっとも理想に近いかたちにまとめあげてしまったカンナオトという人は「大人」だ。
理想的というのは、ようするに行革を確実にやれそうだということ、それは社会的な不公正感を打破し、無党派層といわれる「個人」達に社会的な「参加感覚」「ハンドリング感覚」を感じられる受け皿を与えられるものだということ。だいたい各家庭に一台の情報端末という公約?がいいではないか。そして「排除の論理」をとらないと言いつつ、もはやそこまで言われてのこのこ来れないでしょうという人が参加しないだろうということ。これはこれまで行革をさきおくりし、参加感覚を封じ込めていた張本人である村山・武村両氏を事実上排除できるということ(政治家は自分のしたことに責任をとるべきだか、しなかったということについても責任がある。それは厚生官僚と同じ事だ)。さらにすごいのは事実上「排除の論理」を実現しつつかなりの数の議員を集めてしまいそうだということで、これは実際上の力(権力)として政策(とりあえず行革)の実現性が高まるわけで結構なことだ。社民党の人々は村山氏が自衛隊は合憲といえばころっと合憲になっちゃうような人ばかりなので、今後もカンさんが行革といえば、自治労がどんなに反発しようところっと行革しちゃうのだろうし。これは私の、議員個人が「政策」を自己責任において持ちながら、政策ごとのネットワークを形成すべきという理想とはかけはなれたものだが、当面「頭数」という意味ではおおきな力になるだろう。
というようにどこのニュースでもそんなことは言っていないがこれはすごいこと、あまりにもうまい話なのである。あまりにうますぎる話には落とし穴があり、これからも目が離せない。
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96.9.08
その後パワーブックがもどってきて、あまりの早さにひょうし抜けした。代車のカラクラの環境を調整するのにやたらかかった時間はなんだったのか。ともかくアップルの対応の早さに感謝。実質三日で終わっているのだ。ついでなのでメモリ増設もおこない、非常に快調だ。
きのうはワイルドティアーズの新作マキシシングル「god's hand」の発売記念ライブにいった。このCDについては下村誠ホームページに情報を出したが、藤代京子のイラストをインナージャケットとレーベルに使っているのでぜひごらんいただきたい(このCDのためのかきおろし)。とくにレーベルは透明なCDケースから見えるのでCD屋で手にとって見れます。
西研さんの「ヘーゲル・大人のなりかた」(NHKブックス)がおもしろい。だいたいタイトルがいい。私もヘーゲルは「体系」的な部分ではなく、世間を知り尽くした大人のヒトのコトバとして、なるほどと思って読んでいたことがあるので、いちいち納得してしまった。個人と社会との関係といういまもっとも興味のある問題についてのタイムリーで示唆に富む本である。 目次へもどる
96.9.05
いまだパワーブックは戻らないのだが、カラークラシックを復帰させてアクセスしてます。出来ないと思うとかえっていろいろやりたいことが見えてくるもので、ネット易占いも始めることにした。くわしくはトップページをご覧下さい。あと広英社でつくった「ストレスをこなすからだの不思議」という小冊子の宣伝もはじめたので、ご覧下さい。そういえば中井氏のブックガイドは中断したままだが、もうしばらくお待ち下さい。
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96.9.01
パワーブックのリワーク(回収修理)にひっかかったので、しばらく動きが停まります。
ひさびさに下村誠のライブ情報を更新。東京以外ではしょっちゅうやってたらしいのだが、フォローできてませんでした。あしからず。
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96.8.28
「新党まるごと」をつくろうとしている二人、武村・村山両氏が「誰がダメという話が先行するような新党はいかん」とか「排除の論理はいかん」とぶちあげていたが、そもそも政党というのは排他的に自己規定しているのだからしょうがないではないか。一方の鳩山氏のシンパであるかのごとくここのところ発言している私だが、別に鳩山氏がなにを考えているかはしらない。ただ彼のいう個人の立場での参加、ということをさらに「個人」という立場での政治というところまで突き詰めていくところに、民主政治の最後の可能性というものを考えているのだ。
つまり官にせよ民にせよ、既存の組織の利益を維持するための政治がつづくならぱ、個人がよりよく生きていくことのさまたげとしかならないだろうし、今後日本を脱出するつもりも予定もない私としては少しでも自分の生きる環境はよくしたいと思う。
なんかもう政党である必要ってなにもないんじゃないかという気がする。武村氏がさきがけ代表を辞任するそうだが、これはちょっと意外だった。さきがけはいまこそ「政党である必要ってあるのか」という問いをつきつけられていると思う。そんな必要なんでないんだということを見せてほしいとも思う。個人として立ち、個人として信託されて個人として責任を負えばいいじゃないか、と思う。
思想家とか言論人とかインターネット発信人はみなそうしている(みなではないか・・)。政治家だって個人でいいじゃないか。
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96.8.27
稲川淳二の怪談を分類すると、
1 明らかに古典的な、おどかしをメインにしたもの
2 実体験であるために、ストーリー的には錯乱しているが、それゆえゆえにリアルなもの
3 どちらかというと「心霊科学」または「因縁話」的なオチがあるもの
の3種類になるかと思う。いずれにしても彼の話には底辺に「人間はなぜ恐怖するのか」という問いがある。それはマンガ家でいうと梅図かずおに近い。3のなんらかの「理屈」や1の「おどし」とは無縁の所で根源的な恐怖感覚を人間はもっている。いずれのパターンの話でも彼はそこへ訴えかけているから、人に恐がられるのだろう。
しかし、いまは日本の妖怪「武村氏」と「村山氏」の動向のほうにき関心がある。
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96.8.26
このまえ巻原発と住民投票についての番組で、ゴーマニズムの小林よしのり氏が、学校民主主義ということばを使っていて、なつかしく思い出すことがあった。
小林氏は、たとえば席替えをするのを生徒の投票で決めて、いざやろうとしたら先生が「席替えなんかダメ」と言って、その一言で投票なんか意味がなくなってしまうという例をあげていたのだが(だからほんとうの政治というのは、ままごとみたいな投票ごっこにではなくて、その先の「権力闘争」にある、と氏は言いたいらしい)、俺が高校の時にほんとうにそういうことがあって、ほんとうに俺もそう思ったのね。
それは「制帽」を廃止しようっていう話だったのね。それは俺が言い出したことで、ただ俺は投票しようっていったのではなくて、そういう意見を言いたいから、生徒会の掲示板を使わせてくれっていったのね。それぐらいしか思いつかなかったから。アジビラっていうのはなんか違うなと思ったし。ようするにコストの問題もある。「制帽」という制度より、「制帽」をかぶってるかどうか校門で生徒会の委員がチェックするっていう制度がバカバカしいと言いたかったわけだ。
ところが生徒会はいきなり全生徒にアンケートをとったのね。制帽は必要と思いますか?って。それで制帽は必要っていう奴が多数だったわけ。だから制帽は続けます、っていうことをその生徒会は言ったわけだけど、バカじゃないかと俺は思ったね。「制帽」というのは生徒が決めてる制度でもないのに、アンケートというカタチでの投票によって「決めれる」ものであるかのようにふるまっていること。そしてなんの問題意識もないところで、生徒会側だけの情報によってアンケートが行われていること、それによって俺が意見を掲示したいというそもそもの提案がどっかにいっちゃったこと。
実際はこういう問題の途中でおれは卒業ってことになっちゃったんだけど、こういうことが、その後、いまでもそうだけど、俺が政治とか民主主義とかを見る場合の元型になっている。学校民主主義が「擬制」だというのは、当たり前のことなのだが、現実の政治もまた同じ様な理由で「擬制」になっていく。それは、個人の意見が反映されないこと(受け皿となる政治家が存在しないこと)、個人が意見を現実のものにするための充分な情報や意見が公開されていないことがその主な理由だ。
インターネットによって少しは状況が変わってくるだろうが。
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96.8.25
いやー、すごいね。武村ってひとは。
有能な社員(鳩山)が独立するという時に、強引にその独立会社に、自分の会社をまるごと入れた上で、自分は会長に納まるぞということでしょ。しかもそれを独立しようという社員に相談して決めるのではなくて、自分の会社の幹部(菅・田中・園田等)を抱き込むということで決めてしまう。この強引さ、あつかましさ。
ちょっと冷静にみれば、この武村氏がはじめから蚊帳の外なのははっきりしている。それがなんとなく武村氏に発言権があるかに見えてしまうのは、まえまえからやるとかやらないとかいってた武村氏が仲良くしていた半民半官会社(社民党)の社長である村山氏との合併話があり、鳩山社員の独立話をその合併を推進するためのものであるというように、読み換えさせる強引さにある。
すべてを自分の文脈に読み換えさせ、しかもそれを実現してしまう手腕。それがこれまでの武村氏の「政治」の根幹だったのであり、マキャベリストといわれるゆえんだろう(強引さということでは小沢氏以上なのではないか)。
しかし、今回はどうか。さっきのフジテレビ「報道2001」では、鳩山氏の決意はかたいようだった。はたから見れば、この二つの道はまったくコンセプトが違うものであり、その選択に「迷う」ような余地はないことは明らかだ。それをあたかも「迷う」性質のものであるかに見せてしまう、この武村という人が「すごいな」と思ったわけだった。目次へもどる
96.8.22
このまえの養老孟司のつづきで、栗本慎一郎の自由大学シリーズ「脳・心・言葉」(光文社)を再読していたら、序文でクリシンが生命論について書いていて、イデオロギーの終焉と生命論の重要性はリンクしているというようなことを書いている。ようするに「勝利した」と言われる自由と民主主義では人間が生きている「意味」も「目標」もわからないということが、バレてしまったというところに人間は来ているってこと。で、それをつきつけたのがフセインのサリンによる大量殺人。ここはオウムって読み変えてもいいんだけど、そういう悪人を排除したり更正させたりするのが民主主義の論理とすると、そういうことをしてしまう悪人がいるということはしかたがないというか、そういうことをしてしまうのが「人間」だと考えるのが生命論だと言う。でこれは「いわば親鸞の悪人正機説だ」というので、はたと思い出すのが、吉本隆明氏のオウム本だ。同じくオウムと親鸞とを語りながら、この明解さの違いはなんだろうか。ようするに民主主義的なというか市民社会的なというか、ともかく「善悪」の概念に依拠しては何も言ったことにならないというのが、「悪人正機説」から受け取れる冷徹な現状認識だというようなことを、かの吉本氏も言いたかったのだろうか。それにしても吉本氏はそこから先では「悪人の方が救われる」だから「麻原の宗教的発言に期待する」というふうに悪人正機説の別の袋小路に入っていってしまう。どうも無駄な時間を使ってしまったようだ。目次へもどる
96.8.21
いなかに帰っていた。私のいなかは岩手県で、岩手というといまは宮沢賢治なのだが、なんといっても私は岩手語と標準語とのバイリンガルで、というか岩手語のネイティブスピーカーなので、宮沢賢治を翻訳せずにダイレクトに味わえるという特典がある。どうだまいったか、とこれは自慢したい。
ところで私は「ほんとうにネイティブ」で、というのは高校くらいまで完全にネイティブな環境にいてその後裏日本を経て東京に来たのだが、その間にこの故郷である岩手自体のネイティブな環境?が崩れていて、岩手の人でもそんなにネイティブにはしゃべっていないのね。で、俺の「なか」にはネイティブがしっかりと保存されていて、向こうに帰るとその「ネイティブモード」にするっと入るのだけど、そうすると向こうの人たちより俺の方がずっとネイティブだという逆転現象が起きてるんだよ。これは面白い。
あと普通に面白いと思うのは、こっちへ帰ってきて「向こう」での体験を人に話そうとするとうまく言語化できない。夢を覚えてるけどうまく言葉にできないってことが俺はあるのだけれど、ちょうどそんな感じ。ようするにネイティブモードでの体験はネイティブな言語的に認識されているので、それをこちらの言葉で表現しようとすると、そこにはどうしても「翻訳」というワン・クッションが入り、しかもその翻訳は日本語どうしでありながら、実はぜんぜん「べつもの」だってこと。関西や九州から東京に来てる人でもこういう感覚は起こるのだろうか?報告を待つ。なお岩手についての情報はここ。
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96.8.17
吉本隆明の「宗教の最終のすがた」が届いたので読んだが、ひどい内容だ。まえまえから「吉本はオウムシンパ」という噂を聞いていたので、どんなことを言っておるのかと思って読んだわけだが、別にシンパというわけでもないんだろうが、麻原(松本)にかこつけて、うだうだと何を言いたいのかはっきりしない。俺の頭が悪いのではなくて、はっきり言わないので分からないのだ。というわけで俺は先日TVで見た「男はつらいよ・寅次郎あじさいの花」を思い出してしまった。せっかくマドンナのいしだあゆみに鎌倉にデートに誘われたのに、さくらの息子をむりやり連れてって、いしだに直面することを避け、はっきりしないまま終わっていくというなんとも不可解な、ニューシネマ的な映画であった。
まあそれだけなら許せるが、はっきりと言ってしまってる部分については、かなりおかしいのではないかというものが多いので、別項を立てて述べておきたい。目次へもどる
96.8.16
養老孟司の「考えるヒト」を読み始めたが、のっけから面白い。何かを考えるとき、絶対に正しい答えは得ることはできないが、それに近づけていくということを続けていくことが大事だということで、そのためには自分の頭で考え続けて行かなくてはならないということを言っていて共感した。この人が「唯脳論」というキッチフレーズで出たときは、ようするに全部を「脳」という概念で説明しようというような「答え」を言い切ってしまった人かと思っていたので、あまり読まずにいたのだが、栗本慎一郎が光文社でつづけている「自由大学」のシリーズでの「講義」ではそういうことに収まりきる人ではないということを感じ、この「考えるヒト」ですっかりその先入観が払拭された。
ようするに「どんな科学的知であっても、その時点での仮説と考えるべき」(栗本)で、しかもこの言葉をニヒリスティックにではなくて、ポジティブにとらえ、考え続けるエネルギーにしたい。これに関して言えば、その時点での科学的知識を盾にとって、トンデモ本をあげつらう態度(昨日の項参照)はあまりにさもしい。目次へもどる
96.8.15
縄文がブームだが、昨日(14日)の読売新聞夕刊に「南太平洋で縄文土器発見」というニュースが一面に載ってた。私はちょうど長山靖生氏の「偽史冒険世界」という本の「南の島」についての虚構についての部分を読んでいたということもあって驚いてしまった。
この本は基本的に「南の島」が日本人の故郷であるとか、南の島の人が同族であるというような幻想は、戦前の日本の南方進出の理由のためにつくったイデオロギーであるということを言いたいようなのだが、どうも単純すぎるなぁと思っていたところにこのニュースだったわけだ。「南の島」の縄文土器をどうしてくれるのか。というのは冗談としても、この本は日本人=ユダヤ人説や武内文書などの「ごく普通の感覚から見てバカげている」本をあげつらって、悪意に満ち、そういう「批判」によって何ら意味あることを語れていないという、ほとんど読んでて不愉快になる類の本である。
縄文についてはもっと面白い話がたくさんあるわけで、次回のマンガ「肥留間氏」は縄文をやろうかなと思ってます。目次へもどる
96.8.11
産経新聞(8月11日朝刊)に中井久夫の「精神科医がものを書くとき1」への書評がついに載った。書いたのは京大の名誉教授の田口義弘さんという方で、私は存じ上げないのだが、ご存じの方は情報ください。内容もほぼ絶賛という感じで満足してます。産経新聞ってあまりとってる人は多くないかもしれないので、図書館などでご覧下さい。
ちなみに以前に私が書いた中井ブックリストのための中井久夫についての紹介記事だが、広英社から「サリヴァン」(アメリカの精神科医)に関連しての部分がなさ過ぎるという指摘があった。たしかにサリヴァンの思想が現在の中井氏の「精神医学」の中核をなしているのかもしれない。これについてはいろいろと文献が出てきたので、いずれ更新したいと思ってます。目次へもどる
96.8.06
ついに雑誌G-U第3号が完成。くわしくはここへ。ようやくホームページを更新できると思ったら、なんと一ヶ月もたっていたという浦島状態で自分で驚いている。ともかく日記のようなものだけ更新してもしょうがないので、ちょこちょこと他のページに手を入れたりしたので、ごらん頂ければさいわいです。とくにMOGUAのコーナーでは新しいイラストを掲載してます。下村誠のページでは新作「Your Blue Heaven」を紹介。私もこのCDのジャケット制作をDTPで手伝ったので言うわけではないが、傑作です。あとは何と言っても愛犬しとりんのムービーがすごいです。そして肝心のひるますのエッセイだが、ネタがあふれかえっているので、ご期待下さい。目次へもどる
96.7.06
モデムがこわれた!と思って一日中あせってたら、なんと家のものが私に内緒で回線をパルスからトーンに変えていたのだった。どうせ変えるならISDNにしてくれたらよかったのにね。だいたいモデムがこわれるなんてまずあり得ないとは思っていたのだ。
というわけで、以前から予告している中井久夫のページだが、とりあえず月刊ひるますのブックガイドとして仮に出発することにした。中井って誰?という方もぜひここをクリックしてください。目次へもどる
96.7.05
いぜんこのオンラインひるますに書いて掲載していた「ワン・トゥー・ワン 個人の表現の発信」という文章をこんど自分の雑誌G-Uに転載しようと思って書き直していたら、かなり変わってしまって、というかかなり読みやすく分かりやすくなったので、ウェブの方もそれに差し替えたので、ひまな折りにでも見ていただけるとうれしいです。新バージョンはここ。
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96.6.30
私はほとんど本を買わなくなって久しい。金がないからだが、図書館に予約するとぽんぽん買ってくれるということが分かって「これを利用しない手はない」ということに気づいてしまったせいもある。こういうふうに買ってくれるともはや「図書館が書斎」状態になり、ますます自分の本という執着がなくなってくる。ただし場所がすこし遠いのと夜やっていないこと、そして新刊本を手にするまでのタイムラグがネックになるが、それらは自分で買う場合の出費を考えれば、当然あっていいネックなわけで、そのネックがなくなったら誰も本を買わなくなってしまうではないか。というわけでこの不便さは昨日書いた酒屋でしか切手を売っていないという不便さとはまったく別物である。しいて言えばたとえば練馬区の場合、何カ所か図書館があってそれぞれ蔵書がちがうわけだが、どの図書館にどの本があるかをオンラインで検索できれば助かる。二つの図書館のうちどちらに行こうかまよう場合があるからだ。これは自治体のオンライン情報サービスとしてやるべきことだろう。
図書館では雑誌もすわって立ち読みできるのがよい。本屋の立ち読みだとじっくり読めないというのもあるが、それ以上に、私のリサーチによると「雑誌は買ってしまうと読まない」ものだからだ。たまたま「新潮45」という雑誌を見てたら橋本治の『宗教なんかこわくない』になんとか賞をあげたということで、選考委員の養老猛司さんが選評を書いている。これが面白くて、「生産の空洞化がいたずらな個人の神秘化をまねく」ということが、「宗教」というよりも「現代の社会」への批判として言われているというのだ。私としては「表現をしないと人はダメになる」ということをずっと考えていて、それが橋本治が言っていることと自分の中では同じ事と思っている。いぜん「クスリをやってた」という人と話していてその人がクスリによる神秘体験のさなかに「表現をしなければダメになる」と直観したという話を聞いてなるほどと思ったのだった。クスリによる体験の中で「すべてが分かった」ということはオウムだけではなくよくあることなのだろうが、その神秘的な境地の中で安住してしまえばそれで終わりで、死にも等しいものなのだろう。その人はそのことが本能的のように「分かった」のだろう。「表現する」というのは、まず自分の頭で考えてかたちをつくりあげ、それを現実の中にさらすという二つの意味あいをもっている。この選評で「自分の頭でほとんど考えない」ものが大多数とすると、宗教はあいかわらず今のまま存在しつづけることになると(養老氏は)言うが、それは基本的にそうなのかもしれない。しかし状況がそう見えるということと、悲観的になることとは違う。むしろそれはかわりつつあり、「自分の頭で考える人々のネットワーク」はつくられつつあるのではないか、という楽観主義が僕の気持ちとしては強いのだ。
96.6.29
ちょっと前だが、読売新聞が例のマードック氏のテレ朝買収についての解説記事で、「免許制度と外資規制に守られてきたテレビ局には(マードック氏や孫氏の描いている戦略を)想像することも出来ないだろう」というようなことを何度か書いていた。さらっとそんなことを言っているが、自分も日テレをかかえながら、マジでそんなふうに考えているのだろうか。そんなこんなしてるうちに今度はビル・ゲイツと任天堂、野村総研による衛生放送を使った情報システムの発表がなされた。これはよく考えてみれば「新聞の宅配」というシステムに対抗するものでもありうるわけだけど、読売はそれを「想像」してみているだろうか。いずれにしてもキー局による電波の支配体制は解体していく方向にあるわけで、歓迎すべことだ。
ようするにテレビ局は酒屋だと書いたことがあったが、この時は単に比喩的にいったのだったが、まさにそれを地で行く出来事があった。このまえの日曜日に急に切手が必要になり、買いにいったのだが、どこで買うのかというと、これが酒屋なのだ。しかも近所の酒屋は日曜はことごとく休みで、自転車で走り廻ってやっと一軒だけ開けてる酒屋を見つけて買ったのだが、たかだかハガキ1枚出すのにこんな苦労をしなければならないとは何なのか。しかも都会の真ん中で。もちろん相手がインターネットでつながってくれればこんな苦労はないわけだが、しかしこの場合、酒屋でしか売っていないということこそが問題なのだ。酒屋でしか売ってはいけないというなら、酒屋は日曜も営業すべきではないだろうか。というのはただの皮肉だが、それほどまでに「規制」のばかばかしさが普通に感覚されるようになってきたわけだ。
96.6.28
ストレス本に引き続き、ついに中井久夫の単行本「精神科医がものを書くとき」(広英社)が完成した。まあ私も手伝ったのでわがことのようにうれしい。いずれ書評コーナーでとりあげたいと思っている。というか、中井ファンページを予告しているわけだが。昨日紹介した「精神医学背景史」などは、それだけでもすごいと思っていたのだが、私が読んだ東大出版会バージョンは短縮版だそうで、さらにこい内容の中山書店版が存在するのだそうで、それに取り組んで自分で消化するにはいったいどれだけ時間がかかるかと思うとちょっとびびってしまった。
私のほうは、ひさびさにマンガ「肥留間氏の魔法の本」の続きがほぼ完成している。例によって一部だけでもホームページで紹介したい思ってます。ところで「肥留間氏の〜」にはヨーロッパ中世を舞台にした「中世編」という別バージョンがネーム(セリフ)のみ完成していて、なんとか早く発表したいのだが、資料あつめに手こずってなかなか実現しないでいる。私が中井氏の「精神医学背景史」に興味をもっていることの最大の理由もじつはこの「中世編」の完成のためにある。そういうわけで「中世」という言葉に過敏になっていたら、書店で田中明彦氏の「新しい中世」(日本経済新聞社)という本を見つけて、読んだらこれが面白くて、これについてもなんか書きたいことが多い。またマンガは遅れそうだ。
96.6.27
予告していた中井久夫ホームページ(というかファンページ?)だが、準備のためちょこちょこと中井久夫の旧作を読み出した。東大出版会の「分裂病と人類」が圧倒的で、「精神医学背景史」などといいながら、西洋の文明史を壮大かつ本質をえぐり出すように述べていて、密度がこい。濃すぎて一行のなかにいったいどれだけの「知」がつまっているのかと思う。この濃すぎるところが、この人のなかなか人口に膾炙しない理由なのだろう。読みすごそうと思えばいくらでも読み過ごしてしまえる本だからだ。
このまえ出来たストレスの本も、一見さらっとしているが、内容はこい。ストレスをこなすしくみの一つが「夢」で、夢というのは「昼間の論理」では割り切れないことを「夜の論理」で割り切ろうとしたその残りかすだということが、さらっと書いてある。こういうことを僕などはすぐ「無意識」とか「深層意識」という言葉で語ろうとしてしまうが、そういってしまうと必要以上に「神秘化」が生じてしまうということが、この中井氏の記述に接して初めて感じる。できるだけ「神秘主義めかした」ことばは使わないというのが、中井氏の禁欲的な姿勢なのかもしれない。例えば治療について語るときでも、中井氏は「癒し」という言葉をあまり使わない。この言葉もまた必要以上の「神秘化」というか「文学っぽさ」を持っている。
かといって中井氏がたんにプラグマティックで、非神秘的だというのではない。読みながら伝わってくるのは、この人自身の「生命」への畏敬であり、「意味」への志向性だ。オウム以降、神秘主義否定がたんなる現実主義へとなだれ込んでいく中で、「宗教性(宗教ではなく、生の意味を求める態度全般をいう--森岡正博氏の用語)」を現実の中に求めていく態度と非常に近いものがある。というか中井氏のスタンスは一見して「超然」としているが、我々の側からそこに近づいていけば、多くのものをそこから得ることができる、という感じだ。
96.6.22
ひさびさに下村誠ホームページを更新した。下村誠の新ユニット、ワイルドティアーズのアルバム評なども掲載したのだが、けっこうワイルドティアーズは売れているらしく私もかげながら喜んでいる。とくに新宿のツタヤさんでは、尾成彩の巨大パネルまでつくって宣伝してくださったそうである。次号のインディーズマガジンにも付録のCDにアルバム未収録曲が収録されるということで、要チェックだ。
とはいえ、私自身はやはりワイルドティアーズのようなプロデュース作品よりも下村誠自身の音楽、自分で歌った作品に関心があるのであって、それがようやく来月シングルとして久々にリリースされる。それは下村さんや彼をめぐる人々の間で特別な存在でもあり先日事故によりなくなった友人、「たわしさん」への追悼盤なのだが、個人的な事情を超えて、自由の意味やいきるヴィジョンを歌い上げた傑作となった。
下村さんについては、このウェブで重大発表?をしようと思っていたら、雑誌(FM FAN)に先を超されてしまった。それは下村氏の「ライター廃業宣言」だ。いままで「音楽評論家として有名な」という冠をつけて紹介してきた下村氏だが、このたびついに音楽ライターを廃業して「音楽活動」に専念するというのだ。そもそも僕が雑誌G-Uをつくったのも「音楽ライター」としてではない「アーティスト」としての下村誠を紹介した記事がどこにもないので自分でつくろうと思ったわけだったが、そのときつかった「特集・アーティスト下村誠」というタイトルが、名実ともに「ほんとう」に成ったわけで、うれしい。
もっとも別にライターやめなくても「アーティスト」は「アーティスト」で、だからこそ、そういう特集をありえたわけで、「廃業」ということ自体はあまり本質的なことではないのかもしれない。誰しもアーティストであるものは、非アーティスト的な生活を廃業すべきなのではないし、廃業するにしたって、食べることがからんでいる以上、それぞれの人にとってのタイミングの問題もあるだろう。
しみると、僕が「アーティスト」というのは職業としてのアーティストを言っているのではないし、たぶんミュージシャンの別称である「アーティスト」という意味で言っているのでもない。「アーティスト」というのは、「やとわれ仕事」とか「全体の仕事の中での一部分」をこなすのではなく、あくまで「自分」がトータルに表現の中心となり、現実に接触する「尖端(エッジ)」として係わろうとする、そういう態度のことだと思う。表現のカタチやジャンルが芸術的かいなかには関係がなく、ぼくがこれまでにここで書いてきたような「個人の表現」を目指す人々は、すべて「アーティスト」なのだ。
そういう意味で、下村氏の「廃業宣言」って象徴的だ。つまり自分がもういっかい本当の意味で「アーティスト」であるかどうかを問い直すきっかけを与えていると思う。そこで僕もここで自分の「アーティスト宣言」をしてしまおう。おれはアーティストでいくぞ。
96.6.21
うちの家族のものがだいぶ以前からNTTパーソナルのPHS、パルディオを使わせていただいているのだが、この自宅は電波が届かないらしく、自宅では受信・発信できない状態だった。買うときにNTTの局のひとに3月になればなんとか(電波が)入ると思いますが、と言われていたのだが、いっこうに入る気配がない。これはまだ許せる。確約したわけではないから。しかしその後いえの近所にPHS用のアンテナの立った公衆電話があることがわかり、NTTパーソナルに電話したところ「そんなに近くに(20メートルくらい)にあるのに、入らないのはおかしい。故障かもしれないのでしらべます」との快い返事をいただいた。
しかしその後も電波は届かず、一ヶ月ほどたった先日、また電話してみたところ、その故障かもしれない件はまったく知らぬ存ぜぬの上、この場所でアステルもDDIポケットも受信できてることを言うと、「そんなにおっしゃるんでしたら、アステルでもDDIでも買い換えられてはいかがですか」とのたもうたのだった。こんな対応が普通の民間企業でありうるのだろうか。こちらとしては、パーソナルの機能的な劣性を批判しているわけでもなんでもなく、単にこのご近所の電波の状況(故障かもしれないというのはパーソナルの担当の人がそもそも言い出したわけだから)の調査の結果を知りたいわけである。それを調べようともせずに、アステルに変えりゃいいというのは、何なのか。自分たちは(NTTとして)市内電話の既得権的シェアを確保していて安泰だから、別にパーソナルの顧客なんかどうでもいいという自己否定的な態度ではないのか。このような答をしたのはNTTパーソナルのフリーダイヤルを担当していらっしゃるFさんなのだが、どうやらご自分は大NTTの社員だという御認識でこのフリーダイヤルの対応にあたっていらっしゃるようだ。
既得権の上にあぐらをかいている人というのが、最近やたら目立つのだが、目立つということは「そのことはおかしい」というふうに感じられることでもあるわけで、それは既得権が長い目で見れば、崩れていくことを意味している。それが自然な流れなのだ。まずは酒屋がつぶれ、TBSが揺れ、テレ朝が買収され、NTTは分割される。ということをきちんと認識しつつ、NTTパーソナルにはきちんとした顧客サービスの態度を求めたい。
96.6.19
ひとつ前の項目で書いたように、非常に忙しくて、ああウェブを更新しなくては、などと思っていたのだが、心配すべきはそんなことではないのだった。うちの愛犬しとが急性湿疹という病気で腰のあたりの毛がぬけて十センチくらいの円形にずるむけ状態に血がにじみ出して見てられない症状になってしまったのだ。きのうはほんの少しだけ赤くなっているというくらいだったのだが、今朝いきなりそんな状態になっていたのであわてて医者にかけこんだのだった。一応注射と薬用シャンプーで落ちついたのだが、考えてみると忙しい忙しいといって、ぜんぜん遊んでやってなかった。散歩はいっていたけれど、これも単に引き回していただけだった。そんなところからストレスで湿疹ができているような気がする。もちろん気がするだけで、根拠はないのだが、いきなりそんなふうに反省してボールを投げたり引っ張り合ったりして遊んで、ついでに膝にのせて寝かせてやったりもした。いろいろと生活の歪みがこんなところに出ているのかと思うと、なにかかわいそうになる。犬には関係のないことなのだから。
96.6.13
十日ぶりに更新します。すごく忙しくて一時はモニターを見ているだけで吐き気がしたものだったが、これはバイトや私の出してる雑誌G-Uや私がホームページを作ってる下村さんの手伝いなどが同時進行的にハードスケジュールになって休む間もない状態になっていたためだった。だったというか、まだ続いているのだけれど。
とりあえず下村さんを知る人には一刻も早くお知らせしたいのは、下村さんの三年ぶりになるソロ・シングルがついに完成したということだ。くわしくは下村ホームページに掲載したいが、ソロでバンドサウンドで聴く下村誠というのは、ほんとうに久しぶりで、やっぱりいい。私も彼の「虹の箱舟」というバンドサウンドの作品で打ちのめされて、結局彼を特集した雑誌を作ったりホームページを作ったりしているわけで、本当に「まってました」という感じだった。
あとバイトと書くと私がなにか学生のように思われるかもしれないが、私は単なるフリーターで三十男だ。で前にも書いたのだが、このバイト先では「精神科医・中井久夫」の単行本を作っていて、これももうすぐ出るのだが、そのまえにやはり中井氏が書いた「ストレスをこなすからだの不思議」という小冊子が完成した。これは残念ながら市販はしていなくて(企業・団体による一括購入をターゲットにしているため)手に入らないわけだが、内容がかなりおもしろいので、このページでもちょっと紹介してみたいと思う。というか、私は以前からこの中井氏は、精神科医としてしか世間には知られていないけれども、思想・哲学的というか、その考え方の圧倒的な深さで、かなり注目すべき人ではないかと考えていて、できれば「中井ホームページ」も作りたいと考えていたのだった。
そんなわけで、いろんなことがシンクロして勃発していて、世の中も面白くなっているわけだけど、昨日などはうちの犬「しとりん」の散歩で近所の空き地まで行ったのだが、その空き地というのは私鉄の高架のすぐそばで、家を出るちょっと前にうちの大屋(親のこと)が仕事に出掛けたのが分かっていたので、その高架を電車が通ったときに、「大屋がこっちを見てたりして」などとふと思ったのだが、夜いっしょにメシをくってたら、大屋が「けさ、空き地で散歩してたでしょう」とか言うのでびっくりしてしまった。ちなみにその空き地はたまに行くけどそれほどいつもいくというところではないのだった。
あと例のバイト先で先日、女性の社長が「私は大学に入るので上京して来る前、宇野千代のファッション雑誌をよくよんでた」という話をしてて、帰ったら宇野千代さんが亡くなったというニュースをしていた、ということもあった。社長さんも「宇野千代の話なんて十年に一度もするかどうか分からないのに」といっていたが、実はそんなことは驚くほどのことでないというくらいに、この人は偶然の一致が頻発する人なのであったが、プライバシーの保護のため(笑)これ以上は書けないのだった。なにはともあれ、宇野千代さんのご冥福をお祈りいたします。
というわけで、なんかシンクロニシティの渦が巻き起こっているようですね。
96.6.3
インストールしたソフトというのはハードウェアに「なじむ」まで時間がかかる。などというバカげたことがあるんだろうか。パワーブックのアップデートソフトをインストールして以来なんどもトラブルがあって、俺は計五回は再インストールしているのだが(システムを)ここのところめっきりエラーが減り、スピードも爆発的に早くなっている気がする。別によくなるようなことは何もほどこさず、ひたすら再インストールしているだけなので、どうかんがえてもソフトがハードに「なじんできた」ということしか考えられないのだ。
ただしトラブルの後遺症は続いていて、仮想記憶と相性の悪いソフトが完全に動かなくなってしまっている。これはそうなるのが正しいわけで(仮想記憶では使うなと正式にうたっているから)、いままで仮想記憶上で動いていたのがむしろ異常といえる。しかしこれにはこまっていて、ついにメモリ増設せざるをえないのか。金もないのに。
96.6.2
もう一ヶ月あまり西武池袋のロフトにあるペットショップでワイヤー・ヘアード・フォックステリアのオス(3ヶ月)が売れ残っている。もったいない。金さえあれば俺が買いたいくらいだが、もちろんうちはしとという暴れん坊がいるので無理だ。もったいないというのは、色合いがカラダ全体が白で、顔の額から上だけ黒・茶が入っているというわりとめずらしいものだからだ。これはワイヤーの写真集「ダーシェンカ」と似た色だ。顔も白ければタンタンの冒険のスノーウィではないか。もったいない。ちなみにうちのしとは背中がほとんど真っ黒で、ものの本によると黒い部分が少ないほどよいとされているというのだが、これはこれで手入れさえすればビロードのように美しく、気に入っている。もちろん手入れさえすればの話しである。
96.6.1
下村誠ホームページの更新がとまっている。なんとかしたい。今月は二十日に下北ロフトでライブの他、急逝した友人「たわしさん」の追悼シングルを急遽リリースする予定。とりあえずここに報告しておきます。
元春ウェブからリニューアルのお知らせがあった。このまえ元春ウェブをくさしたばかりなので(ようするに「個人」がでてないのでつまらない)、うげっと思ったが、とりあえずリニューアルに期待したい。
逆に「ひとりでやっていく」宣言!を書いているウェブ、スタヂオ世界機械を見つけ感動。このウェブの永川さんのいう「自分のコトバを使ってしゃべりたいから群れたくない」というのは、ほんとにそうで、俺もこの航海日誌でもくだくだと言ってきていた。電子メディアの方向性についても深く共感した。
96.5.27
wild tearsのライブにいった。最近「ブレイク」って言葉を簡単につかうけど、本当にブレイクしたってかんじ。ボーカルの彩さんはこれまでもアイタルミーティングというバンドの中でのバックコーラスと一曲2曲途中でボーカルをとるというサイド的な位置にいるのを見てきたわけだけど、なんか歌はうまいけど、「自分」というのをぜんぜん出さない人だなぁと感じていたのだが、そういう自分をつつみこんでいた殻のようなものが、まさにブレイクしてばーんと「尾成彩」が飛び出したって感じでびっくりした。CDはすでに聴いていたのだけれど。それとは全然較べものにならないパワー。最初は下村さんに「あがってる」とか言われたりしてたが、のりだしたら、逆に自分のパワーで会場をつつみこむような感覚がでてきた。この人は歌ってる表情がすごくよくてなんか大物って感じだった。ゲストにサックスでHASIKENにも参加している上幸一郎さん。
96.5.26
いままで「個人の表現を発信する」という自分のウェブや雑誌について書いてきたことをまとめてみたので、ここ(ワン・トゥー・ワン)をご覧下さい。TBS問題についての私自身のまとめにもなっている。
96.5.25
私は世の芸術やら歌やらなにやら、ようするに「作品」というものは、ふたつの種類しかないと考えていて、それは「ビジョンアートかテクニカルアートか」という単純なものだ。なんで人はそう分けないのか不思議なので、ちょっとここに書いておいたので、読んでみて下さい。
96.5.24
やっとパワーブック用アップデートディスクが届く。システムを更新するのではなく新規につくらねばならず、環境を整えるのに時間と手間がかかりすぎる。そういえばバイトで使ってる8500も、システムがいかれた時になんど再インストールしてもなおらず、一度システムをすべて消去して新規にインストールしたらなおったということがあった。アップデートされたファインダーはかなり早い印象。というか、いぜんのシステムでは仮想メモリをいれると使用感がカラークラシックなみになったものだった。
96.5.18
TBSの処分が決まったというが、こういうヌルイ処分に対して、行政の介入などという人たちもいる。行政の介入以前に、まずもっていかに自分たちが行政に保護されているかということを考えるべきだろう。ようするに「酒屋」でしょ、テレビ局って。免許で規制して、業種が乱立して価格競争が起きないように保護されているわけでしょ。もっとも酒屋の方はいまやもう価格破壊と量販店・コンビニが住宅地付近でも酒を扱えるようになってもうやってられない状況らしいじゃない。うちの近所の酒屋もこんど閉店するらしいけど。テレビの方は電波が無制限には使えないというハード的理由とこのまえ書いた「みんなが同じ情報に基づいて暮らしたいという」文化的理由によって、あいかわらず規制と保護の上にあぐらをかいているわけだよね。それでいて「銀行がつぶれて何が悪い」と、いわゆる護送船団方式に批判をしているのは何だったのか。テレビの人たちの職業的なプロ意識って何を根拠にしていたのだろうか。このあまりに保護された現状に気づくとき、そこにあるはずのプロ意識の根拠も疑わしくなるではないか。どんなつまらない番組でも大新聞がテレビ欄でただで宣伝してくれるなんて。考えられないことだ。テレビの人たちはとっととインターネットをたたきつぶしにかかるべきではないのだろうか。
96.5.14
昨日のつづき。やっぱり雑誌そのものをちゃんと考え直して、新装開店というところまでいきたいと思う。そういうふうに漠然と思っていたのだけど、昨日実はすごく大きな出来事があって、本気で雑誌を続けていくならやっぱり一人でやらなきゃダメだなってことを痛烈に思い知らされた感じ。「一人で」っていうのは、他の人を排除してって意味では全然なくて、やっぱり自分の造りたいものをとことん自分の「思い」だけをたよりに自分の責任でつくらなきゃ、全然面白くないってこと。そこにたくさんの人が参加してきたらそれはうれしいし、歓迎なのだけど、それは「みんなでひとつのものをつくる」っていうのじゃ全然なくて、もし参加するなら一人一人が自分が「先頭に立って」それぞれの最高のものをつくるようにしよう、っていうこと。
このオンライン雑誌「月刊ひるます」のテーマをあらためて考えてみれば、
1 生命の意味への問いかけ
2 個人が自己の責任で発言しコミュニケーションをしていくような
「非マスコミ」的な情報文明を創造するネットワークづくり
このふたつがあると思う。新しいG-U(G-Uのままか分からないけど)もそういったテーマの雑誌にしたいと思う。こういったテーマに関心のある方、そしてウェブを作ってる人、そういうウェブを知ってるっていうひと、とにかく連絡してほしい。
96.5.13
あー、なんか久々に長い土日だった。雑誌G-Uの編集がかなり押してきているのだ。G-Uについては実は私は編集長ということなのだが、このウェブページ内に情報を掲示するだけで、あえて「自分のこと」としては書いて来なかった。それも変なことなので、これからはいろいろと書いていきたいと思う。そもそもG-Uというのは「個人の表現を発信するメディア」と銘打ち、ジャンルや流行を越えて「個人の表現=個の生命の意味」というレベルでの表現の場であったり、交流の場であったりするような雑誌を作りたいと考えていたのだ。しかし現状としてはミニコミのおきまりのパターンで、身内や知り合いに原稿を頼んで書いてもらっているというのが現状だ。雑誌を創刊した頃はまだインターネットなんかぜんぜん意識にも話題にもなかったころで、たぶん一年早くインターネットが身近になっていたら、この雑誌はやってなかったと思う。でもせっかく作った雑誌だから、なんとか育てていきたいとは思う。そこでぶっちゃけた話、こうやってネット上で私の言うような「個人の発信」ということに関心をもって見に来てくれているような人は、この雑誌に参加しませんか?ということなのだ。と今おもいついたところなので、具体的にはどうこうということは言えないのだが、なんか心にひっかかった方はご連絡いただけると幸いです。
96.5.9
ネットスケープ2.0の日本語版の製品版が出ていたのでつい買ってしまった。2.0だからどうなるというものでもないとは思うのだが。ついこの前、軽いウェブこそ理想だなどと書いたばかりではないか。
96.5.6
きのうクリシン(栗本慎一郎)にちょっとふれて思い出したが、俺がインターネットやマルチメディアの発展、そしてなによりも「個人が個人に向けて発信するコミュニケーション」のあり方が広まることが、「文明そのものの質的転換」にも繋がるというようなことを考えていた(ひるますのエッセイ参照)のは、クリシンの文明論が基にあった。
それは彼の言う「西欧と日本の文明の型は実は同じで、その特徴は情報の二次的処理にある」というものだ。つまり個人がダイレクトに情報を得て、処理するのではなく、マスコミなり中央政府なりがいったん処理し加工したものを全員が受け取るという構造だ。そういう文明の型の上でいわゆる自由市場というものも成立しているというわけだ。
マルチメディアや特にインターネットは「情報の統一的な市場」を(そういうものがあるという幻想を)介さずに、多くの人と同時にコミュニケーションが出来るという理由によって、その文明を転換していく大きな力(または道具)になるものと感じる。それが一挙に転換してしまうということはないのだろうけど、情報を処理するチャンネル(まさにテレビのチャンネル?)は徐々に拡散している。TBSはそういう文明のゆるやかな死に自ら手を貸している、というだけのことなのだろう。
というわけで、情報を処理する機構とやらが拡散し、衰弱していったときに、大切なのは自らの責任で情報を処理できる個人の確立だし、そのネットワークということになるだろう。だろう、というか、そうあろうと私は思う。
というわけで、今回リンクページを増やして勝手にリンクを張らせていただきましたので、ご了承下さい。ついでといってはなんだが、ひるますの故郷岩手県の情報ページへのリンクをつくっておいた。岩手についての記事もこれからふやしていくつもりだ。
96.5.5
だいぶ以前の佐野元春のコンサートで買ったTシャツを洗濯してよく見たら、キープクエスチョンというメッセージが書き込んである。問い続けること、それが重要だと言うことを改めて感じていたところだったので、そのなにげないTシャツのプリントに「はっ」とした。あまりに早く確定的・断定的な答を求め、おまけにそれを人に教示したりしないようにしたいものだ。それはこのまえ紹介した森岡氏の本のテーマでもある。そういえばクリシンも「なにごとも現時点での仮説に過ぎない」ことを肝に銘じて生きようと言うようなことをどこかで書いていた。
読売日曜版の星占いでかに座は、夢で見たことが現実になると出ている。星占いについては私のマンガのページも見て欲しい。
ひるますホームページのそれぞれのコーナーのトップに出る画像を縮小してみた。これで少しは快適にアクセスしていただけるでしょうか。考えてみると現状のインターネット環境であそこまで大量の画像データを見る必要ってあるんだろうか。テキストとアイコン程度の画像がちりばめられた、そんな軽いウェブが理想だ。
96.5.4
先日やっとアップルからPB5300用のアップデートのお知らせが来ていたのだが、CDが送られてくるのは一週間くらい先だと言う。連休が間にはいるし、もっと遅くなるのだろうな。そうに決まっている。このお知らせが来たとたんにシステムエラーが頻発しはじめたが、こういうシンクロニシティにはもううんざりしている。あまりにマック的というか。ちなみに俺のPBは買ってすぐバッテリアダプターのさし込み口が破壊されてしまって一週間もビックカメラに入っていたのだが、なんかのマック雑誌でも同じ症状が紹介されていた。ちょっとヤワすぎるのではないか。
ひるますホームページのファイル数がついに100を越えてしまった。ひるますホームページは実はいわゆるディレクトリーがなくて、WWWという一個のホルダーに入っているのだ。これはファイル間のリンクを簡単に記述するためなのだが、一個のホルダーにこんなにぶちこんでいいのだろうか。さっきのシステムエラーはそのホルダーを開いたときにおきた。みなさんはどうやってつくってるのだろうか。
96.5.3
昨日はアイタルミーティング、モンタナ、HASIKENのライブへ行った。オープニングのモンタナさんは、ヒーリングドラムの先生と聞いていたので静かなドラムなのかと思っていたら、総勢20名近い太鼓、ベース、キーボード、胡弓などの大編成バンドで、ものすごいアフリカンビートを渦巻かせていた。アイタルはうってかわって静寂なジンベ(アフリカの太鼓)でミルトンナッシュメントの「ポンタジアレイア」から入って独特な世界を聞かせてくれた。HASIKENは、CDを聞きまくっていたのだが、ライブで見るのは初めてで、圧倒された。橋本のボーカルはいうまでもないが、バンドとしてのうまさ、それぞれの個性も強烈ですばらしいと思っていたら、なんと今日からNHK教育で夕方にバンド講座の講師もやってしまうという。
前に書きかけたTBS問題だが、俺が変だと思うのは、調査報告の内容がさして目新しいものではないということはさておいて、実際に彼らが会社としてビデオを見せたということを認めるのならば、じゃその上に立って、ビデオを見せたことが実際にどういう影響があったかという検証をして、このことが社会的にどの程度の責任にあたるのかという事を確定していかねばないのではないかと思う。そのことが全然なくて、調査しました、どうだまいったか、では実際に被害にあった多くの人がいたたまれないではないか。自分の家の子供が、となりの家の狂犬の綱を切ったために狂犬が人を傷つけて、うちの子が綱を切ったということを「報告」するだけですむのか、ということだ。はっきり言って法律云々をこえて、自主的に被害者に賠償をするくらいの態度は当然だと思う。社内調査を「凄惨なもの」と評したり、まずもってTBS問題を個別的な問題ではないマスコミの問題にすることから始める筑紫サンにはまったく幻滅している。
96.4.30
梶田イフのCD「心の地図」発売記念ライブに行く。このCDをプロデュースした下村誠ひきいるアイタルミーティングがオープニングをつとめたのだが、アイタルミーティングとしてもここ何回かの中で最高の演奏だと感じた。下村、吉田健吾、Ayaの3人の呼吸がぴったりと合っていて、非常に張りつめた空気の中で、下村誠のボーカルがびんびんと心にびんびん響いた。明後日にはHASIKENらとのジョイントがある(ライブ情報みてね)が、楽しみになってしまった。メインのイフはレコーディング参加メンバーを集めてのバンドスタイルのライブで、これまで弾き語りでしか聞いていなかったので、期待以上にたのしめた。CDではすでに聞いていて、何回聞いてもほんとうにあきない、不思議なもちあじの、のんびりとしたかんじのくつろげる音楽。レゲエファンにもフォークファンにも楽しめるCDなのでぜひ買って聞いていただきたい。
家に帰ってからニュース23を見るが、なんじゃこりゃ!だ。
96.4.26
G-Uを手伝ってくれている若松君のオススメ本、三代目魚武濱田成夫の自伝「自由になあれ」を買って読む。
ものすごいパワーとリズムを感じて、電車の中でへらへらと顔とカラダの神経がゆるみながら読んでいた。この人の自由感、明日のことも分からないけど不安ではぜんぜんなくて、突然「力」がわき出してくるのを感じたりする、そんな感覚がいま、僕は自分にも感じていたので、共感してしまうのだ。
とくに挿入されている詩がびっくりするほどよい。一人でやってみな、という言葉はとくにここ数日考えていたことを言い当てられたような、そんな妙な気分になる。仲間やだれか他人をあてにしていては本当の自由はないし、夢をかなえることはできない。
96.4.25
精神科医・中井久夫の「昨日のごとく〜災厄の年の記録」(みすず書房)が出ている。まだ前作の「1995年1月・神戸」(震災下での精神科医たちの活動の記録)もまだ読んでいないのだが。
じつはいまバイトで中井氏の新しいエッセイ集の準備を手伝っている。いままで、みすず書房から2冊エッセイが出てるが、こんどはある小出版社から出ることになっているのだ。
中井久夫の徹底的なまでに本質を見抜く思考と、その土台にあるあたたかい人間的感覚。この人の本はもっと読まれていいと思う。とくに決して大上段に原理を述べるのではないのに、本質を捉えていくその思索のあり方は、これから重要になってくると思う。中井氏についてはいずれくわしく紹介したい。
96.4.24
松本智津夫の初公判はじまる。午前中の特番では日本テレビのみが「松本智津夫初公判」とタイトルにうたっていた。人定質問で松本が「麻原彰晃」と名乗ったことについてどの局でも批判的な口調で伝えたが、自分たちでタイトルに「麻原」とかかげているのではなんの説得力もない。そういう意味で日本テレビの態度はよかったと思う。成りゆきを読んでみれば当たり前すぎるほどの「打つべき手」にすぎないのだろうけれど。
あきらかにTBSと分かっていて街頭インタビューに答える人はどういうつもりなのだろうか、と思ってをみていたら、なんとお昼のニュースではインタビューに答えなかった人を「信者と思われる男女」などと勝手に決めつけて後ろ姿を写していた。たんにTBSがゆるせん!と思っている人かもしれないではないか。TBSではこの前の日曜にもバラエティ番組ではあるが、TBS春の特番「視聴率ベスト10」などを無邪気におこなっていた。社が一丸となってビデオ問題に取り組むなどというコトバが空虚になってしまうようなこの無神経さ。ルーティーンワークへの埋没。
96.4.23
クリッククリティークというページの「走り書きコーナー」を見て、この「航海日誌」をつくることにした。
なかなか忙しくて、本来のウェブ雑誌というものに手が付かず、なかなか更新されないまま、自分の気持ちも離れていってしまうという悪循環になっていたところで、このクリッククリティークのページに出会った。こういう形で早めに更新していけば自分にとっても、読んでくれる人にもいいのではないかと思いまねをした次第だ。
それにしてもこのクリッククリティークの越田さんはすごい。洞察力。文章力。明晰さ。それよりなによりインターネットを「個人の意見を発信する」場と捉えるスタンスがうちだされていることに、はっとした。頭の中ではそう感じていながら、そういうふうに自分の考えを切り出す勇気が僕にはなかったと思い知らされたのであった。そういう意味では僕は「走り書きコーナー」というスタイルをマネしたいのではなくて、彼のスタンスに学びたいのだと思う。
やっと森岡正博氏の「宗教なき時代を生きるために」を読む。感想はここ。